2025年12月7日日曜日

食べることは、いちばん大切な教育

 

昨夜は今季いちばんの冷え込みでした。

こういう夜は、おでんと熱燗に限ります。きゅうりとカブの浅漬けがあれば、もうそれだけで完璧です。

二か月前にもおでんについて書きましたが、今回はその続編として、日本食と文化の話を少し続けたいと思います。

☆ ☆ ☆


子どもの頃の私は、おでんが大嫌いでした。

練り物を食べるとなぜか頭が痛くなるという、今思えば不思議な体質だったのです。ところが十代の終わり、“ナニワのブルースマン”時代になると、養老乃瀧でちくわを片手に「人生はペンタトニックやなあ」と語っていました。

黒人ブルース音楽と大阪ミナミの街、そしておでん。この組み合わせが妙にしっくりきたのです。

☆ ☆ ☆ 

大阪のおでんは「関東煮(かんとだき)」で、ちくわぶは存在しません。
昔はくじらや牛すじが普通に鍋の中に入っていて、いま思えばかなりワイルドでした。

日本のおでんは地域ごとにだしが違います。

九州は昆布+あごだし、関西は昆布だし、関東は鰹節。
四国では昆布をベースにした甘めの味噌だれが添えられる地域もあります。
だしひとつで味の世界ががらりと変わるのが、日本食の面白さです。

私はやっぱり、透明でやさしい昆布だしがいちばんしっくりきます。
練り物にも大根にも、そっと寄り添ってくれる旨味があります。

☆ ☆ ☆

日本の食文化には、狭い国土のなかに驚くほど「深い」地域性が宿っています。アメリカのように世界中の選択肢がそろう「広さ」も魅力ですが、土地の記憶と結びついた日本の「深さ」は、できるだけ失ってほしくありません。

だからこそ、日本の食文化にはあまりグローバル化してほしくないのです。

ハンバーガーが世界標準なのは構いません。けれど、おでんの味まで世界中どこでも同じになってしまったら、寂しい気がします。

寒い夜に熱燗を傾けながら「やっぱりこの地域の味やな」とつぶやく――
そのささやかな幸福は、どうか守られてほしいと思います。

☆ ☆ ☆

現実には、日本食のグローバル化は急速に進んでいます。“なんちゃって日本食”が増えるだけでなく、マグロやウニなどの寿司ネタをめぐる国際的な争奪戦まで起きています。

世界が日本食を求めるほど、肝心の日本の食卓がその恩恵を受けにくくなるという逆説まで生まれています。

これからは、現地の嗜好に合わせた柔軟さと、日本食が持つ本来の価値を丁寧に伝える姿勢の両方が必要でしょう。異文化理解を深めながら文化を共有していくことが求められているのです。

☆ ☆ ☆

そして何より大切なのは、家庭で子どもに本物の味を覚えさせてあげることだと思います。子どもの頃に本物に触れておくと、大人になって異文化コミュニケーションの場で「基準」ができます。

本物を知っていれば、偽物に対して本能的な違和感を覚えるようになります。これは料理でも、仕事でも、人でも、言葉でも同じです。

私自身、子どもの頃に出会った味や風景、あの映画館の暗がり、あのレストランの衝撃の一皿――もう存在しないものたちが、いまも私の中に確かに生きています。

☆ ☆ ☆

ここで思い出すのが、「ツーン」の感覚です。

おでんのからしが鼻を刺すあの一瞬は、単なる痛みではなく、感覚の奥で「自分は生きている」と思い出させてくれる刺激です。

文化もまた、時に理解されず、伝わらず、孤独の中を生きます。それでも静かに根を張るものこそ、本物の文化なのだと思います。

AIの時代になっても、私たちがこの「ツーン」の瞬間を忘れないかぎり、文化はまだ生き続けます。

小林秀雄が「上手に思い出すことが大事だ」と言ったように、おでんを食べてツーンと感じるとき、人は自分の原点や、大切にしてきたものを自然と思い出すのだと思います。

☆ ☆ ☆

振り返れば、あの頃に触れた「本物」が、後の人生の方向をそっと定めていたのかもしれません。食とは、記憶であり文化であり、人生の基準そのものです。

だからこそ、日本の食文化が持つ「深さ」を、これからも大切に守っていきたいと思います。
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