2025年12月17日水曜日

ジミー・ライ事件が暴いた「嘘の体制」――香港から日本への警告

 
11年前の香港民主化運動


香港の教訓と、日本が見ようとしない現実


ジミー・ライ有罪判決のニュースは、日本では議員定数云々といったほど、大きな話題にはなっていません。しかし、この事件は単なる香港の一活動家の裁判ではありません。それは、中国共産党が長年かけて積み上げてきた「約束」「制度」「法の支配」という言葉の体系が、完全に嘘であったことを世界に露呈した出来事です。

ジミー・ライ氏は、中国が香港に導入した国家安全維持法の下で、「外国勢力と結託した罪」に問われ、有罪とされました。量刑次第では終身刑の可能性もあります。高齢で健康状態も懸念される中、この判決は事実上の人生の終焉を意味しかねません。

約束は、最初から守る気がなかった

中国共産党は、香港返還以降、繰り返し世界に向けて語ってきました。
  • 香港は高度な自治を享受する
  • 一国二制度は50年間変わらない
  • 法治と自由は守られる
しかし、ジミー・ライ事件は、これらがすべて守るための約束ではなく、利用するためのレトリックだったことを明確に示しています。

一国二制度は尊重されたのではありません。時間を稼ぎ、香港の経済的価値と国際的信用を吸い尽くし、十分に力を蓄えた後、段階的に解体されたのです。

これは失敗ではなく、計画の完遂でした。

「法の支配」という最大の嘘

中国政府と香港政府は、今回の裁判について「法の支配に基づく公正な裁判」だと主張しています。しかし、この言葉こそが、全体主義体制の本質的な欺瞞です。

国家安全維持法は、
  • 犯罪の定義が曖昧
  • 解釈は党の恣意に委ねられる
  • 実質的な遡及適用が可能
  • 政治的言動そのものを犯罪化する
という特徴を持っています。

「外国勢力との結託」という罪名は、その象徴です。

外国メディアに語ること、国際社会に支援を求めること、民主主義の価値を共有することが「国家への裏切り」とされる。これは法治ではありません。思想統制です。

本来、法は権力を縛るために存在します。しかし中国共産党の言う「法治」とは、

法が権力を縛るのではない
権力が法を道具として使う


という、正反対の構造を意味しています。

「安定」を口実にした恐怖政治

中国共産党は常に「安定」や「秩序」を口実にします。香港国家安全法も「混乱を防ぐため」「秩序回復のため」と説明されました。

しかし、冷静に見れば明らかです。

香港を不安定にしていたのは、ジミー・ライ氏ではありません。自由な言論と批判に耐えられなかった中国共産党自身です。

全体主義体制にとって最も危険なのは、暴力ではありません。事実を語る言葉であり、権力を笑う自由であり、「異論が存在する」という現実そのものです。

だからこそ彼らは、新聞社を潰し、経営者を投獄し、高齢であっても容赦しない。これは秩序維持ではありません。恐怖による沈黙の強制です。

香港は実験場だった

香港の30年は、中国共産党がどのように嘘を重ね、自由を段階的に解体していくかを示す実験場でした。約束を守らなくても、国際社会は最終的に強く出ない。経済的利益を理由に、多くの国が目を逸らす。

その読みは、残念ながら当たってしまいました。

なぜ日本のメディアは、この問題を避けるのか

最後に、どうしても触れなければならない問題があります。

それは、日本の主要メディアが、このジミー・ライ事件、そして香港で起きている現実を、意図的に深掘りしようとしないという事実です。

中国共産党の「法治」や「安定」という言葉の嘘を正面から検証し、「一国二制度」がいかに計画的に破壊されたのかを構造的に伝える報道は、ほとんど見られません。

そこにあるのは、
  • 中国への配慮
  • 経済関係への忖度
  • 「刺激的な報道を避けたい」という空気
  • そして「遠い国の話にしておきたい」という自己防衛
でしょう。

しかし、報じないことは中立ではありません。報じないこと自体が、現状を追認する態度です。

香港で何が起きたのかを直視しないことは、中国共産党の嘘を事実上黙認することに他なりません。そしてそれは、日本社会が自らの「知る権利」を静かに手放していることを意味します。

かつて香港の人々は、「ここは中国とは違う」「国際社会が見ている」と信じていました。日本のメディアもまた、「日本は民主主義国家だから」「中国とは違う」と無意識に思い込んでいるのではないでしょうか。

しかし、自由と法の支配は、信じているだけでは守れません。それを支えるのは、現実を直視し、嘘を嘘として言葉にする営みです。

ジミー・ライ事件は、中国共産党の嘘を暴いた出来事であると同時に、日本のメディアと社会が、どこまで現実から目を背けているのかを映す鏡でもあります。

香港の悲劇を、遠い国の出来事として消費するのか。それとも、日本自身への警告として受け止めるのか。

沈黙は、安全ではありません。
沈黙こそが、次の現実を呼び込むのです。

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