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2026年3月16日月曜日

キャリアとは何か ― パンくずとトレードオフでできている

 
ROAトレードオフ


アメリカで働いていた頃、キャリアの考え方が日本とはずいぶん違うことに気づきました。


日本では、まず「どの会社に入ったか」がキャリアの出発点になります。いわば会社が主語です。ところがアメリカでは、主語はあくまで個人です。会社は自分のキャリアを実現するための一つの舞台にすぎません。どちらが正しいという話ではありませんが、この違いは思った以上に大きい。

キャリアというものを、童話『ヘンゼルとグレーテル』に出てくるパンくずに例えて考えるということを聞いたことがあります。二人は森で迷わないように、歩きながらパンくずを落としていきました。英語ではこのパンくずを breadcrumb と呼び、キャリアの道筋を示す比喩としても使われます。

人は後になって振り返ったときに、自分の歩いてきた道が見えるものです。どんな仕事を選び、どんな経験をし、どんな人と出会ったのか。その小さな選択の積み重ねが、一つの道筋になっていきます。

キャリアとは単なる職歴ではありません。

人がどんな仕事を選び、どんな経験をし、どんな人と出会ってきたのか。その積み重ねが、その人の人生そのものになるのだと思います。

日本では、会社に入ること自体がキャリアの中心になります。営業になるのか経理になるのか、本人が決めるわけではなく、組織の中で役割が決まる。高度成長期にはそれでよかったのかもしれません。しかし今の時代、その構造だけで人生を預けるのは少し危うい気がします。

私は、キャリアとは「会社に合わせて生きること」ではなく、「人生の中に会社をどう位置づけるか」だと考えています。極めて当たり前のことだと思います。会社は人生の重要な舞台ではありますが、それが人生そのものではありません。家庭や地域社会、あるいは自分の教養や人間関係も含めて、すべてがキャリアの一部です。

そのキャリアを考えるとき、避けて通れないのが「トレードオフ」です。人は欲しいものをすべて手に入れることはできません。何かを選べば、別の何かを諦めることになります。

例えば、海外での経験を取るのか、日本での安定した就職を取るのか。専門を深めるのか、それとも別の分野に挑戦するのか。ある選択をした瞬間に、別の可能性を手放すことになる。このとき失われた可能性の中で最も価値の高いものを「機会費用」と呼びます。

ビジネスの世界でも同じです。経営学では、こうした選択を「トレードオフ」として説明します。

レストランをやるなら、回転率で勝負する立ち食い蕎麦屋にするのか、それとも高付加価値のフランス料理店を目指すのか。どちらでもいいのですが、どちらつかずの曖昧な商売はうまくいきません。

ビジネススクールでは、これを ROAトレードオフとして説明します。
ROA(総資産利益率)は「利益 ÷ 資産」で決まります。利益率を高めるか、回転率を高めるか。多くの場合、この二つはトレードオフの関係にあります。

つまり、高級フレンチのように利益率で勝負するのか、立ち食い蕎麦のように回転率で勝負するのか。戦略はどちらでもいいのですが、中途半端はうまくいかない。

アメリカではこういう意思決定の考え方を、中高生の段階から学校で教わります。日本の会社で働いていると、こうした発想を体系的に教わる機会はあまり多くないように感じます。

キャリアも同じで、自分がどこに軸を置くのかを考える必要があります。

そしてもう一つ重要なのがリスクです。

将来を正確に予測することは誰にもできません。だからこそ、ある程度のリスクを引き受けて意思決定をする必要があります。リスクという言葉は日本では「危険」として語られがちですが、本来は「機会」でもあります。リスクを取らなければリターンも生まれません。

若い頃は専門分野を徹底的に磨くことが大切です。しかし、ある年齢になると、もう一段上の視点が求められます。私はよく「君子不器」という言葉を思い出します。優れた人物は一つの器に閉じ込められない、という意味です。スペシャリストとしての経験を土台に、やがてゼネラリストとして人や組織を見る力が求められるのです。

振り返れば、キャリアは最初から設計図どおりに進むものではありません。むしろ後になって、「あのときの選択が次につながっていた」と気づくことのほうが多い。森の中に落としたパンくずのようなものです。

結局のところ、キャリアとは一生「普請中」なのだと思います。何度も迷い、何度も選び直しながら歩いていくしかない。

最後に思い出すのは、福沢諭吉の言葉です。

「一身独立して一国独立す」。

自分の人生の運転席に座るのは、会社でも政府でもなく、自分自身なのです。

***

2026年3月14日土曜日

自律的キャリア形成は本当に可能なのか

 
キャリアの分岐点。あなたはどちらの道を選びますか?

最近、人材育成の分野でよく耳にする言葉の一つに「自律的キャリア形成の支援」があります。かつてのように会社がキャリアのレールを敷くのではなく、社員一人ひとりが自分の将来を主体的に設計し、会社はそれを支援する。そうした関係がエンゲージメントを高め、企業と個人の双方に利益をもたらすという考え方だそうです。

理念としてはもっともらしく聞こえます。実際、欧米の企業ではジョブ・ポスティング制度やキャリア面談、リスキリング支援などが整備され、個人が主体的にキャリアを選択する仕組みが広がっています。しかし、この考え方がそのまま日本社会に根付くのかと問われると、私は少し疑問を感じます。

なぜなら、日本の教育環境と社会構造は、そもそも自律的なキャリア形成を前提としていないからです。日本人の多くは、幼稚園、小学校、中学校、高校、大学、そして就職と、ほぼ一貫して「用意されたレール」の上を歩んできました。自分で道を選ぶというより、制度の中で与えられた選択肢を選び続けてきたと言った方が正確でしょう。

私は十年ほど前の年末に、コンサルティングという仕事についてブログに書いたことがあります。コンサルティングの世界では、プロジェクトのことを「エンゲージメント(engagement)」と呼びます。仕事は一人ではできません。むしろ、ジャズやブルースのジャム・セッションのように、他者との関わりの中で価値が生まれるものです。そこで問われるのは、「どのように参加するか」という姿勢です。

フランスの哲学者サルトルは、人間は「アンガジュマン(engagement)」、すなわち関与の中で生きている存在だと言いました。私の理解では、それは「人は一人では生きられない」という意味です。そして同時に、人は主体的に世界に参加する責任を負っている、ということでもあるのでしょう。

ところが、日本の組織ではこの「参加」がしばしば形骸化します。ガバナンスやコンプライアンスの名のもとに監視が強まり、人は言われたことをこなすことに忙殺されます。それは一見すると秩序ある組織運営のように見えますが、別の見方をすれば、主体的な関与、すなわちエンゲージメントを放棄している状態とも言えます。

そうした環境の中で、突然「自律的にキャリアを設計してください」と言われても、多くの人は戸惑うのではないでしょうか。主体的に生きる訓練を受けてこなかった人にとって、それは簡単なことではありません。

サルトルは、人間は自由であるがゆえに不安を抱える存在だと言いました。自由とは、同時に責任を引き受けることでもあります。自分の人生を自分で選ぶということは、失敗の責任もまた自分で引き受けるということです。だからこそ、人は自由でありながら、自由であることに恐れを感じるのです。

現在の日本で語られている「自律的キャリア形成の支援」は、この自由と責任の問題を十分に議論しないまま制度化されているように見えます。社内公募制度やキャリア面談、リスキリング支援などの仕組みは整いつつあります。しかし、それだけで人が主体的に生きるようになるわけではありません。

本来のエンゲージメントとは、制度によって作られるものではなく、人が自らの意思で世界に関わろうとする姿勢から生まれるものです。言い換えれば、それはキャリアの問題というより、人がどのように人生を生きるかという問いに近いものです。

企業がキャリア支援制度を整えること自体は悪いことではありません。しかし、日本社会の教育や組織文化が変わらない限り、それは表面的な制度改革に終わる可能性もあります。

自律とは、制度が与えてくれるものではありません。本来は、人が自分の人生に責任を持つところから始まるものです。

そして、その覚悟を持った人だけが、本当の意味でキャリアを「形成する」と言えるのではないでしょうか。

***

2026年3月13日金曜日

モチベーションは誰かが与えるものなのか ――日本社会が「やる気」を失った理由

 
今日のハンバーグ。
次はもっと美味しく作ろうと思っています。

最近、モチベーションに関する記事をいくつか読む機会がありました。

「仕事のやる気を高める九つの方法」
「モチベーションを維持する三つの習慣」

そんな類の記事です。

しかし、読めば読むほど、私はある違和感を覚えました。
そもそもモチベーションとは、誰かに与えてもらうものなのでしょうか

モチベーションとインセンティブは違う

まず、言葉を整理しておきたいと思います。

モチベーションとは、個々人の内側から出てくる「やる気」のことです。
「今日はモチベーションが上がらない」と言えば、「今日はやる気が出ない」という意味になります。

一方、インセンティブとは、モチベーションを引き出すための外的な刺激です。
いわば「ご褒美」です。

馬を走らせるためのニンジンのようなものです。

この二つは似ているようで、実はまったく違う概念です。

社会そのものがモチベーション装置になる国

少しアメリカの話になります。

アメリカの子どもたちは、日常の中でホームレスや麻薬中毒者を目にします。
その一方で、成功して大きな家に住み、カッコいい車を何台も持っている大金持ちも見ています。

ホームレスにはなりたくない。
成功して良い暮らしをしたい。

ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズは、まさにロールモデルです。

つまり、社会そのものが強いモチベーション装置として働いているのです。

平均化された社会の弱点

日本社会はそれとは対照的です。

極端な貧困も少なければ、桁違いの大金持ちもそれほど目立ちません。
平均化された社会は確かに優しい社会です。

しかし、あまりに平均化が進むと、
人が強い動機を持つ機会も減ってしまうのではないでしょうか。

日本の社会や学校には、モチベーションを刺激する要素が少ないようにも見えます。


日本の組織文化 ――「タコつぼ型」

さらに、日本の組織文化もこの問題に関係しているように思います。

日本の組織は、いわば「タコつぼ型」です。

専門分野を掘り下げることが美徳とされ、他の領域には立ち入らない。
表面上は波風が立たないため「和」が保たれているように見えます。

しかし実態は、無関心の連鎖です。

誰も決断せず、誰も責任を取らない。
こうして組織は、協働するチームではなく、

「並列する個」の集合体

になっていくのです。

承認不足という言葉の誤解

こうした環境の中では、モチベーションも外に求められるようになります。

上司が褒めてくれない。
評価されない。
だからやる気が出ない。

最近の調査でも、従業員が辞める理由の第一位は「承認不足」だそうです。

ここで言われている承認とは、おそらく英語の recognition の訳でしょう。
つまり評価やご褒美です。

しかし、これはインセンティブの話であって、
モチベーションそのものではありません。

モチベーションまで他人に依存するようになれば、
それはかなり危うい状態だと思います。

森鴎外『高瀬舟』の言葉

もう一つ、モチベーションを考えるうえで思い出す言葉があります。

森鴎外の『高瀬舟』です。

人は病があれば治りたいと思い、
食がなければ食べたいと思う。
たくわえがあれば、もっと欲しいと思う。


人間はどこまで行っても「もっと」を求める存在です。

かつてこれはアメリカ人の特性だと言われましたが、
日本もまた四半世紀遅れて同じ方向を追いかけているように見えます。

もっと快適に。
もっと豊かに。
もっと楽しく。

もし「もっと欲しい」だけがモチベーションであるならば、
人は年を取るほど利己的になっていくかもしれません。

だからこそ、「足るを知る」という感覚も必要なのではないでしょうか。

ハンバーグのモチベーション

私は、人間の成長は
問題を解決するプロセスの中で生まれると思っています。

そのプロセスは与えられるものではありません。
自分で見つけ出すものです。

仕事そのものだけではなく、
仕事の機会を見つけることも含めて、自分で創り出していく。

その中で人は成長します。

たとえば――

「次はもっと美味しいハンバーグを作ってやろう。」

そんな小さな動機でも構いません。

自分の中から自然に湧き上がる
「次はもっと良くしたい」という気持ち。

それこそが、本当のモチベーションなのではないでしょうか。

結局、モチベーションとは何か

結局のところ、モチベーションとは
誰かが与えるものではありません。

それは、自分の内側から生まれるものです。

ただし、日本社会には
その内発的なモチベーションを育てにくい環境があることも確かでしょう。

教育も組織も、長いあいだ
「指示を待つ人間」を育ててきました。

その構造が変わらない限り、モチベーションを語る議論は、どうしても表面的なものになってしまうのではないでしょうか。

***

2026年3月12日木曜日

「際」を生きるということ ―― 福沢諭吉 と「迷子になる勇気」

 

私の人生に大きな影響を与えた日本人の一人が、

福沢諭吉です。

福沢の人生を眺めていると、あることに気づきます。どこかで聞いたこともあります。彼は、ある意味で 「際(きわ)」に立って生きた人でした。

福沢諭吉が生きた「際」

福沢の人生を並べてみると、すべてが境界の上にあります。
  • 武士の時代 → 明治国家
  • 漢学 → 蘭学 → 英学
  • 封建社会 → 市民社会
  • 日本 → 西洋
彼の人生は、常に世界の変わり目 にありました。

福沢自身が書いていますが、蘭学を学ぶために長崎へ行ったとき、彼は気づきます。世界はオランダ語ではなく、英語で動いている。

そこで彼は迷わず方向を変えます。大胆な意思決定です。

つまり福沢は、最初から確信を持っていた人ではありません。
むしろ 現実を見て、方向を変え続けた人でした。

「迷子になる勇気」

私は『迷子になる勇気』という本を書きました。
後から考えてみると、この感覚は福沢の思想にかなり近いのではないかと思います。

福沢の有名な言葉があります。

天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず

これは単なる平等論ではありません。

本当の意味は
自分で考えろということです。

そして自分で考えるためには、ときには既存の道を外れる必要があります。

つまり、『迷子になる勇気』です。

日本思想の面白さ

ここで少し面白いことがあります。

西洋の思想は、多くの場合
体系(システム) を作ります。

しかし日本の思想は、むしろ

境界に立つ人から生まれることが多い。
例えば
  • 空海
  • 本居宣長
  • 福沢諭吉
  • 夏目漱石
  • 新渡戸稲造
  • 小林秀雄
この人たちは皆、どちらの世界にも完全には属していません。
だからこそ、世界の矛盾が見えたのだと思います。

私もずいぶん迷子になってきました

自分の人生を振り返ると、
私もまた境界の上を歩いてきたように思います。

言い換えれば、
私もずいぶん迷子になってきました。

仕事や生活の場としては
  • 日本(地方都市と東京)
  • 中国
  • アメリカ
三つの世界を経験しました。

しかも、アメリカのITやコンサルティング会社という
大きな組織の中でです。

これはある意味で
文化の境界線でした。

さらに考えると、私は
  • 技術
  • ビジネス
  • 歴史
  • 思想
そうした分野の境界にも立ってきたと思っています。

境界に立つ人には、一つの特徴があります。

違和感を感じることです。

そしてもう一つあります。

境界に立つ人は、どこにも完全には属さないため、少し孤独になります
授業をサボって喫茶店にいる時のように。

その結果、人は次のどれかを始めます。
  • 研究する
  • 思想を作る
  • 書く
福沢は『学問のすゝめ』を書きました。

私はそんな立派なことができる人間ではありません。
研究ができるほど忍耐力もありません。

ただ、自分の人生で経験してきたこと、考えてきたことを、
忘れてしまう前に少しずつ書き残しているだけです。

小さな檸檬

私が好きな短編があります。

梶井基次郎の『檸檬』です。

この作品もまた、境界の文学です。
  • 都市と個人
  • 近代と感覚
  • 憂鬱と解放
その境界に主人公は立っています。
そして彼は世界を変えようとはしません。

ただ、檸檬という小さな爆弾を置いて立ち去る。

文章を書くこと

私が文章を書き続けている理由も、
たぶんそれに近いのだと思います。

世界を変えることはできません。
あと10年以内に死んでしまう確率が高い。

しかし、日本の歴史や社会、教育や主体性について、
読んだ人が 少しだけ違う角度から考える きっかけになればいい。

それで十分です。

それはきっと、
小さな檸檬だからです。

私の愛車である
黄色のコペンのように。

***

2026年3月11日水曜日

「他人と比べない」は本当に可能か ――日本の教育を変えるために必要なもう一段上の視点

 
日本の教育は「他人と比べるな」と言いながら、
偏差値という序列の中で子どもたちを競わせている。

最近、長年教師を務め、海外の日本人学校でも教え、いまは帰国子女の支援などをされている方の文章を読みました。おそらく私と同じか、少し上の世代の方だと思います。教育の現場を長く見てこられた方らしく、非常に示唆に富む内容でした。

その中で紹介されていたのが、「分断支配(Divide and Rule)」という考え方です。弱い立場の人々を互いに競わせることで、支配する側が統治しやすくする古典的な戦略です。帝国主義の時代には、宗教や階級で住民を分断することがよく行われました。日本の江戸時代の「士農工商」も、似たような構造を持っていたと言われています。

筆者は、現在の日本社会には、この「分断」の仕組みが偏差値という形で広がっているのではないかと指摘していました。誰もが少しでも上へ、少しでも「勝ち組」へと競争することで、社会の枠組みそのものを疑わなくなるというわけです。

この指摘には、私も基本的に賛成です。

そして筆者は、その対抗策として「他人と比べない」という姿勢の大切さを語っています。人はそれぞれ違う環境で生まれ育ち、持っている資質も違うのだから、他人と比較すること自体があまり意味のないことだというのです。

これも、まったくその通りだと思います。

ただ、ここで私は一つだけ言いたいことがあります。

「他人と比べない」という精神論だけでは、日本の教育は変わらないのではないか、ということです。

そもそも日本の子どもたちは、偏差値による序列の中で育っています。入試も就職も、基本的にはその延長線上にあります。「他人と比べるな」と言いながら、「一点でも高い点を取れ」と言われ続ける。これは子どもたちの責任ではありません。明らかに社会の仕組みの問題です。

学校、教師、文部科学省、受験制度、塾産業、そして親。すべてが相互にもたれ合う形で、この仕組みを維持しています。誰もが「仕方がない」と言いながら、結果として何も変えようとしない。ある意味で巨大な既得権益構造になっていると言ってもいいでしょう。日本の政治もよく似ています。

もちろん、教師個人の努力不足や経験不足という問題はあると思います。しかし、それを教師だけの問題にしてしまうと、本質を見失います。問題は教育システムそのものです。

私は長い間、海外で働いてきました。アメリカでも中国でも、多くの若い人たちと仕事をしました。そこで感じたのは、教育の違いというよりも、「主体性」の違いでした。自分で考え、自分で決めるという感覚が、日本の若者よりもずっと強いのです。

その背景には、もちろん社会の構造があります。日本のように、若い頃の試験の結果がその後の人生を大きく左右する社会では、どうしても「失敗しないこと」が優先されます。結果として、挑戦よりも安全な選択をする人が増えてしまうのです。

記事の最後に、帰国生の少年のエピソードが紹介されていました。彼はよく「It is what it is」と言っていたそうです。最初は「現状を受け入れるだけでは何も変わらない」と叱ったそうですが、実は彼の意味は違っていました。「自分に与えられた条件を最大限に生かす」という意味だったのです。

周りに合わせるつもりはない。自分の良心に従って生きる。
まだあどけない顔の少年のその言葉に、筆者は励まされたと書いていました。

私も、その話には希望を感じます。
ただ同時に思うのです。

こういう若者に期待するだけではなく、私たち大人の世代こそ、もう少し教育の構造そのものについて声を上げるべきではないかと。特に教育に従事している大人は。

子どもたちに「他人と比べるな」と言いながら、社会の入口では偏差値による序列を強制する。この矛盾を放置したままでは、日本の教育は変わらないと思います。

戦後80年が過ぎました。そろそろ私たち大人が、教育の仕組みそのものについて本気で考え直す時期に来ているのではないでしょうか。

***

2026年3月7日土曜日

AIが教えられないもの ― 江戸の寺子屋に学ぶ教育

 
メトロポリタン美術館 浮世絵コレクション


AIが教えられないもの

― 江戸の寺子屋に学ぶ教育

私は十代の頃から時代劇が好きです。動画配信でも昔の時代劇を観ます。
ぼんやりと再放送を流しているうちに、頭の中がすっかり江戸時代になってきました。

そのとき、「寺子屋」のことを考えました。

寺子屋と聞くと、いま流行りの塾ビジネスのようなものを想像する方もいるかもしれません。しかし本来の寺子屋は、江戸から明治初期にかけて庶民の間に広がった教育の仕組みでした。

明治維新の頃には、全国に三万校ほどあったと言われています。当時の人口規模を考えると、驚くべき数です。

私は教育の専門家ではありません。
ただ、海外で働き、子育てをし、起業もし、組織にも属してきた一人の実務家として思うのです。

あの寺子屋の仕組みは、いまこそ見直す価値があるのではないかと。

AIが進化しても、人格は形成できない

2009年に帰国した頃、日本では「eラーニング」が流行語でした。

そして2026年のいまは、

  • 生成AI
  • AIトレーニング
  • リスキリング
といった言葉が飛び交っています。

AIは確かに便利です。
情報収集、文章作成、翻訳、分析。

かつて何時間もかかっていた作業が、いまでは一瞬で終わります。

教育の世界でもAIの活用が進み、学習効率はこれからさらに上がっていくでしょう。
しかし、その一方で私が少し気になっていることがあります。

いまは、

努力のショートカットが無限に存在する時代

になったということです。

調べることも、まとめることも、文章を書くことも、AIが代わりにやってくれる。

もちろんそれ自体は悪いことではありません。
人類はいつの時代も、道具によって効率を高めてきました。

ただ一つだけ、テクノロジーが代わることのできないものがあります。

人格は、人と人との関係の中でしか育たない。

私はそう思っています。

「教師と生徒」ではなく「師匠と弟子」

寺子屋が優れていたのは、まさにそこでした。

寺子屋は単なる知識伝達の場ではありませんでした。
そこには師匠と弟子の信頼関係がありました。

知育や体育の前に徳育がありました。
知識の量よりも、人としてどうあるかが問われていたのです。

現代の学校教育では、教師が前に立ち、生徒が同じ方向を向いて座ります。

しかし寺子屋では、子どもたちは向かい合って座りました。
師匠はファシリテーターのような存在です。

「教える」よりも「学ぶ」が主体でした。

これはいま企業研修で行われているケーススタディや、プロジェクト型学習にも通じる形態です。最先端だと思っている教育の方法が、実は江戸時代にすでに存在していたのです。

いちばん効果的な学習法

寺子屋では、先に進んだ子どもが、遅れている子どもを教えました。

私は長年ビジネスの現場にいましたが、いちばん成長するのは「教える立場」になったときです。

人に説明しようとすると、自分の理解の浅さが露呈します。
そこで初めて思考が深まります。

また、強い者が弱い者を助ける構造も自然に生まれます。

単なる効率の問題ではありません。
そこでは共同体の倫理が育つのです。

書写と往来物 ― 思考のOS

寺子屋の基本は書写でした。

文章を読み、書き写し、意味を理解する。
いまの「書道」とは少し違います。

言葉を身体に染み込ませる行為です。

教材には「往来物」と呼ばれる手紙や商取引の文書が使われました。

そこでは自然に、

  • 誰に
  • 何を
  • いつ
  • どこで
  • なぜ
  • どのように
という思考の型が身につきます。

これは現代のビジネススクールで行われているケーススタディと、本質的には同じです。現実の文脈の中で考える訓練でした。

なぜ、いま寺子屋なのか

明治五年の学制以降、日本の教育は中央集権型・画一型へと進みました。

戦後の教育改革は、アメリカ占領政策の影響を強く受けています。

その過程で、寺子屋の持っていた

  • 人間関係中心

  • 実務型

  • 統合型

という要素はかなり失われたのではないでしょうか。
いまの教育は、科目ごとに分断されています。

数学は数学。
国語は国語。
歴史は歴史。

柱はたくさん立ちます。しかし、梁が渡らない。

知識は増えますが、統合されません。

その結果、判断力や主体性が育ちにくくなる。
私はそこに危機感を持っています。

AI時代に必要なもの

私はAIを否定しているのではありません。
むしろ積極的に活用すべきだと思っています。

しかし、AIはあくまで道具です。

AIは答えを出してくれます。しかし、人間がその答えを引き受ける覚悟までは作ってくれません。

人間が担うべきものは、

  • 価値判断
  • 責任
  • 倫理
  • そして統合です。

小さなコミュニティの中で、年齢を越えて学び合い、実務的な言葉を使い、人格を通して学ぶ。その上でAIを補助輪として使う。

それがこれからの教育の姿ではないかと思うのです。

試練を避けない教育へ

私はこれまで、若い人には「試練を避けるな」と言ってきました。

成功か失敗かは問題ではありません。
問題は、試練を回避することです。

寺子屋の仕組みは、小さな試練を日常の中に埋め込んでいました。

  • 人に教えること。
  • 責任を持つこと。
  • 文字を丁寧に書くこと。
そこには小さな緊張がありました。

いまの教育は、効率化の名のもとに、そうした緊張を減らしすぎてはいないでしょうか。

最後に

何度も言いますが、私は教育者ではありません。

ただ、アメリカや中国で暮らし、働き、子育てをし、組織と個人の両方を経験してきました。その中で感じた違和感が、この問いにつながっています。

AIはますます賢くなるでしょう。

しかし、人が人から学ぶという営みは、きっと消えません。

だからこそ私は、
AI時代のいま、静かに「寺子屋」を思い出しているのです。

***


2026年3月2日月曜日

『葉隠』という逆説 ―― 死を見つめて生きる力

 
あをによし、死を見つめれば、朝は来る。

(薬師寺から若草山を望む)


若いころ、『葉隠』にはまった時期がありました。きっかけは、おそらく三島由紀夫の『葉隠入門』だったと思います。あれから長い年月が過ぎましたが、最近の日本の政治や世界情勢を眺めていると、あらためて『葉隠』を読み返してみたくなりました。そして、できることなら多くの若い人たちにもこの書を知ってもらいたいと思うようになりました。

『葉隠』は、佐賀藩士の山本常朝が語り残した武士道の覚え書きです。「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」という一句だけが独り歩きし、過激で狂信的な武士の心得書のように誤解されがちです。しかし三島は、この一句そのものが逆説であると指摘しました。死ねと言っているのではない。毎日を、死ぬ覚悟で生きよ、という意味なのだと。今日が最後の日であるかのように仕事をすれば、その仕事は急に光を放ちはじめる――三島はそう書いています。

私には、この思想は「Seize The Day(今日を生きる)」と同じことを語っているように思えます。死は誰にも避けられず、その時を自分で選ぶこともできません。だからこそ一日を無駄にするな、という強烈な倫理がそこにあります。これは決して後ろ向きな思想ではなく、むしろ生を最大限に肯定する思想です。

興味深いのは、『葉隠』の核心が「自尊心」にあるという点です。

序文「夜陰の閑談」には、「同じ人間なのだから、誰に劣るというのだ。修行は大高慢でなければ役に立たない」とあります。この「大高慢」は、現代語の「高慢ちき」とは違います。英語で言えば self-esteem、自らを尊ぶ強い気概のことです。武士は、自分が日本一であるという気概を持たねばならない、とまで言います。三島も「武勇は、我は日本一と大高慢にてなければならず」と引用しました。

自尊心を教育の根幹に置くという点では、アメリカの義務教育とも通じるものがあります。自分を価値ある存在だと信じることが、修行や鍛錬の出発点になる。これは武士社会の精神的バックボーンでもあったのです。内に秘めた誇りがなければ、いかなる修練も実を結ばない。その意味で『葉隠』は、現代にも通じる実践的な書物だと思います。

さらに見逃せないのは、人に意見する際の「思いやり」です。『葉隠』は、他人の欠点を見つけるのは易しいが、それを正しく伝えるのは難しいと説きます。相手の性格を見極め、距離を測り、言い方や時機を選び、相手が自ら気づくように導く。そうでなければ、単なる悪口と同じだと言い切ります。三島はこれを「デリカシー」と表現しました。荒々しい武士道の世界は、実は精密な思いやりによって支えられていたのです。

この精神は、宮本武蔵の『五輪書』とも響き合います。武蔵は「心意二つの心をみがき、観見二つの眼をとぎ」と述べ、知と意志、大局観と現実認識の双方を磨けと説きました。責任はすべて己にあるという覚悟です。神仏や他人のせいにするのではなく、自らの心を澄ませよという教えです。

現代の日本社会を見ていると、責任の所在を外に求めがちな空気を感じることがあります。しかし『葉隠』は、まず自分を正せと迫ります。死を見つめよ、誇りを持て、思いやれ、そして今日を全力で生きよ、と。

武士道とは、死を賛美する思想ではありません。むしろ、生を燃焼させるための覚悟の思想です。迷いの雲を払い、澄んだ空の心境で一日を生きる。その緊張感と誇りを、今こそ若い人たちに知ってもらいたいと思います。

***

2026年2月23日月曜日

主体性の欠如という病――問題意識・危機意識・当事者意識について

 

1990年代に作成した図。30年経っても、課題は変わっていない


私はもうすぐ古希を迎えます。

大きな実績を残したわけでもなく、立派な経歴があるわけでもありません。
ただ、長く生きてきて一つだけ気になっていることがあります。それは、問題意識、危機意識、当事者意識が、私たちの社会から少しずつ薄れているのではないかということです。

問題意識がなければ危機意識は生まれません。
危機意識がなければ当事者意識は芽生えません。
そして当事者意識がなければ、主体性は育ちません。

私は、今の日本社会の最大の欠陥は主体性の弱さだと思っています。
言い換えれば、責任感の希薄さです。

当事者意識とは責任を引き受けること

当事者意識とは何でしょうか。
それは、自分が引き受けるという覚悟です。

自由は求める。しかし責任は負いたくない。
これは個人にも組織にも蔓延しています。
日本の会社組織では、責任の所在を曖昧にし、合議という名のもとに決断を先送りする構造が温存されています。誰も最終責任を取らない。

主体性や責任感は、誰かに教わるものではありません。
人材育成プログラムで身につくものでもない。
自分の選択を自分で引き受ける、その積み重ねの中からしか生まれません。

受動的すぎる人生態度

なぜこうなっているのでしょうか。
私は、人生に対して受動的すぎるのだと思います。

選択を自分のものとして引き受けていない。
結果を自分の人生に結びつけていない。
行動と未来がつながっていない。

受動的な人生態度とは、
・誰かが決めてくれるのを待つ
・環境が変わるのを待つ
・正解を与えられるのを待つ

待っているかぎり、責任は発生しません。
だから楽です。しかし成長もありません。

私はどちらかというと努力が嫌いなほうです。しかし、自分の欠点や弱点はよく承知しているつもりでした。ずるいかもしれませんが、努力する代わりに、弱点を強みでカバーするような積極的な行動をとってきました。完璧ではありませんが、自分の選択だけは自分で引き受けるようにしてきました。

努力の量よりも、引き受ける覚悟のほうが重要だと思っています。

視野が狭いと意識は生まれない

問題意識がないのに危機意識は生まれません。
危機意識がないのに当事者意識を持てと言っても無理です。

視野が狭い。
視点がぼやけている。
視座が低い。

蛸壺状態です。

視野を広げ、多くの視点を持ち、高い視座から物事を見る。そして自己を客観視する。この習慣がなければ問題意識は芽生えません。

教育も同じです。本物を体験し、自分の価値基準を形成することが重要です。しかし今の社会は、正解を効率よく与えることばかりに力を注いでいます。これでは主体性は育ちません。

国家レベルの思考停止

この構造は国家レベルでも同じです。
議論は必要だと言いながら、本気で向き合わない。
決断を避け、既得権益を守り、先送りする。

私は長い間、日本人は自己欺瞞しているのだと思っていました。
しかし最近は、自己欺瞞ですらなく、本心から現実を理解していないのではないかと感じています。

問題意識が弱いから危機意識に至らない。
危機意識がないから当事者意識も生まれない。

これは構造的な思考停止です。

AI時代はそれを加速させる

そして今、生成AIが急速に普及しています。

AIは強力な道具です。しかし主体性のない人間が使えば、思考停止を加速させる装置になります。

問いを立てない。
考えない。
判断しない。
答えだけを受け取る。

これでは受動的な人生態度が完成します。

AIに任せることと、AIに委ねることは違います。
前者は拡張です。後者は放棄です。

主体性の弱い社会では、この境界が簡単に崩れます。

自由と責任はセットである

問題意識を持つことは不快です。
危機意識を持つことは不安です。
当事者意識を持つことは重い。

しかしそれを避け続ければ、主体性は失われます。

自由を語るなら、責任を引き受ける覚悟はあるのか。

AIを使うなら、最終判断は自分で下しているのか。
選択を、自分の人生として引き受けているのか。

問題意識、危機意識、当事者意識。
この三つが戻らなければ、主体性は回復しません。

便利な時代です。
だからこそ、覚悟が必要なのだと思います。

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2026年2月22日日曜日

Be Mentally Strong ―― 生成AIという「得体の知れない変化」の中で

まだ守られているが、未来はぼやけている

私たちは、まだ守られている空間の中にいます。しかし、その向こうに広がる未来は、はっきりとは見えていません。

十五、六年前に私は「Be Mentally Strong !」という文章を書きました。世界は平等ではない、という当たり前の現実から話を始めました。程度の差こそあれ、どの国に行っても社会は不平等です。私の体感では、日本は比較的格差の少ない社会ですが、それでも平等な楽園ではありません。能力も、環境も、運も、人それぞれ違います。

それにもかかわらず、「すべてを等しくせよ」という発想が強くなると、どこか息苦しさを覚えます。私は男女が同一であるとは思いません。北一輝が言った「断じて同一の者に非ざる本質的差異」という言葉は、過激な思想家のものではありますが、本質を突いている部分もあると感じます。違いがあるからこそ、補い合い、折り合いをつけていく。その営みこそが社会なのではないでしょうか。

教育についても同じです。世の中は思い通りにいかないことのほうが多い。その前提に立ち、子どもたちに試行錯誤をさせ、くじけない精神力――自尊心を育てることが大切だと書きました。立川談志師匠の「努力はバカに与えた夢だ」という逆説的な言葉を引きながらも、実際の談志師匠は人一倍努力家だったことにも触れました。天賦の才があったとしても、努力を重ねなければ何も生まれない。人は平等ではない。しかし、だからこそ精神的に強くあれ、と。

その思いを決定づけた一つの出来事があります。1998年、ワールドシリーズ制覇直後のジョー・トーレ監督を招いた講演会でした。彼はニューヨーク・ヤンキースを率い、「New York, mentally tough city, mentally tough people」と語りました。ニューヨークは精神的にタフな街であり、そこに住む人々もタフだ、と。NYという特殊な街でレギュラーの座を守るには、技術だけでは足りない。何よりもmentally tough(プレッシャーに負けるな、歯を食いしばれ)であることが前提だというのです。

当時の私は、日本はサファリパークのようなものだ、と感じていました。ある程度守られ、餌も用意されている。しかしこれからはジャングルになる。会社が突然潰れるかもしれない。朝出社したら解雇を告げられるかもしれない。給料が止まるかもしれない。そうした不条理の中でも平常心を保てるかどうか。それがmentally toughだと書きました。

そして今、私はもう一つの「得体の知れない変化」に直面しています。生成AIの爆発的な普及です。かつては専門家だけが扱っていた技術が、誰もがボタン一つで文章を書き、画像を作り、分析を行う時代になりました。便利であることは間違いありません。私自身もその力を実感しています。

しかし同時に、どこか底知れぬものを感じるのです。自分で考え、迷い、言葉を紡ぐ過程を、簡単に外部へ委ねてしまう危うさです。かつて私は「世界は平等ではない」と書きましたが、生成AIは一見すると「能力の平準化」をもたらします。誰でもそれなりの文章を書ける。誰でもそれなりの答えを出せる。けれども、それは本当に力を得たことになるのでしょうか。

もし思考のプロセスを手放してしまえば、人は内側から弱くなります。困難に直面したとき、自分の頭で問いを立て、仮説をつくり、試行錯誤する力がなければ、AIが使えない状況になった瞬間に立ち尽くしてしまうでしょう。ジャングルで生きる術とは、道具を持つことではなく、道具がなくても立っていられる精神のことです。

生成AIは強力な道具です。しかし、道具に使われるか、道具を使いこなすかは、人間の側の問題です。便利さに身を委ねきってしまうのは、ある種の「全体主義」にも似ています。皆が同じ答えを出し、同じ表現をし、同じ速度で反応する世界。それは平等に見えて、実は思考の多様性を失った世界かもしれません。

だからこそ、私は改めて「Be Mentally Strong」(折れない心を持とう、賢く強く生きよう)と言いたいのです。世界は平等ではない。変化もまた平等には訪れません。生成AIという波に飲み込まれるのではなく、その波の中で自分の足で立つ。自分の頭で考え、自分の言葉で語り、自分の責任で判断する。そのうえでAIを使う。

大学生のみなさんに、かつて「一流大学、一流企業を目指しなさいという甘言に乗るな」と書きました。いまならこう付け加えます。「AIがあるから大丈夫」という甘い考えを持つな、と。

サファリパークは、もう以前の姿ではありません。私たちが安全だと思っていたサファリパークのフェンスは、もう万全ではありません。ところどころに穴が空き、餌の供給も不安定になっています。 その中で生き残る条件は、昔も今も変わりません。mentally toughであること。得体の知れない変化の中でも、静かに、しかし確かに、自分を保ち続ける力。それこそが、これからの時代に最も求められる資質ではないでしょうか

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2026年2月20日金曜日

思考なき加速 ―― 生成AI時代の構造転換

 

上のスライドは、私が1980年代前半から関わってきた情報システムの変遷を、一枚にまとめたものです。

MRPやRDBの時代から、ERP、インターネット、携帯電話、そしてクラウドへ。2007年のiPhone登場、2012年の第三次AIブーム、そして2023年以降の生成AIの爆発的普及。振り返れば、ITは常に変化してきました。しかし、今起きていることは、単なる技術の進歩とは質が違うように感じています。

2000年頃から、ITに関して学習すべきことは飛躍的に増えました。新しい言語、新しいフレームワーク、新しいクラウドサービス。エンジニアは常に何かを追いかけ続けなければならなくなりました。同時に、多くのテクノロジーはブラックボックス化していきました。かつては内部構造を理解しながら使っていたものが、いつの間にか「APIを呼び出せばよいもの」「クラウドに任せればよいもの」へと変わっていきました。

それでも、その時代にはまだ一つの前提がありました。それは「習得する」というプロセスです。三か月学び、半年試し、ようやく現場で使えるようになる。その積み重ねがエンジニアとしての自負を支えていました。スキルの賞味期限は短くなりましたが、「習得する」という行為そのものには意味がありました。

ところが、コロナ禍が終息する頃から状況は一変します。生成AIが爆発的に普及し、「習得」というプロセスを飛び越えて、いきなりアウトプットに到達できるようになりました。ある技術を知らなくても、AIに指示を出せば数秒でコードが生成される。エンジニアが必死に追いかけてきた「表層的なスキル」は、一瞬でコモディティ化しました。

ここに、何とも言いがたい違和感があります。これまでブラックボックス化してきた技術は、少なくとも仕様やインターフェースは明確でした。しかし生成AIは、「なぜその答えが出てくるのか」を完全には説明できない、真の意味でのブラックボックスです。私たちは論理ではなく、対話や直感によってシステムを動かし始めました。これはコンピュータ史においても、極めて異例の事態ではないでしょうか。

さらに大きな変化は、「エンジニアリング」から「オーケストレーション」への転換です。自ら楽器を演奏するようにコードを書く時代から、AIという演奏者にどう指揮を執るかという時代へ。スキルを追いかけるのではなく、AIを乗りこなす能力が問われるようになりました。従来のITスキルの延長線上では捉えきれない領域に入りつつあります。

ここで私が懸念するのは、日本のIT業界がこの変化を本質的に理解できるかどうかです。高齢者の傲慢な意見かも知れませんね。

私たちは長らく、特定の言語やツールの操作法を「スキル」と呼び、それを追いかけてきました。しかしそれが表層的であったことに、どれだけの人が気づいていたでしょうか。もしその自覚がなければ、今の「得体の知れない変化」に対する本当の危機感も生まれないのではないかと心配しています。

日本のIT現場には、アプリケーション(現場の業務)とテクノロジーの間に大きなギャップがあります。現場は具体的な課題を語り、技術者は最新技術を語る。しかし両者を一気通貫で俯瞰し、抽象度を上げて全体を設計する視点が不足しているように感じます。これは、教科ごとに分断された受験中心の教育の影響も大きいのではないでしょうか。境界線の中で正解を探す訓練はしてきましたが、境界線を跨ぐ梁を渡す訓練(知識のインテグレーション)はほとんどしてきませんでした。

生成AI時代において、人間に残るのは「How」ではなく、「Why」と「What」です。なぜ作るのか、何を作るのか。その問いを立て直す力こそが、本質的な能力になります。AIが表層を飲み込んだ今、抽象度の高い視野を持たなければ、AIに指示を出すことすら難しくなるでしょう。

ITはこの四十年で飛躍的に進歩しました。しかし、進歩の裏で失われたものはないでしょうか。最新技術を追いかけるあまり、基礎や構想力、全体を俯瞰する視野を軽視してこなかったでしょうか。今起きている地殻変動は、その問いを私たちに突きつけているように思えます。

この「得体の知れない変化」を単なる効率化として受け流すのか。それとも、自らの立ち位置を問い直す契機とするのか。日本のIT業界が本質に目を向けられるかどうかは、今まさに分岐点にあるのではないでしょうか。

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2026年2月19日木曜日

2026年版 AI時代の「成長を阻む5つの壁」

 

かつて「成長を阻む壁」といえば、組織改革や個人の自己変革を妨げる心理的な抵抗を指していました。しかし2026年の現在、その壁はより見えにくく、より深刻な形へと変化しています。私たちはいま、AIとの関係性の中で、新しい種類の壁に直面しているのです。

1.認識の壁

――「AIは便利な道具にすぎない」と思い込む


多くの人は、AIを単なる効率化ツールだと考えています。資料作成を助けるもの、検索を早くするもの、文章を整えてくれるもの。その理解自体は誤りではありません。

しかし実際には、AIはすでに判断の補助、意見形成の補助、文章生成、さらには問題設定そのものにまで入り込んでいます。私たちは気づかないうちに、思考の一部を外部へ委ね始めています。

問題は、その影響の深さを認識していないことです。
AI時代の最初の壁は、「自分の思考がどこまでAIに依存しているのか」に無自覚であることにあります。

2.判断の壁

――「AIが出した答えだから正しい」と受け入れる

かつての判断の壁は、「改革は不要だ」という現状維持の甘さでした。
しかし今の甘さは、「AIがそう言っているから正しいだろう」という無批判な受容です。

ソースを確認しない。
前提を検証しない。
反対仮説を考えない。

こうした姿勢が常態化すれば、批判的思考は確実に衰えます。AIは確率的にもっともらしい答えを提示しますが、それが真理である保証はありません。

判断の壁とは、思考の責任をAIに委ねてしまうことです。

3.納得の壁

――「考えなくて済むのは楽だ」と無意識に依存する

AIは確かに便利です。考える負荷を減らし、時間も節約してくれます。しかし、しかしそこには、静かな落とし穴があります。

苦労しない理解。
速すぎる結論。
思考プロセスの省略。

これらは知性の筋力を徐々に弱めます。筋肉と同じで、使わなければ衰えるのです。

ここで求められるのは、楽な道を選ばない精神の制御力です。思考を省略しない自制心。自分の頭で一度は考え抜くという姿勢。それがなければ、知的成熟は起こりません。

4.行動の壁

――「AIを活用した」と言って満足する

組織でも個人でも、「AIを導入した」「生成AIを使っている」「DXを推進している」と言いながら、本質的な思考の質が変わっていないケースは少なくありません。

技術を使うことと、成長することは別問題です。

AIを導入しても、意思決定の構造が変わらなければ意味はありません。生成AIを使っても、問いの質が低ければ成果は限定的です。

行動の壁とは、技術導入そのものを成果と錯覚することです。
本当の変革は、思考様式と判断基準の刷新にあります。

5.継続の壁

――「主体的思考を保ち続けられない」


最も難しいのは、この壁です。

AIは人間より速く書き、広く調べ、整然とまとめます。その能力は年々向上しています。自分で考えるより速く、自分で書くより正確な場面も増えています。

それでもなお、最終判断は人間が引き受けるという姿勢を維持できるか

これが2026年最大の壁です。
便利さに流されず、思考の主権を手放さない覚悟が問われています。

現代思想的アップデート

20世紀は「情報の量」が問題でした。情報が不足していた時代です。
しかし21世紀は「判断の主体」が問題になります。情報は過剰にあり、AIが整理してくれます。では、誰が最終的に判断するのか。

AIは人間を直接置き換える存在ではありません。むしろ、人間の内面を静かに空洞化させる可能性を持っています。

だからこそ、いま必要なのは単なるデジタルデトックスではありません。機器から離れることではなく、思考の主権を取り戻すことです。

新しい将来像(VISION)

AIと共存する社会において必要なのは、

・批判的思考
・倫理的責任
・克己(セルフコントロール)
・判断の引き受け

です。

要するに、「考える人間」であり続ける意志です。

AIが高度化すればするほど、人間の価値は思考そのものに集約されていきます。

2026年の成長とは、AIを使いこなすことではなく、
AI時代においても思考の主体であり続けることなのです。

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2026年2月18日水曜日

生成AIは子どもの社交性を伸ばせるか?――信頼を育てる新しい学び方

 

このスライドは、コミュニケーションのレベルに応じて信頼の度合いが変化することを示したものです。縦軸が「信頼度」、横軸が「協力関係」を表しています。コミュニケーションが防御的な段階では、相互作用は「1+1=0.5」にもなりかねません。つまり、互いに力を削ぎ合い、足を引っ張り合う状態です。そこから、相手に敬意を表す段階に進むと「1+1=1.5」になります。最低限の協力が生まれます。そして、相乗効果を生むレベルに到達すると「1+1=3」にもなるのです。信頼が高まり、心理的安全性が確保されると、人間は想像以上の力を発揮します。

しかし現実には、多くの組織や個人が「敬意」のラインを越えられず、防御的コミュニケーションに留まっているのではないでしょうか。コミュニケーションは単なる情報交換ではありません。関係性を設計する行為です。信頼を生み出すのも、壊すのも、日々の言葉の積み重ねなのです。

ところが、現代の日本社会を見渡すと、コミュニケーションの土台そのものが弱体化しているように感じます。本を読まないために語彙や概念が蓄積されない。読解力が低下する。 思想がないから文章を書かない。こうした状況では、深い対話が成立するはずがありません。

コミュニケーションの基本は「明瞭さ(CLARITY)」です。自分は何を考え、どう感じ、何を望んでいるのか。それを言語化する力がなければ、信頼は生まれません。ところが日本社会では、意思をはっきり伝えることが直截的で好まれない傾向があります。「曖昧さ」が美徳とされる文化です。そのため、外国語でのコミュニケーションはなおさら困難になります。低文脈文化の社会では、言葉にしないことは存在しないのと同じです。察してもらうことは前提ではありません。

書くことの難しさも同様です。アメリカのオンラインショッピングは、トラブルも多いですが、彼らは粘り強くクレームレターを書きます。しかも状況に応じて文面の強度を変える。実に戦略的です。私は英語でも中国語でも、十分に説得力のある文章を書くことができませんでした。これは単なる語学力の問題ではありません。日頃から自分の頭の中で考えていないと、どの言語でも良い文章は書けないのです。そして、文章が書けないということは、実は思考が鍛えられていないということでもあります。

アメリカでは幼少期からSHOW&TELLで鍛えられます。人前で話すこと、意見を述べること、アイ・コンタクトを取ることが日常です。彼らは自分の考えを表明することに躊躇がありません。これは性格の問題ではなく、訓練の成果です。一方、日本では沈黙が思慮深さと受け取られることがあります。しかし異文化の場では、沈黙は無関心や拒絶と誤解されかねません。

ここに、日本人の社交性の課題があります。社交性とは饒舌さではありません。自分を適切に開示し(これが重要!)、相手に関心を示し、関係性を築こうとする姿勢です。しかし私たちは「間違えてはいけない」「完璧でなければならない」という心理的ブレーキを強くかけてしまいます。その結果、発言を控え、存在感を消してしまうのです。

では、どうすればよいのでしょうか。

ここで登場するのが生成AIです。このスライドを作成した当時(1990年代)には想像もしなかった存在ですが、生成AIは日本人の社交性向上に大きく貢献できる可能性があります。

第一に、失敗が許される練習環境を提供してくれます。恥をかくことなく、何度でも会話を試せる。気難しい取引先役を設定し、ロールプレイをすることもできます。即座にフィードバックも得られます。

第二に、「型」を提供してくれます。雑談はセンスではなく技術です。どのように話を広げるか、どう自己開示するか、どのタイミングで共感を示すか。生成AIはそのパターンを示してくれます。

第三に、思考の整理を助けます。自分の意見を文章にまとめ、それを添削してもらう。結論と理由を明確にする訓練を重ねることで、明瞭さが身につきます。これは信頼の基盤です。

重要なのは、AIに委ねるのではなく、AIを用いて鍛えることです。AIは代替ではなく拡張です。人間の主体性を補助する「補助線」のような存在として使うならば、コミュニケーションの質は確実に向上します

信頼関係は鶏と卵の関係です(chicken and egg paradox)。良いコミュニケーションが信頼を生み、信頼がさらに良いコミュニケーションを生みます。生成AIは、その好循環の第一歩を踏み出すための安全な訓練場になり得ます。

1+1を3にするか、0.5にするかは、結局のところ私たちの姿勢次第です。明瞭に語り、誠実に聴き、勇気をもって自己開示する。その積み重ねの先に、真の協力関係が生まれるのだと思います。

その力を、私たちは子どもたちにどう手渡すのか。それが、生成AI時代の教育の核心なのだと思います。

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2026年2月17日火曜日

人生の危機管理――覚悟はどこにあるのか

 

このスライドも古いですね。最初に作ったのは1990年代の半ばでした。私の会計や財務の知識は、とても初歩的なもので、恐らく、商業高校や工業高校の一年生の夏までに習うレベルだと想像します。商業高校の簿記や工業高校の製造原価計算は、コンサルタントの基礎知識です。ついでに言っておくと、エクセルのスキルがあれば上等です。

このスライドは、人生を一本の時間軸(過去・現在・未来)に見立て、アカウンティングとファイナンスの概念で「リスクをとること」と「危機管理」を説明したものです。アカウンティングは過去の記録、すなわち自分のトラックレコードを確認する営みであり、ファイナンスは未来に向けた投資とリターンの設計です。その間にあるのが、バランスを取りながら意思決定を行う現在の自分です。どの程度の投資を行い、どのリターンを求めるのか。その判断には必ずリスクが伴います。だからこそ、危機管理とは単なる防御ではなく、過去を踏まえ、未来を見据えたうえで、自らの責任で決断する姿勢そのものだ、ということをこの図は示しています。

このスライドをあらためて眺めながら、先の衆院選の結果を思い出しました。

自民党が驚異的な大勝を収めたという結果を見ながら、私はある種の空虚さを覚えました。政治の世界で繰り返されるのは、与党も野党も上滑りのスローガンばかり、責任の所在の曖昧さばかりが目立って、滑稽ですらある。

アメリカ大統領ハリー・S・トルーマンという人物を私は評価していません。むしろ日本人にとっては複雑な存在でしょう。しかし、彼の机上にあった「The buck stops here」という言葉だけは、政治家の本質を突いています。トルーマンに最終責任は自分が引き受けるという覚悟がどれほどあったのかは分かりませんが、いま私たちに欠けているのは、この姿勢ではないでしょうか。

しかし、問題は政治家だけではありません。これからの時代に本当に必要なのは、「人生の危機管理」だと思います。組織のマニュアルや制度の話ではなく、自分の人生の意思決定を自分で引き受ける覚悟のことです。

不確実性が高まるなかで、コンサルティング会社への就職人気やハウツー本の売れ行きは、将来への不安の裏返しでしょう。知識やフレームワークを求める気持ちは理解できます。しかし、知識は意思決定の代わりにはなりません。リスクを引き受け、判断する主体は、あくまで自分です。

危機管理の本質は、将来の不確実性のなかで決断することです。そこでは、データや理論だけでなく、直観や想像力が重要になります。危機の多くは想定外の形で現れます。マニュアルは過去の想定の産物であり、想定外には限界があります。想像力の乏しい判断は、同じ間違いを繰り返します。

いま生成AIは、膨大なデータをもとに合理的な答えを提示します。しかし、もし意思決定そのものをAIに委ねてしまえばどうなるでしょうか。そこでは直観や倫理観、歴史感覚といった、人間が長い時間をかけて培ってきた内面的な力が後景に退いてしまう恐れがあります。相互に依存し合う判断の連鎖のなかで、誰も最終責任を取らない構図が生まれかねません

明治期に紹介されたスマイルズの自助論は、「天は自ら助くる者を助く」と説きました。国家の力は、個人の自立の総和です。外部の助けを活用することと、責任を放棄することは違います。最終的な決断を自らの名において行う、その覚悟があってこそ支援も意味を持ちます

私が強調したいのは単純です。どれほど高度な理論やAIの助言があっても、最後に決断し、その結果を引き受けるのは人間です。危機管理とは恐れを回避する技術ではなく、「自分が引き受ける」という覚悟の問題です。

「The buck stops here」という言葉を、誰かに求める前に、自分の胸に問う。その姿勢こそが、不確実な時代を生き抜くための、最も基本的な危機管理なのではないでしょうか。

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2026年2月16日月曜日

教育と主体性 ― 制度を変えても、空気は変わらない

 

日本不在のアジア最前線──教育とリテラシーが招く空洞化

2026年2月14日

立ちすくむ日本を動かす教育とは何か―AI時代に求められる「問い」と言語の力

日本不在のアジア最前線─教育と低リテラシーが招く空洞化 第4回

https://wedge.ismedia.jp/articles/-/40220


私は長年、新聞を読まないと言い続けてきました。ビジネス誌の類も、読まなくなって20年以上が経ちます。とはいえ、完全に情報を遮断しているわけではありません。オンラインで見出しだけは確認し、気になるものがあれば中身を読む。最近は有料記事が増え、YouTubeも広告だらけで、結局テレビと変わらなくなってきました。そんな中、たまたま目に留まり、しかも無料で読めた記事がありました。自分の備忘録の意味も込めて、ここに考えを整理しておきます。

この記事の主張はもっともだと思っています。日本の教育が「正解を早く出す能力」に偏り、「問いを立てる力」を十分に育ててこなかったという指摘には強く共感します。社会が複雑化し、不確実性が増している時代に、与えられた選択肢の中から無難な答えを選ぶだけでは足りない。自分で問いを立て、状況を読み解き、責任を引き受ける力が必要だという認識は、私の問題意識とも重なります。

日本の教育は自己形成の順番を誤っているのではないか。本来、十代半ばは自我を鍛え、自分の信条を模索する時期のはずです。しかし現実には、受験という枠組みの中で「外から与えられた正解」に適応する力ばかりが評価される。その結果、問いを持たないまま大人になる人が増えているのではないか。記事が言う「社会を動かす力としてのリテラシー」の不足は、私が長く感じてきた違和感と確かに重なっています。

ただし、もう一段深いところに不安を抱いています。記事は教育制度の再設計に希望を託しています。しかし制度だけで社会は変わらないのではないか。日本社会には、問題が起きると「制度が悪い」と言い、制度を変えれば解決すると期待する傾向がある。しかし主体性とは、本来制度の外側でも発揮されるものです。制度が整っても、空気が同調を求め、摩擦を避ける文化が残るなら、主体性は十分には育ちません。私は、教育制度以上に、その「空気」のほうが根深い問題ではないかと感じています。

さらに私は、生成AIの存在を重く見ています。生成AIは思考を助ける道具になり得ますが、同時に思考を外部化する装置にもなります。問いを立てる前にAIに聞き、判断に迷えばAIに委ねる。そうした使い方が広がれば、主体性はさらに弱まるでしょう。私は「AIに任せること」と「AIに委ねること」は違うと考えています。前者は能力の拡張ですが、後者は判断の放棄に近い。

記事に同意するのは、教育と主体性が日本社会の鍵だという点でが、距離を置くのは、制度改革に過度な期待を寄せる点です。私は、教育改革だけでは足りず、社会の空気そのもの、そしてAIとの向き合い方まで含めて考えなければならないと思っています。

制度を整えることに反対しているわけではありません。しかし最終的に社会を成熟させるのは、一人ひとりがどこまで自分の問いを持ち、自分の判断を引き受けるかです。教育はその土台になりますが、それだけでは完結しない。

AI時代だからこそ、私が重く受け止めているのは、「主体性をどう守るか」ではなく、「教育の中で主体性をどう醸成するか」という問いです。制度設計の巧拙以上に、子どもたちが自ら問いを立て、言葉を尽くし、判断を引き受ける経験をどれだけ積めるか。その積み重ねこそが、社会の空気を少しずつ変えていくのだと、私は思っています。

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2026年2月15日日曜日

考えているつもり、になっていないか ――生成AIと、新しい「閉ざされた言語空間」

 


江藤淳からAI時代へ

小林秀雄は、かつては教科書にも載っていましたから、名前だけは知っている学生さんもいるでしょう。しかし、江藤淳となるとどうでしょうか。おそらく、ほとんどの若い人は知らないのではないかと思います。私は、江藤淳の二冊――『閉ざされた言語空間』と『忘れたことと忘れさせられたこと』――は、ぜひ若い世代に読んでほしいと願っています。

二十年ほど前、私は鎌倉にある江藤淳の家を訪ねたことがあります。もちろん中に入ったわけではなく、外から眺めただけです。通りに面した場所に浴室があり、江藤はそこで自ら命を絶ちました。その事実を思うと、のちに多摩川で自死した西部邁のことも重なります。思想家が最後に沈黙を選ぶとはどういうことなのか。その問いは、いまも私の中で消えていません。

しかし正直に言えば、私の問題意識は江藤の著作から始まったのではありませんでした。

もっと前、高校生のころにさかのぼります。ボブ・ディランの『I Shall Be Released』に出てくる “I was framed” という一節を聴いたときのことです。当時の私は、政治も占領史も知りませんでした。江藤淳の名さえ知らなかったでしょう。それでも、どういうわけかその言葉を自分と重ねてしまい、説明もできないまま共感し、大阪ミナミの街を彷徨していたのです。

framed とは、無実の罪を着せられた、という意味にとどまりません。他人の構図の中に配置され、あらかじめ決められた物語の中に組み込まれている、という感覚です。高校生だった私は、理屈ではなく、直観としてその感覚を抱いたのだと思います。

直観が先にありました。
思想は、あとから追いついてきました。
しかも、何十年もかけて、少しずつ、少しずつ。

その思想の一つが、江藤淳でした。

『閉ざされた言語空間』で江藤が論じたのは、占領期における検閲の問題でした。しかし彼が本当に問題にしたのは、検閲という制度そのものよりも、「言語の枠組み」が外部から与えられたことでした。

人は、与えられた言葉の中でしか考えられません。発言が制限される以前に、思考の前提が規定される。戦後日本は、自分の言葉で敗戦を語る前に、占領側が用意した枠組みの中で語ることを余儀なくされた。民主主義、平和国家、戦争責任。どれも重要な概念です。しかし、何をどの順番で、どの前提から語るのかは、すでに決められていた。

江藤の言う「閉ざされた」とは、沈黙させられたというよりも、枠を与えられたということでした

「ごっこの世界」という感覚です。思考しているつもりで、実は与えられた舞台装置の上で演じているだけではないか。電車ごっこや戦争ごっこと同じように、「考えごっこ」をしているだけではないか。政治も政治ごっこですね。
外交なども、時にそのように見えます。

高校生のころに感じた framed の感覚は、ここでようやく言葉を得ました。私はすでに枠の中にいたのではないか。その疑問は、江藤の議論によって輪郭を持ち始めたのです。

もう一冊の『忘れたことと忘れさせられたこと』は、記憶を扱います。日本人が自ら忘れたものと、外から忘れさせられたもの。その区別を通じて、戦後精神の変質を描きました。こちらは、「思い出せない」という感覚につながります。心を虚しくして思い出すという営みそのものが衰えているのではないか、という問いです。

言語と記憶。

この二つが外部化されるとき、人間の内部には何が残るのでしょうか。

いま、生成AIが広がる時代に、私は再び同じ問いの前に立っています。AIは検閲をしません。むしろ自由に、整った答えを返します。しかし、その整い方そのものが一つの枠ではないでしょうか。平均的で妥当で、どこにも引っかからない言葉。それを読んで「なるほど」と思うとき、私たちは本当に考えたのでしょうか。それとも、整えられた言語空間に収まっただけなのでしょうか。

さらにAIは、私たちの代わりに記憶を保持します。検索すれば何でも出てくる。要約もしてくれる。その結果、「思い出す」という内的営みが衰える危険はないでしょうか。

小林秀雄は、無常が分からないのは常なるものを失ったからだと言いました。常なるものがあってこそ、移ろいの意味が分かる。

江藤淳は、その常なるものを支える言語空間が壊れたと見ました。

私はいま、その思考空間が、静かに外部へ委ねられていくのではないかと感じています。

しかし、ディランの歌は “I Shall Be Released” と続きます。枠にはめられているかもしれない。しかし、解き放たれる可能性がある。その希望です。江藤の議論もまた、単なる告発ではありませんでした。言語空間は取り戻せるという前提があった。

AIも同じです。敵ではありません。占領軍でもありません。使うことと、委ねることは違います。前者は拡張であり、後者は放棄です。

私の中では、直観が最初にありました。
自分はどこかで framed されているのではないかという感覚。

思想は、その直観に何十年もかけて追いついてきました。
そしていま、AI時代において、私は改めて問い直しています。

あなたは、自分の言葉で考えていますか。
それとも、整った枠の中で考えているつもりになっているだけでしょうか。

江藤淳を知らない若い世代にこそ、この問いは重いのではないかと思うのです。

***

2026年2月14日土曜日

AI時代の『無常という事』

 

高校生の頃、私は小林秀雄の『無常という事』を読みました。しかし正直に言えば、何を書いているのか、よく分かりませんでした。「この世は無常とは決して仏説というようなものではあるまい」という一文の重さも、「常なるものを見失ったからである」という断定の意味も、頭では追えても、身には入っていなかったのです。

同じことは、松尾芭蕉のいう「不易流行」にも言えます。当時の私には、「不易」と「流行」の両立など、単なる文学上の技巧にしか見えませんでした。しかし人生の終盤に差しかかった今、ようやく少しだけ、その意味が分かるような気がしています。

不易とは、変わらぬもの。流行とは、移ろいゆくもの。無常を見つめるとは、単に変化を嘆くことではなく、移ろいのただ中でなお変わらぬものを見出す営みなのだと思います。小林が言う「常なるもの」とは、単に教義ではなく、人間存在の芯のようなものではないでしょうか。

生成AIが日常の道具となった今、世界はますます流行の側へ傾いています。情報は瞬時に生成され、文章は一瞬で整い、記憶は外部に保存されます。私たちはかつてない速度で「答え」に到達できるようになりました。思考の生産性は確かに上がります。私自身も、それを否定する気はありません。

しかし、私はこの便利さが人間を強くしているとは、どうしても思えません。

私たちは、考えているのでしょうか。それとも、考えた「ような形」を受け取っているだけなのでしょうか。

敗戦後80年の日本は、どこか「ごっこ」の世界に見えます(江藤淳『閉ざされた言語空間』)。制度は整い、言葉は並びます。しかし、それが本気の思索や責任を伴っているのかと問われれば、私は首をかしげざるを得ません。

小林秀雄は、多くの歴史家が一種の動物にとどまるのは、頭を記憶でいっぱいにしているからだと言いました。心を虚しくして思い出すことができない、と。これは、単なる知識偏重への批判ではありません。情報が多いことと、深く思い出すことは違う、という指摘です。聞くよりも聴く。見るよりも観る。量ではなく、深さの問題なのです。

AIは、まさに記憶の外部装置です。私たちの代わりに蓄積し、整理し、提示してくれます。それ自体は悪いことではありません。しかし、自分の内部で熟成させる時間、自分の問いとして抱え込む苦しさを飛ばしてしまえば、私たちは「人間になりつつある一種の動物」に逆戻りしてしまうのかもしれません。


AIに任せることと、AIに委ねることは違います。前者は拡張です。後者は放棄です。

道具として用いる限り、それは流行の側の力として私たちを助けます。しかし、自分で問いを立てることをやめ、判断を預け、思索を外注するならば、私たちは不易の側を失います。

無常とは、移ろいそのものではありません。移ろいの中で、なお変わらぬものを探す営みです。敗戦も、経済の盛衰も、技術革新も、すべて流行の側に属します。そのなかで、なお人間とは何か、教育とは何か、責任とは何かを問い続ける姿勢こそが不易なのだと思います。

高校生の頃には理解できなかった小林秀雄や松尾芭蕉が、人生の終盤に差しかかってようやく少し分かる気がするのは、おそらく私自身がいくらか無常を経験してきたからでしょう。失敗や別れや衰えを通して、変わらぬものの輪郭がかすかに見えてきたのだと思います。

AI時代において無常を語るとは、技術を拒むことではありません。むしろ逆です。流行の最先端に身を置きながら、不易を失わないこと。その緊張の中で生きることです。

生成AIは、私たちの思考を速くします。しかし、深くするかどうかは、私たち次第です。心を虚しくし、問いを抱え、時間をかけて思い出す。その営みを手放さない限り、AIは敵ではありません。

「AI時代の無常という事」とは、流行の奔流の中で、なお不易を探す決意のことなのかもしれません。私はそう考えています。

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2026年2月13日金曜日

AIに思考を委ねるな ――『猿の惑星』が問う、知性の条件

 
思考の現場

AI時代に、あえて“読む”という行為を。


「ピエール・ブールの『猿の惑星』(1963年)を読んでみたらいいよ。AIの話に似ているから」。

先日、ナッシュビルに住む息子とAIに関してチャットをしていたときのことです。人間が考えなくなったらどうなるか、思考を自動化してしまったら何が起きるか、その寓話だというのです。

私は1968年公開のチャールトン・ヘストン主演の映画『猿の惑星』は観ていました。しかし原作小説は読んでいませんでした。私の中で『猿の惑星』といえば、核戦争後の荒廃した地球というイメージが強く残っていたからです。

ところが、小説版は映画とは決定的に異なる構図を持っています。

映画では核戦争が文明崩壊の原因として描かれますが、小説では人類は「暴力で滅んだ」のではありません。猿に武力で征服されたのでもありません。人類は、便利さに依存し、思考を外部化し、知的努力をやめていった結果、自ら退化していくのです。支配の逆転は侵略によって起きたのではなく、主体の放棄によって起きた。この点が、小説の核心です。

ピエール・ブールの筆致はきわめて理知的で、風刺に満ちています。そこでは文明批評が中心に据えられ、知性とは何かが問われます。知性とは能力の高さなのか、それとも使い続ける姿勢なのか。猿たちは科学を研究し、議論を重ね、体系を築きます。一方で人間は、快適な生活に安住し、自ら考えることをやめていきます。文明を築いたはずの存在が、思考を手放した瞬間に、支配の座を失う。これは単なるSFの設定ではなく、文明そのものへの知的警告です。

この構図は、AI時代と不気味なほど重なります。生成AIは、文章を書き、要約し、翻訳し、分析し、構造化します。かつて人間が時間をかけて行ってきた知的労働を、瞬時に提示します。書かなくても文章が出る。考えなくても要約が出る。調べなくても答えが出る。構造化しなくても整理される。これほど便利な道具はありません。

しかし、ここで問われるのは技術の進歩そのものではありません。私たちは、考える主体であり続けられるのか、という問いです。AIに「任せる」ことと、「委ねる」ことは違います。任せるとは、自分で問いを立て、自分で考えたうえで補助として使うことです。方向を決めるのはあくまで自分であり、AIは拡張装置です。一方で、委ねるとは、問いを立てることも、判断することも、言語化することもAIに預け、自分は確認者に退いてしまうことです。そのとき、思考は徐々に外部化され、やがて衰えていきます。

『猿の惑星』における退化は、生物学的変異というより、知的怠惰の積み重ねです。能力を使わなければ衰える。それは筋肉と同じです。AIが賢くなること自体が問題なのではありません。問題は、人間が自分で考えなくなることです。もし私たちが、構想をAIに任せ、判断をAIに預け、思索の摩擦を避け続ければ、能力は静かに痩せていきます。

ここで、教育の問題が浮かび上がります。

AIを禁止するか、便利ツールとして消費するかという表層の議論ではなく、主体をどう育てるかという前提を共有できているのか。知性とはテストで測れる能力なのか、それとも問い続ける姿勢なのか。小説は、その根源的な問いを私たちに突きつけます。

AIは人類を猿にする存在ではありません。しかし、AIを使いながら思考を深める人間と、AIに思考を委ねる人間との差は、やがて文明の差になります。文明は爆発によって終わるのではありません。瓦礫の山の中で終焉を迎えるのではありません。思考をやめたときに、静かに終わるのです。

息子がナッシュビルから勧めてきた一冊は、単なるSFではなく、AI時代を生きる私たちへの警告でした。知性とは能力ではありません。それは、自分で考えることをやめないという態度です。その態度を手放したとき、文明は音もなく、その幕を下ろすのかもしれません。

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2026年2月12日木曜日

子どもを“情報の受信機”にしないために ― 小林秀雄『スポーツ』とAI時代の教育

 
生成AIは、可能性を広げる。

だが――「好き嫌い」に責任を持つのは、誰か。
教育は、子どもを“情報の受信機”にしていないか。

衆議院選挙が終わり、与党の歴史的な大勝という結果が出ました。そして間を置かずに冬季オリンピックが始まりました。政治とスポーツという二つの大きな出来事が重なったとき、私は小林秀雄の1959年のエッセイ『スポーツ』を思い出しました。

小林はそこで、「リアリストとは、好きなものは文句なく好き、嫌いなものは文句なく嫌いだという信条のうえに知恵を築いている人だ」と書いています。これは一見単純な言葉ですが、実はきわめて重い意味を持っています。私たちはいつの間にか、「好き嫌い」を軽いもの、未熟なものとして扱い、「データ」や「世論」や「専門家の解説」によって判断することを賢さだと思い込んできたのではないでしょうか。

小林が問題にしたのは、まさにその点です。スポーツ観戦においても、観客は自分の目で見て「すごい」と震える前に、解説者の理屈で理解しようとします。新聞の評価や統計の裏付けがあって初めて安心する。そこでは、自分の身体が発する直観は後景に退きます。小林は、私たちがこの「好き嫌い」という心の動きの価値をひどく下落させてしまったと言いました。

今回の選挙結果を見て、私は日本がさらに「情報の受信機」になったのではないかと感じました。信条よりも議席、理念よりも安定。空気を読み、無難な選択をする。その姿は、主体的な判断というよりも、与えられた情報の中で最適解を探す態度に近いように見えます。

そして今、その延長線上に生成AIの時代があります。もし私たちが自分の「好き嫌い」を持たず、責任を負うことを避け、効率的で正しそうな答えを機械に委ねていくとしたらどうなるでしょうか。生成AIは膨大なデータから「次に来る確率の高い言葉」を選びます。そこにあるのは統計的な整合性であって、お腹の底から突き上げてくる「これが好きだ」という身体的な確信ではありません。

AIにとって、人間の「熱量」は計算不可能な偏差に過ぎません。理屈を無視して「これがいい」と言い切る瞬間は、統計的予測を裏切るノイズです。しかし実は、その予測不可能性こそが、人間にしか持ち得ない価値です。AIは巨大な鏡のようなものであり、人間が過去に残した熱の痕跡を映し出すことはできますが、自ら燃えることはできません。

もし人間が主観を捨て、「AIがこう言っているから正しい」と同調するだけになれば、新しい文化も思想も更新されなくなります。高度な模倣の堂々巡りが続くだけです。計算不可能な主観的熱量を持つことは、AIに対する人間側の最後の砦であり、責任の引き受けでもあります。

小林秀雄の言う「好き嫌い」は、単なる感情論ではありません。それは「自分の命に対する誠実さ」です。自分の心がどう動いたかを、誰のせいにもせず引き受けることです。客観的な正解に寄りかかれば、間違っても責任は分散されます。しかし、「私はこれが嫌いだ」と言い切るとき、その人は孤立するかもしれない代わりに、自らの判断に責任を負います。そこに主体が生まれます。

高齢者が経験豊富であることと、主体的であることは同じではありません。政治家もまた同じです。世論の風を読むだけでは、主体とは言えません。今の日本社会が、自分の好き嫌いを語らずに安定や多数派に寄り添うだけならば、私たちはやがて運命の判断すら機械に預けてしまうかもしれません。

スポーツの祭典を見ながら、理屈を超えて胸が熱くなる瞬間こそが、人間が生きている証だと改めて思います。その感覚を信じられる社会でなければ、政治も文化も痩せ細ります。

これからが日本の正念場でしょう。情報を受け取るだけの国でいるのか、それとも一人ひとりが「好き嫌い」という主観に責任を持つ国になるのか。小林秀雄の『スポーツ』は、半世紀以上前の文章でありながら、生成AI時代の私たちにこそ、鋭く問いかけているのです。

「私はこれが嫌いだ。理由は私だからだ」。

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2026年2月11日水曜日

問いを失った政治、考えなくなった社会  ――衆議院選挙とAI時代の人間

 
今回の衆議院選挙を見ていて、私はある一枚のスライドを思い出していました。

それは、1990年代前半に私が初めて作成し、その後、数多くのプロジェクトのキックオフミーティングで使ってきた、コンフリクトマネジメントに関する図です。もともとは、ビジネススクールの教科書にあった考え方を拝借したものですが、私自身にとっては、組織や社会を考えるうえでの「基本中の基本」を示す一枚でした。

このスライドを、大手日本企業の部長クラスの方々に説明すると、しばしば鼻で笑われました。「そんな当たり前のことを、なぜ今さら説明するのか」「貴重な時間の無駄だ」という空気を、何度も感じたものです。実際に、そうした言葉を直接投げかけられたこともあります。しかし皮肉なことに、日本の組織は、まさにその「当たり前」ができていない。そのことを、私は現場で繰り返し目にしてきました。

今回の選挙戦も、同じ構図だったように思います。

国民が抱いている素朴な疑問――エネルギーや食糧問題をどうするのか、外交や国防と生活をどう両立させるのか、移民政策をどう設計し、社会としてどう統合するのか――本来なら、そうした問いこそが選挙の中心に据えられるべきでした。ところが実際には、具体的な統合設計を示さないまま、「やる気」や「強さ」を競い合う場になっていたように見えます。強さを演出することと、全体を設計することは、まったく別の能力です。

添付のスライドは、横軸に「対立のレベル(コンフリクトの強さ)」、縦軸に「成果(アウトプット)」を取っています。対立が低すぎれば、組織はぬるま湯になり、成果は上がりません。一方で、対立が過剰になれば、分断や疲弊を生み、やはり成果は落ちます。重要なのは、その中間にある「マネージすべき領域」であり、適度な緊張と対立を意図的につくり出し、議論を通じて全体最適を探ることです。

コンフリクトマネジメントとは、争いを避けることではありません。異なる意見を表に出し、感情と問題を切り離し、共通のゴールを確認しながら、建設的な議論へと導くことです。その過程で、創造性が生まれ、問題が早期に発見され、相互理解が深まります。コンフリクトは「悪」ではなく、「変化が必要だ」というサインなのです。

今回の選挙の圧勝は、リーダー個人の勝利というよりも、有権者と政治がともに「問いを放棄した」結果ではなかったでしょうか。野党も、国民も、十分な問いを投げかけられなかった。その代償は、時間差で必ず現れます。問題は、そのとき誰が責任を引き受けるのか、という点です。

そしておそらく、こうした選挙を重ねるたびに、日本政治から静かに距離を取る人は、これからも増えていくのでしょう。そのこと自体が、すでに社会に現れている、ひとつの「コンフリクトのサイン」なのだと思います(社会全体の虚無化)。

では、どうすればよいのか。答えは短期的な対症療法ではなく、中長期的な教育のグランドデザインを描くことしかありません。日本には、何もないわけではない。小中学校から高校、大学に至るまで、本来は思考力を育てるための素材も蓄積も、すでに存在しています。問題は、それらが「問い」を中心に再編されていないことです。

良い問いの立て方を学び、仮説を立て、検証するという方法論を、段階的に身につけていく。その過程でAIを取り入れるのであって、AIに考えさせたり、書かせたりするのではありません。人間が書いた文章をAIに評価させ、問い返させる。その補助線として使うことこそが、健全な関係でしょう。

まずは現行の国語教育が本来何を目指してきたのか、その本質を確認すること。その上で、思考力を少しずつ積み上げていくしかない。問いを立て、考え、引き受ける力を育てること。それができなければ、日本は政治においても、教育においても、静かに思考を手放していくことになるのだと思います。

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2026年2月10日火曜日

人はいつ成長するのか ――家を買い、部下を切った経験から

 
奈良西ノ京(正面は三笠山)

人は、いつ「教育された」と実感するのでしょうか。

教室で知識を得たときでしょうか。それとも試験に合格したときでしょうか。私自身の経験では、人はもっと現実的な場面で、一気に成長するように思います。利害打算ではなく、現実的であるということであり、自分の信条に忠実であるということだからです。

仕事経験は人をタフにする

「持ち家派か、賃貸派か」という議論は、時代を超えて繰り返されてきました。住居は単なる生活の器なのか、それとも人生観を左右する選択なのか。私はこの問いに対して、少し違った角度から考えています。なぜなら、私は日本とアメリカの両方で、マンションや一軒家を数回ずつ購入し、そして売却してきたからです。

不動産の売買は、想像以上に人を鍛えます。特に海外での不動産取引は、制度も文化も言語も異なる中で、すべてを自己責任で判断しなければなりません。大抵の場合、強引で癖のある不動産業者(トランプのような人物)や、理不尽とも思える主張を押し通そうとする売り手側の弁護士が前面に出てきます。価格交渉、契約条件、税務、為替――その一つ一つについて、自分で判断し、決断を下さなければなりません。住居を持つという行為は、安定というよりも、むしろ精神的な緊張と決断の連続でした。

もっとも、家を買うことは、部下を切ることとは決定的に違う側面も持っています。それは、そこに「楽しみ」があるという点です。自分が住みたい場所を考え、街の空気を感じ、間取りや日当たり、周囲の環境など、さまざまな要素を天秤にかけながら、自分たちの予算の中で最善の選択を探していく。その過程は決して苦しいだけのものではありません。しかも、その判断は自分一人で完結するものではなく、家族との共同作業になります。意見が食い違うこともありますが、それも含めて、家族として一つの人生を歩む。家探しは、人生の一部分として記憶に刻まれていきます

ここで、少しだけニューヨーク郊外で一軒家を購入したときの経験を振り返ってみたいと思います。

借家のアパート暮らしは安全で便利でしたが、一軒家がもたらした「空間」と「自由」の前では、その利点は色あせました。広い庭で子どもと遊び、記念樹を植え、季節の変化を生活の中で感じるようになったことで、私たちは「旅行者的な駐在員」から「生活者」へと変わりました。金銭的な損得は簡単に割り切れませんでしたが、損得だけで決断していたら、家は一生買えなかったでしょう。すべてを自分たちで決めるという重圧の中で、初めて覚悟を伴った選択をした、その経験自体が私を大きく鍛えたのだと思います。我が家の信条は、好きなものは好き、嫌いなものは嫌いです

それでもなお、不動産購入が人をタフにする経験であることに変わりはありません。大きな金額を動かし、後戻りのできない決断を自分の名前で引き受ける。その経験は、後になって振り返ると、確実に判断力と精神的な耐性を鍛えていました。

この「仕事や人生の中で、人を一皮むけさせる経験」について、非常に体系的に整理しているのが、モーガン・マッコール『ハイ・フライヤー』(2002年)の第三章です。同章では、優秀なリーダーが成長過程で必ずと言っていいほど経験している「成長を促す仕事経験」が分類されています。そこには、初めての仕事、初めてのマネジメント、ゼロからの立ち上げ、事業の立て直し、視野の変化、そして修羅場とも言える失敗や喪失が含まれています。

私自身のキャリアで、最も精神的な負荷が大きかった経験の一つは、アメリカのコンサルティング会社でのマネジメントでした。そこでは「アップ・オア・アウト」と呼ばれる評価制度があり、一定期間ごとに成果を出し昇進できなければ、組織を去ることになります。3〜6か月に一度、部下の評価を行い、下位パフォーマーと判断された20〜25%は、問題行動を起こしていなくても「カウンセルアウト」されます。端的に言えば、クビを切らなければなりません。

部下を解雇するという行為は、何度経験しても慣れるものではありません。家を買うときのような前向きな高揚感は、そこには一切ありません。毎回悩み、考え込み、自分の判断が正しいのかを自問します。しかし、その苦しさから逃げずに向き合うことで、組織で働く者として、そしてマネジメントとして、一皮むけた段階に進むのも事実です。

組織の成果を守るために、個人の人生に影響を与える決断を下す。その責任の重さが、決断力と精神的な強さを鍛えていきます。『ハイ・フライヤー』で言う「修羅場」の経験とは、まさにこのような場面を指しているのでしょう。

翻って、日本企業の役員の多くはどうでしょうか。自らの判断で部下を解雇した経験を持たないまま、役員になるケースが少なくないのではないかと感じます。制度や慣行として「誰かが決めたこと」を追認することはあっても、個人として重い決断を引き受ける機会が極めて少ない。その結果、決断を避け、責任を曖昧にしたマネジメントが温存されているようにも見えます。

家を買うこと、部下を切ること。性質は異なりますが、どちらも「自分の名前で決断し、その結果を引き受ける」という点では共通しています。『ハイ・フライヤー』が示すように、人を本当に成長させるのは、こうした避けがたい決断の積み重ねです。

成長とは、知識を増やすことではなく、覚悟を引き受ける回数を重ねることなのかもしれません。その意味で、仕事経験とは、人の精神を鍛える最高の道場なのだと、私は実感しています。
  
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