2025年12月10日水曜日

個人主義の不在:漱石の警告と日本社会のいま ~ 考える自由より、従う安心を選ぶ国民へ

 

私の個人主義と、いまの日本という舞台について

高校生の頃に夏目漱石の「私の個人主義」を読んだとき、私は大きな衝撃を受けました。漱石が大正三年、学習院の学生に向けて語ったあの講演は、百年以上前のものとはとても思えないほど現代的で、そして鋭いものでした。「修養を積まない個人に、自由を扱う資格はない」「自由の背後には義務がある」という漱石の言葉は、私自身の人格形成に強く刻まれました。

半世紀以上経った今でも、私の考えはほとんど変わっていません。変わらないどころか、最近の日本社会のあり様を見ていると、むしろ漱石の言葉の重さは増す一方です。政治家も、メディアも、そして私たち国民も、「自由」と「責任」の関係性をどこかで取り違えているのではないかと感じるからです。

「自由」と「自分勝手」が混同されている国

そもそも日本では、「自由」と聞くと、どこか悪いことのように思われている節があります。子どもの頃から「勝手なことをしてはいけません」と言われ続け、そのまま大人になった私たちは、「自由=わがまま」という誤った等式を知らぬうちに心の中につくりあげてしまったのではないでしょうか。

自由とは、本来、互いの自由を尊重し合うためのルールを引き受け、責任を背負う覚悟をもつことです。しかし、日本では「責任」という言葉が出てきた瞬間、多くの人がスッと後ずさりする。責任を取る覚悟がないから、自由に近づくことすら避けてしまう。ある意味、非常に合理的です。面倒ごとを避けたい人にとって、「自由を放棄する」という選択は、責任も一緒に手放せる便利な方法なのです。

その結果、「個人の自由」よりも「空気を読む」という、世界でもかなり特殊な社会的ルールだけが異様に発達しました。自由よりも空気の方が強い社会。漱石が見たら、苦笑いしながら筆を走らせそうです。

政治家たちの「自由」はなぜか経費で育つ

こうした「自由と責任の不均衡」は、日本の政治の世界ではより露骨に現れています。政治資金収支報告書に並ぶ、社会通念上どう考えても首を傾げる支出の数々。遊興費、高額な備品購入、そして“何に使ったのかよくわからない”謎の項目。まるで、自由とは「公金を自由に使う権利」だと勘違いしたまま成長してしまった大人たちが、国会という舞台で演じているかのようです。

しかも驚くべきことに、これらは政治家個人の倫理観の問題であるにもかかわらず、「政治資金パーティーの仕組みが悪い」「法律が十分ではない」といった、責任転嫁のための舞台装置まで完備されています。責任を取るべき立場の人ほど、責任の所在を曖昧にする術だけは抜群に長けている。その姿は、漱石が説いた「修養ある個人」とは対極です。

 世襲議員が幅を利かせ、社会経験が乏しいまま政治家になれる仕組みも、この国の「個人主義の欠落」を象徴しているように思います。漱石が「権力を扱う価値のある人とは、修養を積んだ人だ」と語ったことを、ぜひ議員宿舎の枕元に貼っておきたいくらいです。

メディアは「国益」よりも「クリック数」を追う

政治家と並んで、もうひとつの大きな問題はメディアです。ジャーナリズム精神はどこへ行ったのか、まるで国全体を視聴率で運営しているのではないかと思う瞬間が増えています。

事実よりも数字、検証よりもスキャンダル、国益よりも炎上。結果として、政治家はますますパフォーマンスに走り、有権者は刺激ばかりを求めてしまう。社会全体が「考える力」を奪われ、責任をもたないまま「自由に批判するだけの存在」になってしまいました。

これでは、漱石が説いた「変化に対応できる個人主義」など育つはずがありません。変化に対応するどころか、変化を伝える側が率先して扇情的な情報で社会をかき回しているのですから。

責任を放棄した社会の行き着く先

こうして政治家、メディア、国民の三者がそれぞれの場で「責任」を回避し、「自由」を誤って運用していけば、社会はどうなるでしょうか。

 政治家は修養より集金力を磨き、
 メディアは探求心より煽り文句を磨き、
 国民は判断力より空気読みを磨く。

日本社会には、「自由なはずなのに責任を誰も取らない」という、奇妙な無責任のアンサンブルが完成します。現在の日本は、残念ながらそのハーモニーがあまりに“美しく”響いてしまっているように思えてなりません。

いま必要なのは、漱石と諭吉のあいだにあるもの

漱石は「自由には義務が伴う」と言いました。福沢諭吉は「人望とは実学を含む修養によって生まれる」と説きました。二人が共通して語ったのは、「個人の成長が社会の成長の前提である」という思想です。
  • 自由を主張するなら、その自由が他者と共存するための責任を引き受けること。
  • 社会を批判するなら、その社会を構成する一員として自分の役割を考えること。
  • 人望を求めるなら、人と交わり、苦労し、考え続けること。
これらは、百年前の日本にも、今の日本にも等しく必要な姿勢です。

政治家の不祥事やメディアの扇動に目を奪われがちな現代ですが、本当の問題はもっと深いところにあります。それは、「私たち一人ひとりが自由と責任の関係を理解しているか」という問いです。

 自由を望むなら、責任から逃げないこと。
 責任を果たすなら、自由を他者と分かち合うこと。


その積み重ねこそが、健全な民主主義を支える土台になるのだと、私は今でも信じています。

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