「空気を読む」文化が危機対応を壊す
~ 臨機応変を許さない日本社会
――準備・覚悟・責任という欠けたピース
「臨機応変に対応せよ」。
企業の現場でも、政治の世界でも、危機が起きるたびに繰り返される言葉です。しかし実際には、日本社会は臨機応変が得意とは言い難い。むしろ、非常時になるほど判断が遅れ、混乱が拡大する場面を私たちは何度も目撃してきました。
問題は個々人の能力や度胸の欠如なのでしょうか。今回は、臨機応変という言葉の本質を掘り下げながら、日本人がそれを苦手とする構造的理由、そして身につけるための条件を整理します。
1.臨機応変とは「思いつき」ではなく、準備と覚悟である
まず確認しておきたいのは、臨機応変とは決して「その場の思いつき」や「精神論」ではない、という点です。
本来の臨機応変が成立するためには、少なくとも次の三つが必要です。
- 第一に、選択肢(オプション)を事前に把握していること。
- 第二に、最低限守るべきライン、すなわちフォールバックやコンティンジェンシーを決めていること。
- 第三に、現場で決断する権限と、その結果を引き受ける覚悟があること。
日本ではしばしば、臨機応変が「空気を読むこと」「その場を丸く収めること」と誤解されがちです。しかし本質はその逆です。臨機応変とは、空気に従う力ではなく、責任を引き受けて判断する力なのです。
2.日本人が臨機応変を苦手とする根本原因
① フォールバック・プランを持たない文化
日本社会の大きな特徴の一つは、「100%でなければ意味がない」という思考です。その結果、「50%でも続ける」「被害を最小化するために引き返す」という発想が嫌われがちです。
これは歴史を振り返っても同じです。昭和の十五年戦争においても、あるいは国際的なテロ事件や金融危機の際の企業対応においても、「最悪を想定しない」「引き返す最低線を決めていない」という共通点が見られます。
フォールバックを考えることは、敗北を認めることではありません。本来は、生き残るための知性です。しかし日本では、それが「弱気」「責任回避」と見なされ、忌避されてきました。その結果、状況が悪化しても止まれない構造が温存されてきたのです。
日本社会の大きな特徴の一つは、「100%でなければ意味がない」という思考です。その結果、「50%でも続ける」「被害を最小化するために引き返す」という発想が嫌われがちです。
これは歴史を振り返っても同じです。昭和の十五年戦争においても、あるいは国際的なテロ事件や金融危機の際の企業対応においても、「最悪を想定しない」「引き返す最低線を決めていない」という共通点が見られます。
フォールバックを考えることは、敗北を認めることではありません。本来は、生き残るための知性です。しかし日本では、それが「弱気」「責任回避」と見なされ、忌避されてきました。その結果、状況が悪化しても止まれない構造が温存されてきたのです。
② 「サーバント適合型」リーダーの量産
もう一つの要因は、人材の育成と評価の問題です。日本の教育や組織は、長らく「言われたことを忠実に実行する人」を高く評価してきました。
その結果、
臨機応変ができないのは、個人の資質の問題ではありません。判断しない人ほど安全に生き残れる構造そのものが、臨機応変を不可能にしているのです。
もう一つの要因は、人材の育成と評価の問題です。日本の教育や組織は、長らく「言われたことを忠実に実行する人」を高く評価してきました。
その結果、
- 自分で判断しない
- 決断しない
- 責任を引き受けない
臨機応変ができないのは、個人の資質の問題ではありません。判断しない人ほど安全に生き残れる構造そのものが、臨機応変を不可能にしているのです。
③ 「村の掟」と精神主義
非常時になると、日本ではしばしば精神論が前面に出てきます。「気合」「一体感」「頑張ろう」という言葉が飛び交い、具体的な判断は先送りされます。
背景にあるのは、「村の掟」とも言うべき同調圧力です。協調性を乱さないこと、空気を壊さないこと、村八分に遭わないことが、合理的判断よりも優先されてしまう。
その結果、非常時ですら人間関係の維持が最優先され、判断は遅れ、全体がパニックに陥る。この構図は、現代の企業や政治の現場にも色濃く残っています。
非常時になると、日本ではしばしば精神論が前面に出てきます。「気合」「一体感」「頑張ろう」という言葉が飛び交い、具体的な判断は先送りされます。
背景にあるのは、「村の掟」とも言うべき同調圧力です。協調性を乱さないこと、空気を壊さないこと、村八分に遭わないことが、合理的判断よりも優先されてしまう。
その結果、非常時ですら人間関係の維持が最優先され、判断は遅れ、全体がパニックに陥る。この構図は、現代の企業や政治の現場にも色濃く残っています。
3.臨機応変の前提条件①:基礎と引き出しの多さ
臨機応変は、誰にでもできる魔法ではありません。「守破離」や職人、演奏家の世界が示している通り、徹底した基礎の上にしか成立しないものです。
型を知らない人は、応用できません。
引き出しが少ない人は、状況に対応できません。
にもかかわらず、日本では「守」だけで止まり、「破」「離」に進めない育成が常態化しています。型に従うことと、型を超えることは矛盾しません。むしろ、型を極めた者だけが、自由になれるのです。
4.臨機応変の前提条件②:現場でのイニシアチブと決断
臨機応変に必要なのは、全員の合意ではありません。必要なのは、現場で主導権を持ち、決断する人間です。コンセンサスを待ち、上司の顔色をうかがい、本社や東京の指示を待つ――その間に、状況は刻々と悪化します。
臨機応変とは民主的であることではなく、責任を引き受ける覚悟です。結果が失敗だったとしても、その判断をした人が組織として守られる。この前提がなければ、誰も動きません。
5.なぜ昭和の戦争でも、今でも同じなのか
以上、述べてきたように、日本が臨機応変を苦手としてきた理由は一貫しています。
- 不都合な事態を想定しない
- 引き返す線を決めない
- 判断する人を育てない
- 判断する人を守らない
重要なのは、「臨機応変ができなかった」のではなく、臨機応変を許さない構造が存在していたという点です。この構造は、昭和の戦争から現代の政治・企業経営に至るまで、本質的には変わっていません。
臨機応変とは、空気を読む力ではありません。
最悪を想定し、最低線を決め、現場で責任を引き受ける力です。
その力を育て直さない限り、日本はこれからも同じ場所で立ち尽くすことになるでしょう。
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