2025年12月28日日曜日

若者は従順になったのではない ― 時代がそうさせた ―

 早朝の豆腐屋@三鷹通り

まだ街が目を覚ます前に、黙々と今日の仕事が始まっている。
変化は派手ではないが、確かに時代は、こういう場所から動いていく。

The American family isn't collapsing, it's adapting to reality | Opinion

This is the shift that unsettles older generations: a vision of the American dream untethered from property or possessions, rooted instead in lived experience and personal autonomy.

Andrew Sciallo
Opinion contributor
Dec. 23, 2025Updated Dec. 24, 2025, 8:09 a.m. ET

https://www.usatoday.com/story/opinion/voices/2025/12/23/no-contact-family-estrangement-holidays-economy/87884305007/

変わりゆく時代の中で、若者は何を引き受けているのか

――10年前の大晦日の日記と、アメリカの若者たち――

10年前の大晦日、私は日記にこう書きました。
「自分はまだ運転席で運転手をやっている」。

世間が年末の慌ただしさに包まれるなかでも、自分の人生のハンドルは自分で握っている。その実感だけは失っていない、という意味でした。いま振り返ると、なかなかに傲慢な爺様です。

あの日記をいま読み返すと、不思議な既視感があります。
当時私は、日本人の課題として「社会性」「コミュニケーション」「独善性(こだわり)」の三つを挙げていました。大人になっても他者との関係に不器用で、母国語でさえ意思疎通が十分にできず、自分の安心できるルールに固執してしまう――そうした傾向は、社会に出れば自然に矯正されるどころか、日本の閉鎖的な組織の中で、むしろ増幅されていくのではないか、という危惧でした。

そして日記の最後に、私はこう書いています。
「主体的に、能動的に行動する。自分の人生だから」。

あれから10年。
世界はコロナのパンデミックを経て、経済環境はさらに厳しさを増しました。日本社会はますます余裕を失い、個人にかかる負荷は静かに、しかし確実に重くなっています。そんな中で目にしたのが、USA TODAY に掲載されていた、アメリカの若者と家族をめぐるオピニオン記事でした。

この記事は、「アメリカの家族は崩壊しているのではない。現実に適応しているのだ」と語ります。若者たちは、結婚や持ち家、子どもを持つことを軽んじているのではありません。そもそも、それを選べる経済条件が失われているのだ、という指摘です。

住宅、医療、教育、老後まで含めた生涯コストは、500万ドルを超えるとも言われています。日本円にすれば、いまのレートで7億円以上。生活を成り立たせるだけで精一杯、という感覚は決して大げさではありません。

仕事は不安定で、生活は「働く、寝る、また働く」の繰り返し。
ニューヨークでは、仕事仲間と過ごす時間が人間関係の中心になり、「あなたは誰か」より先に「何をしているのか」が問われます。仕事がアイデンティティを規定しながら、その仕事に満足している人は少ない――そんな矛盾した現実が描かれていました。

その結果、アメリカの若者のあいだでは、「物を持つこと」よりも、「経験すること」「自分の時間と心を守ること」に価値を置く動きが広がっています。家族との距離をあえて取る選択、いわゆる no contact も、わがままではなく自己防衛として語られるようになりました。アメリカの家族観は、音を立てて形を変えつつあります。

この話は、決してアメリカだけのものではありません。
日本の若者もまた、同じ経済的圧力の中にいます。ただし、日本ではそれがあまり言葉になりません。

日本の若者は「従順」「大人しい」と言われがちです。しかしそれは、性格の問題というより、合理的な判断の結果ではないでしょうか。賃金は伸びず、失敗のリスクは大きく、異議を唱えても状況が変わらない社会において、「目立たず、波風を立てず、生き延びる」ことは、むしろ賢明な戦略です。

アメリカでは、旧来のアメリカンドリームが若者を見放した、という言葉が使われます。日本では、その同じ現実が「仕方がない」「そういうものだ」という空気の中で、静かに受け入れられていきます。表現の違いはあっても、起きていることはよく似ています。

10年前の日記で私が危惧した「主体性の欠如」は、個人の性格や世代の問題というより、時代の構造が生み出したものなのかもしれません。若者が従順に見えるのは、従わなければならない圧力が強すぎるからです。

それでも、あの日記の最後に書いた言葉は、いまも色褪せません。少なくとも私は、いまもそれを信じています。

「自分の人生だから、自分で考える」。

アメリカの若者たちは、混乱の中でそれを言葉にし始めています。日本の若者たちは、まだ多くを語らず、静かに適応しています。

人は、自分の知っている言葉の範囲内でしか考えられません。言葉の豊かさがなければ、他者とつながることもできません。

時代が厳しくなるほど、「誰かに運転を任せる人生」は成り立たなくなります。山椒魚のように、自分の岩屋に閉じこもり、思考を生成AIにゆだねる――それは、時代の状況に逆行した動きです。

若者には、従順になってほしくありません。同時に、無理に声を荒げる必要もありません。

自分はどこに立ち、何を引き受けるのか。自由と責任を考える、と言い換えてもいいでしょう。その問いを手放さないこと――それこそが、この時代における本当の自立なのだと思います。

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