2025年12月6日土曜日

日本の教育を問い直す──「ロボットの大量生産」を越えて


はじめに

私は日本の教育について、「不足か過剰か」という議論ではなく、「質そのものに根本的な問題がある」と感じてきました。これは教育の専門家としてではなく、長く日本の外で暮らし、改めて日本という国家の姿を外側から眺めてきた者としての違和感に基づくものです。2009年にアメリカから帰国した直後に抱いた思いは、いま読み返しても変わっていません。日本は、個性ある子どもたちを社会に開かれた人間へと育てるのではなく、受験という狭い門を通すために均質化し、結果として「ロボットの大量生産」のような教育を続けているように見えるのです。

教育の「権利と義務」は誰のものか

義務教育は、本来「子どもに教育を受けさせる義務が国民・保護者にあり、国家にはその教育を施す権利がある」という構造になっています。では国家は、正しくその権利を行使しているのでしょうか。国家の役割は、自国民を自国民として育てること、つまり国家観・歴史観を共有しうる人間を育てることにあるはずです。しかし、日本の義務教育はこの最も根本的な部分を放棄しているように感じます。

歴史教育はその象徴でしょう。多くの学者が優れた見解を述べているにもかかわらず、その成果は教科書に十分反映されていません。歴史が歴史として教えられていない、意図的な空白がある――そう感じられる部分さえあります。自分の国の歴史を曖昧にし、誇りを持てない教育を続ければ、子どもたちが自尊心や帰属意識を育むのは難しくなります。海外に出れば、パスポートを手にし、国名で呼ばれ、自国の歴史に関する問いを向けられる。それなのに、日本人は自国の歴史に対してあまりにも無防備です。

私のアメリカ人の友人Rは、海軍の士官学校で学んだ歴史を語ります。日本海海戦、ミッドウェイ、山本五十六の戦略。彼との酒席では真珠湾攻撃をめぐる議論が何度も出ますが、そうした応酬ができるのは、お互いの国の歴史を前提として理解しているからです。歴史とは「正確さ」を競うものではなく、タイムマシンがない以上、各国が国策として示す“物語”でもあります。日本がその物語を持たず、子どもに伝えないことは、国家としての怠慢だと思います。 

日本に欠けているのは「概念」を育てる教育

あるビジネス雑誌には「人は概念によって世界を知覚する」と書かれていました。私もまったく同感です。概念は思考の土台であり、言葉よりも前に存在します。概念が貧困であると、議論の前提となるレベルセッティングができず、他者とのコミュニケーションが難しくなります。

日本の教育は、知識の量については豊富かもしれません。しかし、その知識を概念として整理し、世界観や価値観を構築する訓練には欠けています。外国語力以前に、日本語での抽象思考の力が弱い。だから変化に直面したときに、対応力が鈍くなるのです。

「日本人は変化への適応力が弱い」と言われるのも、過剰に環境へ迎合する一方で、自分の信念や観を形づくっていないからでしょう。明治維新以降、日本は西欧近代に、敗戦後はアメリカ的価値観に過剰適応してきました。夏目漱石がロンドンで苦しんだときから、日本人は劣等感と優越感の間で揺れ動き続けています。三百万人以上が亡くなった戦争の原因すら、国家として総括をせず、そのまま記憶喪失のように現代に至っている。この土台の弱さこそ、教育の質の問題です。

子どもたちが確固たる信念を持つには、日々概念を集め、自分の「観」を作っていかねばなりません。世界観、社会観、死生観……それらは読書や日記、思索を通じてしか育たないものです。本来、教育とはその基盤を整える営みであるはずです。 

個性を押しつぶす社会と、居場所のない才能

村八分(1969-1973)というバンドの存在は、教育の欠陥を象徴する例として語ることができます。彼らは時代の文脈を越えた表現をしていたにもかかわらず、日本社会の中に居場所を見つけることができなかった。ギフティッドの子どもが学校に適応できず、「問題児」とされてしまう構図とよく似ています。

欧米にも閉鎖的な共同体は存在しますが、同時にそれを跳ね返す「個人の自立」も育てています。日本は個人主義が弱いのに、共同体の規範は強い。そのため、周囲と異なる者は排除されやすく、しかも本人が跳ね返す力を持たされていないのです。これは教育の失敗と言うほかありません。

村八分の時代から半世紀が経ちましたが、地方の村八分は今も姿を変えて存続し、地方都市は過疎化し、依存心が強まる一方で住民自治は弱体化している。倫理的主体としての市民を育てない教育の帰結でしょう。 

必要なのは「ロボットではない人間」を育てる教育

日本の教育は、入試という細い門に向かって子どもたちを押し流し、均質化し、個性を削り取っていきます。保護者は疑問を抱きながらも、企業が学歴ブランドで採用する現実があるため、子どもをレールに乗せざるを得ません。学校で足りない部分は塾で補い、習い事で広げる。その構造自体が、教育の本質を見失っています。

教育とは本来、強みを育て、弱みを否定しない営みです。ところが現在の日本では、強みは矯正され、弱みは排除され、結果として「平均的な優等生」は生産されても、多様で自立した市民は育ちません。このままでは、日本は世界の多様性とダイナミズムに取り残されてしまいます。

同性愛やLGBTに関する国会議論が小学校の学級会レベルに見えるのも、抽象度の低い議論しかできない教育の帰結でしょう。個人の尊厳や自己決定という概念の土台が共有されていないから、社会的議論が深まらないのです。 

おわりに

私はこれは単なる高齢者の思い上がりではないと信じています。しかし、そう感じてしまうこと自体が、この国の教育が「自分の意見を堂々と言う力」を奪ってきた証左でもあるのかもしれません。

今こそ、ロボットを量産する教育から、個性と概念を育てる教育へ転換すべきです。国家としての物語を教え、世界と渡り合える市民を育て、倫理的主体としての個人を大切にする。そのための教育の質を問い直すことが、日本の再生に不可欠だと私は考えています。

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