ユーモアの精神
Humor From Leaders Shouldn’t Cut
https://www.forbes.com/sites/forbesbooksauthors/2025/12/09/humor-from-leaders-shouldnt-cut/
By Leon E. Moores.MD,DSc,FACS,
Dec 09, 2025, 11:38am EST
先日読んだフォーブスの記事は、リーダーとユーモアの関係について非常に示唆に富む内容でした。要点は明快です。ユーモアはリーダーにとって不可欠な道具だが、使い方を誤ると一瞬で場の「心理的安全性」を壊してしまう。特に、立場や権威の差がある場面では、同じ冗談でも致命的な結果を生むことがある――その点を鋭く指摘していました。
記事では、友人同士の軽口と、医学生に向けられた指導医の冗談が対比されます。言葉自体は同じでも、前者は笑いで終わり、後者は相手を沈黙させ、チーム全体の空気を凍らせる。その違いを生むのが、リーダーの「心理的な大きさ」なのだと、筆者は述べています。
そして、結論として示されるのが、「リーダーに許されるのは自己卑下のユーモアだけ」という考え方です。笑いの“代償”があるなら、それを払うのは常にリーダー自身であるべきだ、と。
この議論は、いかにもアメリカ的です。多様な意見が前提にあり、発言すること自体が価値とされる社会だからこそ、「心理的安全性」が強く意識されるのです。しかし、ここで立ち止まって考えたいのは、日本におけるユーモアとリーダーシップは、そもそも同じ文脈で語れるのか、という点です。
私は以前から、リーダーの条件として「決断力(determination)」「イニシアチブ(initiative)」「ユーモアのセンス(sense of humor)」の三つを挙げてきました。しかし、日本社会では、この三つがそろって評価されることはほとんどありません。とりわけ、ユーモアは「不真面目」「軽い」と見なされ、排除されがちです。
その背景には、日本社会全体に蔓延する「余裕のなさ」があります。学校では要領の良さを求められ、会社では効率と成果に追い立てられる。無駄や寄り道は悪とされ、余裕は削ぎ落とされていく。しかし、本来その「無駄」や「余裕」こそが、コミュニケーションの緩衝剤となり、人と人との摩擦を和らげてきました。
私はかつて、アメリカのゴルフ練習場で中古ボールが experienced ball と呼ばれているのを見て、思わず笑ってしまいました。「使い古し」ではなく、「経験を積んだボール」。この言葉遊びひとつに、ユーモアと余裕、そして経験への敬意が込められています。こうした感覚が、日常に自然に存在するかどうかが、社会の成熟度を分けるのだと思います。
その意味で、大谷翔平選手の振る舞いは、日本社会にとって示唆的です。野次を飛ばし続けた観客に対し、ホームランを打った後にハイタッチをする。挑発でも、無視でもなく、ユーモアとリスペクトで受け止める。その行動には、勝者の余裕と、人間としての大きさがありました。
私は以前、「日本は優秀な人ほど余裕がない」と書きました。教育や社会が、余裕や無駄を悪だと刷り込んできた結果です。しかし、余裕がなければ、相手をセンス(感知)することも、状況に応じてレスポンス(反応)することも、難しくなります。知識や語学力があっても、ユーモアがなければ、コミュニケーションは決して深まりません。
さらに言えば、ユーモアは教育の問題でもあります。福沢諭吉が『学問のすすめ』で強調した「スピイチ」、すなわちアウトプットの力。アメリカの幼稚園で行われるショウ・アンド・テルのように、小さな頃から人前で話し、笑いを共有する経験が、ユーモアの感覚を育てていきます。ユーモアのセンスは、大人になって突然身につくものではありません。
江戸時代の日本には、落語に象徴されるユーモア文化がありました。身分や立場の違い、内外の緊張や葛藤の中で、人々は笑いを通じてバランスを取っていた。しかし、均一化された現代の日本社会では、葛藤(conflict)に慣れておらず、そこから学ぶ力も弱まっています。
フォーブスの記事が指摘する「ユーモアはチームの安全性を守るためのものだ」という考え方は、日本にそのまま当てはまるわけではありません。しかし、「リーダーが他者を萎縮させてはいけない」「笑いは人を開くものであるべきだ」という本質は、むしろ日本社会にこそ必要ではないでしょうか。
年の瀬にあたり、今年を静かに振り返りながら思います。健康で、無事で、そして時折、心から笑える。それは決して小さなことではありません。大谷翔平が示してくれたユーモアの精神は、スポーツの枠を超えて、私たちの社会やリーダーシップの在り方を問い直すヒントを与えてくれているように思います。
来年は、日本社会にも、もう少し「余裕」と「笑い」が戻ってくることを願いながら、今年を締めくくりたいと思います。
By Leon E. Moores.MD,DSc,FACS,
Dec 09, 2025, 11:38am EST
年の瀬に考える「ユーモアの精神」
――フォーブスの記事と大谷翔平が教えてくれること――今年もクリスマスが過ぎ、年の瀬が近づいてきました。我が家では特に大きな変化もなく、例年どおりの静かな年末です。振り返ってみれば、大病をすることもなく、日々を無事に過ごせました。それだけで、十分にありがたい一年だったと思います。
そんな一年の中で、私が「良かった」と素直に感じた出来事のひとつが、大谷翔平選手、そしてポストシーズンでの山本由伸投手の活躍でした。彼らの結果や記録もさることながら、私の心に残ったのは、その振る舞いの中に垣間見える「ユーモアの精神」です。
そんな一年の中で、私が「良かった」と素直に感じた出来事のひとつが、大谷翔平選手、そしてポストシーズンでの山本由伸投手の活躍でした。彼らの結果や記録もさることながら、私の心に残ったのは、その振る舞いの中に垣間見える「ユーモアの精神」です。
先日読んだフォーブスの記事は、リーダーとユーモアの関係について非常に示唆に富む内容でした。要点は明快です。ユーモアはリーダーにとって不可欠な道具だが、使い方を誤ると一瞬で場の「心理的安全性」を壊してしまう。特に、立場や権威の差がある場面では、同じ冗談でも致命的な結果を生むことがある――その点を鋭く指摘していました。
記事では、友人同士の軽口と、医学生に向けられた指導医の冗談が対比されます。言葉自体は同じでも、前者は笑いで終わり、後者は相手を沈黙させ、チーム全体の空気を凍らせる。その違いを生むのが、リーダーの「心理的な大きさ」なのだと、筆者は述べています。
そして、結論として示されるのが、「リーダーに許されるのは自己卑下のユーモアだけ」という考え方です。笑いの“代償”があるなら、それを払うのは常にリーダー自身であるべきだ、と。
この議論は、いかにもアメリカ的です。多様な意見が前提にあり、発言すること自体が価値とされる社会だからこそ、「心理的安全性」が強く意識されるのです。しかし、ここで立ち止まって考えたいのは、日本におけるユーモアとリーダーシップは、そもそも同じ文脈で語れるのか、という点です。
私は以前から、リーダーの条件として「決断力(determination)」「イニシアチブ(initiative)」「ユーモアのセンス(sense of humor)」の三つを挙げてきました。しかし、日本社会では、この三つがそろって評価されることはほとんどありません。とりわけ、ユーモアは「不真面目」「軽い」と見なされ、排除されがちです。
その背景には、日本社会全体に蔓延する「余裕のなさ」があります。学校では要領の良さを求められ、会社では効率と成果に追い立てられる。無駄や寄り道は悪とされ、余裕は削ぎ落とされていく。しかし、本来その「無駄」や「余裕」こそが、コミュニケーションの緩衝剤となり、人と人との摩擦を和らげてきました。
私はかつて、アメリカのゴルフ練習場で中古ボールが experienced ball と呼ばれているのを見て、思わず笑ってしまいました。「使い古し」ではなく、「経験を積んだボール」。この言葉遊びひとつに、ユーモアと余裕、そして経験への敬意が込められています。こうした感覚が、日常に自然に存在するかどうかが、社会の成熟度を分けるのだと思います。
その意味で、大谷翔平選手の振る舞いは、日本社会にとって示唆的です。野次を飛ばし続けた観客に対し、ホームランを打った後にハイタッチをする。挑発でも、無視でもなく、ユーモアとリスペクトで受け止める。その行動には、勝者の余裕と、人間としての大きさがありました。
私は以前、「日本は優秀な人ほど余裕がない」と書きました。教育や社会が、余裕や無駄を悪だと刷り込んできた結果です。しかし、余裕がなければ、相手をセンス(感知)することも、状況に応じてレスポンス(反応)することも、難しくなります。知識や語学力があっても、ユーモアがなければ、コミュニケーションは決して深まりません。
さらに言えば、ユーモアは教育の問題でもあります。福沢諭吉が『学問のすすめ』で強調した「スピイチ」、すなわちアウトプットの力。アメリカの幼稚園で行われるショウ・アンド・テルのように、小さな頃から人前で話し、笑いを共有する経験が、ユーモアの感覚を育てていきます。ユーモアのセンスは、大人になって突然身につくものではありません。
江戸時代の日本には、落語に象徴されるユーモア文化がありました。身分や立場の違い、内外の緊張や葛藤の中で、人々は笑いを通じてバランスを取っていた。しかし、均一化された現代の日本社会では、葛藤(conflict)に慣れておらず、そこから学ぶ力も弱まっています。
フォーブスの記事が指摘する「ユーモアはチームの安全性を守るためのものだ」という考え方は、日本にそのまま当てはまるわけではありません。しかし、「リーダーが他者を萎縮させてはいけない」「笑いは人を開くものであるべきだ」という本質は、むしろ日本社会にこそ必要ではないでしょうか。
年の瀬にあたり、今年を静かに振り返りながら思います。健康で、無事で、そして時折、心から笑える。それは決して小さなことではありません。大谷翔平が示してくれたユーモアの精神は、スポーツの枠を超えて、私たちの社会やリーダーシップの在り方を問い直すヒントを与えてくれているように思います。
来年は、日本社会にも、もう少し「余裕」と「笑い」が戻ってくることを願いながら、今年を締めくくりたいと思います。
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