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2026年2月17日火曜日

人生の危機管理――覚悟はどこにあるのか

 

このスライドも古いですね。最初に作ったのは1990年代の半ばでした。私の会計や財務の知識は、とても初歩的なもので、恐らく、商業高校や工業高校の一年生の夏までに習うレベルだと想像します。商業高校の簿記や工業高校の製造原価計算は、コンサルタントの基礎知識です。ついでに言っておくと、エクセルのスキルがあれば上等です。

このスライドは、人生を一本の時間軸(過去・現在・未来)に見立て、アカウンティングとファイナンスの概念で「リスクをとること」と「危機管理」を説明したものです。アカウンティングは過去の記録、すなわち自分のトラックレコードを確認する営みであり、ファイナンスは未来に向けた投資とリターンの設計です。その間にあるのが、バランスを取りながら意思決定を行う現在の自分です。どの程度の投資を行い、どのリターンを求めるのか。その判断には必ずリスクが伴います。だからこそ、危機管理とは単なる防御ではなく、過去を踏まえ、未来を見据えたうえで、自らの責任で決断する姿勢そのものだ、ということをこの図は示しています。

このスライドをあらためて眺めながら、先の衆院選の結果を思い出しました。

自民党が驚異的な大勝を収めたという結果を見ながら、私はある種の空虚さを覚えました。政治の世界で繰り返されるのは、与党も野党も上滑りのスローガンばかり、責任の所在の曖昧さばかりが目立って、滑稽ですらある。

アメリカ大統領ハリー・S・トルーマンという人物を私は評価していません。むしろ日本人にとっては複雑な存在でしょう。しかし、彼の机上にあった「The buck stops here」という言葉だけは、政治家の本質を突いています。トルーマンに最終責任は自分が引き受けるという覚悟がどれほどあったのかは分かりませんが、いま私たちに欠けているのは、この姿勢ではないでしょうか。

しかし、問題は政治家だけではありません。これからの時代に本当に必要なのは、「人生の危機管理」だと思います。組織のマニュアルや制度の話ではなく、自分の人生の意思決定を自分で引き受ける覚悟のことです。

不確実性が高まるなかで、コンサルティング会社への就職人気やハウツー本の売れ行きは、将来への不安の裏返しでしょう。知識やフレームワークを求める気持ちは理解できます。しかし、知識は意思決定の代わりにはなりません。リスクを引き受け、判断する主体は、あくまで自分です。

危機管理の本質は、将来の不確実性のなかで決断することです。そこでは、データや理論だけでなく、直観や想像力が重要になります。危機の多くは想定外の形で現れます。マニュアルは過去の想定の産物であり、想定外には限界があります。想像力の乏しい判断は、同じ間違いを繰り返します。

いま生成AIは、膨大なデータをもとに合理的な答えを提示します。しかし、もし意思決定そのものをAIに委ねてしまえばどうなるでしょうか。そこでは直観や倫理観、歴史感覚といった、人間が長い時間をかけて培ってきた内面的な力が後景に退いてしまう恐れがあります。相互に依存し合う判断の連鎖のなかで、誰も最終責任を取らない構図が生まれかねません

明治期に紹介されたスマイルズの自助論は、「天は自ら助くる者を助く」と説きました。国家の力は、個人の自立の総和です。外部の助けを活用することと、責任を放棄することは違います。最終的な決断を自らの名において行う、その覚悟があってこそ支援も意味を持ちます

私が強調したいのは単純です。どれほど高度な理論やAIの助言があっても、最後に決断し、その結果を引き受けるのは人間です。危機管理とは恐れを回避する技術ではなく、「自分が引き受ける」という覚悟の問題です。

「The buck stops here」という言葉を、誰かに求める前に、自分の胸に問う。その姿勢こそが、不確実な時代を生き抜くための、最も基本的な危機管理なのではないでしょうか。

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2026年2月10日火曜日

人はいつ成長するのか ――家を買い、部下を切った経験から

 
奈良西ノ京(正面は三笠山)

人は、いつ「教育された」と実感するのでしょうか。

教室で知識を得たときでしょうか。それとも試験に合格したときでしょうか。私自身の経験では、人はもっと現実的な場面で、一気に成長するように思います。利害打算ではなく、現実的であるということであり、自分の信条に忠実であるということだからです。

仕事経験は人をタフにする

「持ち家派か、賃貸派か」という議論は、時代を超えて繰り返されてきました。住居は単なる生活の器なのか、それとも人生観を左右する選択なのか。私はこの問いに対して、少し違った角度から考えています。なぜなら、私は日本とアメリカの両方で、マンションや一軒家を数回ずつ購入し、そして売却してきたからです。

不動産の売買は、想像以上に人を鍛えます。特に海外での不動産取引は、制度も文化も言語も異なる中で、すべてを自己責任で判断しなければなりません。大抵の場合、強引で癖のある不動産業者(トランプのような人物)や、理不尽とも思える主張を押し通そうとする売り手側の弁護士が前面に出てきます。価格交渉、契約条件、税務、為替――その一つ一つについて、自分で判断し、決断を下さなければなりません。住居を持つという行為は、安定というよりも、むしろ精神的な緊張と決断の連続でした。

もっとも、家を買うことは、部下を切ることとは決定的に違う側面も持っています。それは、そこに「楽しみ」があるという点です。自分が住みたい場所を考え、街の空気を感じ、間取りや日当たり、周囲の環境など、さまざまな要素を天秤にかけながら、自分たちの予算の中で最善の選択を探していく。その過程は決して苦しいだけのものではありません。しかも、その判断は自分一人で完結するものではなく、家族との共同作業になります。意見が食い違うこともありますが、それも含めて、家族として一つの人生を歩む。家探しは、人生の一部分として記憶に刻まれていきます

ここで、少しだけニューヨーク郊外で一軒家を購入したときの経験を振り返ってみたいと思います。

借家のアパート暮らしは安全で便利でしたが、一軒家がもたらした「空間」と「自由」の前では、その利点は色あせました。広い庭で子どもと遊び、記念樹を植え、季節の変化を生活の中で感じるようになったことで、私たちは「旅行者的な駐在員」から「生活者」へと変わりました。金銭的な損得は簡単に割り切れませんでしたが、損得だけで決断していたら、家は一生買えなかったでしょう。すべてを自分たちで決めるという重圧の中で、初めて覚悟を伴った選択をした、その経験自体が私を大きく鍛えたのだと思います。我が家の信条は、好きなものは好き、嫌いなものは嫌いです

それでもなお、不動産購入が人をタフにする経験であることに変わりはありません。大きな金額を動かし、後戻りのできない決断を自分の名前で引き受ける。その経験は、後になって振り返ると、確実に判断力と精神的な耐性を鍛えていました。

この「仕事や人生の中で、人を一皮むけさせる経験」について、非常に体系的に整理しているのが、モーガン・マッコール『ハイ・フライヤー』(2002年)の第三章です。同章では、優秀なリーダーが成長過程で必ずと言っていいほど経験している「成長を促す仕事経験」が分類されています。そこには、初めての仕事、初めてのマネジメント、ゼロからの立ち上げ、事業の立て直し、視野の変化、そして修羅場とも言える失敗や喪失が含まれています。

私自身のキャリアで、最も精神的な負荷が大きかった経験の一つは、アメリカのコンサルティング会社でのマネジメントでした。そこでは「アップ・オア・アウト」と呼ばれる評価制度があり、一定期間ごとに成果を出し昇進できなければ、組織を去ることになります。3〜6か月に一度、部下の評価を行い、下位パフォーマーと判断された20〜25%は、問題行動を起こしていなくても「カウンセルアウト」されます。端的に言えば、クビを切らなければなりません。

部下を解雇するという行為は、何度経験しても慣れるものではありません。家を買うときのような前向きな高揚感は、そこには一切ありません。毎回悩み、考え込み、自分の判断が正しいのかを自問します。しかし、その苦しさから逃げずに向き合うことで、組織で働く者として、そしてマネジメントとして、一皮むけた段階に進むのも事実です。

組織の成果を守るために、個人の人生に影響を与える決断を下す。その責任の重さが、決断力と精神的な強さを鍛えていきます。『ハイ・フライヤー』で言う「修羅場」の経験とは、まさにこのような場面を指しているのでしょう。

翻って、日本企業の役員の多くはどうでしょうか。自らの判断で部下を解雇した経験を持たないまま、役員になるケースが少なくないのではないかと感じます。制度や慣行として「誰かが決めたこと」を追認することはあっても、個人として重い決断を引き受ける機会が極めて少ない。その結果、決断を避け、責任を曖昧にしたマネジメントが温存されているようにも見えます。

家を買うこと、部下を切ること。性質は異なりますが、どちらも「自分の名前で決断し、その結果を引き受ける」という点では共通しています。『ハイ・フライヤー』が示すように、人を本当に成長させるのは、こうした避けがたい決断の積み重ねです。

成長とは、知識を増やすことではなく、覚悟を引き受ける回数を重ねることなのかもしれません。その意味で、仕事経験とは、人の精神を鍛える最高の道場なのだと、私は実感しています。
  
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2026年2月7日土曜日

「引き出し」は才能じゃない。習慣だ。 ――日々の概念の蓄積が、人生の即興力を決める

引き出しとは何か――知識ではなく「概念の総量」

引き出しとは、習慣的に蓄積された「概念の総量」です。

この図が伝えようとしているのは、日頃から概念を蓄積している人は、必要な場面で自然とネタを引き出し、臨機応変に使うことができるという、ごく本質的な事実です。ここで言う「引き出し」とは、整理整頓された知識の箱ではありません。知識、経験、違和感、失敗、読書、他者との会話──そうしたものが、長い時間をかけて自分の中に沈殿した思考の材料です。意識して集めたものもあれば、無意識のうちに刷り込まれたものもある。その総量こそが、その人の引き出しなのです。 

概念とは何か――具体から本質を抜き出す力

重要なのは、その場で集めた情報は、引き出しにはならないという点です。流行の言葉やハウツー、誰かの受け売りを覚えても、それは概念として自分の中に定着しません。概念とは、個別の出来事を一回きりの現象として消費するのではなく、そこに通底する共通項を抜き出し、文脈を超えて使える形にまで抽象化されたものです。因数分解で共通項をカッコの外に出すように、本質的な要素だけを取り出していく作業とも言えます。

概念を使って考えるとは、具体例を並べることではありません。多様に見える問題の共通点を見つけたり、逆に、同じように見える現象の本質的な違いを区別したりすることです。その結果として、問題をより大きな構図の中に位置づけることができ、目の前の事象に振り回されず、自分なりの判断軸を持つことが可能になります。コンサルタントに求められる抽象的思考力とは、まさにこの力です。

基礎体力としての抽象思考――教育・仕事・対話の空白

ただし、これはコンサルタントだけの話ではありません。むしろ、すべての人にとって必要な思考の基礎体力だと言えるでしょう。本来であれば、中学・高校の段階でこの訓練が行われるべきなのです。絵日記が作文になり、やがて小論文や論文へと移行していく。その過程で、具体から抽象へと視点を引き上げる訓練が必要なのですが、日本の現行の教育システムには、この回路がほとんど存在しません。その結果、社会人になっても小学生の作文の延長線上の議論が横行することになります。日本のコンサルティング会社ですら、大同小異です。

コミュニケーションがうまくいかない理由も、ここにあります。賛成できなくても相手を理解しようとするには、自分の引き出しが必要です。スマホでのチャットのように、反射的に反応するだけでは、考える「間」は生まれません。間がなければ、蓄積されたネタが立ち上がる余地もありません。対話とは、言葉の応酬ではなく、引き出しの中身が静かに動き出す時間を含んだ営みなのです。

日頃から概念を蓄積していなければ、考えるための材料がない。これは厳しい現実です。優れたギタリストが、演奏中に考え込まずとも自然にフレーズを引き出せるのは、日々の練習と長年の蓄積があるからです。

日本人ギタリストのCharさんも同様で、即興(Improvisation)とは才能ではなく、蓄積が反応として現れた結果にほかなりません。その背景には、幼少期のピアノ訓練で身につけた音楽理論という基礎があり、その上に「概念」が積み重なっています。基礎があるからこそ、自由に発想が膨らむ。この構造は、思考やビジネスの世界でもまったく同じです。

AI時代の引き出し――考える責任は誰のものか

右側に描かれた「頑固ジジイ」は、否定される存在ではありません。彼は、「MBAだとか、上滑りのハウツーを追いかける前に、もっと地道に概念を蓄積しろ」と言っているのです。
環境問題、教育、個と公共、文化と文明、異文化コミュニケーション、デジタル化といった言葉は、それ自体が完成された概念なのではありません。むしろ、それぞれが概念を収集し、蓄積するための“引き出し”のラベルだと考えるべきものです。各引き出しの中に、具体的な概念が十分に詰まっていなければ、将来世代への責任や国際的な合意といったテーマについても、表層的な賛否をなぞることしかできません。問題なのは意見の違いではなく、引き出しそのものが空っぽであることなのです。

考える力は、その場で身につくものではない。日々の習慣として概念を蓄積してきた人だけが、必要な場面で気の利いた意見を言える。引き出しとは、整理された棚ではなく、時間をかけて積み上がった思考の堆積層なのです。

そしてAI時代だからこそ、あえて強調しておきたい。考えることまでAIにアウトソースしてはいけません。AIは引き出しを代わりに作ってはくれませんし、概念を自分の血肉にしてくれるわけでもありません。考える責任だけは、人間が引き受け続けなければならないのだと思います。

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2026年2月2日月曜日

コンサルティングはジャズのジャムセッションだ ――契約と組織の違いから見える仕事の本質

 

コンサルティングはジャズのジャムセッションだ


契約と組織の違いから見える仕事の本質  

私はこれまで、日本の株式会社、米国のコーポレーション、シリコンバレーのスタートアップ(30年前)、そして米国型のパートナーシップによるコンサルティング会社と、いくつか異なる組織で働く機会を得てきました。その後、仲間に支えられて起業し、気がつけば二十年という時間が経っています。

こうして並べて書くと、いかにも経験豊富であるかのように聞こえるかもしれませんが、決してそういう話ではありません。自分自身の能力については、今でもたいしたものではなかったと思っています。ただ一つ言えるのは、いろいろな場所に身を置き、それぞれの組織のエコノミーにもまれ、その場の「当たり前」に戸惑い、時に失敗しながら過ごしてきた、という事実だけです。

日本の会社には日本の理屈があり、アメリカにはアメリカの、そして中国には中国人の動き方があります。本や理論で知ることもできますが、実際にその中に放り込まれると、頭で理解していたはずのことが、まったく別のものとして立ち現れてきます。その違いは、説明できる以前に、まず身体で感じるものだというのが、正直な実感です。

ですから、これから述べることも、何かを上から教えようという意図はありません。ましてや、経験を振りかざして優劣を論じるつもりもありません。ただ、自分が通り過ぎてきた現場で感じた違和感や納得感を、そのまま言葉にしているだけです。知らないことについて断言するつもりはありませんが、少なくとも自分が体験した範囲のことについては、「そうだった」と言い切るくらいの図々しさは、年齢相応に許していただいてもよいのではないかと思っています。

上の図で述べているコンサルティングビジネスの話も、その延長線上にあります。理想論でも、教科書的な定義でもなく、ある時代、ある環境の中で、実際に苦労して試行錯誤したコンサルタントの姿を、できるだけ分かりやすくお伝えしたいと思います。

コンサルティングビジネスを理解するうえで、まず押さえておかなければならないのは、日本と欧米では、ビジネスの前提となる制度や発想が大きく異なるという点です。日本には日本なりの合理性があり、欧米には欧米の歴史と制度に根ざした合理性があります。両者が百パーセント同じである必要はありません。しかし、その違いを理解しないまま表面的に真似をすると、誤解や齟齬が生じます。コンサルティングビジネスは、その典型例の一つです。

第一の違いは、会社の形態です。欧米の大手コンサルティング会社の多くは、株式会社ではなく、法律事務所と同じようなパートナーシップ型の組織です( 2人以上の出資者であるパートナーが共同で出資・経営し、利益や損失を直接分配する組織形態です。法人格を持たず、事業の利益が直接メンバーの所得となります)。これは、日本的な企業組織の感覚からすると、やや異質に映ります。親分がいて、その下に子分がいるという、いわば「親分衆の集まり」のような構造です。パートナー一人ひとりが独立した強いテリトリー意識や専門性と責任を持ち、組織はそれらの集合体として成り立っています。一方、日本にはこの意味でのパートナーシップ企業は存在せず、欧米コンサル会社の日本法人も、日本の法制度のもとでパートナーシップを「シミュレーション」しているにすぎません。

第二の違いは、契約の考え方です。日本では「請負」という発想が強く、成果物の完成を目的として対価を得るという関係が一般的です。しかし、欧米のコンサルティングビジネスでは、原則として請負契約は結びません。クライアントとの間に相互の信頼関係を築いたうえで、委任契約、いわゆる Times and Materials (日本の法律では準委任契約)で仕事を進めます。これは弁護士との契約と同じ発想です。成果を「保証する」のではなく、専門性と誠実さをもって最善を尽くし業務の遂行が契約の本質になります。

こうした環境の中で働くコンサルタントとは、どのような存在なのか。

それを直感的に説明しているのが、上のスライドです。このスライドでは、コンサルティングビジネスを「一流のジャズミュージシャンによるジャムセッション」にたとえています。

ジャズのジャムセッションでは、まず前提として、全員が自分の楽器を高度に演奏できる熟練者です。同じように、コンサルタント一人ひとりも、それぞれの専門分野において高いスキルを持っています。誰かに細かく指示されなければ動けない存在ではありません

次に、演奏している姿だけを見ると、各プレイヤーは自由気ままに、自分勝手に演奏しているようにも見えます。しかし実際には、全員が音楽に対する高いレベルでの共通理解を持っています。だからこそ、即興でありながら、全体として調和が取れるのです。コンサルティングでも同様に、各人が独立して考え行動しながら、ビジネスの基本を理解し、問題意識や価値観を共有しています

さらに重要なのは、聴衆、つまりクライアントを楽しませたい、価値を提供したいという情熱です。コンサルティングは単なる分析作業ではなく、クライアントの前で知的なパフォーマンスを行う仕事でもあります。そして、音楽を演奏すること自体を楽しんでいる点も共通しています。楽しめない演奏が人の心を打たないのと同じで、仕事を楽しめないコンサルタントが良い仕事をすることはありません

最後に、ジャムセッションでは、曲の流れに応じて誰もがリーダーになり得ます。ソロを取る人が自然にバンドを引っ張る場面もあります。コンサルティングでも同様に、固定的な上下関係ではなく、状況に応じて誰もがリーダーシップを発揮します

以上、このスライドは、欧米型コンサルティングビジネスの本質を、制度や契約の話を超えて、人の在り方として分かりやすく伝えようとしたものです。

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2026年2月1日日曜日

自信という土台 ―― 人はどうすれば自信を身につけられるのか

 
試練に向き合い、助けを得ながら行動し続けることで、
人は少しずつ自信という土台を築いていく。

最近、日本の自殺者数が再び増加傾向にあると聞きます。詳しい統計を確認したわけではありませんが、私の記憶では、日本の自殺は先進諸国のなかでも高い水準にありながら、十数年前からようやく減少傾向に転じていたはずです。にもかかわらず、ここにきて再び増えているとすれば、それは単なる景気や一時的な社会不安の問題ではなく、もっと深いところで「生きるための土台」が揺らいでいるのではないか、そんな気がしてなりません。

私はその土台の一つが「自信」だと思っています。

自信と言うと、実績や能力、資格や肩書きを思い浮かべる人も多いでしょう。しかし、若い時に必要なのは、そんな立派な裏付けのある自信ではありません。「根拠なんて無くてもいい」自信です。むしろ、そうした小さな、危うい自信こそが、後に本物の自信へと育っていくのだと思うのです。

昭和50年に出版された新書『日本の自殺』(文春新書)は、当時すでに、日本社会の内部からの崩壊を鋭く指摘していました。スペインの哲学者オルテガの『大衆の反逆』を引きながら、著者たちは、日本人が「甘やかされた坊ちゃん」になりつつあることに警鐘を鳴らします。バブル崩壊後の長期低迷は、その警告が現実のものになった姿だったのでしょう。資産インフレであろうが、長期デフレであろうが、問題の本質は変わっていません。

『日本の自殺』は、マス・コミュニケーションによる間接経験の氾濫が、人間の思考力や判断力、情緒性を衰弱させ、社会の自壊作用を強めると述べています。「人間がだまされ、知力を低下させられ、真実の視界を妨げられる」という指摘は、SNSと情報過多の時代を生きる私たちに、そのまま当てはまるのではないでしょうか。

そして昨今、AI、なかでも生成AIの急速な普及によって、この傾向にはさらに加速度がかかると感じています。文章を書き、要約し、判断材料らしきものまで即座に提示してくれる技術は、便利である一方で、人間が自分の頭で考え、試行錯誤し、迷いながら結論に至るプロセスを省略してしまう危険性を孕んでいます。

間接経験が、もはやマス・メディアだけでなく「思考そのもの」にまで入り込んできたとも言えるでしょう。

自分の頭で考え、自分の足で立つ感覚を失ったとき、人は自信を失います。そして自信を失った人間は、生きる意味さえ見失いかねない。『日本の自殺』が半世紀近く前に鳴らした警鐘は、AI時代を迎えたいま、むしろいっそう切実な響きをもって私たちに迫っているように思われます。

私にとって、そのことを強く意識させてくれたのが、夏目漱石の「私の個人主義」でした。漱石は「自己本位」という四字を手にしたことで、「ここに立って、この道からこう行かなければならない」と初めて確かな足場を得たと言います。この自己本位とは、自分勝手になることではありません。自分の軸を持つこと、自分の見識と判断力を信じることです。

日本では「自己実現」という言葉がよく使われますが、私には、その意味がどうにも腑に落ちません。漱石の言う自己本位、すなわち自信を持つこと、自分の立脚点を自覚することの方が、はるかに実践的で、生きる力につながる概念だと思います。

自信は、与えられるものではありません。アメリカの市井の哲学者エリック・ホッファーは、「独立自尊の個人は慢性的に不安定な存在であり、自信と自尊心は日々新たに生成しなければならない」と述べています。今日の達成は、明日への挑戦にすぎない。立ち止まれば、どんな高みにいても不安に襲われる。これは、私自身の経験とも完全に一致します。

私は料理を作るのが好きです。下手の横好きの典型ですが、それでも台所に立つ時間は嫌いではありません。うまくいかないことの方が多く、失敗も少なくない。家人に罵倒されます。それでも、手を動かし、やり直し、次は少し良くなるかもしれないと考える。その積み重ねが、私にとっての小さな自信になっていきます(と信じています)。一回目はまあまあでしたが、二回目の蕎麦打ちで大失敗したとき、私は文字通り落ち込みました。しかし、三回目に挑戦し、成功したことで、自信は五割ほど回復しました。失った自信は、立ち止まっていては回復しない。成功するまでやり直すことでしか取り戻せないのです。これは蕎麦打ちに限らず、人生そのものにも言えることだと思います。

サルトルは「アンガジュマン(engagement)」を説きました。

人は世界から距離を取って眺めているだけではだめで、そこに関与し、引き受け、責任を持って行動しなければならない。自信とは、そのアンガジュマンの積み重ねの中でしか生まれません。実は、コンサル業界で、プロジェクトのことを engagement 、つまり、アンガジュマンと呼びます。

思想の世界で語られてきたアンガジュマンは、実務の現場でも、生き方としても、同じ重みを持っているのです。

教育も、子育ても、そして国家のあり方も同じです。過保護に守られ、試練を奪われた社会では、自信は育ちません。挑戦し、失敗し、それでも前に進む経験こそが、人を強くします。禅宗の大家である鈴木大拙が言うように、民主主義には「自主の精神、独創の思想、いかなる責任をも辞せぬという自信と覚悟」が不可欠なのです。

自信を持つとは、何かを信じることでもあります。

宗教でなくてもいい。伝統でも、文化でも、自分なりの価値でもいい。日本の祭祀や神道が示すように、外からの思想を受け入れつつ包み込み、新たに創造してきた柔軟さは、日本人が本来持っていた強さでした。

もっと信じていい。
もっと自信を持っていい。

若い時の小さな自信は、やがて本物になります。そして、その自信こそが、生きることを引き受ける力となり、絶望から人を遠ざける最後の砦になるのだと、私は思っています。

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2025年12月27日土曜日

スキルと覚悟のバランス

 

前言

このスライドは、今から30年ほど前に作ったものです。人生一番生意気な40歳前後にまとめた資料ですが、いま振り返ると当時よりもずっと今の社会に切実に当てはまる気がしています。  

日本社会は相変わらず、いや以前にも増してスキル(能力)ばかりを追い求め、「commitment(覚悟)」はどうしても後回しにされがちです。資格や方法論は増えたのに、「どこまで引き受けるのか」という問いは軽くなった。そんな違和感があります。

もっとも、これを人生論として考えてほしいなどと言い出す時点で、すでに上から目線の自己中心的な高齢者の完成形かもしれません。それでもなお、組織の話としてではなく、自分自身の人生に引き寄せて考えてもらえたら――そう願って、あえてこの古いスライドを持ち出しました。

スキルと覚悟のバランス

――スキルだけでは、組織も人も強くならない――

私たちはしばしば「スキル不足」を問題にします。ITスキルが足りない、専門知識が弱い、コミュニケーションが下手だ――。確かにスキル(Capability)は重要です。しかし、それだけでは組織も人も強くなりません。

今回修正したスライドが示しているのは、極めてシンプルで、しかし見落とされがちな事実です。スキルと同等、いやそれ以上に重要なのが個人の「覚悟」である、ということです。

スキルとは何か ―― 図の左側

図の左側にある「スキル(Capability)」は、大きく二つに分かれます。

① 社会的スキル(ヒューマンスキル)
  • チームワーク
  • コミュニケーション
  • 意思決定
  • 他者との協働  等々
② 技術的スキル(テクニカルスキル)
  • ITスキル
  • 会計・税務などの制度的知識
  • 方法論、専門知識  等々
これらはいずれも「学べば身につく」能力です。研修やOJT、資格、経験によって、ある程度は後天的に獲得できます。しかし、ここで話を終えてしまうと、現場でよく見る“残念な光景”に行き着きます。

    、、、スキルはある。
    、、、しかし、誰も責任を取らない。
    、、、誰も本気で踏み込まない。

能力が足りないのではありません。覚悟が欠けているのです。


覚悟とは何か ―― 図の右側

そこで登場するのが、図の右側にある 「覚悟(Commitment)」 です。

英語で言えば Commitment。中国語で言うなら「承諾」が最も近いでしょう。「覚悟」という言葉が持つ精神論的な響きではなく、自分で引き受けると決める意思が核心です。

今回のスライドでは、覚悟を「組織に属する個人」ではなく、一人の人間として生きる覚悟として、次の4点に整理しました。

  1. 自分の立ち位置と価値観を引き受ける覚悟
    ─ どこに立ち、何を守り、何を引き受けるのかを自分で決める

  2. 自分の成長を止めない覚悟
    ─ 年齢や環境を理由に、可能性の更新をやめない

  3. 人との関係を育てる覚悟
    ─ 孤立を選ばず、信頼・尊敬・関心をもって関係に関与する

  4. 他者の人生に貢献する覚悟
    ─ 見返りを前提にせず、誰かの成功を本気で支援する

重要なのは、すべては個人の覚悟から始まるという点です。「会社が悪い」「環境が悪い」と言う前に、自分は何を引き受けると決めたのか(責任)が問われます。


スキル × 覚悟 = 相乗効果

このスライドの核心は、中央にある言葉です。

相乗効果(Synergy)

スキルと覚悟は、足し算ではありません。掛け算です。
  • スキルが高くても、覚悟がゼロなら成果はゼロ
  • 覚悟があっても、スキルがなければ空回りする
一人ひとりが
  • スキルを磨き、
  • 覚悟を引き受け、
スキルと覚悟が噛み合ったとき、人はようやく自分の人生を自分の足で進めるようになります。

人生と組織に共通するピラミッド構造


スライドは、成功を次のピラミッドで示しています。
  1. スキル × 覚悟
  2. 自分にしかできない貢献を通じて、人生で出会う人々と長く続く信頼関係を築く
  3. 楽しめる環境 ─ 自分も、周囲も
  4. 成功 ─ 組織においても、人生においても

ここで重要なのは、順序を飛ばせないということです。スキルと覚悟という土台がないまま、成功だけを求めても、それは砂上の楼閣になります。

スキルだけでは足りない理由

スキル偏重の組織や人生では、こうした現象が起きがちです。
  • 判断を先送りする
  • 責任の所在が曖昧になる
  • 「できる人」が静かに去っていく
これはスキルの問題ではありません。覚悟の欠如です。

逆に、覚悟を引き受けた人は違います。未熟でも学び、失敗しても前に出る。その姿勢が周囲の能力を引き出し、結果として組織も人間関係も強くします。

成功は、覚悟とスキルの上にしか積み上がらない

強い組織は、制度やスキルから生まれるのではありません。強い人生も、肩書きや運から生まれるのではありません。一人ひとりのスキルと覚悟の相乗効果から生まれます。
  • 能力を磨くこと
  • そして、それをどこに使うと引き受けるのかこの二つが揃って初めて、
信頼が生まれ、
人に囲まれ、
楽しめる環境が育ち、
結果として「成功」が積み上がっていくのです。

スキルだけがあっても、覚悟がなければ届かない。
覚悟だけでも、スキルがなければ形にならない。
だからこそ、スキルと覚悟のバランスが重要なのです。

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2025年12月24日水曜日

人生というプロジェクトを、どう見通すか

 

人生というプロジェクトを、どう見通すか

――高齢化社会に必要な視点としてのプロジェクトマネジメント――

「プロジェクトが泥沼化する」という言葉を、私たちはよく耳にします。
気がつけば当初の目的が見えなくなり、責任の所在も曖昧になり、誰も全体像を説明できない。そんな状態です。そして私は、プロジェクト管理という行為そのものが、日本人には実はあまり向いていないのではないか、と感じることがあります。

私は30代半ばから後半にかけて、プロジェクトマネジャーという仕事をしていました。正直に言えば、面白くて仕方がなかった。当時は、今のようなパソコンのプロジェクト管理ツールなど存在しません。ガントチャートは物差しと鉛筆で引くものでした。線を引き、消し、引き直す。その一つひとつが、プロジェクトの思考そのものだったように思います。

ステータスミーティングでのファシリテーションも嫌いではありませんでした。年上の、しかもクライアント企業の幹部が並ぶ会議の司会を任される。今思えば、ずいぶん生意気な若造だったのでしょうが、当時の私はそれをエキサイティングな仕事だと感じ、嬉々として引き受けていました。若気の至りですね……。今思い起こすと赤面ものです。

しかし、その経験を振り返ると、プロジェクトマネジメントの本質は「管理」ではなく、「見通す力」だったと強く感じます。先を考え、全体を俯瞰し、最悪の事態を想定しながら、関係者を不安に陥れないように進めていく。その営みは、実は人生そのものと驚くほど似ています。

人間が不安になる最大の原因は、「情報不足」にあります。場合によっては、概念の欠落と言ってもいいでしょう。自分がよく知らないこと、これまで経験したことのないことに直面すると、人は誰でも不安になります。だからこそ、正しい概念を常日頃から収集しておくことが大切です。

最近では、老後の不安を口にする人が増えていますが、その多くは、年金制度や日本の医療の仕組みについてほとんど知識を持っていませんし、老後の大まかな生活プランも描いていません。何も知らず、情報も持たないから、漠然とした不安だけが膨らんでいくのです。

これは、プロジェクトでもまったく同じです。

最悪の事態を想定するためには、日々プロジェクト関係者ときめの細かいコミュニケーションを重ね、さまざまな情報をできる限り集め、起こり得る問題を洗い出し、その発生確率を冷静に検討する必要があります。

詳細までは分からなくても、「どの程度のインパクトなのか」が見えていれば、人は過度に緊張せず、落ち着いて対処できるのです。

人生も同様です。

自分の人生を一つのプロジェクトとして捉えるなら、私たちは皆、自分自身の人生のプロジェクトマネジャーです。そのためには、情熱とビジョン、つまり「志」が前提として必要になります。

“What is your life for?” と自分に問い続けることです。

ここで思い出すのが、論語の「君子不器(くんしふき)」という言葉です。
私はこの「器」を、英語で言えば function(機能)だと解釈しています。縦割りの機能、専門分野のことです。君子たるもの、一つの機能に閉じこもるな。プロセスとして、全体として考えよ――そう言っているように思えるのです。

プロジェクト管理とは、まさに幅広く考え、先を読み、統合し、横断的に判断する行為です。プロジェクトも、企業も、政府も、そして個人の人生も、本質的には同じ構造を持っています。

世の中の仕事を乱暴に二つに分けると、一つは、決められた枠の中で定められたルールに従い、数字を並べていく仕事。もう一つは、曖昧模糊とした状況に対して、自ら枠を設定していく仕事です。前者の代表例は会計士や税理士でしょう。後者の代表格が、資格もライセンスも存在しないコンサルタントです。コンサルタントも若い頃は専門分野に特化しますが、年齢を重ねるにつれて、複数の分野や人、組織をまとめる役割を求められるようになります。

スペシャリストからゼネラリストへ。

「君子不器」とは、そのシフトを促す言葉なのだと思います。欧米では、マネジメントとは「スペシャリストとしての経験を持つゼネラリスト」が担うものです。

そして、マネジメントに欠かせないのが「気配り」です。

気遣いは今の感情への反応であり、時に自分のためのものでもあります。一方で、気配りは未来に向けた行動であり、相手に不安を感じさせないためのものです。相手に気遣いさせないように、こちらが先回りして動く。それが本当の意味での気配りなのだと思います。

リーダーやプロジェクトマネジャーは、メンバーを不安に陥れない責任を負っています。それは組織運営の技術であり、ピープル・マネジメントそのものです。明るく振る舞うこと、会話の後に相手が少し元気になること。それも立派なマネジメントです。

高齢化が進む日本社会において、私たちは「人生をどう生き切るか」という問いに直面しています。もしかすると、今こそ必要なのは、人生を一つのプロジェクトとして捉え、主体的にマネジメントする視点なのかもしれません。
  • 抽象度を上げて全体を俯瞰すること。
  • 最悪に備え、情報を集め、概念を蓄積すること。
  • そして、君子不器の姿勢を忘れないこと。
プロジェクトマネジメントは、単なる仕事の技術ではありません。
それは、生き方の技術なのだと、今の私は思っています。

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2025年11月25日火曜日

「性格は環境で決まる」~ 人生を変えるのは“誰と出会うか”

 
東田島カトリック幼稚園(昭和30年代 福岡市)

ビジネス誌のオンライン版に、興味深い記事がありました。

「幼稚園の先生によって、将来の年収に1000ドル以上の差が生まれる」という、ペンシルバニア大学ウォートン校のアダム・グラント教授の研究を紹介したものです。

なるほど、幼少期の教育環境が人格や能力形成に大きく影響するという指摘はもっともです。しかし私が強く思うのは、そこで本当に問われているのは「先生という“個人”」ではなく、子どもを取り巻く“環境全体”の力ではないか、という点です。

もっとも、幼少期の環境は日米で大きな差があります。スペインの哲学者オルテガは「私は、私と環境でできている」と述べました。この言葉は、人格や性格の本質を端的に言い表していると感じます。

性格を育てる最大の要因は、家庭の“生き様”です

幼児に最も長く、強く影響を与えるのは、実は幼稚園の先生ではありません。間違いなく、親です。子どもは、親の言うことよりも、親の生き方・態度・振る舞いを見て育ちます。
  • 困難にどう向き合うか
  • 怒りや失敗にどう対処するか
  • 挑戦するのか、安全地帯に留まるのか
そうした日常の「背中」が、そのまま性格の設計図になります。

私たちを形づくる最大の力は、家庭という“環境”と、そこで起きる無数の“邂逅”(人やモノとの出会い)だと言えるでしょう。

才能(ギフト)よりも重要な「性格スキル」

大谷翔平選手のように、生まれながらのギフティッドであり、後天的に磨かれたタレンティッドでもある人は、例外的です。しかし多くの人は、天才ではありません。

では、私たち全員が持ち、後天的に伸ばせるものは何か。

それが、アダム・グラントがさまざまな研究で示している「性格に由来するスキル」です。

私はかつて、コンサルティング会社で多くの中途採用面接に関わりました。コンサルの採用は人事部の仕事ではなく、マネジメントが直接責任を持つのが原則です。

そこで最重要視したのは、知識でも経歴でもなく、性格でした。知識や経験は真偽の確認です。性格だけは“土台”です。ここが弱いと、どれだけスキルを積んでも、土台から崩れてしまうのです。

アダム・グラントが語る「性格スキル」の3要素

アダム・グラントは著作の中で、人の成長を左右する「性格由来の力」を整理しています。なかでも重要なのが以下の3つです。

1.意志力

不快から逃げず、小さな一歩を踏み出す力です。人は「変わりたい」と「変わりたくない」を同時に持っています。コンフォートゾーンから出る力は、人生を大きく分けます。

2.積極性(プロアクティブさ)

環境から学び、吸収し、適応していく力です。“人間スポンジ”のように新しい経験を取り入れ、不要なものを捨て、変化に柔軟に対応する姿勢が求められます。

ここで重要になるのが、良いメンターとの出会いです。出会いは、人を変える最大の装置だからです。

3.自己統制力(新渡戸稲造『武士道』の“克己”)

「できない完璧」ではなく、「できる現実」に基準を置き直す力です。完璧主義はしばしば挫折の原因になります。達成可能な基準を設定し、粘り強く進む力が、人生の持久力を生みます。

性格は“環境”がつくり、環境は“邂逅”で形づくられる

プレジデントの記事が示していたのは、幼児教育の力でした。しかし、より大きな本質はこうではないでしょうか。
  • 性格は才能を超える。
  • 性格は後天的に鍛えられる。
  • 性格を鍛えるのは、環境と邂逅である。
子どもをどんな環境に置くか。
どんな人やモノと出会わせるか。
何より、親である私たち自身がどんな生き方を見せるか。

幼稚園の先生は重要です。しかし人生を決めるのは、もっと大きな“環境の総量”です。そしてその環境は、私たち自身が選び、つくり出すことができます。

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2025年11月24日月曜日

沈黙の速度 ~ アメリカは 3 秒、日本は 8 秒

 
James Brown

ネットで面白い記事を見つけました。

「日本人は何秒まで沈黙に耐えられる?」――英会話学校が発信した、なんともユニークなテーマです。 

Preplyというオンライン英会話サービスが世界 21 か国を対象に調査したところ、日本人は 7.8 秒 も沈黙を許容できるという結果が出たそうです。

世界の平均が 6.8 秒ですから、意外にも“沈黙耐久レース”ではかなりの上位に食い込みます。 しかし、私がアメリカのコンサルティング会社で経験した沈黙の世界は、もっと過酷なものでした。あちらの許容時間は、なんと 約 3 秒。3 秒沈黙すれば、「議論についていけてない?」と判断されても仕方がありません。

1、2、3……はいアウト。

油断していると、沈黙は「無能」のラベルを貼るストップウォッチのように働きます。もちろん、これは会議だけではありません。カジュアルな会話でも同じです。バーで雑談している最中でさえ、アメリカ人はあなたの“間”を査定しています。

そこには、「常に考えているか」「問題意識があるか」「当事者意識は?」という、米国社会特有の価値観が透けて見えます。つまり、沈黙というのは単なる無音ではなく、“思考の密度が試される時間” なのです。

日本人は沈黙に強い? でもその意味はちょっと違う

調査によれば、日本人は 7〜8 秒の沈黙でも平気。これは決して「何も考えていない」のではなく、むしろ逆です。

日本文化では、沈黙は
  • 空気を読むための静かな余白

  • 相手への配慮を整える「間」

  • コミュニケーションの緩衝材

として働きます。

会議で沈黙したからといって「あいつ、無能だな」とは思われません。思われるとすれば、「あいつ、ちゃんと考えてるな」「慎重なんだな」 のほうでしょう。

ところが、アメリカ人にしてみれば、沈黙=通信障害。“Limbo”――宙ぶらりんで物事が決定せず、保留状態のこと。Wi-Fi が落ちたときと同じ顔をしてこちらを見てきます。

文化の違いとは、こういう微細な “間への態度” に最もよく表れます。

日本でも“沈黙への耐性”には地域差がある?

日本にも地域差があります。

とくに関西では沈黙の耐性は低く、対話のテンポが速い。
さらに、“正しい間” が要求される。

大阪のおばちゃんの会話のグルーブ感は、ファンクミュージックのゴッドファーザーであるジェームス・ブラウンのグルーブ感です。
決してアメリカ南部のカントリーウエスタンのリズムではない。

大阪の商店街で育った子供は、近所を徘徊するだけで自然と高度なコミュニケーション技術が身につくのですから、驚くべきことです。

ソーシャライズという言葉が示すもの

そもそも日本では “ソーシャライズ” という発想が希薄です。
ビジネスの場で必要最低限のやり取りができればOKという文化。

ところが英語圏では、ソーシャライズ(人間関係の社会的潤滑油)は
信用形成の入口 にあたる大事な行為です。

関係構築は雑談から。
その雑談は “沈黙” を許容しないスピーディなもの。
これが、海外で日本人が最初に戸惑うポイントでしょう。

「沈黙」は何を語っているのか?

沈黙の許容範囲の違いは、単なる秒数の問題ではありません。

それはその社会が

  • どんな速度で思考し

  • どんなリズムで信頼を築き

  • どんな価値を大切にしているか

という 文化の深層心理 を映し出しています。

ブラジルは 5.5 秒で気まずさを感じる。
アメリカのコンサル会社では 3 秒で沈黙に耐えられない。
日本は 7〜8 秒静かでも平気。

この違いを知っておくだけで、海外での誤解やトラブルは格段に減ります。

さらに言えば、大阪のおばちゃんレベルのグルーブ感が世界でも十分通じることがわかり、ちょっと誇らしい気持ちにもなります。

維新の会の吉村さんが大阪を強調するなら、身を切る改革よりも“大阪のおばちゃんのグルーブ感”ですよ!

沈黙は「空気」ではなく「文化」である

沈黙は、単なる無音ではありません。

それは文化がつくるリズムであり、会話の温度であり、人間関係の距離感そのものです。

そして、自分の “沈黙の秒数” を自覚することは、異文化コミュニケーションの第一歩であり、仕事でも雑談でも信頼形成でも、思った以上に重要な要素です。

沈黙が 3 秒の国で働くなら、頭の中に常に 小さな司会者 を飼っておく必要があります。大リーグのピッチ・クロックのような感覚です。

とにかく、次の言葉を準備し続ける。
アメリカでクビにならずに働くとは、そういうことなのです。

そして日本に帰れば、7〜8 秒の静寂が「落ち着くなぁ」と感じるかもしれません。

沈黙の国境線をまたぐたびに、自分の内部に別の時計が動き出す――
そんな感覚すら覚えるかもしれません。

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2025年11月9日日曜日

中途採用の本質は“当事者の眼”にある ― 企業エコノミーを見抜く力

  
最近、人事部向けの記事で「中途採用の成功には第三者のアドバイスが不可欠」と語られるケースをよく見かけます。マイナビ転職Boosterのような外部支援サービスが注目されているのも、そうした流れの一つでしょう。たしかに「売り手市場」と言われる中で、採用のスピードや工数削減は大きな課題です。しかし、私は少し違うと思います。

私自身、これまで何度か転職を経験し、また中途採用する側の面接も数多く行ってきました。その経験から言えば、採用の本質は第三者の眼ではなく、当事者同士の眼にあります。つまり、転職応募者と採用企業が「エコノミー」をどれだけ正確に理解しているかが鍵なのです。採用企業によっては、採用を担当する人事部が自社のエコノミーを十分に理解していない場合すらあります。コンサルティング会社とシステムインテグレーターとコンピューターメーカーでは、それぞれエコノミーが異なるということです。

会社には、それぞれ独自の「エコノミー=経済生態系」があります。組織の意思決定の速度、社内の信頼関係の構造、報酬体系のリアリティ、上司のタイプ、評価軸──それらが複雑に絡み合って、その会社の「エコノミー」を形づくっています。履歴書や面接では見えにくいこの「企業の本質」を、双方がどれだけ理解し、候補者がその中でどのように成果を出せるかをイメージできるか。それが最も重要です。

企業側は応募者を“スペック”や“経験年数”といった表層的な指標で評価するのではなく、その人が自社のエコノミーの中で、例えば90日間でどのようなパフォーマンスを発揮できるかを、具体的に想像すべきです。実際、採用のミスマッチの多くはスキルの問題ではなく、エコノミーへの理解不足によって起こります。

もちろん、第三者の助言や外部サービスは一定の役割を果たします。しかし、採用を本当に成功へ導くのは、当事者同士が同じテーブルで現実を共有しようとする誠実さです。採用とは“売り手”と“買い手”の取引ではなく、同じ船に乗り込むための共同作業なのです。

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2025年10月27日月曜日

まだ間に合う教育再生 ― 若い世代に託す希望



若い世代へのエール

私は高齢者ですから、まずは正直に言わせてもらいます。50歳以上の人たちにいろいろ提言しても、もう手遅れです(人間が、総合的に最も機能するのは50代後半から60代前半だという研究もあるようですが、、、)。耳が遠くなったわけではありません。 頭の中のアップデート機能が、そろそろサポート終了を迎えつつあるのです。

ですから、希望は若い世代に託すしかありません。小中学生から40歳前半くらいまでの人たち、そして彼らを育てる親御さんたち。ここに日本の未来を変えるカギがあります。

「流行」ではなく「原理」を学ぶ

最近は何かと「AIドリル」「プロンプト力」「デジタル人材」など、横文字が飛び交っています。しかし、流行りのツールを追いかけていても、学びの本質には近づけません。道具は時代とともに変わりますが、思考の基礎体力は変わらないからです。

教育の目的は、最新ツールの使い方を覚えることではなく、「抽象度を上げ、全体を見渡す目を育てること」だと思います。つまり、木を見て森を見ずではなく、「森の成り立ち」を理解できる人を育てる。これこそが、AIの時代に、人間が人間であり続けるための知恵です。

子供たちには、本、できれば一冊でも二冊でも古典を読んでほしいと思います。長年読み継がれてきた文章には、時代を超える「人間の知恵」が詰まっています。気に入った部分はどんどん真似していい。模倣は創造の第一歩です。昔の文人たちは皆そうして成長しました。パクることは、恥ではなく学びの技です。

モチベーションとインセンティブを混同していませんか?

さて、日本では「モチベーションが上がらない」という言葉がやたらと聞かれます。しかし、モチベーション(やる気)とインセンティブ(ご褒美)を混同している人が多いようです。

モチベーションとは、自分の内側から湧き出る「よし、やるぞ」という気持ち。インセンティブは、そのやる気を引き出す外側の仕掛け――つまり、ニンジンです。

「ご褒美がないと動かない」では、インセンティブに頼り切った状態です。本当の学びは、ニンジンがなくても走り出すようなモチベーションから生まれます。

では、そのモチベーションはどこから来るのか?
社会のリアリティがそれを育てます。

平均化社会の罠

アメリカの子供たちは、街角でホームレスや薬物中毒者を見ます。同時に、巨大な家に住み、高級車を乗り回す大富豪も見ます。彼らのモチベーションは明快です。「こうはなりたくない」「ああなりたい」――この振れ幅が、行動の原動力になるのです。

一方、日本はどうでしょう。

極端な貧困もなく、極端な富裕も少ない。コンビニに行けば、とりあえず何かは買える。安心で穏やかな社会である一方、「危機感」や「憧れ」という刺激が少ないのも事実です。過度な平均化は、やる気の平準化でもあります。 個性が磨かれる前に、角を丸めてしまうのです。

これは教育にも同じことが言えます。「みんな一緒に、同じペースで」――確かに優しい響きですが、長い目で見れば、誰のためにもなっていません。

「機会の平等」と「結果の平等」は違う

平等主義は大切です。しかし、「機会の平等」と「結果の平等」を混同してはいけません。日本の教育は、時に「結果の平等」に偏りすぎています。

小学校低学年までは、皆で同じことを学ぶのが良いでしょう。しかし、高学年になると、子供たちの得意・不得意、興味の方向ははっきりしてきます。それなのに、どんなに才能があっても、「みんな同じスピードでやりましょう」と言われたら、やる気のある子ほど退屈します。

能力別クラスという言葉は日本では敬遠されがちですが、本来は「格差」ではなく「最適化」の仕組みです。優秀な子を伸ばすと同時に、不得意な子が別の才能を見つけるチャンスにもなる。平等とは「全員が同じ結果を出すこと」ではなく、「全員が自分の可能性を発揮できること」ではないでしょうか。

Gifted と Talented ― 才能の芽をどう育てるか

英語で「Gifted & Talented」という表現があります。Gifted は生まれつきの才能。Talented は努力で伸ばす力。才能があっても磨かなければ錆びますし、努力があれば凡人も変わります。両方がそろって、初めて真の成長が生まれるのです。

日本の教育は、Gifted(天賦の才)を恐れ、Talented(努力する才)を強調しすぎたのかもしれません。「みんな同じように頑張りましょう」と言いながら、実は誰の個性も伸ばせていないのです。これでは、努力の報酬も曖昧になり、モチベーションも生まれません。

刑法の改正に学ぶ ― 一人ひとり違っていい

最近、刑法が改正され、懲役と禁錮が統一されて「拘禁刑」になりました。これも象徴的な変化です。社会が「罰する」より「更生させる」方向に舵を切ったということです。なぜなら、受刑者も一人ひとり違う背景を持つからです。

教育も全く同じです。

子供たちは一人ひとり違う。家庭環境も、関心も、成長のスピードも違う。それを理解せずに「画一的な正解」を押し付ける教育では、人材が育つわけがありません。拘禁刑が人間の多様性を認める制度改正だとすれば、教育にも同じ発想の転換が必要です。

コンサルタントが考える「生きるスキル」

私はこれまでグローバルなビジネスの世界でコンサルティングに携わってきました。その経験から言えるのは、どんな業界でも必要とされるのは「基本的な人間力」だということです。

大人になる前に、子供たちが身につけるべきは、次のようなスキルです。
  • 自分で考える力
  • 責任ある生き方
  • イニシアチブ(自分から動く姿勢)
  • 相手の意見を聴く寛容さ
  • チームワーク
  • 強靭さ(インテンシティ)
  • 向上心
  • インテグリティ(倫理観・スキル・野心のバランス)
  • 信頼性
どれも、試験では測れません。
でも、社会に出てからはこれらがすべてです。

子育て世代へのお願い

子供の教育は、学校任せではうまくいきません。

親御さん自身が、子供の「得意」と「苦手」を見抜く力を持つことが大切です。そして、失敗を恐れない子に育ててあげてください。失敗を笑い飛ばせる余裕こそ、人生の最高の学びです。

子供が「なんで勉強しなきゃいけないの?」と聞いたら、こう答えてあげてください。「将来、自分で考えて、自分の足で立てるようになるためだよ」と。

結びに ― ユーモアを忘れずに

日本の教育には、確かに課題が山ほどあります。でも、それを嘆いていても仕方ありません。

教育の未来は、制度や予算よりも、人間の心の在り方にかかっています。子供たちに必要なのは、完璧な教科書ではなく、「応援してくれる大人の背中」です。

大リーグでは、大谷翔平や山本由伸が従来の大リーグを変えつつあるのではないかと議論されています。それは、かれらの精神力や心の持ち方に注目しはじめているからです。

教育の未来は、制度や予算よりも、人間の心の在り方にかかっています。

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2025年10月25日土曜日

スーパー・ガラパゴス ― 孤立の名を借りた自由

 
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Super Galapagos

In a world driven mad by tech disruption, Japan’s having fallen behind is a superpower

* * * *

近年、日本は「技術で遅れた国」と揶揄されることがあります。

しかし実際には、世界の狂騒から距離を置いた“スーパー・ガラパゴス”として、独自の強みを発揮している――これが、アメリカ人作家マット・オルト氏の記事の要旨です。

かつて日本は「未来を先取りした国」として世界の羨望を集めていました。『ブレードランナー』の近未来都市像も、東京がモデルでした。しかし2007年、iPhoneの登場を境に状況は一変します。日本のメーカーが独自規格にこだわり、世界市場から取り残された「ガラパゴス症候群」と呼ばれたのです。

ところがオルト氏は、その“遅れ”を敗北ではなく「静かな勝利」だといいます。なぜなら、iPhoneそのものが、日本の生活文化――携帯メール、絵文字、女子高生文化、ポータブル音楽――の延長線上にあるからです。スティーブ・ジョブズがソニーを深く敬愛し、「iMac」を「MacMan」と名付けようとしていたという逸話も象徴的です。つまり、世界が「発明」と呼んだものの多くは、日本がすでに日常の中で育てていたということです。

この“スーパー・ガラパゴス”というあり方を、文化の面で体現しアメリカで成功した人物がいます。それが、片づけコンサルタントの近藤麻理恵さんです。近藤さんは、もともと世界進出を狙っていたわけではありません。日本人の生活の中に根づいた「清らかさ」や「ものへの感謝」を形にしただけでした。ところが、その素朴な哲学が、アメリカの過剰な消費文化の反動として強く響いたのです。

「ときめくかどうか」という、極めて日本的で感覚的な基準。モノをただの所有物ではなく、心を映す鏡として扱う態度。それらが、物質主義に疲れたアメリカ人にとって、まるで禅のような“精神の整理術”として受け入れられました。Netflixの番組が世界的にヒットし、「KonMari(こんまり)」という言葉が英語の動詞として使われるようになったのも象徴的です。

もっとも、近藤さんがアメリカで支持された背景には、アメリカ人が大好きな「自己啓発文化」との親和性もありました。出版不況の中でも自己啓発本が売れ続けるのは、まさに“アメリカ的信仰”の証しです。英語で「con man」とは、“confidence(信頼)”を売る詐欺師のこと。自己啓発産業は、この「信頼を売る」文化と紙一重です。テレビ伝道もライフコーチも、宗教というより自己啓発ビジネスであり、多くの「ポジティブ産業」(前向き信仰を商材化するビジネス)は、人の不安を商品にしています。アメリカ的自己啓発本は、しばしばcon manを速成するマニュアルでもあるのです。

その点、近藤さんの「ときめき」の思想は、それとは対極にあります。彼女は“成功”を売らず、“整うこと”を伝えた。声を張り上げて前向きを強要するのではなく、静かに「モノと向き合う」ことを勧めただけでした。それが結果として、自己啓発に疲れたアメリカ人の心に響いたのです。近藤さんの成功は、決してグローバル志向の産物ではありません。むしろ「日本の内側」にある感性を徹底的に磨き抜いた結果、自然と外の世界が惹きつけられた――これこそが、スーパー・ガラパゴスの本質だと思います。

私たち日本人がまず考えるべきは、どこが日本独自の強みなのかを理解することです。でなければ、外敵に浸食され、“ガラパゴス”は単なる観光地になってしまうでしょう。ハッカーとの闘いがそうであるように、文化の攻防もまた永遠のイタチごっこです。セキュリティを強化すれば、ハッカーの技術も高度化する。技術や思想の世界も同じです。だからこそ、いちばん賢い進化とは、競争を降りることなのかもしれません。

日本のポップカルチャー――アニメ、漫画、ゲーム――もまた、世界を意識して作られたものではありません。すべて「日本人が日本人のために」生み出したものでした。それが結果として、世界の心をとらえたのです。ガンダムの富野由悠季監督が「政府が“クールジャパン”を推進した途端、創造性は死ぬ」と語ったのも象徴的です。ヒット作は官僚の会議室からではなく、個人の情熱や現場の偶然からしか生まれません。
  
ガラパゴスとは、孤立の名を借りた自由です。そして、喧騒を拒んでなお、じっと考える葦の群れです。

世界の潮流に乗り遅れても構いません。少し遅れて笑うくらいが、ちょうどいいのです。そこにこそ、日本の「スーパー・ガラパゴス」としての強さがあるのだと思います。

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2025年9月15日月曜日

プルドポークサンドイッチの思い出


昨日はプルドポークサンドイッチを作って食べました。家で作ると本当に美味しいですね。日本のパンが美味しいこともあって、空港で食べたあのサンドイッチとはまるで別物です。

今から25〜6年前、私は自宅のあるNYからナッシュビルに毎週仕事で通っていました。飛行機で2時間半ほど、時差は1時間。アメリカのコンサルティングビジネスはとにかく広大な国が舞台なので、自分の所属するオフィスや住んでいる地域に限らず、プロジェクトは全米に散らばっています。移動は基本的に飛行機。月曜に自宅を出て現地に飛び、月火水と三泊、木曜の仕事が終われば夜に帰宅。そして金曜は自分のオフィスに出社して勉強会や作業に参加する、という「3-4-5」のリズムで回っていました。

体調管理も大変で、知性と教養に加えて体力、そして何より「へこたれないユーモアの精神」が不可欠でした。今考えると、よくもあんな非人道的なブラック業界で働いていたものだと思います。でも結局のところ、私はコンサルのビジネスそのものが好きだったのでしょうね。

プロジェクト責任者ともなると、金曜はクライアントとのフォローアップでさらにタフ。夜にナッシュビル空港に向かい、最終便のNY行きに乗る前に夕食をとります。当時の空港にはレストランが一か所だけで、メニューはなんとプルドポークサンドイッチのみ。正直、あまり美味しいとは言えませんでしたが、ビール片手にかぶりつくのが週末の小さな儀式のようでした。フライトがディレイやキャンセルになると、がっかりしながらナッシュビルのホテルに泊まることもありました。

それが今では、家で作るプルドポークがちょっとした楽しみになっています。月に一度は食卓に並びますが、閑散としたナッシュビル空港で食べたあの味を思い出すと、やっぱり「家で食べるプルドポークが一番だな」と感じます。

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2023年10月15日日曜日

心得たと思ふは、、、

ギターって録音してみると、いかに自分が下手くそだかわかります。自分の頭の中だけでカッコよく弾けているだけなのです。ギターの弦は6本ですが、必要のない音を鳴らさないことと止める時に止まっているかがポイントです。

ビジネスのプレゼンテーションも同じです。余計なことは言わない。意味のないエーとかアーとかウーとか言わない。ギターもプレゼンもリズムが大事です。リズムのないプレゼンは内容に関わらず失敗に終わります。

私はリズム感がない。ギターもプレゼンテーションも死ぬまで上手にはなりそうもありません。しかし、若い頃に理解できなかった数々の問題点も漸く客観視できるようになりました。経験が経験になりつつあると前向きに考えています。

私は手遅れですが、10代のギター小僧も20〜40代のビジネスパーソンも自分のパフォーマンスを録音してみるといいですよ。

心得たと思ふは、心得ぬなり。心得ぬと思ふは、心得たるなり(蓮如)



2021年3月24日水曜日

ibg business 101 ~ 仕事において成果よりも重要なものとは?

https://www.youtube.com/watch?v=LJAsBkC9kas

より多くの人の話を聞いて、見て、試行錯誤を繰り返し、自分の人生のビジョンを明らかにしていく。自分の好き嫌いをはっきりさせる。要するに、自分の好みを見つけること。「自分の好み」ですから、他人に教わるのではないのです。

コロナ禍の中、日本が立ち返るべき日本人のあり方を議論してもらいたいですね。それが日本の将来につながるはずです。

宮崎風チキン南蛮
タルタルには自家製のラッキョウが入っています

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2020年2月24日月曜日

submissive(服従的) ということ

全くsubmissiveじゃないチャーリー

第92回アカデミー賞の「メイクアップ・ヘアスタイリング賞」をカズ・ヒロさんが受賞しました。カズ・ヒロさんは昨年に米国の市民権を取得し、現在は日本国籍ではなくアメリカ国籍でlす。

授賞にあたり日本の記者から「日本での経験が受賞に生きたか」と問われ、こう答えた。

"Sorry to say but I left Japan, and I became American because I got tired of this culture, too submissive, and so hard to make a dream come true. So that's why I'm living here. Sorry".

これを日本のメディアの多くは、以下のように紹介した。

「こう言うのは申し訳ないのだが、私は日本を去って米国人になった。(日本の)文化が嫌になってしまい、夢をかなえるのが難しいからだ。それで(今は)ここに住んでいる。ごめんなさい」(朝日新聞デジタルより) 。

この日本語訳は「too submissive」を翻訳していません。

武漢ウィルスの政府対応やメディアを見ても too submissive だと感じます。日本を飛び出して海外で活躍する日本人は多かれ少なかれ submissive に対する反抗がスタートじゃないでしょうか? それが若い人たちの共通の価値観になり連帯感が大きくなって日本が変わって欲しいと思います(文化を壊すと言うのではなく)。

敗戦後アメリカの占領政策が120%思い通りに行ったわけですが、それには日本人の too submissive な態度があったわけです。いま、全米が注目するアカデミー賞の受賞舞台でのカズ・ヒロさんの発言は敗戦後の日本の「国家なき民主主義」の末路をついています。

魂なき労働は人生を窒息死させる」と言ったのはカミュでした。

カミュは submissive に対する嫌悪感がモチベーションでした。カミュは戦争や当時の体制に反抗した(レジスタンス)のだろうと思う。それが小説を書くモチベーションになりました。

我慢できないという感情を共有し連帯感が生まれる。今の日本社会には非常に希薄なものです。恐らく受験システムのおかげで中学から高校にかけて反抗さえする暇(閑暇=レジャー)が無かったのでしょう。中学時代の反抗がないと大人になっても submissive で虚無的な人生になるのだと思います。中高生の時の反抗(キライと思った感情)が価値観、つまり自己を形成する。決して、学校や先生が自己を形成するのじゃない。

「反抗」というと大げさになるから違和感くらいでいいでしょう。例えば、中学の英語の授業に違和感を感じたら自分で納得のいく方法を試行錯誤すればいい。同じように感じる仲間と連帯が生まれる。そうやって自己が形成されていくのだと思います。それは自分の行動範囲が拡がる中学時代です。私の中学の頃は学校という体制に対する幼稚な反抗だったのですが。。。でも、それが60を過ぎても続いています。

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2019年9月21日土曜日

働き方改革と生産性

朝の雲

働き方改革の課題は一般的に以下のように言われています。

‶働き方改革は「労働時間短縮」に関する項目が重視され、本質的な生産性向上には至っていない″

時短のための労務コンプライアンスと打ち上げても働き方改革の課題は解決されない。ルールに依存するだけで自分で考えない方向に行ってしまうだけです。常に会社に従順という訳ではなく、組織内の至る所で信念と疑念のぶつかり合いがないと本当の生産性は上がらない。アウトプットがMAXになるようにぶつかり合いをマネージするのが管理職の仕事であり最終的には生産性にインパクトを与えるのです。

大企業で働いているビジネスマンは、全ての人が必ずしも一生懸命に働いているのではありません。なぜならば、彼らのエネルギーは「一生懸命働いている」というポーズをつくることに集中されてしまうから、、。

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2019年9月10日火曜日

教育のフレームワーク

https://www.youtube.com/watch?v=Fz8_ghDzskg&t=9s




















グローバルで仕事をしなくても参考にできるフレームワークです。

今の教育を変えるための教育者の教育は誰がやるのでしょう? やる気のある子供達にとって今の教育は形而上と形而下のバランスが悪すぎる。暇を奪うことは考える時間を奪う事なのです。今の日本で「立派な大人になれ」と言っても環境が悪すぎる。

私=私+環境、つまり、「私」は自分自身も含め環境との対話の中で「私」になって行くのです。

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2019年9月3日火曜日

世の中には色んな会社がある

9月1日 ibgの飲み会です@吉祥寺

ibgは小さな小さな経営コンサルティング会社です。今年が14期目です。世の中では一般的に利益を上げることに多忙を極めること(business)を誇りにしているようですが、ibgの場合はそんなことはお構いなしです、より一層の「firmさ」(思想の強化)を求めるのです。それが会社、つまり「firm」 なのです。これは我々の負け惜しみか?

二次会へ

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2019年2月17日日曜日

料理を作りながら考えた


鳥手羽先の甘辛煮、これは全プロセス30〜40分でできる簡単だけど美味しい一品です。こんな簡単な料理でも上手に作ってやろうと一生懸命です。

人は問題を解決しようとする作業のプロセス(流れ)の中で成長するものです。プロセスは与えられたものではなく、自分で見つけ出す。プロセスは作業そのものだけでなく、作業の機会を自分で見つけ出す(創造する)ことも含まれます。その中で人や組織は成長するのです。

日本の課題は、いくら労働生産性向上や働き方改革の旗を振っても、以上のような根本的な問題が理解されていないので、施策は上滑りなものになってしまいます。他者に依存しているからダメなのです。「自らが成長したい!」という強いモチベーションが基本にならないといけない。

次回はもっと美味しい鳥手羽煮を作ってやるぞ! 

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