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2026年3月22日日曜日

大阪のおばちゃんのグルーブ感 — 沈黙ではなく「間」で返す外交

沈黙ではなく、“間”で返せていたか。

高市総理とトランプ大統領の会談について、日本の多くのメディアやコメンテーターは概ねポジティブに報じています。確かに、難しい相手との対面としては無難に乗り切った、という評価もできるでしょう。

しかし、私は少し不快感を覚えました。

トランプの発言には、相変わらず軽さがあります。悪気があるというより、深く考えていないのだと思います。言葉の背後に戦略や思想があるというより、過去のアメリカ人のステレオタイプの延長線上で発せられているように感じます。

率直に言えば、1990年代に私が相手にしていた「典型的なアメリカ人」と大きくは変わりません。現代のアメリカの若者たちはもっと賢いし現実的かも知れません。

だからこそ、日本側の受け方が問われます。

あの記者会見の場で、正面から議論を挑む必要はありません。外交の場であり、無用な摩擦を生むべきではないのは当然です。しかし、「沈黙」だけが最適解とは思いません。

一方で、評価すべき点もありました。高市さんのトランプとの物理的な距離感です。あそこまでトランプに接近するのは、誰にでもできることではありません。もしかするとトランプ夫人よりも近い距離感だったかもしれません。あれは、大阪のおばちゃんならではの身のこなしだったと思います。相手の懐に入る力は、間違いなく一流です。

だからこそ、なおさら期待してしまいます。

私が期待したのは、もう少し違う種類の反応でした。

たとえば、大阪のおばちゃんのグルーブ感です。

正面衝突ではなく、かといって受け流すのでもない。
一瞬の「間」を取り、軽くツッコミを入れるような、あの独特のリズム感です。

音楽で言えば、ジェームス・ブラウンの8分休符16分休符のファンキーなグルーブ感です。

「それはまた後で二人で話しましょうか」(we'll talk later, pass the peas !)

その一言で十分です。
それだけで場の空気は変わります。

相手の発言を否定せず、しかしそのまま受け入れるわけでもない。
主導権をほんのわずかに引き寄せることができます。

これは論理というより、身体感覚に近いものです。
そして実は、国際交渉の現場では非常に有効な技術でもあります。

この話は単なるコミュニケーションの技術論ではありません。
もっと根の深い問題につながっています。

それは、「自分の国をどう理解しているか」という問題です。

以下は、25年前に私が書いた文章です。

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汚名は晴らす方がいい
~ ハル回顧録 (2001年 中公文庫)を読んで

近隣諸国の歴史教科書は、多くの嘘や偏向した知識とで書かれています。 アメリカの教科書だって、アメリカの都合のいいように書かれています。 それは仕方がないことです。 自分の国に誇りが持てないような教育を自国民にすることは、義務教育の目指すところではないからです。

私が一番の問題と思うのは、日本人はもっと自国の歴史を史実に基づいて直視する眼を持つ必要があることです。 正しい歴史認識は日本人に一番必要なのです。 晴らせる汚名は晴らしておいたほうがいいのです。

ニューヨークに住んでいると、12月になると必ず話題になるのが真珠湾奇襲攻撃です。 そう、「Remember Pearl Harbor」です。 日本人は騙し討ちをする(Sneak Attack)卑怯者だと思われているのです。

「真珠湾が奇襲だったのか?」、「日本は宣戦布告なしで真珠湾を攻撃する計画をもっていたのか?」。 アメリカ人との酒席で話題になった場合、ユーモアを交えてさらりとかわせないといけません。でないと、アメリカ人組織で本当のマネジメントチームの一員になれないからです。

相手を説得する必要はありません。ロジカルに自分の意見を主張できればいいのです。 そのためには、自国の歴史を出来る限り客観的に知っておく必要があります。 様々な意見があるのは当然で、「色んな立場の見方はある」でいいのです。「It is controversial、、、」と話を切り出せばいい。 この「controversial」はマジックワードです。

真珠湾奇襲攻撃に関しては、必ず読んでおいたほうがいい書物があります。 ルーズベルト大統領の国務長官であったコーデル・ハルの回顧録です。

アメリカの日本に対する最後通牒だと言われているハル・ノートを知っている人は多くても、ハル長官が当時を振り返って何を言っているか理解している日本人はほとんどいないと思います。 しかし、これは日本人全員が理解しておくべきことです。 なぜならば、「日本人は奇襲を計画した卑怯な民族だ」という汚名を着せられているかも知れないからです。 着せられた汚名は晴らして、名誉は挽回しておかなければいけません。

ハル長官は自伝の中で、「ワシントンの日本大使館よりも先に、日本からの野村駐米大使宛の長文の暗号電文を解読して内容を理解していた」と書いています。 日本大使館でのタイプが間に合わなかったら、日本政府が野村大使に指示した時間に自分と会見し、電文の内容を口頭でもいいから伝えるべきだったと述懐しています。 当事者であるハル長官の言によると、日本は宣戦布告なしに奇襲を計画していたのではないことが分かります。

これだけで十分なのです。知っているのと知らないのでは大きな差を生むのです。

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ここで私が言いたかったことはシンプルです。

相手と争う必要はありません。
しかし、自分の立場を理解しないまま沈黙するのは、もっとよくありません。

外交の場でも同じです。

トランプの発言に対して、強く反論する必要はありません。
しかし、何も返さないのではなく、「間」で返すべきです。

その一瞬の余白の中に、自国の歴史認識と自信がにじみます。

大阪のおばちゃんのグルーブ感とは、単なる軽口ではありません。
「私は分かっています」というサインです。

沈黙でもなく、対立でもなく。
そのあいだにあるリズムをどう使うか。

そこに、日本の外交の一つの可能性があるように思います。

***

2026年3月10日火曜日

世界がきな臭いとき、日本はいつも平和である

 

日本列島が、ひょっこりひょうたん島みたいに海を漂えたらいいのだが。

世界情勢も、もう少し気楽に眺められる。


イスラエルがガザを攻撃した、イランが報復するかもしれない、ホルムズ海峡が緊張している――そんなニュースが世界を駆け巡っています。2009年1月の話です。


テレビをつけると、専門家が地図を指しながら解説していますが、正直に言うと、中東の問題はなかなか簡単には理解できません。

無理もありません。
この地域の対立は、近代の政治というより、はるか昔の宗教と歴史にさかのぼる話だからです。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教。

三つとも同じ源流を持っているのに、聖地をめぐって二千年以上も争い続けています。人間というのは、信じるもののためならどこまでも戦える生き物らしい。宗教というものの力の大きさを思い知らされます。

もっとも、日本人にはこの感覚がなかなか分かりません。
日本には宗教がないわけではありませんが、神社もあればお寺もあるし、クリスマスも祝う。お正月には初詣に行って、結婚式は教会で、葬式は仏式という具合です。世界の宗教の人たちから見たら、かなり不思議な民族でしょう。

だから中東のニュースを見ていると、どうしても距離感があります。
「また戦争をしているのか」と思いながら、その横で日本では、花粉症の話とか、桜の開花予想とか、野球、そんなニュースも同じ調子で流れています。

世界がきな臭くなるほど、日本の空気は妙にのんびりしているように感じるのです。

もちろん、日本はこの問題と無関係ではありません。
石油のほとんどを中東に頼っている以上、ホルムズ海峡が封鎖されれば日本経済は大きな打撃を受けます。遠い国の戦争のように見えても、日本の生活とはしっかりつながっています。

それでも日本人の感覚は、どうも中東の人たちとは違います。
宗教や歴史のために戦争をするという感覚が、どうしても実感として理解しにくいのです。

世界にはアメリカ、中国、ロシアといった大国があり、それぞれが自分の国益を考えて動いています。中東の戦争も、宗教だけでなく、資源や軍事や政治が複雑に絡み合っています。

その中で、日本という国は、なかなか難しい場所にあります。
安全保障ではアメリカに頼り、エネルギーでは中東に頼り、経済では中国とも深く結びついている。どこにも完全には属していないのに、どこからも影響を受けるという立場です。

もし日本列島が、子どものころに見ていた
ひょっこりひょうたん島のように、海の上を自由に移動できる島だったらどうでしょう。

世界がきな臭くなったら、太平洋の真ん中あたりにそっと漂っていく。
情勢が落ち着いたら、またアジアの近くに戻ってくる。

そんな便利な機能が日本列島についていれば、日本人はかなり安心して暮らせるかもしれません。

残念ながら、そういう機能はついていません。
日本列島は動かないし、世界情勢のほうが動いてきます。

結局のところ、日本はこの複雑な世界の中で、どうやって立っていくのかを考え続けるしかありません。

世界がきな臭くなるたびに、ひょうたん島を考えます。
そして同時に思うのです。

それでも今日も日本では、電車は驚く精度で走り、コンビニにはお弁当が並び、夜になるとテレビではバラエティ番組が始まります。

世界は騒がしいのに、日本はいつもどこか平和です。
それが、この国の不思議なところです。

***

2026年3月8日日曜日

トランプの変化と戦後日本 ーー 私たちは本当に共和国になったのか

 

まず最初に、共和国とは何かを一言で説明しておきたいと思います。


共和国とは、国家が特定の支配者のものではなく、市民全体の公共のものとして運営される政治体制のことです。この考え方はラテン語の Res publica ──「公共のもの」という言葉に由来します。

国家は王のものでも、支配者のものでもなく、市民全体のものだという思想です。

最近のアメリカ政治を見ていると、少し奇妙な感覚を覚えます。

かつてのドナルド・トランプは、ニューヨークの不動産業者の延長のような政治家に見えました。粗野で、衝動的で、既存の政治秩序を壊す人物です(反抗側の人)。

ところが最近の彼を見ていると、むしろ「普通のアメリカ大統領」に近づいているように見えるのです(権力側の代表)。

軍事行動。
同盟関係。
国家としてのメッセージ発信。

そこには個人の気まぐれというより、国家という巨大な装置が動いている気配があります。トランプという異端の政治家ですら、その構造の中で動いているように見えるのです。

アメリカは共和国なのか、帝国なのか

アメリカは自らを共和国と呼びます。
しかし冷戦以降の現実を見ると、世界秩序を管理する巨大な国家でもあります。

軍事。
通貨。
技術。
情報。

これらを通じて世界に影響力を持つ姿は、古典的な帝国とは違いますが、確かに帝国的な構造を帯びています。

私は最近のアメリカを見ながら、どうしても別の国を思い出します。

日本です。

日本の安全保障は
  • 米軍
  • 米外交
  • 米軍産複合体
  • 金融
に大きく依存しているからです。

だから

アメリカの権力構造が変わると、日本の安全保障も変わります。

日本は共和国になったのでしょうか

1945年の敗戦のあと、日本はアメリカの占領のもとで新しい国家体制を作りました。

民主主義。
憲法。
議会制度。

形式としては、確かに共和国的な制度が整いました。
しかし、制度が整うことと、国家としての主体が確立することは同じではありません。

安全保障の根幹はアメリカに依存しています。
外交もまた、その影響から自由ではありません。

経済大国と呼ばれた時代でさえ、日本の国家としての独立はどこか曖昧なままだったように思います。

私は若いころから疑問でした

私は10代のころから、ずっと考えてきたことがあります。

なぜ日本は昭和の15年戦争を早々に終わらせることができなかったのか。

広島と長崎に原爆が投下され、日本は降伏を受け入れました。
その結果として生まれた戦後体制は、単なる敗戦処理ではありませんでした。

それは、日本を新しい世界秩序の中に組み込む仕組みでもありました。
その秩序の中で、日本は平和と繁栄を手に入れました。

しかし同時に、国家としての主体性をどこかに置き忘れてしまったのではないでしょうか。

魯迅が描いた阿Q

中国の作家魯迅は『阿Q正伝』の中で、敗北しても心の中で勝ったと思い込む「精神的勝利法」を描きました。いわゆる「阿Q精神」です。

現実の問題に向き合わず、内面の納得で済ませてしまう心理です。

戦後の日本にも、どこかそれに似た空気があるように感じることがあります。

安全保障。
歴史。
国家の責任。

深く議論することを避けたまま、私たちは経済成長の成功物語の中で暮らしてきたのかもしれません。

国家を支えるもの

国家は制度だけで成り立つものではありません。

ローマ史の研究者たちは、国家が衰えるとき、まず失われるのは制度ではなく市民の精神だと言います。

つまり、

自分たちの社会を
自分たちの責任で支えるという覚悟です。

戦後80年の問い

戦後80年を迎えたいま、日本は改めて問われているのではないでしょうか。

私たちは本当に共和国になったのでしょうか。
それとも、豊かな保護国として生きてきただけなのでしょうか。

トランプのアメリカがどこへ向かうのかはまだ分かりません。
しかし一つだけ確かなことがあります。

世界秩序が揺らぐとき、他国に依存してきた国ほど、自分自身の姿を問い直さなければならなくなるということです。

その問いから、日本もまた逃れることはできないのだと思います。

***

2026年3月6日金曜日

ボストンの公衆電話から見えたイラン革命

 

1979年春、Boston Public Gardenにて

ルームメイトのマホムド・サファリと。
背後はJohn Hancock Tower。イラン革命のニュースが連日流れていた頃。  

1979年、私はボストンにいました。
まだ20代の、日本から来たばかりの遊学生でした。

アメリカに憧れ、深い知識も覚悟もないまま渡米した、ごく普通の日本人学生でした。当時の私は、イランやイスラム教についてほとんど知りませんでした。知的な大学生の象徴のように日本では『朝日ジャーナル』を小脇に抱えて電車に乗り、中東特集の記事を読んでは、半分も理解できずにいました。

そんな私がBoston市内の14 Marlborough St でルームシェアを始めたのが、イラン人のマホムド・サファリでした。

彼はテヘランのスーパーマーケットの店員でしたが、祖国の役に立とうと英語を学ぶためにボストンに来ていました。私と出会った頃、彼はほとんど英語が話せませんでした。お金もなく、食事にも困る状態でした。

私は自炊をしていましたので、自然に二人分を作るようになりました。

あの頃の私たちは二人とも異国の若者でした。
言葉は十分に通じなくても、それだけで十分だったのかもしれません。

私の人生の中でも、特筆すべき「邂逅」だったと思います。

イスラムの戒律に戸惑いながら食材を選び、料理をしました。言葉は通じなくても、なぜか馬が合いました。彼は穏やかで倫理観が強く、そして少し誇り高い青年でした。

やがて、イラン情勢は日々緊迫していきました。

パーレビ国王に対する抗議運動が激化し、1979年、革命は頂点に達しました。アメリカのニュースではテヘラン市内の混乱が連日報じられていました。マホムドは家族を案じていました。

私たちはボイルストン・ストリートの公衆電話から、25セント硬貨を山ほど握りしめ、テヘランへ国際電話をかけました。奇跡的につながりました。

受話器の向こうで母親の声を聞いた瞬間、彼の大きな目から、ひげに伝って大粒の涙がこぼれ落ちました。

あの光景は、今でも忘れられません。

私はマホムドからイランの歴史を学びました。多くは筆談でした。

1953年、イランでは首相 モサッデク の政権が倒れました。
石油国有化を進めた首相は、英米の関与によるクーデターで失脚しました。

その後、アメリカが構築したのがパーレビ傀儡体制でした。冷戦下、イランは「安定」の名のもとに管理され、民主的選択の機会は奪われていきました。

それをマホムドは、静かに、しかし強い言葉で語りました(筆談と片言の英語でしたが)。
1979年の革命は、宗教革命ではありません。

長年蓄積された屈辱と介入への反発でもあったのです。マホムドはパーレビを「シャー」と呼び、その名を口にするだけで顔をしかめるほど嫌っていました。

その後も歴史は複雑に絡み合います。イラン・イラク戦争。中東における代理戦争。支援と制裁の応酬。そして現在に至るまで続く緊張。

アメリカは自由と民主主義を掲げる国です。
しかし同時に、自らの利益のために他国の政治構造に介入してきた国でもあります。今でもそうです。

私は1989年から2009年までアメリカで生活し、アメリカ人の組織の中で働きながら、アメリカを見てきました。アメリカから日本も見ていました。

アメリカは理想と現実の間で揺れ続けています。自由を語りながら、力で秩序を作ろうとする側面もあります。

今回のイランをめぐる緊張を見ながら、私はボストンの公衆電話を思い出します。

国家と国家の論理の背後に、
母親を心配する一人の青年がいました。

歴史は理念だけでは動きません。
感情と誇りと記憶が積み重なって動きます。

そして、ここからが日本の問題です。

日本はどう振る舞うのでしょうか。

アメリカの論理をそのまま受け入れるのか。
それとも、自分自身の問いを持つのか。

***

2026年2月17日火曜日

人生の危機管理――覚悟はどこにあるのか

 

このスライドも古いですね。最初に作ったのは1990年代の半ばでした。私の会計や財務の知識は、とても初歩的なもので、恐らく、商業高校や工業高校の一年生の夏までに習うレベルだと想像します。商業高校の簿記や工業高校の製造原価計算は、コンサルタントの基礎知識です。ついでに言っておくと、エクセルのスキルがあれば上等です。

このスライドは、人生を一本の時間軸(過去・現在・未来)に見立て、アカウンティングとファイナンスの概念で「リスクをとること」と「危機管理」を説明したものです。アカウンティングは過去の記録、すなわち自分のトラックレコードを確認する営みであり、ファイナンスは未来に向けた投資とリターンの設計です。その間にあるのが、バランスを取りながら意思決定を行う現在の自分です。どの程度の投資を行い、どのリターンを求めるのか。その判断には必ずリスクが伴います。だからこそ、危機管理とは単なる防御ではなく、過去を踏まえ、未来を見据えたうえで、自らの責任で決断する姿勢そのものだ、ということをこの図は示しています。

このスライドをあらためて眺めながら、先の衆院選の結果を思い出しました。

自民党が驚異的な大勝を収めたという結果を見ながら、私はある種の空虚さを覚えました。政治の世界で繰り返されるのは、与党も野党も上滑りのスローガンばかり、責任の所在の曖昧さばかりが目立って、滑稽ですらある。

アメリカ大統領ハリー・S・トルーマンという人物を私は評価していません。むしろ日本人にとっては複雑な存在でしょう。しかし、彼の机上にあった「The buck stops here」という言葉だけは、政治家の本質を突いています。トルーマンに最終責任は自分が引き受けるという覚悟がどれほどあったのかは分かりませんが、いま私たちに欠けているのは、この姿勢ではないでしょうか。

しかし、問題は政治家だけではありません。これからの時代に本当に必要なのは、「人生の危機管理」だと思います。組織のマニュアルや制度の話ではなく、自分の人生の意思決定を自分で引き受ける覚悟のことです。

不確実性が高まるなかで、コンサルティング会社への就職人気やハウツー本の売れ行きは、将来への不安の裏返しでしょう。知識やフレームワークを求める気持ちは理解できます。しかし、知識は意思決定の代わりにはなりません。リスクを引き受け、判断する主体は、あくまで自分です。

危機管理の本質は、将来の不確実性のなかで決断することです。そこでは、データや理論だけでなく、直観や想像力が重要になります。危機の多くは想定外の形で現れます。マニュアルは過去の想定の産物であり、想定外には限界があります。想像力の乏しい判断は、同じ間違いを繰り返します。

いま生成AIは、膨大なデータをもとに合理的な答えを提示します。しかし、もし意思決定そのものをAIに委ねてしまえばどうなるでしょうか。そこでは直観や倫理観、歴史感覚といった、人間が長い時間をかけて培ってきた内面的な力が後景に退いてしまう恐れがあります。相互に依存し合う判断の連鎖のなかで、誰も最終責任を取らない構図が生まれかねません

明治期に紹介されたスマイルズの自助論は、「天は自ら助くる者を助く」と説きました。国家の力は、個人の自立の総和です。外部の助けを活用することと、責任を放棄することは違います。最終的な決断を自らの名において行う、その覚悟があってこそ支援も意味を持ちます

私が強調したいのは単純です。どれほど高度な理論やAIの助言があっても、最後に決断し、その結果を引き受けるのは人間です。危機管理とは恐れを回避する技術ではなく、「自分が引き受ける」という覚悟の問題です。

「The buck stops here」という言葉を、誰かに求める前に、自分の胸に問う。その姿勢こそが、不確実な時代を生き抜くための、最も基本的な危機管理なのではないでしょうか。

***

2026年2月12日木曜日

子どもを“情報の受信機”にしないために ― 小林秀雄『スポーツ』とAI時代の教育

 
生成AIは、可能性を広げる。

だが――「好き嫌い」に責任を持つのは、誰か。
教育は、子どもを“情報の受信機”にしていないか。

衆議院選挙が終わり、与党の歴史的な大勝という結果が出ました。そして間を置かずに冬季オリンピックが始まりました。政治とスポーツという二つの大きな出来事が重なったとき、私は小林秀雄の1959年のエッセイ『スポーツ』を思い出しました。

小林はそこで、「リアリストとは、好きなものは文句なく好き、嫌いなものは文句なく嫌いだという信条のうえに知恵を築いている人だ」と書いています。これは一見単純な言葉ですが、実はきわめて重い意味を持っています。私たちはいつの間にか、「好き嫌い」を軽いもの、未熟なものとして扱い、「データ」や「世論」や「専門家の解説」によって判断することを賢さだと思い込んできたのではないでしょうか。

小林が問題にしたのは、まさにその点です。スポーツ観戦においても、観客は自分の目で見て「すごい」と震える前に、解説者の理屈で理解しようとします。新聞の評価や統計の裏付けがあって初めて安心する。そこでは、自分の身体が発する直観は後景に退きます。小林は、私たちがこの「好き嫌い」という心の動きの価値をひどく下落させてしまったと言いました。

今回の選挙結果を見て、私は日本がさらに「情報の受信機」になったのではないかと感じました。信条よりも議席、理念よりも安定。空気を読み、無難な選択をする。その姿は、主体的な判断というよりも、与えられた情報の中で最適解を探す態度に近いように見えます。

そして今、その延長線上に生成AIの時代があります。もし私たちが自分の「好き嫌い」を持たず、責任を負うことを避け、効率的で正しそうな答えを機械に委ねていくとしたらどうなるでしょうか。生成AIは膨大なデータから「次に来る確率の高い言葉」を選びます。そこにあるのは統計的な整合性であって、お腹の底から突き上げてくる「これが好きだ」という身体的な確信ではありません。

AIにとって、人間の「熱量」は計算不可能な偏差に過ぎません。理屈を無視して「これがいい」と言い切る瞬間は、統計的予測を裏切るノイズです。しかし実は、その予測不可能性こそが、人間にしか持ち得ない価値です。AIは巨大な鏡のようなものであり、人間が過去に残した熱の痕跡を映し出すことはできますが、自ら燃えることはできません。

もし人間が主観を捨て、「AIがこう言っているから正しい」と同調するだけになれば、新しい文化も思想も更新されなくなります。高度な模倣の堂々巡りが続くだけです。計算不可能な主観的熱量を持つことは、AIに対する人間側の最後の砦であり、責任の引き受けでもあります。

小林秀雄の言う「好き嫌い」は、単なる感情論ではありません。それは「自分の命に対する誠実さ」です。自分の心がどう動いたかを、誰のせいにもせず引き受けることです。客観的な正解に寄りかかれば、間違っても責任は分散されます。しかし、「私はこれが嫌いだ」と言い切るとき、その人は孤立するかもしれない代わりに、自らの判断に責任を負います。そこに主体が生まれます。

高齢者が経験豊富であることと、主体的であることは同じではありません。政治家もまた同じです。世論の風を読むだけでは、主体とは言えません。今の日本社会が、自分の好き嫌いを語らずに安定や多数派に寄り添うだけならば、私たちはやがて運命の判断すら機械に預けてしまうかもしれません。

スポーツの祭典を見ながら、理屈を超えて胸が熱くなる瞬間こそが、人間が生きている証だと改めて思います。その感覚を信じられる社会でなければ、政治も文化も痩せ細ります。

これからが日本の正念場でしょう。情報を受け取るだけの国でいるのか、それとも一人ひとりが「好き嫌い」という主観に責任を持つ国になるのか。小林秀雄の『スポーツ』は、半世紀以上前の文章でありながら、生成AI時代の私たちにこそ、鋭く問いかけているのです。

「私はこれが嫌いだ。理由は私だからだ」。

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2026年2月11日水曜日

問いを失った政治、考えなくなった社会  ――衆議院選挙とAI時代の人間

 
今回の衆議院選挙を見ていて、私はある一枚のスライドを思い出していました。

それは、1990年代前半に私が初めて作成し、その後、数多くのプロジェクトのキックオフミーティングで使ってきた、コンフリクトマネジメントに関する図です。もともとは、ビジネススクールの教科書にあった考え方を拝借したものですが、私自身にとっては、組織や社会を考えるうえでの「基本中の基本」を示す一枚でした。

このスライドを、大手日本企業の部長クラスの方々に説明すると、しばしば鼻で笑われました。「そんな当たり前のことを、なぜ今さら説明するのか」「貴重な時間の無駄だ」という空気を、何度も感じたものです。実際に、そうした言葉を直接投げかけられたこともあります。しかし皮肉なことに、日本の組織は、まさにその「当たり前」ができていない。そのことを、私は現場で繰り返し目にしてきました。

今回の選挙戦も、同じ構図だったように思います。

国民が抱いている素朴な疑問――エネルギーや食糧問題をどうするのか、外交や国防と生活をどう両立させるのか、移民政策をどう設計し、社会としてどう統合するのか――本来なら、そうした問いこそが選挙の中心に据えられるべきでした。ところが実際には、具体的な統合設計を示さないまま、「やる気」や「強さ」を競い合う場になっていたように見えます。強さを演出することと、全体を設計することは、まったく別の能力です。

添付のスライドは、横軸に「対立のレベル(コンフリクトの強さ)」、縦軸に「成果(アウトプット)」を取っています。対立が低すぎれば、組織はぬるま湯になり、成果は上がりません。一方で、対立が過剰になれば、分断や疲弊を生み、やはり成果は落ちます。重要なのは、その中間にある「マネージすべき領域」であり、適度な緊張と対立を意図的につくり出し、議論を通じて全体最適を探ることです。

コンフリクトマネジメントとは、争いを避けることではありません。異なる意見を表に出し、感情と問題を切り離し、共通のゴールを確認しながら、建設的な議論へと導くことです。その過程で、創造性が生まれ、問題が早期に発見され、相互理解が深まります。コンフリクトは「悪」ではなく、「変化が必要だ」というサインなのです。

今回の選挙の圧勝は、リーダー個人の勝利というよりも、有権者と政治がともに「問いを放棄した」結果ではなかったでしょうか。野党も、国民も、十分な問いを投げかけられなかった。その代償は、時間差で必ず現れます。問題は、そのとき誰が責任を引き受けるのか、という点です。

そしておそらく、こうした選挙を重ねるたびに、日本政治から静かに距離を取る人は、これからも増えていくのでしょう。そのこと自体が、すでに社会に現れている、ひとつの「コンフリクトのサイン」なのだと思います(社会全体の虚無化)。

では、どうすればよいのか。答えは短期的な対症療法ではなく、中長期的な教育のグランドデザインを描くことしかありません。日本には、何もないわけではない。小中学校から高校、大学に至るまで、本来は思考力を育てるための素材も蓄積も、すでに存在しています。問題は、それらが「問い」を中心に再編されていないことです。

良い問いの立て方を学び、仮説を立て、検証するという方法論を、段階的に身につけていく。その過程でAIを取り入れるのであって、AIに考えさせたり、書かせたりするのではありません。人間が書いた文章をAIに評価させ、問い返させる。その補助線として使うことこそが、健全な関係でしょう。

まずは現行の国語教育が本来何を目指してきたのか、その本質を確認すること。その上で、思考力を少しずつ積み上げていくしかない。問いを立て、考え、引き受ける力を育てること。それができなければ、日本は政治においても、教育においても、静かに思考を手放していくことになるのだと思います。

***

2026年2月9日月曜日

バラバラの知識を“使える力”に変える教育 ――30年前に描いた一枚のスライドから

 


30年前のスライドの話です。でも、いまの教育と社会を考えるヒントが、そこにあります。

第1章:概念提示(シンセサイジング機能とは何か)

シンセサイザーの比喩

「シンセサイザー」と聞くと、電子音楽やテクノポップを思い浮かべる方も多いかもしれません。私自身、黒人音楽のシンプルなブルースやソウルを好んできたアナログ人間ですから、正直に言えば電子音楽は今でもあまり得意ではありません。しかし、ここで言うシンセサイザーは音楽の話ではありません。「シンセサイジング機能」の話です。

音楽におけるシンセサイザーとは、音をデジタル化して要素を組み合わせ、調整し、一つの音楽として成立させる装置です。私は30年ほど前、この考え方こそが、ビジネスや組織、さらには社会や国家の運営において最も重要な能力だと考え、まとめたのが上のスライドです。

多領域のピース

スライドの左側には、政治、経済、法律、情報システム、心理学、哲学・思想、数学、文学、歴史、語学といった、バラバラのピースが描かれています。これらは、いずれも現代社会を理解するうえで欠かせない分野ですが、単独では不完全です。専門知識をいくら深めても、それだけで複雑な現実の問題に対処することはできません。

現実の課題は、必ず複数の領域が絡み合って現れます。経済問題は政治と切り離せませんし、技術の問題は法律や倫理と無縁ではありません。にもかかわらず、私たちはしばしば、部分だけを見て全体を見失います。

統合とコミュニケーション

そこで必要になるのが、中央に示した「シンセサイジング機能」です。異なる分野の知識や視点を統合し、首尾一貫した全体像として理解する力、そしてその統合結果を他者に伝え、共有する力です。単に「分かっている」だけでは不十分で、「伝わる」形にすることが求められます。

スライドの右側に描かれているのが「ビジネス」、すなわち現実の意思決定と行動です。知識の量や専門性の高さだけでは、この領域には到達できません。統合し、判断し、他者と合意を形成して初めて、現実は動きます。

リーダー不在・教育問題への接続

約10年前、私は「迷走する日本の原因は、広い視野と深い洞察力を備えたリーダーの欠如にある」と書きました。この認識は、残念ながら今も変わっていません。私がよく思い出す、ある時代劇の言葉があります。「大義名分の『名分』を手に入れた悪党ほど恐ろしいものはない」という水戸黄門の言葉です。シンセサイジング機能を欠いた権力の危うさを端的に表しています。

部分的な正論や制度の正当性だけを振りかざし、全体を見渡す力を持たない人間が権力を握ったとき、国民は容易に人質になってしまいます。日本にバランスの取れたリーダーが育ちにくい背景には、戦後の教育制度の影響もあるでしょう。専門を細かく分断し、正解を早く当てる能力を競わせる教育では、統合する力は育ちません。

第2章:具体例(コンサルティングという実装例)

仮説と検証

シンセサイジング機能が、現実の仕事でどのように使われているか。その分かりやすい例が、コンサルティングです。コンサルティングのビジネスは、「仮説を立て、その仮説を検証する」ことを骨子としています。闇雲に情報を集めたり、相手の話を漫然と聞いたりすることが仕事ではありません。

限られた時間の中で本質的な問題を見極めるためには、まず「問い」を立てる必要があります。その問いに基づいて論点を構造化し、仮説としてまとめていきます。
論点を売る

この役割を担うのが、コンサルタントの中でもパートナーと呼ばれるリーダーです。パートナーの頭の中には、常に「論点を売る」という意識があります。商品やサービスを売るのではありません。「この問題を考えるなら、何が本質的な論点なのか」という枠組みそのものを提示することです。

事前に、議論の目的を明確にし、考えられる論点を「漏れなく、ダブりなく」整理し、それぞれについて仮説を立てます。仮説は暫定的な答えにすぎず、正しいかどうかは検証して初めて分かります。

Sense & Respond


打ち合わせの場では、「何かお困りですか」と聞くだけの御用聞き営業にはなりません。また、「話したいことを話す」こともしません。相手が最も関心を持っている論点は何か、その論点について仮説は妥当かどうか。相手の反応を感じ取りながら、論点を絞り込み、仮説を検証していきます。これが「Sense & Respond」と呼ばれるプロセスです。

この意味で、コンサルタントの仕事は「答えを出すこと」ではなく、「正しい問いと論点を設計すること」にあると言えます。

落とし穴(思い込み/ローラー作戦)

ここで重要なのは、仮説は否定されることを前提としている点です。コンサルタントが陥りやすい落とし穴の一つが「思い込み」です。準備した仮説に固執し、「準備した通りに違いない」と信じ込んでしまうことです。

もう一つの落とし穴は、すべての論点、すべての仮説を検証しようとする「ローラー作戦」です。緻密さが求められる場面では有効ですが、意思決定の場では本質を見失います。必要なのは、統合と選択です。


第3章:起源(アメリカのエッセイ教育)

エッセイ=説得と検証

この思考様式のルーツは、アメリカの作文教育にあります。アメリカの入学のための統一試験には、必ずエッセイが組み込まれています。エッセイとは、自分の主張を明確にし、その根拠を示し、読み手を説得する文章です。単なる感想文ではありません。

目的と主張がなければ成立しない

エッセイは、他人を説得し、自分の目的を達成できるかどうかを問う訓練です。自分の考えと目的がなければ、そもそも成立しません。この訓練を通じて、問いを立て、論点を構造化し、仮説を検証する力が自然と身についていきます。

教育の差が思考様式の差になる

一方、日本の中学・高校の国語教育では、この視点が決定的に欠けているように感じます。多くの場合、求められるのは無難な感想や正解らしいまとめです。その結果、社会人になっても、自分の主張を持てず、小学生の作文の域を出ない文章を書き続けることになります。チャットや生成AIが中身の空洞化を指数関数的に加速します。

30年前に私が「シンセサイジング機能」を問題提起した背景には、この教育と社会の断絶があります。部分最適の知識は増えても、それを統合し、目的を持って使う力が育たない。その延長線上に、迷走する組織や国家の姿があるのではないでしょうか。文系だ理系だという単純な問題ではない。

シンセサイジング機能は、特別な才能ではありません。本来、社会を担う人間すべてに求められる、基礎的な力なのです。

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2026年1月26日月曜日

政治が幼く見える理由――親として考えたい「言葉」と教養の話

 

AIが「答え」を出す時代に、
人間に残されるのは、水面下で育つ力だ。


日本の政治を見て、私が考えていること

母国語の語彙が豊かで、表現の幅が広いほど、思考の空間も広がるのではないか。頭の中に言葉が多く存在すれば、それだけ考えを行き来させる余地が生まれる。逆に、使える言葉が少なければ、思考そのものが平板になってしまう。これは理屈というより、長年生きてきての体感です。

久しぶりに日曜朝の政治討論番組をテレビで観ました。大概は車の中で断片的にラジオで聞くのですが、 テレビで見ると、その酷さがよりはっきりします。 議論以前に、言葉が荒く、感情が表情に表れ、小学校の学級会のような政治家が多い。話している内容以上に、「この人は、どれだけ自分の言葉で物事を考えてきたのだろうか」と、そこが気になってしまったのです。言語は、その人の教養や人格を隠さずに映し出します。

もっとも、私自身も偉そうなことは言えません。語彙や表現力の乏しさに愕然とすることは、今でもあります。ブログを書くという行為は、書き手の力量を容赦なくさらすものです。その覚悟がなければ続けられない。そう思いつつ、 もう若くはありませんから 、今さら取り繕っても仕方がないと開き直って40年以上ぐだぐだと日記を書いています(年寄りは傲慢ですからね、、、、)。

突然に衆議院選挙が始まりました。日本の政治を見ていると、「政治ごっこ」という言葉が浮かぶことがあります。海外で暮らした時間が長かったせいで、私の感覚がずれているのかもしれません。しかし、テレビカメラの前で感情を制御できず、理念よりもその場の受けを優先する姿を見ると、どうしても幼さを感じてしまいます。

その原因の一つは、教養の欠如ではないかと考えています。教養とは単に知識量のことではありません。世界の歴史の流れをどう理解しているか、自分の国が国際社会でどんな位置にあるのか、そして自分自身が国民から何を託されているのかを、どれだけ自覚しているか。それらを含めた「生き方」そのものだと思います。

福沢諭吉は『学問のすすめ』で「人望」について語りました。多くの人から「あの人に任せておけば大丈夫だ」と思われること。それが教養の一つの形ではないでしょうか。権威や肩書きではなく、その人の姿勢や言葉、振る舞いから自然と伝わるものです。

政治と教育は切り離せません。国のビジョンが曖昧なままでは、教育も根を失います。義務教育は、子どもたちに日本人としての自信と希望を持たせる場であるべきだと思います。良いところも、失敗した歴史も、感情論ではなく、きちんと教える。それができなければ、考える力は育ちません。

私は本を読むとき、著者と議論するように読んできました。ページの余白に反論を書き込み、納得できないところで立ち止まる。本と格闘する経験は、思考の基礎訓練になります。討論番組が討論にならないのは、こうした訓練が不足しているからかもしれません。

オルテガは『大衆の反逆』で、凡庸さが権力を握る危険を指摘しました。思想を持たないまま声だけが大きくなり、創造的な少数を敵視する。マス・メディアやSNSが発達した現代では、その傾向はより強まっています。自分で考える努力を放棄した社会は、外からいくらでも誘導されてしまうでしょう。

それでも、私は絶望だけを語りたいわけではありません。教育を通じて、母国語で考える力を取り戻すことは可能だと思っています。AIが普及する時代だからこそ、自分の頭で問いを立て、判断する力が一層重要になります。

日本の政治に違和感を覚えるのは、政治家だけの問題ではなく、私たち自身の問題でもある。そう自戒しながら、これからも考え続けていきたいと思います。上手な答えは出なくても、考えることをやめない。それだけは手放したくありません。

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2026年1月25日日曜日

精神のリレーは、どこで途切れたのか ――本を読まなくなった日本と、子どもたちに何を手渡せるか

 
北斎の地方測量の図

江戸時代という「成熟した社会」


私は、江戸時代を高く評価しています。もしかすると、日本人が最も安定し、最も「幸せ」に近い時代だったのではないかとさえ思うのです。それは決して、貧しさや身分制度を美化したいという意味ではありません。むしろ、江戸社会が持っていた身の丈に合った統治、共同体のサイズ感、教育と道徳の在り方に、現代の日本が失ってしまった多くのヒントが隠されていると感じるからです。

明治政府は、幕藩体制を解体し、西欧型の近代国家を急いで作ろうとしました。しかし、その近代化はどこか「上滑り」でした。国家のために働くという意識を、制度としては導入できても、精神としては根付かせることができなかった。結果として、日本人にとっての統治の単位は、国家ではなく、最後まで「村」や「地域共同体」に留まったのではないでしょうか。

江戸時代の社会は、藩という分権的な構造のもと、村落共同体が生活と秩序を支えていました。人々は顔の見える関係の中で生き、過度な競争や中央集権的な管理とは無縁でした。コントロールスパンとしては、まさにそこが限界であり、同時に最適解だったのだと思います。

教育も同様です。全国に三万以上存在した寺子屋は、庶民のための実に優れた教育システムでした。教師と生徒という関係ではなく、師匠と弟子、人と人との信頼関係を軸に、「教える」よりも「学ぶ」ことが重視されました。年長者が年少者を教え、知識だけでなく、徳や振る舞いを自然に身につけていく。これは、現代のeラーニングや画一的な教育制度では決して代替できないものです。

また、江戸時代の日本人は、決して内向きではありませんでした。いわゆる「鎖国」とは、世界から目を閉ざした政策ではなく、宗教を侵略の道具としない国々と選別的に交流する、極めて現実的な外交戦略でした。ペリー来航以前に、欧米が日本を高度な教育水準と治安を誇る国として認識していた事実は、もっと知られてよいと思います。

明治以降、無理な近代化は多くの歪みを生みました。その矛盾の隙間に軍国主義が入り込み、昭和の十五年戦争へと突き進み、敗戦後はアメリカの庇護のもとで「思考停止の平和」と「自己欺瞞」が続いています。国家の独立とは何か、日本人の誇りとは何かを、正面から考える機会は、先送りされ続けてきました。

江戸時代の人々は、落語や時代小説に象徴されるように、ユーモアと余裕を持ち、葛藤や緊張と共に生きていました。多様性があり、均一ではなかったからこそ、個人と集団の間に健全な摩擦が存在していたのです。今の金太郎飴のような社会より、よほど成熟していたのではないでしょうか。

グローバル化とは、無国籍になることではありません。自分の立脚点を明確にし、他者と向き合うことです。江戸時代の日本人が自然に持っていた愛郷心や倫理観は、日本のアイデンティティの重要な欠片です。それらをゼロから作り直す必要はありません。忘れ去られたものを、一つひとつ拾い集め、つなぎ直せばいいのです。

江戸時代を見直すことは、過去に逃げることではありません。日本人がどこから来て、どこで道を誤ったのかを知るための、未来への作業なのだと思います。
  
では、精神のリレーは、いったいどこで間違ったのでしょうか。
  
本を読まなくなったこと、それ以上に、「物語を共有しなくなったこと」が決定的だったと思います。今の日本では、精神のリレーが完全に途絶える可能性すら出てきました。これは大げさではありません。由々しき事態です。しかも、生成AIの中途半端な理解は、その断絶にさらに加速度を与えています。

だからこそ、私は、江戸時代の小説や時代劇の価値を、あらためて見直すべきだと考えています。もし公共性という言葉に意味があるのなら、政府がファンドしてでも、時代劇を作り続ける意義は十分にあるはずです。

害を及ぼすことしかないテレビ番組、特に「報道番組」と称しながら思考を奪うだけの番組を無くし、日本の文化や精神を未来へリレーする物語に投資する。これは懐古ではなく、未来への戦略です。

江戸時代を学ぶとは、過去に戻ることではありません。日本人が何を大切にし、どこで受け渡しを誤ったのかを知ることです。精神のリレーを、もう一度つなぎ直す。その作業を放棄した社会に、未来はないのだと思います。

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2026年1月24日土曜日

なぜ日本は「狡猾(したたか)」になれなかったのか ――事実の隠ぺいと自己欺瞞、そして失われた政治感覚

 何を守り、何を子どもへ渡してきたのだろうか?

<正論>日本の国際政治上の威信維持へ「狡猾の感性」を復権させるとき
東洋学園大学教授・櫻田淳  2026/1/22 08:00

https://www.sankei.com/article/20260122-NK6UUOGF7JKRFBIHT3ZRPSC6WI/


永井陽之助の名前を目にして、久しぶりにその議論を思い出しました。それは、日本が国際政治の現実をどう見誤ってきたか、という問題です。 永井氏といえば、エリック・ホッファーの翻訳で知られていますが、同時に、日本の国際政治論に「現実を見る目」を持ち込んだ人物でもありました。

事実の隠ぺいや自己欺瞞の歴史は、どの国にもあります。アメリカにも、イギリスにも、フランスにもあります。問題は、それが存在するかどうかではなく、それを「自覚している人がどれだけいるか」ではないでしょうか。私には、日本はこの点で、他国よりも厳しい状況にあるように思えます。

中国共産党は、その典型でしょう。彼らは自らの正統性が脆弱であることを、少なくとも内心では理解しています。だからこそ、狡猾であり、計算高く、国際社会に対して仮面を使い分ける感性を持っている。これは道徳的に評価すべきことではありませんが、政治的現実としては否定しがたい事実です。

アメリカも同じです。トランプ氏の振る舞いは、しばしば中国の習近平と比較されますが、私には両者は本質的に似た存在に見えます。共産党という組織ではなく、「トランプ帝国」という個人に権力が集中しているだけの違いです。そこに理念があるかどうかより、力をどう使うかが優先されている点では、大差はありません。

では、日本はどうでしょうか。日本はしばしば「威信」を語りますが、そもそもアメリカの強い影響下にあるこの国に、失われるほどの威信が本当に残っているのか、私は疑問に思います。道徳を語る一方で、現実政治における計算や狡猾さを軽視し、結果として誰にも本気で相手にされない――そんな立場に陥ってはいないでしょうか。

和魂洋才や面従腹背といった言葉が示していた明治の気骨は、もはや一ミリも残っていない。そもそも明治の近代化そのものが、精神の近代化を本気で引き受けたものだったのかと問えば、答えは心もとない。制度や技術は西洋から急ごしらえで移植したが、内面の自立や批判精神までは育たず、近代化は結局、表層的な西洋化にとどまりました。

昭和の敗戦後、日本はその反省すら十分に行わないまま、今度はひたすらアメリカ化へと突き進んだ。とはいえ、昭和の時代には、ほんの数ミリではあれ、反骨精神を保ち続けた知識人が存在していたようにも思います。ところが現在はどうでしょうか。「敵」と「味方」を峻別する本質的な政治感覚や、立場や価値観の「濃淡」や「差異」を読み取る感受性は、どれほど雑巾をしぼっても、水一滴すら出てこないほど枯れ果ててしまった。

櫻田淳氏が述べる「狡猾の感性」とは、道徳を捨てることではありません。むしろ、道徳や倫理の価値をよく理解したうえで、それをいつ、誰に対して、どのように使うのかを判断する能力のことです。「国際政治では力こそがすべてだ」という単純な現実主義に流されることも、逆に、きれいごとだけで世界が動くと信じることも、どちらも危うい。

日本に必要なのは、純粋さでも、潔癖さでもなく、自分たちが置かれている現実を直視する冷静さではないでしょうか。自己欺瞞に気づかないまま道徳を語ることほど、国際政治の場で危険なことはありません。永井陽之助が語った「狡猾の感性」は、いまこそ、日本が取り戻すべき感覚なのだと思います。

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2026年1月23日金曜日

この国で、子どもに“考える力”は育つのか――選挙前に、親が立ち止まって考えたいこと

 
井の頭通りに日が昇る
この道を、誰が、どんな言葉で照らすのか


この国で、子どもに“考える力”は育つのか

選挙が近づくたびに、私はどうしても同じ違和感を覚えます。

それは特定の政党や政治家への好き嫌いというより、「この国の政治や言葉のレベルは、子どもたちに胸を張れるものなのだろうか」という、もっと根の深い不安です。

母国語である日本語は、本来とても豊かな言葉を持っています。語彙が豊かであればあるほど、頭の中で考えられる空間は広がります。考える力とは、知識の量ではなく、言葉の奥行きなのだと思います。ところが、日本の政治家の発言を聞いていると、言葉が軽く、感情的で、どこか子どもっぽく感じられることが少なくありません。言葉が浅ければ、思考も浅くなる。そのことが、そのまま政治の質に表れているように見えるのです。もちろん、私は政治家ではないので、自分の事は棚に上げています。

政治がしっかりしなければ、教育は成り立ちません。

外交、国防、経済、そして教育は本来、一本の線でつながっているものです。ところが日本では、教育だけが切り離され、「いい学校に入る」「テストで点を取る」ことが目的になってしまいました。その結果、子どもたちは忙しくなりすぎ、自分で考えるための“余白の時間”を失っています。

私は、子どもにとって本当に必要なのは「閑暇(かんか)」だと思っています。何も予定のない時間、ぼんやりする時間、考え込む時間です。塾や習い事が悪いわけではありませんが、大人が良かれと思って与えすぎると、子どもは自分で判断する力を育てる機会を失ってしまいます。自分で選び、自分で決める経験こそが、将来の自立につながります。

教育の根っこにあるのは、家庭です。どんな生き方が大切なのか、何を恥だと思い、何を誇りに思うのか。そうした価値観は、教科書よりも、家庭の会話や大人の背中から伝わります。だからこそ、政治が無責任で、言葉が軽く、誰も責任を取らない社会は、子どもにとって決して良い環境とは言えません。

選挙になると、耳ざわりのいい言葉があふれます。「平等」「優しさ」「支援」「みんなのため」。どれも大切な言葉です。しかし、言葉だけで現実は変わりません。努力や責任、そして「自分は何を引き受けるのか」という覚悟がなければ、社会は成り立たないのです。

アメリカのケネディ大統領(JFK)はかつて、「国があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたが国のために何ができるかを問え」と語りました。もし同じ言葉を日本の政治家が口にしたら、戸惑う人も多いかもしれません。それほどまでに、私たちは「与えられる側」でいることに慣れてしまったのです。

でも、子どもたちにそれを引き継がせていいのでしょうか。流れに身を任せるのではなく、自分の頭で考え、自分の言葉で語り、自分の人生を選び取る力。その力を育てることこそ、親世代である私たちの責任ではないでしょうか。

選挙は、未来への問いかけです。

誰に投票するか以上に、「どんな社会を子どもに手渡したいのか」を考える機会だと思います。政治を他人事にせず、言葉の軽さに慣れてしまわず、家庭からもう一度、考える力を取り戻す。その小さな積み重ねが、この国を少しずつ変えていくのだと、私は信じたいと思っています。

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2026年1月20日火曜日

国語教育、本当に“考える力”を育てていますか? ――共通テスト現代国語から考える

点数にならない思考の痕跡

今年の大学共通テストの現代国語を見て、正直なところ、複雑な気持ちになりました。

出題された桜井あすみ氏の「贈与としての美術・ABR」は、限られた抜粋からでも、きわめて示唆的な文章だと感じました。美術とは、意味を一方的に伝達するものではなく、他者との関係の中で「贈与」として成立する営みである、という主張には、私は全面的に同意します。これは美術論にとどまらず、深層心理学で言うコンステレーション、すなわち関係性の中で意味が立ち上がるという考え方にも通じるものだと思います。

ところが、その文章を素材として作られた設問を見たとき、私は強い違和感を覚えました。文章の思想の深さと、設問の性質との間に、あまりにも大きなギャップがあるのです。もちろん、全国一斉試験である以上、採点の公平性や効率性が最優先されるのは理解できます。しかし、その結果として、著者が本当に語ろうとしている核心部分――関係性の中で意味が生成されるという動的な思考――は、ほとんど切り落とされてしまっているように見えました。

私は共通一次試験以前の世代で、センター試験も共通テストも経験していません。したがって、これはあくまで外野からの、しかも無責任な高齢者の感想にすぎません。それでも、昨日あらためてYouTubeで予備校の現代国語講座をいくつか見て、違和感は確信に近いものになりました。そこでは、文章をどう読むかよりも、どう「処理」すれば7〜8割の点数を短期間で取れるか、というテクニックが前面に出ていました。効率的ではありますが、高校の国語教育や、出題者が掲げているはずの理念とは、どうも別の方向を向いているように感じました。

整理すると、高校の授業、受験準備(塾・予備校)、試験問題、大学での4年間、そして社会人生活の間には、いくつもの断絶があります。高校で学んだ内容は、受験の段階で「点数」に変換され、管理しやすい形に加工されます。そして入試が終わった瞬間、その多くは泡沫のように消えていく。これは、ある意味で日本文化らしいとも言えますが、あまりに惜しい話です。さらに言えば、授業設計と現場の教師の間にもギャップがあり、現代国語と歴史など他教科との統合、いわば「梁」が存在しないため、知は柱のまま、やがて一本一本倒れていきます。

高校の現代国語の教科書と、予備校の国語講座を比べてみて、決定的な違いにも気づきました。高校国語は、本来、視野を広げ、価値観の多様性を学ぶためのものだったはずです。一方、入試問題で求められるのは、思考の幅を狭め、型にはめ、正解を一つに収束させるスキルです。自由な思考は、序列化しにくく、管理しにくいからです。

こう考えると、現行の受験制度は、高校国語教育の目的を事実上否定しているようにも見えます。皮肉なことに、いまのAI時代に本当に必要とされている「考える力」や「統合的な知」は、高校国語が本来目指していた方向にこそあります。それを受験が真逆の方向に引っ張っている。この矛盾を、学校も塾も、ある程度わかっていながら、システムを変えない。どこか、見て見ぬふりをしているようにも感じます。無責任だとは思いませんか?

拙宅の近くには、教育評論家の有名人が住んでいます。つかまえて聞いてみたい気もしますが、たぶん武蔵野警察に通報されるでしょう。冗談はさておき、日本の教育問題は、それほど根が深いのだと思います。そしてAIの時代だからこそ、点数化できない思考や、人と人、人とモノとの関わりの中で、少しずつ育っていく理解や気づきを、もう一度大切にする必要があるのではないでしょうか。
 
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2026年1月16日金曜日

AIハルシネーション政治 ――考えている「ふり」の世界

 

考えているように見える。
だが、何も考えていない。

イアン・ブレマーの2026年の世界10大リスク

イアン・ブレマーは、アメリカを代表する国際政治学者であり、世界の政治・経済リスクを分析するコンサルティング会社「ユーラシア・グループ」の創設者です。国家間の軍事衝突や金融危機だけでなく、テクノロジーや社会変化が民主主義に与える影響を読み解くことで知られ、各国政府やグローバル企業の意思決定に大きな影響を与えてきました。

毎年発表される「世界10大リスク」は、未来予測というより、世界が見落としがちな「構造的な危うさ」を可視化する警告として注目されています。

イアン・ブレマーは、2026年の世界的リスクの一つとして「ユーザーを食い尽くすAI」を挙げました。

彼が最も警戒しているのは、AIが人間を超えることではありません。人間が考えなくなることです。おこがましいですが、これは私がコロナ禍のころから言い続けてきたことでもあります。

ここで重要なキーワードがあります。
「AIハルシネーション」です。

ハルシネーションとは、AIが「それらしく聞こえるが、事実でも理念でもない答えを、もっともらしく作り出してしまう現象」を指します。一見、筋が通っているように見える。言葉も整っている。ところが、よく見ると根拠も責任も現実認識も欠けている――それがAIハルシネーションです。特に現実認識、いわゆる as-is に弱い。原因と結果の間に立ち、同じ目線で丁寧に考えるようなことは、基本的にしません。

考えている「ふり」をする新党結成の正体

昨日発表された、野党同士による新党結成のニュースを聞いた瞬間、この言葉が頭をよぎりました。

立憲民主党の野田佳彦代表は、「200人近く擁立しなければ比例票が出てこない」と語ったそうです。一方、公明党の斉藤鉄夫代表は、「選挙目当てではない」と述べるにとどまり、目標数すら示しませんでした。
  • 理念は語られない。
  • 国家像も語られない。
  • 政策の一致点も検証されない。
あるのは、「それっぽい言葉」と「選挙にかかわる数字」だけです。

これは熟議の結果なのでしょうか。それとも、「野党が勝つための最適解を出せ」と入力し、AIが吐き出したハルシネーション的アウトプットなのでしょうか。私のこの疑問、なかなか面白いと思いませんか?

ブレマーが警告するAIの最大の危険性は、エンゲージメント――つまり人を動かす効率――を最大化するために、意味や真理を切り捨ててしまう点にあります。そこでは、「正しいかどうか」ではなく、「反応を得られるかどうか」だけが価値基準になります。少し立ち止まって、よく考えてみてください。

今回の新党構想は、まさにそれと同じ構造を持っています。
  • 勝てそうかどうか
  • 数が取れるかどうか
  • 動員できるかどうか
これらはすべて「出力」であり、「目的」ではありません。にもかかわらず、政治の中枢がそこだけを語っているように見えます。

AIハルシネーションの怖さは、「間違い」よりも「空虚」にあります。完全な虚構ではない。しかし、そこに責任を引き受ける主体がいない。――日本の政治に、実によく似ていませんか?

今回の新党結成も、同じ匂いがします。失敗したとき、誰が何を誤ったのかを説明できない。なぜなら、最初から「なぜそれをやるのか」が存在していないからです。日本の大規模な業務改革プロジェクトを思い出す方も多いでしょう。

ブレマーはこう言います。

熟議民主主義には、独立して考え、情報を持ち、積極的に関与する市民が必要だと。しかし今、日本の政治が示しているのは、その正反対です。考えず、感じず、ただ「それらしい回答」を並べる。これはAIに支配される未来ではありません。AIの振る舞いを真似てしまった人間の劣化です。

AIには理念もビジョンもありません。しかし、人間までそれを放棄したとき、民主主義は単なるアルゴリズムになります。理念もビジョンもない日本の政治とは、残念ながら相性がいい。

今回の新党結成は、政治的決断とは言いにくいでしょう。政治を装ったAIハルシネーションなのです。

ブレマーの警鐘は、シリコンバレーだけに向けられたものではありません。すでに、日本の政治状況そのものに、はっきりと響いています。

――人間は、まだ自分で考えているのでしょうか。

この問いに答えられない政治に、未来を語る資格はありません。

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2026年1月14日水曜日

カレーライスの夜に――遠藤賢司の誕生日

 
細野晴臣(ベース)、鈴木茂(ギター)、松本隆(ドラム)
結成したばかりのはっぴいえんどのメンバーが演奏に参加している

遠藤賢司の代表曲の一つに「カレーライス」(1971年)という曲があります。この歌ほど、時代の空気や変化を表現した曲は、他にはありません。

1970年、三島由紀夫が自決しました。国家だの精神だの、やたらと重たい言葉が世の中を飛び交っていた頃です。ところが若者たちの現実はというと、狭いアパートでカレーを食べ、「肉はないけどジャガイモが入っている!」などウキウキしている。遠藤賢司の「カレーライス」は、そのどうしようもない落差を、真正面から歌った。

外では誰かが腹を切っているのに、こちらはカレーを食べている。冷たい話に聞こえるかもしれませんが、これは無関心ではありません。歌にしたのですから。大きな理想や物語が崩れ去ったあと、信じられるものが「自分の手の届く日常」しか残らなかった、というだけの話ではないでしょうか?

全共闘世代が挫折し、サルトルやカミュの言う「反抗」も、だんだんと居場所を失っていきました。若者は実存主義を語らなくなった。いわば「祭りの後の静けさ」。遠藤賢司は、その後始末を引き受ける世代だったのだと思います。燃え尽きたあとのバリケードの後を、じっと見つめていた人です。

当時、私は高校に入ったばかりでした。大阪の府立高校の校門にはバリケードがまだありました。しかし、空気が変わったのを肌で感じました。「カレーライス」の翌年には、吉田拓郎の「結婚しようよ」がヒットし、音楽は反抗よりも生活や恋を歌い始めます。政治の季節が終わり、生活の季節が始まったのです。

ただし、遠藤賢司はどちらにも乗りませんでした。彼は自分の音楽を「純音楽」と呼びました。流行にも政治にも寄らず、ただ自分の魂が震えた分だけ音にする。だからこそ、50年以上経った今も、「カレーライス」を聴く人が絶えないのでしょう。

1月13日は遠藤賢司さんの誕生日です。亡くなってから今年は10回忌。

夜中にカレーライスを作って食べました。玉ねぎを牛脂で炒めてガラムマサラと一緒のレトルトカレーに投入しました。大きな理想が崩れても、人は腹が減り、鍋をかき混ぜる。その静かな肯定を、エンケンは歌っていたのだと思います。決して虚無的ではない。虚無的だったら遠藤賢司は死ぬまで歌い続けなかったと思います。2026年の日本のほうが虚無的です。

今夜もどこかで、誰かがカレーを食べながら「カレーライス」を思い出しているはずです。エンケンはきっと空の上で、「ワッショイ!」(エンケン後期の歌)と笑いながら、その匂いを嗅いでいるのではないでしょうか。

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2026年1月12日月曜日

日本はどこへ向かっているのか――ロードマップ(続編)

 

これからの世界を、生きていく世代


毎日のニュースを見ながら、「これは自分の生活や、子どもの将来と本当に関係があるのだろうか」と感じたことはないでしょうか?

国際情勢や安全保障の話題は、難しく、どこか遠い世界の出来事のように語られがちです。しかし、親として考えてみると、それらは決して無関係ではありません。どんな価値観のもとで社会が動き、どんな力関係の中で国が判断を下しているのかは、子どもたちがこれから生きる環境そのものを形づくるからです。

いま私たちが直面しているのは、
  • 善悪ではなく力が支配する世界
  • 大人が説明を放棄すると、子どもは空気だけを学ぶ
今回は、専門家の議論ではなく、親の立場から、今の世界と日本のあり方を考えてみたいと思います。

「世界のヤクザ化」と日本の立ち位置を、現場感覚から考える

本稿は、特定の「思想」や「立場」から世界情勢を論じるものではありません。親米でも反米でもなく、右翼でもリベラリストでもない、ごく普通の一個人が、長い時間と複数の現場をくぐり抜けてきた経験から感じている違和感を、言葉にしておこうという試みです。

結論から述べます。

現在のアメリカ、中国、ロシアは、私の感覚では「仁義を失ったヤクザ組織」に近い振る舞いを見せています。これは感情的な罵倒ではありません。秩序がどのように保たれ、どのように壊れていくのか、その構造についての話です。

任侠とヤクザの決定的な違い

私が1970年代半ば、10代を過ごした大阪ミナミの世界には、少なくとも二つの層がありました。一つは、いわゆる任侠の世界、つまり理念としての姿です。そこでは、弱い者を守ること、筋を通すこと、仁義を切ることが重んじられていました。また、越えてはならない一線については暗黙の了解があり、何よりも約束を破ることが最大の恥とされていました。

もう一つは、そこから堕落した、ただの暴力団です。こちらは利益最優先で、恐怖によって支配し、嘘や裏切り、言い訳が常態化しています。上に立つ者は責任を取らず、外面だけは立派に整える。両者の違いは明確でした。

任侠とは、秩序を保つための暴力です。一方、ヤクザ化とは、秩序を壊すための暴力です。この区別を見失うと、世界で起きていることは理解できません。

冷戦期までのアメリカには「仁義」があった

私が長く身を置いてきたアメリカ社会を振り返ると、かつては国家としての「仁義」が確かに存在していました。それは、WASPが支配していた時代であり、アメリカに余裕があった頃でもあります。少なくとも当時のアメリカは、条約を重んじ、同盟国への配慮を一応は示し、「最後の一線」を守ろうとしていました。

ルールを破るときでさえ、建前としての理由を語ろうとしました。これは、国家レベルにおける任侠的な振る舞いだったと言えるでしょう。もちろん、完全に清廉だったわけではありません。しかし、「筋を通しているつもりではあった」という点に、一定の秩序が存在していました。その均衡が、ベトナム戦争あたりから徐々に崩れていったのです。

いまのアメリカは「ヤクザ化」している

近年のアメリカを見ていると、その変質は明らかです。約束よりも国内政治を優先し、同盟国を便利な下請けのように扱い、利益がなければ切り捨てる。しかし、責任は取らない。そして自分たちの暴走は「正義」と声高に叫ぶ。

これはもはや「親分」でも「任侠」でもありません。看板だけが残った暴力装置です。アメリカと長く関わってきた人ほど、この違和感を強く覚えるのではないでしょうか。

中国・ロシアは最初から「仁義を持たない型」

一方で、中国やロシアは少し性質が異なります。彼らの特徴は、仁義よりも面子を重んじ、約束よりも力関係を優先する点にあります。弱者保護という発想は乏しく、ルールは支配者の都合で書き換えられます。

彼らは、任侠から堕ちた存在ではありません。最初からヤクザ的な統治構造を持ってきた国家です。だからこそ、交渉の作法も前提も、西側の感覚とは根本的に異なります。

日本が一番まずい立場にいる理由

問題は、日本の立ち位置です。日本は今も、義や恥、約束といった任侠的価値を、どこかで信じています。しかし、相手はすでにそれを共有していません。それでもなお、「きっと分かってくれる」と期待してしまう。

私が10代を過ごした大阪ミナミの感覚で言えば、これは「もう仁義が通じない組織相手に、昔の筋を期待しているカタギ」です。最も危険な立ち位置だと言わざるを得ません。

私の視点について

私は、日本社会の内側も、アメリカの組織の内側も、そして暴力が日常に近かった空間も、すべて現実として見てきました。だから、親米でも反米でもなく、特定のイデオロギーに依拠しているわけでもありません。ただ、「空気が変質している」という事実に気づいているだけです。

この感覚は、メディアに登場する多くのコメンテーターや国際政治学者には、必ずしも共有されていないように感じます。

まとめ

私が一貫して書いているのは、独立宣言ではなく交渉であり、感情ではなく条件であり、夢想ではなく現実です。これは、仁義が崩れた世界で、それでも生き延びるための最低限の知恵だと考えています。

最後に、問いを一つに集約します。
「世界がヤクザ化したとき、日本はどう振る舞うべきか」。

答えは一つです。仁義がある前提で動くのをやめ、仁義がない前提で、しかし自分たちは任侠心、つまり筋を失わない。そのために必要なのが、これまで提示してきたロードマップなのです。

※本稿で用いる「ヤクザ」という表現は、特定の個人や集団を指すものではありません。秩序や責任、約束といった倫理が失われた状態を説明するための比喩として用いています。

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2026年1月11日日曜日

日本はどこへ向かっているのか ――落語家が語る、この国の主権回復ロードマップ

 
架空の上方落語家

日本の組織はなぜロードマップが描けないのか

――そして究極のロードマップとしての「植民地からの脱却」

日本の組織は、目の前の課題処理や現場対応には強い一方で、「中長期の道筋」を描くことが驚くほど苦手です。企業経営でも、行政でも、そして政治・外交でも、この弱点は繰り返し露呈してきました。本稿では、まずロードマップとは何かを簡潔に整理し、日本人がそれを苦手とする理由を概観した上で、究極のロードマップとしての「日本の植民地的状況からの脱却」について考えてみたいと思います。

ロードマップとは何か

ロードマップとは、目標達成までの道筋を「いつ・誰が・何をするか」という時間軸で整理した進行計画表です。単なる計画書ではなく、最終ゴールとそこへ至るマイルストーンを可視化し、関係者間で共通認識を持ち、進捗を管理するための「地図」のようなものです。

重要なのは、ロードマップは不変の聖典ではなく、状況変化に応じて更新される前提の「思考の道具」だという点です。未来を正確に予測するためではなく、変化に耐えうる判断基準を持つために存在します。

日本人はなぜロードマップが苦手なのか

日本の組織文化では、合意形成を重視するあまり、無難で曖昧な計画に落ち着きがちです。また、最初から完璧な工程表を作ろうとするため、変更が許されず、結果として環境変化に対応できなくなります。現場の実行力は高いものの、長期的なビジョンを外部環境と結びつけて描く「戦略的思考」が弱いとも言えるでしょう。

さらに、不確実な未来に旗を立てること自体が「責任リスク」として忌避され、誰も明確なロードマップを言語化しようとしません。その結果、日本の多くの組織は「その場しのぎの最適化」を積み重ねながら、気づけば方向感覚を失っていくのです。

今の日本人に万人受けするトピックだとは思えないので(私は正しいと思っていますが)、架空の上方落語の師匠に説明してもらいましょう。これは、黒船来航から継続する日本の姿なのです。


究極のロードマップ――日本の植民地的状況からの脱却

さて皆さん、よう考えてみてくださいな。
日本がいま一番ロードマップ要るんはどこや思います?
会社経営でっか? AIの普及でっか?
ちゃいまんねん。そこやない。

ほんまに要るんはな、政治と外交。
もっと言うたら、「戦後日本が、どうやって主権を取り戻すか」という話でっせ。

ここで、はよ言うときまひょ。
このロードマップ、「独立宣言したれ!」とか、「アメリカと縁切ったれ!」いう話とちゃいます。そないなスローガン、大声で叫ぶんは、日本人いっちゃん得意や。で、いっちゃん失敗してきたやり方でもある。

要るんはな、

「従属してへん!」言うて目ぇ背けることやなくて、
「あ、わしら、ここは従属してますなあ」
と、ちゃんと直視して、それを交渉の材料に変えていくことなんですわ。
そのための、現実的な工程表――これが「ろーどまっぷ」でんねん。

まず大前提。ここ大事やから、よう聞いておくれやす。
最初から「独立」を目標に掲げたらあきまへん。
これが一番あかんとこです。

日本はな、長いこと「対等な同盟や言うてます」
口では言いながら、実際は「ほぼ全面依存」
いう、二枚舌で生きてきましたんや。

東京の空、誰が仕切ってます? 日本政府ちゃいます。
安全保障の最終決定権、どこにあります? 実質、アメリカですわ。

でもな、これは現実でんねん。
戦後処理の結果として、そうなっとるだけの話です。

問題はな、この現実を「そうですねん」と公に認めんと、
「うちは独立国家です」言うて、自分で自分をだましてきたことですわ。

ロードマップの第一歩はな、
「こうなりたい!」いう目標設定とちゃいます。
「いま、どうなってまんねん?」いう現状認識です。

まず、日本は主権に制限のある国や、
いうところから始めな、話は一歩も進みまへん。

次の段階にいきまひょ。

従属を、ちゃんと見えるようにして、言葉にする。
これが第1段階です。

安全保障の話で言うたら、
在日米軍が動くとき、日本政府に「それアカン」言う拒否権がない。
日米地位協定は、左右対称やなくて、片っぽに重たい。
有事のとき、最終的に誰が指揮するんか、これもはっきりしてる。

これをな、「同盟の現実」として、白書や政府文書にちゃんと書きなはれ、いう話です。
反米やないですよ。
交渉の土俵を整えるだけの話ですわ。

経済や制度も同じでっせ。
アメリカが制裁したら、はいはい言うて自動追随。
半導体、エネルギー、金融、為替。
「ここは日本だけでは決められまへん」
いう分野を、ずらっと並べて整理する。

これも感情論ちゃいます。
事実の確認です。

さて、ここまで来て、やっと交渉が始まります。
第2段階、従属を取引条件に変える、ですわ。

皆さん、ええですか。
従属いうんは、タダやないんです。
nothing is free、いうやつですわ。

日本に価値があるから、アメリカは日本を手放さへん。
在日米軍はな、日本守るためだけやおまへん。
アメリカの世界戦略にとって、えらい大事な拠点ですわ。

日本はな、土地、安定、地理的な位置。
これ、全部カードとして出してます。

ほな、その対価、もろて当たり前やないですか。

駐留経費、どないなっとるんか、もっと透明に。
基地使うときの事前協議権、もうちょい広げまひょ。
日本の周り以外で使うなら、条件つけまひょ。在日米軍基地を「世界中どこでも無料で使える踏み台」にしない、という最低限の主権行使ですワ。

これは「同盟壊す」話やない。
同盟を現実にするための交渉です。

中国の話も同じですわ。
米中対立の最前線に立たされて、日本が背負うリスク。
これ、ちゃんと数字で出して、
「これだけのコストかかってまっせ」
言うて、見返り要求せなあきまへん。

エネルギーの保証、制裁時の国内補填、
技術流出防止の共同責任。
全部、取引条件に落とし込むんです。

第3段階

主権はな、一気に戻りまへん。
少しずつ、機能ごとに回復していくもんです。

司法、情報、外交。
このへんから、ちょびっとずつ裁量を取り戻す。
「同盟強化」いう看板掲げて進めてもええ。
大事なんは、中身ですわ。

ほんでな、一番しんどいんが第4段階
国内への説明です。

交渉にはリスクがある。
アメリカは圧力かけてくる。
一時的に経済的にしんどなるかもしれん。

でもな、
何も考えんと従い続けて、
暴走するアメリカ、中国、ロシア、
そんな巨大国家に巻き込まれるリスクと比べて、
どっちが現実的か。
それを国民に問いかけなあきまへん。

最後に、これだけは覚えといてください。
独立いうんはな、宣言するもんやない。
交渉を積み重ねた結果、
「あれ、気ぃついたら、だいぶ独立に近づいてまんな」
いうもんです。

アメリカがほんまに尊重するんは、
感情で叫ぶ自立論者やない。
現実をわかった上で、話ができる交渉相手です。

坂口安吾が『堕落論』で言うた通りですわ。
「対等な同盟」いう幻想、いっぺん捨てなはれ。
属国である自分を、ちゃんと直視しなはれ。

いっぺん、精神的に堕ちる。
そっから、現実の交渉に立ち上がる。

それがな、
ほんまの意味での「究極のロードマップ」ちゅうもんでっせ。

――どうでっか、皆さん。
拍手する前に、ちょっと胸に手ぇ当てて、考えておくんなはれ。

おあとがよろしいようで

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2026年1月10日土曜日

ミネアポリスの銃声が問うもの ――ベネズエラやイランと同じ地平で、アメリカの本質を考える――

 
迷子になる勇気

これはアメリカの話から始まりますが、読み進めるうちに「結局、日本の話じゃないか」と思ってもらえたら成功です。子どもたちの世代に、何を引き渡すのか――そんな回り道の文章です。

ミネアポリスの銃声が問うもの

ベネズエラやイランと同じ地平で、アメリカの本質を考える

年初から、世界では衝撃的な事件が相次いでいます。ベネズエラ、イランといった国々で起きている出来事は、日本でも比較的大きく報じられています。しかし、同じ時期にアメリカ・ミネソタ州ミネアポリスで起きた射殺事件は、それらと同じ重さで受け止められているでしょうか。私は、このミネアポリスの事件こそ、今のアメリカの本質を鋭く突きつける出来事だったと考えています。

事件は、ICE(米移民税関捜査局)の捜査官が、37歳の女性レニー・ニコル・グッドを射殺したものです。連邦当局、すなわち国土安全保障省やトランプ大統領は、「女性が車を武器化し、捜査官を轢こうとした」「捜査官は自己防衛として発砲した」「これは国内テロにあたる」と主張しました。

一方で、ミネアポリス市長、市議会、ミネソタ州知事、民主党幹部らは、捜査官の行動を「無謀(reckless)」と断じ、連邦政府の説明を「プロパガンダ」「ガスライティング」とまで批判しました。複数の動画では、ICE捜査官が車に接近し、ドアを開けようとした直後、車が動き出した瞬間に至近距離から発砲し、SUVが制御を失って衝突する様子が確認されています。現在、FBIが捜査に入っています。

この事件の背景には、トランプ政権が不法移民や福祉不正を理由に、ミネアポリスへ約2,000人の連邦捜査官を派遣していた事実があります。特にソマリア系移民コミュニティが集中的に標的とされてきました。事件現場は、2020年にジョージ・フロイドが殺害された場所から約1マイルという近さであり、抗議は全米に広がりました。治安悪化を理由に、公立学校が休校する事態にまで発展しています。

この事件を報じたイギリスBBCの姿勢は、非常に示唆的です。BBCは、連邦政府の公式説明と、地方政府や市民側の主張を並列に紹介していますが、細部を読むと、単なる中立ではありません。トランプ政権やICEの主張には必ず引用符を付け、市長や州知事、目撃者、映像証拠を丁寧に積み重ねています。「捜査官がどれほど近距離にいたのかは明確でない」という一文は、致命的な正当防衛だったかどうかに疑義を呈する含意を持っています。

さらに、BBCは意図的に言葉の温度差を可視化します。
連邦側は「weaponise」「domestic terrorism」といった強い言葉を使い、地方側は「reckless」「propaganda」「gaslighting」という言葉で応じる。この対比は、アメリカ国内で事実認識そのものが分裂している現実を、読者に体感させます。

BBCが「ジョージ・フロイドが殺害された場所から約1マイル」と明記したのも偶然ではありません。これは、この事件を単なる治安問題ではなく、「連邦権力 × 人種・移民 × 武装警察」という、アメリカが抱え続けてきた構造問題の再燃として位置づけよ、という無言のメッセージです。BBCの本音は、「これは事故ではなく、移民政策が都市空間で武力衝突を生む段階に入った」という警告にあるように思えます。

ミネアポリスという都市の歴史も、この事件を理解する重要な補助線です。1990年代以降、ミネアポリスにはソマリア系移民だけでなく、ロシアやウクライナなど旧ソ連圏、東欧からの移民が多く流入しました。ロシア語だけで生活できる地域が存在したほどです。

この街は、冷戦後の世界の矛盾を吸収し、アメリカの活力そのものを体現してきた都市でもありました。優秀で意欲的な移民たちが、経済と社会を支えてきた現実があります。

その都市で今、連邦捜査官が市民を射殺し、市長が「この街から出ていけ(leave the city)」と叫ぶ。この発言は、感情的な暴言ではありません。これは、連邦制というアメリカの制度そのものがきしむ地点を正確に突いた、明確な政治行為です。

日本の感覚では、市長が国に向かって「出ていけ」と言うことは想像しにくいでしょう。しかしアメリカでは、連邦政府、州政府、地方自治体が対等な緊張関係にあることが前提です。市長の発言は、「連邦政府は万能でも絶対的上位でもない」という建国以来の思想に忠実なのです。

今回、市長が恐れているのは、治安維持という名目が、恐怖による管理へと変質している点です。その結果として市民が死んだ。だからこそ「出ていけ」なのです。これは混乱ではありますが、同時に「統治を問い返す力」がまだ生きている社会の姿でもあります。

対照的に、日本ではどうでしょうか?

日本の報道は、おそらくこの事件を「移民政策をめぐる混乱」「トランプ政権の強硬姿勢」といった平板な枠組みで処理するでしょう。誰がどの権力として、どこまで踏み込んだのか。なぜ市長が連邦政府を拒絶したのか。そうした核心には触れられないでしょう。

その理由は、日本が戦後、「統治される側」であり続けたことにあります。治安や権力を批判的に分析する言語が、意図的に育てられなかったのです(これは思考力でもあるのですが)。戦後日本でアメリカが行ったのは、住民の合意による統治ではなく、管理でした。秩序回復を名目に、治安・司法・教育・報道が再編されました。

ミネアポリスで起きていることと、戦後日本の占領統治は、驚くほど似た構造を持っています。しかし、大きな違いがあります。日本では市長が「出ていけ」と言えなかったこと、メディアが占領の正当性を疑えなかったことです。その結果、統治を疑う言語、つまり、思想そのものが育たなかった。

だからこそ、日本メディアがこの事件を淡く、遠く報じるとしたら、それはアメリカへの配慮ではなく、日本自身の問題なのです。このミネアポリスの事件は、「アメリカのジレンマ」なのですが、統治とは何か、権力はどの瞬間に市民の命を奪ってよいのか、地方の正統性はどこから生まれるのか。それらを私たち自身に突きつける、普遍的な問いなのだと思います。

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2026年1月8日木曜日

「病院はある」時代の終わり ――救急医療の現場から見えた、日本医療の静かな崩壊

 
「病院はある」時代の終わり

救急医療の現場から見えた、日本医療の静かな崩壊

「どんなに良心的に頑張っても、病院はつぶれる」

https://www.yomiuri.co.jp/yomidr/article/20251224-GYTET00001/

下町の中小病院を率いてきた三代目院長の言葉が、胸に重くのしかかります。

読売新聞が報じたこの記事は、医療関係者にとっては「今さら」かもしれません。しかし、患者や家族の側にいる私たちにとっては、ようやく突きつけられた現実でもあります。

病院は、いつでもそこにあり、困ったときには受け入れてくれる。
そんな前提が、すでに崩れ始めているのです。

三次救急は「入り口」にすぎない

昨年11月、身内が自宅で倒れ、日赤病院に救急搬送されました。
日赤は三次救急医療機関です。命に関わる重篤な状態を、24時間365日で受け止める、日本の医療の最後の砦です。

しかし、そこに長くはいられません。
状態が安定すれば、必ず転院になります。

一か月後に転院し、そして昨日、ようやく退院しました。
治療の流れとしては、今の日本ではごく当たり前のことです。

三次救急は「治す場所」ではなく、命をつなぐ場所
その後の時間は、地域の中小病院や療養型施設、あるいは在宅医療に委ねられます。

20年で、病院は確実に変わった

振り返れば、この20年、私は否応なく病院に通い続けてきました。
母、父、叔母、義父、義母――入退院と介護を繰り返す中で、多くの病院を見てきました。

進化した部分も確かにあります。

  • 検査や画像診断の精度

  • 医療機器の高度化

  • 電子カルテやオンライン連携

一方で、テクノロジーの進化が、人の余裕を奪った側面もはっきりと見えます。医師は忙しく、看護師は疲弊し、病院全体が常にギリギリで回っている。

効率化の名のもとに余白が削られ、現場の「人間力」に過度な負担がかかっています。

病院は「経営体」でもあるという現実

読売新聞の記事が突きつけているのは、医療の中身以前に、病院経営の破綻です。診療報酬は抑えられ、物価と人件費は上がり続ける。

職員を多く抱える病院ほど苦しく、診療所のほうが儲かるという歪んだ構造。

「老人が増えるのに、なぜ病院がつぶれるのか」

それは、医療が市場経済ではないからです。
患者が増えても、収入は増えない。
むしろ、重度化・長期化するほど、病院は赤字になる。

この現実を、私たちはあまりにも知らなさすぎました。

「地域包括ケア」という美しい言葉の裏側

2026年現在、日本の医療は「病院完結型」から「地域完結型」へ移行しています。地域包括ケアシステム――聞こえは良い言葉です。

しかし、現場を歩くと、こうも感じます。

それを支える人も、金も、もう足りない。

病院、介護施設、在宅医療、行政。
連携すべき主体は増えましたが、誰かの負担が減ったわけではありません。

さらに外国人労働の問題も絡み、現場は複雑化する一方です。

見舞う側から、入院する側へ

私自身も年を重ねました。
最近は、病院を「見舞う場所」ではなく、「自分が入るかもしれない場所」として見るようになりました。

すると、見える景色が変わります。

  • 個室か、多床室か

  • 面会制限の現実

  • 退院後の生活設計

病院は、万能の避難所ではありません。
そこに「居続けられる」という前提そのものが、すでに幻想なのです。

日本の医療は、かなり危うい

はっきり言えば、日本の医療はかなりヤバい状況にあります。
制度の限界は、もう見えています。

だからこそ、50代・60代の「高齢者予備軍」が考えるべきことは明確です。

  • どの病院が、どんな役割を担っているのかを知る

  • 介護や療養の現実を、元気なうちに学ぶ

  • 健康管理を「自己責任」で引き受ける覚悟を持つ

基本は、自助努力です。

医療は「魔法」ではありません。
社会全体が痩せ細る中で、支え合いにも限界があります。

それでもなお、現実を直視し、備える人間から、次の時代を生き延びていく。今回の経験を通じて、私はそう強く感じました。

何だか、日本という国の現状とも重なります。
アメリカ依存を続けるのか、それとも真の独立の道を歩むのか――。

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2026年1月6日火曜日

トランプのベネズエラ攻撃が突きつけた現実 ――分断する評価と、日本が直視すべき立場――

 
群れを離れたとき、はじめて思考が始まる

トランプのベネズエラ攻撃が突きつけた現実


――分断する評価と、日本が直視すべき立場――

年明け早々、米国はベネズエラを急襲し、マドゥロ大統領を拘束・米国に移送しました。この行動をめぐり、日本でも評価は大きく二分しています。

一つは、国際法違反としてトランプ氏を厳しく非難する「国際法支持」の立場。もう一つは、中国の世界的な拡張行動を牽制・抑止するための現実的な一手として、トランプ氏の判断を評価する立場です。

意見が真っ二つに割れる――この光景自体が、敗戦後80年にわたって続いてきた日本の特徴を象徴しているように思えます。

私はアメリカに長年住み、中国についても1970年代、文化大革命後期からウォッチしてきました。学者ではありませんので、細部の分析には限界がありますが、日本人として、どうしても考えざるを得ないことがあります。

それは、私はこの二つの立場のどちらにも与しない、ということです。

現実を見て、現実に生きるという視点

トランプ氏のベネズエラ攻撃は、国際法の観点から見れば問題がある行動です。一方で、現代の国際社会が、「国際法だけで動いている世界」ではないことも、否定しようのない現実でしょう。

注)私は国際連合や国際法を全く信じていません。現職の政治家が、国連や国際法を金科玉条のごとく信奉する姿勢は、国民に対して無責任だと考えています。

BBCなど欧米メディアも、この行動を単なる「暴挙」と断じる一方で、その背後にある地政学的意図――とりわけ中国への牽制――を冷静に分析しています。

問題は、トランプ氏が正しいか、間違っているかではありません。
問題は、日本がどの立場で、この現実を見ているのか、です。

従属国として生きるなら、その覚悟が要る

もし日本が、これからもアメリカの従属国として生きるのであれば、それならそれで、その立場にふさわしい発言や行動を選ぶべきです。従属国である以上、外交姿勢も、世界へのメッセージも、当然変わってきます。

しかし日本は、現実を直視せず、「対等な同盟国である」という幻想で自らを覆い隠してきました。その姿は、外から見れば、敗戦国としての屈辱的な立場を誤魔化しているように映っている可能性があります。

そして最近、私はこう思うようになりました。

日本は自己欺瞞をしているのではなく、自分が屈辱的な立場にいるという現実そのものを、理解していないのではないか、と。
 
ヤクザ社会に学ぶ「立場を知る」ということ

少し極端な例えかもしれませんが、ヤクザ社会には子分の仁義や掟があります。一人前になるには、その立場をわきまえ、掟の中で耐え、学び、力を蓄えるしかありません。立場を誤認した子分は、組織の中でも外でも生き残れません。

日本も同じではないでしょうか。

まずは、自分たちが従属的な立場にあるという現実を認めること。そこからしか、成長も、交渉も始まりません。

独立という選択肢と、その重さ

日本が真の独立を目指すという道もあります。しかしそれは、イバラの道です。安全保障、経済、外交、すべてにおいて、あらゆる困難を引き受ける覚悟が求められます。長期的な低迷を経験する可能性もあるでしょう。

それでも私は、日本はいつか、真の独立を目指すべきだと思っています。そしてそのときこそ、アメリカと「対等なパートナー」になれる。

皮肉なことに、トランプ氏のような現実主義者は、その話にこそ乗ってくる可能性があるのではないでしょうか。日本にとってのチャンスです。

交渉の余地は、現実の中にある

例えば、自衛隊の訓練を有料で米軍に委ねる(実際、すでに一部では行われています)。あるいは、日本の刑務所運営の一部をアメリカにアウトソースする。突飛に聞こえるかもしれませんが、こうした具体的な取引こそ、トランプ流の交渉の俎上に載り得る現実的な材料です。

重要なのは、「対等であるふり」をやめることです。「ごっこ」の世界からの脱却です。まずは従属国であるという現実を認め、その立場から交渉を開始する。そこにしか、次の段階はありません。

坂口安吾が突きつけた地点

ここで、私の頭の片隅には、どうしても坂口安吾の『堕落論』(1946年)が引っかかります。敗戦直後の日本で安吾は、「堕落しろ。まだ堕落が足りない」と言いました。それは投げやりな破壊ではなく、幻想や建前をすべて失い、人間が本来の姿に立ち返るための過程でした。

堕落の本質は孤独にある、と安吾は言います。集団の幻想に安住せず、一人荒野に立ち、そこから這い上がれ、と。今の日本に必要なのも、まさにその地点まで降りていく覚悟ではないでしょうか。

トランプの行動が、日本に突きつけたもの

トランプ氏のベネズエラ攻撃は、是非以前に、日本に問いを突きつけています。あなたは、現実をどう見るのか。そして、その現実の中で、どの立場で生きるのか。

分断された意見のどちらに与するかではなく、現実を見据え、そこから日本の進む道を考える。今、日本に最も欠けているのは、その覚悟ではないでしょうか。

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