2010年4月30日金曜日

中国の若者たちとチームビルディング(団隊構築)

上海の郊外にある太陽島リゾートでのオフサイトミーティング二日目の午后は、チームビルディング活動でした。

チームビルディングとは、メンバーが一つのゴールに向かって進んで行くための組織作りの事です。組織には様々な個性を持ったメンバーがいます。そのメンバー一人一人の個性や資質を活かしながら、組織として機能させて行くには、こういった活動が重要です。オフサイトミーティングそのものがチームビルディングとも言えます。日本で言えば、慰安旅行や飲み会がそれにあたるのでしょうが、日本のものは、あまり戦略性の強いものではないですね。それに、日本のリーダーやマネジャーたちは、こういった活動が自分たちの腕の見せ所とは考えていません。

中国語でチームビルディングは、「団隊構築」と言います。「中国人は1人だと竜だが、3人になると虫けらになる(一個中国人是一条龍、三個中国人是三条虫)」という諺があるくらい、チームワークが苦手です。自己主張が強いのでしょうね。意識的にチームビルディング活動を行わないと、組織はいつまでたってもバラバラです。もっとも、これはアメリカでも同じです。だから、MBAプログラム(ビジネススクール)の1年目には、必ずチームビルディングのクラスがあるのです。チームビルディングのためのゲームも様々なものがあります。我々日本人にはばかばかしく、且つ、照れくさく感じるようなものばかりですが。

今回の我が社のオフサイトミーティングは、真面目なミーティングとは別に、遊びを通してみんなが仲良くなるように配慮して、取り仕切りをインターンの3名(3名とも大学4年生)に頼みました。インターンたちが考えたのは、「ゴーカートのチーム対抗リレー」と「チーム対抗スイカ割り」の2つです。ゴーカートは、カートの最高速度が意外と速く、スピンやクラッシュも続出、迫力満点でした。恐らく日本の遊園地のゴーカートは、もっと最高速度をおさえた環境に優しい電気自動車でしょう。

スイカ割りってご存じですよね? 海水浴場の砂浜で行われる遊びで、スイカを目隠しをした人が周囲の声を頼りに割るゲームです。ところが、驚いたことにインターンたちは、スイカ割りをゴルフ練習場でやることにしたのです。スイカ割りと同じように目隠しをし、三回まわってゴルフボールを打つのです。パターではなく、打ちっ放しの打席で7番アイアンを使って打たせるのですよ!インターンは言うまでもなく、弊社の若い中国人コンサルタントは誰一人としてゴルフなどやったことがありません、みんな初めてゴルフクラブを握るのです(20年以上ゴルフをやっている私は、目を開けていてもちゃんとボールに当たらないのに)。

このあたりが中国ですね。大胆ですねえ~。お金さえ払えば、こういったことまでやらせてくれる中国のゴルフ場も凄いですね。「恐るべし中国!」です。

少しやってみて、さすがに危ないと気づいて通常の初心者のゴルフ練習になりました(下の写真)。山本五十六の「やってみせ 言って聞かせて させてみて ほめてやらねば 人は動かじ」が我が社の社是という訳ではないのですが、、、。

(ゴルフ場に併設する練習場はグリーンやバンカーや池まである!)

(カートはHONDA製の草刈り機のエンジン?を積んでいる)

***

2010年4月28日水曜日

中国政府と日本政府は正反対

(全社ミーティングを行った上海郊外の太陽島リゾート)

中国という国は、胡錦濤主席をリーダーとする共産党トップ9人(共産党常務委員会)が国を動かしています。 リーダー陣が強力だから国民と距離を置くことができるのです。一般大衆の大部分は、中長期的に政府が、つまり、中国共産党ですが、何とかうまくやってくれて、豊かな社会を継続してくれると思っているようです。もし「loopy」がリーダーになると、ウルトラ格差社会で複雑な中国は、一夜にして崩壊してしまいます。

日本とは全く逆ですね。日本はご承知の通り、トップが loopy であろうが資質がどうであれ、一夜にして崩壊はしませんよ。 勿論、徐々に国力は減衰し、50年後は跡形もなく消え失せる可能性はゼロではありませんが、、、。一夜にして崩壊しないのは、日本人の穏やかな国民性と平均レベルの高さの賜物です。

「人を束縛して独(ひと)り心配を求むるより、人を放ちて共に苦楽を与(とも)にするに若(し)かざるなり」。

これは、福沢諭吉「学問のすすめ 第三編」の結びの一文です。政府が国民を束縛して国をまとめるよりも、国民に自由と責任を与え、国事を共に考えるべきであると言っています。 明治6年12月の福沢諭吉のサジェスチョンは、百数十年たった今の日本でも実現されていませんね。それは、「国事」と言っても「国」の存在が稀薄すぎて、何処にあるのか分からなくなっているからです。

トップが優秀で国民が従う中国型、トップは loopy でも国民の平均レベルの高さで持ちこたえようとする日本型、さて、みなさんはどちらがいいと思いますか?

***

2010年4月27日火曜日

夕べ、上海から帰国しました


夕べ、帰国しました。

上海は、万博の予行演習で街中が大変なことになっていました。中国の万博に関する報道は嘘ばかり、日本の報道も半分以上はいい加減な内容ですね。大衆はこうやって騙されるのでしょう、そして、民意が形成される。正に民主主義の本質とも言えるのですが、平和と民主主義に疑問を投げかける人はいない。日本国憲法だって、必ず「平和」憲法って言いますよね?平和や民主主義は宗教のようなものなので、抵抗してはいけないのです、、、。

今回は、弊社 ibg 上海の若者たちと一泊のオフサイト・ミーティングに行ってきました。オフサイト・ミーティングと言っても社員旅行ですね。英語では、「boondoggle」と言います。中国の若者達は肉食系でハイテンションなので疲れます。

写真は、上海万博の平日入場券です。全社員に2枚ずつ配りました(160元=2200円)。

***

2010年4月19日月曜日

人には生まれながらの素質というのがある

素質の差というものは大いにあると思います。

子どもの頃、ビートルズが好きで、私もご多分にもれずギターを手にするきっかけとなりました。元来、努力というものが嫌いで、何事も長続きはしない子どもでした。ギタリストに憧れはするのですが、全く上手くならないうちに何十年も経ってしまいました。

私の大きな勘違いは、「(努力しないくせに)努力すればスーパーギタリストになれる」と思っていたことであります。要するに、素質の問題であることを見ないようにしていたのです。人には生まれつきの素質の差というものがあります。音楽の素質のない私は、いくらやっても、ジミー・ヘンドリックスやスティービー・レイボーンのようには弾けないのです。

今の日本の政治家の皆さん、特に、総理大臣を見ていますと、同じ事を強く感じてしまいます。つまり、生まれながらの素質の問題が強く影響するのだろうと。総理を代表とする昨今の政治家は、あまりにも政治家に相応しくない人ばかりです。努力すればするほど(しているかどうか知りませんよ)、政治家の重みが出てこない。官僚を否定すればするほど政治家自身が官僚に近づいてしまう。政治家が身につけておくべきロゴス(言葉)が足りなすぎる。そして、軽すぎる。

勿論、こうなってしまった原因には、生まれながらの素質に加え、教育システムにも問題があるのでしょうね。60何年も続いた戦後民主主義教育と言われる今の日本の教育システムが、国政を与るようなリーダーを育てる教育になっていないのでしょう。だから、一国のリーダーがワシントン・ポストのコラムニストに差別用語まがいの「loopy」だなんて書かれてしまう。私は、たまに自分のことを「loopy」と右手の人差し指を頭のところでくるくると回しながら同僚のアメリカ人に言ってきたものですから笑っちゃいました。

私はギターの素質がないので(音楽の素質まで否定せずに)、ブルースハープと文庫本を持って上海に旅立つことにします!











***

2010年4月17日土曜日

日本人は「阿Q」になっちゃったの?

しばらく中国に行ってきます。

ご存じの方がどれほどいらっしゃるか定かではありませんが、日本のほとんどのブログは、中国国内からアクセスできません。これは、グーグルが中国撤退を発表する前からのことで、一貫した中国政府の政策ですね。私のブログなど毒にも薬にもならないのですが、、、。日本では、敗戦後のアメリカによる言論統制の麻薬が未だに効いているかのようですが、中国の人たちはどうでしょうかね?中国政府の言論統制にいつまで黙っているでしょうか? やはり、胡錦濤主席の最大の危機感は自国民、つまり、複雑に人種が混じる中国人に向かっているのでしょうね。

と言うわけで、1週間ほどはブログの更新ができなくなります。どうぞあしからず。

魯迅は「阿Q正伝」で、中国の封建的な旧い社会を批判しようとしました。主人公の阿Qは、革命が何かも知らず「革命」、「革命」と唱えれば革命が起こり、何かいいことがやってくるような気がしてとうとう何も解らないまま処刑されてしまいます。国が生まれ変わるには、人間そのものが生まれ変わらなければならない。魯迅は、旧い社会を変えるには「人間性」を見つめる必要があり、それによってはじめてちゃんとした国家に脱皮できると言いたかったのではないでしょうか?

今の日本にも当てはまりませんか?

非核三原則、地域主権、普天間、消費税、東アジア共同体、色々と議論(?)はあるようですが、私からの政治家のみなさんへの素朴な疑問です。

「ポツダム宣言により日本は無条件降伏したのでしょうか?それとも有条件降伏だったのでしょうか?」。

真実のない、あまりにも軽い発言はいくら言ってもダメですよ、ソウリ!

***

2010年4月14日水曜日

日本よ、どうしてここまで壊れちゃったの?


日本人である私は日本の再生を信じたいのですが、日本の現状、とくにマスメディアに翻弄された衆愚政治や極めて幼稚な外交を見ると、絶望的になってしまいます。ここまで壊れた以上、そう簡単には回復しないでしょうが、時間をかけて一つ一つやっていくしかないでしょう。

そんな暗い気持ちの中、金沢に行ったのですが、一筋の光明、きっかけのようなものが見えたかもしれません。

加賀百万石の土地柄ですかね? 教育の根幹としての家庭を自覚している家族に会いました(彼らが意識しているかどうかは知りませんよ、、)。家庭で知育や体育の基本となる徳育がしっかりと教育されているような気がしました。そして、伝統や文化のある地域、つまり、金沢と言う郷土が家族を支えているのでしょう。そこには自尊心や誇りといったものを感じます。

こういった環境から子どもが外の世界に出て行った場合、それが日本国外であれ簡単にはへこたれないでしょうね。いっぱい経験を積んで故郷に錦を飾って貰いたいものです。 そうすれば、郷土である金沢はもっとよくなる。

***

2010年4月12日月曜日

金沢で天然岩牡蠣を食べた


子ども教育の座談会で金沢に行ってきました。実に30数年ぶりの金沢です。新鮮で豊富な日本海の魚介類や山の幸を生かした食べ物の美味しさは特筆すべきものがあります。写真は能登の天然岩牡蠣です。 素潜りで捕るそうです。

金沢は、加賀百万石・前田藩の城下町です。白山を背景に日本海に流れる犀川、日本三大名園の一つである兼六園は江戸時代の代表的な庭園です。自然や伝統と文化、金沢には愛郷心が生まれる要素は全て揃っているように感じました。 日本では愛国心というのは敬遠されるようですが、愛郷心というのはどうでしょうか?

教育において愛国心が否定されるのであれば、愛郷心を精神のより所とするしかないですね。そう考えると、金沢は東京よりも将来有望であるような気がします。地域主権で加賀百万石を復活させ日本から独立するか!?

***

2010年4月7日水曜日

お金に対する感覚 ~ 日米中ではかなり違う

大量の偽一万円札が韓国で見つかったというニュースを聞きました。中国から韓国に持ち込まれたそうです。

帰国後半年が経ち、すっかり日本の生活に戻りました。お金に関してもそうです。 どういう事かと言うと、紙幣を手にしても、透かして見たりして本物かどうか確認しなくなったのです。このことだけでも日本は良い国だということが分かるでしょう?

アメリカだとこうは行きません。中国だともっといけない。上海では流通している紙幣の「何割」が偽物かと考えてしまいます(広州だともっとひどいかも知れない)。 中国政府が「厳格に法律に基づいて死刑を執行する」と言うなら、偽札くらいちゃんと取り締まって欲しい(私は死刑廃止論者じゃないですよ)。

昨日、「クレジットスコア(Credit Score)」について質問を受けました。
性善説で国が成り立っている日本では馴染みが薄いですね。

クレジットスコアは、借金をしてそれをきちんと期限に遅れない様に返済をするということで積み上げられる個人の信用度を数値化したものです。 基本的に他人を信用しないアメリカには様々な信用調査機関があります。こういった信用調査機関の中にクレジットスコアを算出している会社がいくつかあるのです。

クレジットスコアは、アパートを借りたり、クレジットカードを申し込んだり、住宅や車のローンを申し込んだりすると必ず調べられることになります。 アメリカに行ったばかりの人は、アメリカでのクレジットカードの実績、つまり、クレジットスコアがないので非常に困ります。 そこで、日本企業の駐在員は、自分の働く会社に保証してもらったり、日系の銀行にクレジットカードを作ってもらうことになるのです。

公開されていないので自分のスコアはよくわかりません。そこで、多くのスコア提供業者が存在しています。 彼らは、個人情報を集めることを目的としています。無料にひかれて登録してしまうと、個人情報をどこかに売り飛ばされて色んなところからダイレクトメールやEメールが殺到することになるのです。

以前、息子のアパートの保証人になった時、マンハッタンの不動産屋のオニイチャンから「あなたみたいに綺麗なCREDIT HISTORYの人は初めて見た!」と言われました。私のほうも「Oh, Yeah! I’m so beautiful!」と答えました。20年間、クレジットカードの支払をちゃんとやっていただけです。日本では、クレジットカードを使って買い物をしたら支払いをするのは当たり前ですが、アメリカでは必ずしもそうではないのです。

日本人は、頭金にあたる10~20%のお金が手元にないと住宅のような大きな買物はしないのが普通です。しかし、アメリカ人は定期収入があると、手元にお金がなくても分不相応な買い物をするのです。住宅ローンだって、通常は住宅価格の2~3%の頭金で組んでしまいます。中国人は、アメリカ人よりも過激ですよ。

日本人のお金に関する感覚は、アメリカ人や中国人とは随分と違います。中国の若者の金銭感覚は、機会があればもっと詳しくお伝えします(弊社 ibg 上海には20代の中国人の若者が30名以上います。今週からインターンとして3名の大学生も入ってきました)。

***

2010年4月6日火曜日

これからは哲学の世界

死ぬ直前まで贅沢な暮しを追及していたら、いつまでも苦しくて仕方がないでしょうね。これは、アメリカ人の同年齢の友人達を見ていると感じることです。彼らの欲望は、より大きな家、より高級な車と果てしがない。私は、贅沢でなくても毎日同じ事を繰り返すことに喜びを見いだせるようになれば、「しめしめ」だと思っています。こう感じるのは私が日本人だからでしょうか?

人類は高齢化し、益々、自然科学で説明できる部分よりも、哲学に依存する部分の方が多くなると思います。哲学? そうです、アリストテレス、ソクラテス、プラトンの哲学です。もっとも彼らは自然科学の分野も哲学で包み込んでいたのでしょうが。とにかく人生の根本原理を考えたんですね。

最近の私は、老犬介護の日々ですが、何年か前に母親の介護を経験しました。

その時に、大病院のお医者さんのやり方では、これからの高齢化社会の医療はダメだなと強く感じました。大病院のお医者さんは、自然科学の範囲で医療を完結することに専念するからです。人生経験豊かな高齢者の頭脳は、自然科学の先端技術で測定可能な範囲よりも、うんと複雑で哲学的なのです。政治だって、マニフェストで測定できるほど単純じゃないですよね?(蛇足でしたが、、、)。

動物には生と死があります。そして、人間は極めて高等な動物です(福沢諭吉の言うところの「万物の霊」です)。そして、死の直前に病気になって死ぬまでは、哲学の世界なのです。自然科学の世界である医療が発達し、人は長生きするようになりました。ところが、自然科学で解決できない哲学の期間が長くなったのです。皮肉なものですね。

学校教育の場では、国際社会への対応を考えた実務的な教育が議論されています。勿論、それも大切なのですが、人間により近い部分の修養はもっと重要だと思います。なるべく若い時に「人間とは?」、「生と死とは?」を考えて自分なりに悩まないとダメですね。悩んで悩んで、そしてタフな精神力(intensity)を形成して行かないと、生き残れないのが世界の現実です。もし、今の日本に身を任せるのであれば、将来のオプションの幅は明らかに狭まります。

2009年、日本の自殺率は世界第6位です。このままだと、自殺率がベラルーシ、リトアニア、ロシア、カザフスタン、ハンガリーを抜いて世界一になる日はそう遠くないかも知れません。

取り留めもなく話題が多岐にわたりましたね、、、、。失礼しました。

***

2010年4月1日木曜日

今朝の井の頭公園 ~ 「武士道」と桜の花 

早朝、カメラ片手に井の頭公園を散歩してきました。桜の花は、咲き始めといったところでしょうか。

桜の花と言えば、在原業平の「世の中に たえて櫻の なかりせば 春の心は のどけからまし」を思い浮かべるのですが、今日は新渡戸稲造です。新渡戸さんは、有名な著書「武士道」の中で、「武士道は、日本社会の基本システムであり日本の象徴たる桜の花のようなものである」と言っています。

JR車内の広告テレビで風邪薬の宣伝を見ました。お侍さんが果たし合いをする場面です。片方のお侍さんがクシャミをした瞬間、「スキあり!」と斬られてしまいます。斬ったお侍さんは決闘前に風邪薬を飲み、斬られたお侍さんは飲まなかったからだという訳です。

さて、新渡戸さんがこの宣伝を見たらどうコメントするでしょうね?

私の感覚では、これは日本人の価値観ではない。先輩のIさんもこの広告を見て不愉快になったと言っていました。日本人の価値基準は、新渡戸さんが日本人の誇りとして世界に訴えかけたものとは違うものに変化してきているようです。

新渡戸稲造は「武士道」の中で、バラと桜を例に出して欧米人と日本人を比較しています。

「ヨーロッパ人は、バラの花を賞賛するが、私たち日本人はそれを共有する感覚は持ち合わせていない。バラには桜花の持つ簡素な純真さに欠けている。それだけではない、バラはその甘美さの陰にトゲを隠し、執拗に生命にしがみつく。まるで死を怖れるがごとく、散り果てるよりも、枝についたまま朽ちることを好むかのようにである。しかもバラは華美な色彩と濃厚な香を漂わせる。いずれをとっても桜花にはない特性である」。

私たちの愛する桜花は、その美しい装いの陰に、トゲや毒を隠し持ってはいない。自然のなすがままいつでもその生命を捨てる覚悟がある(which it is ever ready to depart life at the call of nature)。その色はけっして派手さを誇らず、その淡い匂いは人を飽きさせない(whose colors are never gorgeous, and whose light fragrance are volatile, ethereal as the breathing of life)」。

***