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2026年2月9日月曜日

バラバラの知識を“使える力”に変える教育 ――30年前に描いた一枚のスライドから

 


30年前のスライドの話です。でも、いまの教育と社会を考えるヒントが、そこにあります。

第1章:概念提示(シンセサイジング機能とは何か)

シンセサイザーの比喩

「シンセサイザー」と聞くと、電子音楽やテクノポップを思い浮かべる方も多いかもしれません。私自身、黒人音楽のシンプルなブルースやソウルを好んできたアナログ人間ですから、正直に言えば電子音楽は今でもあまり得意ではありません。しかし、ここで言うシンセサイザーは音楽の話ではありません。「シンセサイジング機能」の話です。

音楽におけるシンセサイザーとは、音をデジタル化して要素を組み合わせ、調整し、一つの音楽として成立させる装置です。私は30年ほど前、この考え方こそが、ビジネスや組織、さらには社会や国家の運営において最も重要な能力だと考え、まとめたのが上のスライドです。

多領域のピース

スライドの左側には、政治、経済、法律、情報システム、心理学、哲学・思想、数学、文学、歴史、語学といった、バラバラのピースが描かれています。これらは、いずれも現代社会を理解するうえで欠かせない分野ですが、単独では不完全です。専門知識をいくら深めても、それだけで複雑な現実の問題に対処することはできません。

現実の課題は、必ず複数の領域が絡み合って現れます。経済問題は政治と切り離せませんし、技術の問題は法律や倫理と無縁ではありません。にもかかわらず、私たちはしばしば、部分だけを見て全体を見失います。

統合とコミュニケーション

そこで必要になるのが、中央に示した「シンセサイジング機能」です。異なる分野の知識や視点を統合し、首尾一貫した全体像として理解する力、そしてその統合結果を他者に伝え、共有する力です。単に「分かっている」だけでは不十分で、「伝わる」形にすることが求められます。

スライドの右側に描かれているのが「ビジネス」、すなわち現実の意思決定と行動です。知識の量や専門性の高さだけでは、この領域には到達できません。統合し、判断し、他者と合意を形成して初めて、現実は動きます。

リーダー不在・教育問題への接続

約10年前、私は「迷走する日本の原因は、広い視野と深い洞察力を備えたリーダーの欠如にある」と書きました。この認識は、残念ながら今も変わっていません。私がよく思い出す、ある時代劇の言葉があります。「大義名分の『名分』を手に入れた悪党ほど恐ろしいものはない」という水戸黄門の言葉です。シンセサイジング機能を欠いた権力の危うさを端的に表しています。

部分的な正論や制度の正当性だけを振りかざし、全体を見渡す力を持たない人間が権力を握ったとき、国民は容易に人質になってしまいます。日本にバランスの取れたリーダーが育ちにくい背景には、戦後の教育制度の影響もあるでしょう。専門を細かく分断し、正解を早く当てる能力を競わせる教育では、統合する力は育ちません。

第2章:具体例(コンサルティングという実装例)

仮説と検証

シンセサイジング機能が、現実の仕事でどのように使われているか。その分かりやすい例が、コンサルティングです。コンサルティングのビジネスは、「仮説を立て、その仮説を検証する」ことを骨子としています。闇雲に情報を集めたり、相手の話を漫然と聞いたりすることが仕事ではありません。

限られた時間の中で本質的な問題を見極めるためには、まず「問い」を立てる必要があります。その問いに基づいて論点を構造化し、仮説としてまとめていきます。
論点を売る

この役割を担うのが、コンサルタントの中でもパートナーと呼ばれるリーダーです。パートナーの頭の中には、常に「論点を売る」という意識があります。商品やサービスを売るのではありません。「この問題を考えるなら、何が本質的な論点なのか」という枠組みそのものを提示することです。

事前に、議論の目的を明確にし、考えられる論点を「漏れなく、ダブりなく」整理し、それぞれについて仮説を立てます。仮説は暫定的な答えにすぎず、正しいかどうかは検証して初めて分かります。

Sense & Respond


打ち合わせの場では、「何かお困りですか」と聞くだけの御用聞き営業にはなりません。また、「話したいことを話す」こともしません。相手が最も関心を持っている論点は何か、その論点について仮説は妥当かどうか。相手の反応を感じ取りながら、論点を絞り込み、仮説を検証していきます。これが「Sense & Respond」と呼ばれるプロセスです。

この意味で、コンサルタントの仕事は「答えを出すこと」ではなく、「正しい問いと論点を設計すること」にあると言えます。

落とし穴(思い込み/ローラー作戦)

ここで重要なのは、仮説は否定されることを前提としている点です。コンサルタントが陥りやすい落とし穴の一つが「思い込み」です。準備した仮説に固執し、「準備した通りに違いない」と信じ込んでしまうことです。

もう一つの落とし穴は、すべての論点、すべての仮説を検証しようとする「ローラー作戦」です。緻密さが求められる場面では有効ですが、意思決定の場では本質を見失います。必要なのは、統合と選択です。


第3章:起源(アメリカのエッセイ教育)

エッセイ=説得と検証

この思考様式のルーツは、アメリカの作文教育にあります。アメリカの入学のための統一試験には、必ずエッセイが組み込まれています。エッセイとは、自分の主張を明確にし、その根拠を示し、読み手を説得する文章です。単なる感想文ではありません。

目的と主張がなければ成立しない

エッセイは、他人を説得し、自分の目的を達成できるかどうかを問う訓練です。自分の考えと目的がなければ、そもそも成立しません。この訓練を通じて、問いを立て、論点を構造化し、仮説を検証する力が自然と身についていきます。

教育の差が思考様式の差になる

一方、日本の中学・高校の国語教育では、この視点が決定的に欠けているように感じます。多くの場合、求められるのは無難な感想や正解らしいまとめです。その結果、社会人になっても、自分の主張を持てず、小学生の作文の域を出ない文章を書き続けることになります。チャットや生成AIが中身の空洞化を指数関数的に加速します。

30年前に私が「シンセサイジング機能」を問題提起した背景には、この教育と社会の断絶があります。部分最適の知識は増えても、それを統合し、目的を持って使う力が育たない。その延長線上に、迷走する組織や国家の姿があるのではないでしょうか。文系だ理系だという単純な問題ではない。

シンセサイジング機能は、特別な才能ではありません。本来、社会を担う人間すべてに求められる、基礎的な力なのです。

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2026年2月4日水曜日

人生のグランドストラテジー ――なぜ日本人は「自分の物差し」を持てないのか

 

上の図は、私が今から20年ほど前に作成した「人生設計とキャリアプラン」を示すものです。

山登りに人生を喩え、社会人としての出発点から、50代以降に至るまでを、一続きの登攀として描いています。 足場は限られ、途中で引き返すことも容易ではありません。この図が示しているのは、成功モデルや理想像ではありません。むしろ、「人生にグランドストラテジーがないまま登ることの危うさ」を可視化したものです。

図の左下には「社会人登山口」があります。
  • 20代は「学に志す」。社会に出て、自分の専門性の軸を探し、学ぶことにエネルギーを注ぐ時期です。
  • 30代は「学を継続する」。資格取得や実務経験を通じて、学びを実装し、自分の足場を固めていく段階です。
  • 40代になると、「立つ&惑わず」。組織の中で一定の立場を得る一方で、自分は何者なのか、どこへ向かうのかという根源的な問いに直面します。
  • 50代、「人生を楽しめるか?」。ここで初めて、それまでの選択が静かに問い返されることになります。
この図の中央に置いた言葉が、「自分の物差し」です。

他人の評価や会社の肩書き、世間の常識ではなく、「自分は何を基準に、どの山を登っているのか」。これを持たないまま登り続けると、努力すればするほど、風の強い危険な稜線に立たされることになります。最悪の場合は、雪庇を踏み抜く。図の上部にある「無限風光在険峰」とは、雄大な景色は険しい峰の頂にこそある、という意味です。ただし、険しい峰である以上、足場は決して安定していません。自分の物差しを持たずに登れば、そこで立ちすくむことにもなります。

ここで多くの人が混乱するのが、「ビジョン」という言葉です。

ビジョンと聞くと、明確な理想像や、達成すべき成功イメージを思い浮かべがちです。しかし正直に言えば、理想の人生が何なのかなど、誰にも分かりません。若い頃にそれを描ける人は、ほとんどいないでしょう。 高齢になった今の私にも、正直なところ分かりません。

それでも、ビジョンを考えることには意味があります。それは、「人生の最後のフェーズを、おぼろげながら想像すること」です。私は、老人ホームでアルトサックスやハーモニカを吹いていたい!

自分は、どんな人間として人生を終えていたいのか。老いた自分は、どんな場所に立っていたいのか。そして、他者は最終的に、自分のことをどういう人間だったと思ってくれるのか。

ここで重要なのは、「自分がどう思うか」だけではありません。他者の記憶に、どのような存在として残るのか。言い換えれば、これはアイデンティティの問題です。

理想を完全に実現できる人は、ほとんどいません。しかし多くの人は、人生の終盤において、「この人には助けられた」「この人には感謝している」。そう言ってくれる人が何人かいることを、心のどこかで望んでいるのではないでしょうか。

恐らく、それで十分なのです。それこそが、「どんな人生を送りたいか」という問いへの、きわめて現実的な答えであり、ビジョンと呼んでよいものだと思います。ビジョンとは成功の設計図ではなく、自分はどんな存在として人生を終えたいのかという価値観の宣言なのです

ビジョンと戦略、戦術の違いを整理しておく必要があります。

ビジョンは「どんな山に、なぜ登るのか」。グランドストラテジーは、「限られた時間、能力、人間関係といった資源を、長期的にどう配分するか(resource allocation)」。戦術は、「今日、何をするか」です。

日本人は、この三つを混同しがちです。昭和の15年戦争を研究してみてください。日本社会は、目の前の課題を丁寧にこなす戦術能力においては、極めて優れています。しかし、「そもそもどの山に登っているのか」という問いを立てる訓練を、ほとんど受けてきませんでした。戦略性を学ばないまま大人になった人間が、次の世代を教えている。そう言ってしまえば、身も蓋もありませんが、現実はそこにあります。

その背景には、正解依存の教育、他者依存の社会構造、そして戦後日本が国家としてグランドストラテジーを自ら描かずに済んできたという歴史があります。企業が個人の人生設計を肩代わりしてくれた時代は終わりましたが、思考の習慣だけが、いまも残っています。AI時代に突入した現在、この思考習慣を変えられないままで、日本人はどこへ向かうのでしょうか。

だからこそ、これからの時代には、「自分の物差し」を意識的に持つことが必要になります。

完璧な答えを出す必要はありません。ただ、「自分はどんな存在として、誰に、どう記憶されたいのか」。その問いを言語化し、人生のどこかに据えておくこと。それこそが、人生のグランドストラテジーの出発点なのだと、私はこの図を見返しながら、あらためて感じています。

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2026年2月2日月曜日

コンサルティングはジャズのジャムセッションだ ――契約と組織の違いから見える仕事の本質

 

コンサルティングはジャズのジャムセッションだ


契約と組織の違いから見える仕事の本質  

私はこれまで、日本の株式会社、米国のコーポレーション、シリコンバレーのスタートアップ(30年前)、そして米国型のパートナーシップによるコンサルティング会社と、いくつか異なる組織で働く機会を得てきました。その後、仲間に支えられて起業し、気がつけば二十年という時間が経っています。

こうして並べて書くと、いかにも経験豊富であるかのように聞こえるかもしれませんが、決してそういう話ではありません。自分自身の能力については、今でもたいしたものではなかったと思っています。ただ一つ言えるのは、いろいろな場所に身を置き、それぞれの組織のエコノミーにもまれ、その場の「当たり前」に戸惑い、時に失敗しながら過ごしてきた、という事実だけです。

日本の会社には日本の理屈があり、アメリカにはアメリカの、そして中国には中国人の動き方があります。本や理論で知ることもできますが、実際にその中に放り込まれると、頭で理解していたはずのことが、まったく別のものとして立ち現れてきます。その違いは、説明できる以前に、まず身体で感じるものだというのが、正直な実感です。

ですから、これから述べることも、何かを上から教えようという意図はありません。ましてや、経験を振りかざして優劣を論じるつもりもありません。ただ、自分が通り過ぎてきた現場で感じた違和感や納得感を、そのまま言葉にしているだけです。知らないことについて断言するつもりはありませんが、少なくとも自分が体験した範囲のことについては、「そうだった」と言い切るくらいの図々しさは、年齢相応に許していただいてもよいのではないかと思っています。

上の図で述べているコンサルティングビジネスの話も、その延長線上にあります。理想論でも、教科書的な定義でもなく、ある時代、ある環境の中で、実際に苦労して試行錯誤したコンサルタントの姿を、できるだけ分かりやすくお伝えしたいと思います。

コンサルティングビジネスを理解するうえで、まず押さえておかなければならないのは、日本と欧米では、ビジネスの前提となる制度や発想が大きく異なるという点です。日本には日本なりの合理性があり、欧米には欧米の歴史と制度に根ざした合理性があります。両者が百パーセント同じである必要はありません。しかし、その違いを理解しないまま表面的に真似をすると、誤解や齟齬が生じます。コンサルティングビジネスは、その典型例の一つです。

第一の違いは、会社の形態です。欧米の大手コンサルティング会社の多くは、株式会社ではなく、法律事務所と同じようなパートナーシップ型の組織です( 2人以上の出資者であるパートナーが共同で出資・経営し、利益や損失を直接分配する組織形態です。法人格を持たず、事業の利益が直接メンバーの所得となります)。これは、日本的な企業組織の感覚からすると、やや異質に映ります。親分がいて、その下に子分がいるという、いわば「親分衆の集まり」のような構造です。パートナー一人ひとりが独立した強いテリトリー意識や専門性と責任を持ち、組織はそれらの集合体として成り立っています。一方、日本にはこの意味でのパートナーシップ企業は存在せず、欧米コンサル会社の日本法人も、日本の法制度のもとでパートナーシップを「シミュレーション」しているにすぎません。

第二の違いは、契約の考え方です。日本では「請負」という発想が強く、成果物の完成を目的として対価を得るという関係が一般的です。しかし、欧米のコンサルティングビジネスでは、原則として請負契約は結びません。クライアントとの間に相互の信頼関係を築いたうえで、委任契約、いわゆる Times and Materials (日本の法律では準委任契約)で仕事を進めます。これは弁護士との契約と同じ発想です。成果を「保証する」のではなく、専門性と誠実さをもって最善を尽くし業務の遂行が契約の本質になります。

こうした環境の中で働くコンサルタントとは、どのような存在なのか。

それを直感的に説明しているのが、上のスライドです。このスライドでは、コンサルティングビジネスを「一流のジャズミュージシャンによるジャムセッション」にたとえています。

ジャズのジャムセッションでは、まず前提として、全員が自分の楽器を高度に演奏できる熟練者です。同じように、コンサルタント一人ひとりも、それぞれの専門分野において高いスキルを持っています。誰かに細かく指示されなければ動けない存在ではありません

次に、演奏している姿だけを見ると、各プレイヤーは自由気ままに、自分勝手に演奏しているようにも見えます。しかし実際には、全員が音楽に対する高いレベルでの共通理解を持っています。だからこそ、即興でありながら、全体として調和が取れるのです。コンサルティングでも同様に、各人が独立して考え行動しながら、ビジネスの基本を理解し、問題意識や価値観を共有しています

さらに重要なのは、聴衆、つまりクライアントを楽しませたい、価値を提供したいという情熱です。コンサルティングは単なる分析作業ではなく、クライアントの前で知的なパフォーマンスを行う仕事でもあります。そして、音楽を演奏すること自体を楽しんでいる点も共通しています。楽しめない演奏が人の心を打たないのと同じで、仕事を楽しめないコンサルタントが良い仕事をすることはありません

最後に、ジャムセッションでは、曲の流れに応じて誰もがリーダーになり得ます。ソロを取る人が自然にバンドを引っ張る場面もあります。コンサルティングでも同様に、固定的な上下関係ではなく、状況に応じて誰もがリーダーシップを発揮します

以上、このスライドは、欧米型コンサルティングビジネスの本質を、制度や契約の話を超えて、人の在り方として分かりやすく伝えようとしたものです。

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2026年1月31日土曜日

プロフェッショナルとは何か

 


プロフェッショナルとは何か


― ゼネラリストとスペシャリストを混同し続ける日本社会へ


日本のビジネス界を見渡すと、長年変わらない「基本的な勘違い」があります。それは、プロフェッショナル、ゼネラリスト、スペシャリストという概念の区別が、極めて曖昧なまま使われていることです。言葉だけが一人歩きし、レベルセットが行われないまま議論が進む。その結果、抽象度の低い、噛み合わない会話が延々と続く。これは日本のビジネスシーンの慢性病と言っていいでしょう。

添付した1枚目のスライドでは、「プロフェッショナル」を中心に、ジェネラリスト、スペシャリスト、エキスパートという概念を整理しています。ここで最も重要なのは、プロフェッショナルとは職種や専門分野の名称ではなく、姿勢であるという点です。

プロフェッショナルの前提にあるのは、顧客第一主義、すなわち「真のニーズに応える」ことです。自己満足でも自己中心でもない。常に相手の価値を最大化するために、自分をどう使うかを考える存在です。

ところが日本では、専門知識や技能を持っている人、つまりスペシャリストを「プロ」と呼んでしまう傾向が強い。極端な話、「うちはスペシャリストしかいません」と胸を張る会社すらあります。しかし、専門性があることと、プロフェッショナルであることはイコールではありません。スペシャリストやエキスパートは「スキル中心」の世界にいます。一方でプロフェッショナルは、スキルを含みつつも、それをどう使い、どう統合し、誰のために価値を出すのかという「働き方・生き方」の問題なのです。

2枚目のスライドでは、プロフェッショナルを支える三つの柱として、People Management、専門性、自己管理能力を示しています。

ドラッカーが繰り返し述べているように、マネジメントとは他人を動かす技術ではありません。本質は「自らをマネジメントすること」にあります。これは新渡戸稲造が『武士道』で語った「克己(こっき)」と同義でしょう。自分をコントロールできない人間が、他者をマネージできるはずがないのです。

政治家は英語で “Law Maker” とも呼ばれます。法律を作り、私たちの税金を使うことを国民からアウトソースされている、れっきとしたプロフェッショナルのはずです。それにもかかわらず、今の政治にプロフェッショナルの姿が見えないのはなぜでしょうか。責任と権限の概念を理解せず、言葉だけで場を取り繕う。その姿は、ビジネスの世界とも不気味なほど重なります。

プロフェッショナルとは、決して「できる人」ではありません。自分に満足せず、常に次の壁に挑み続ける人です。一つ壁を越えれば、また次の壁が現れる。その過程を苦行ではなく、楽しみとして引き受ける。論語にある「知る者は好む者に及ばず、好む者は楽しむ者に及ばず」という言葉の通り、楽しみながらやっている人の中からしか、本物のプロフェッショナルは生まれません。

小林秀雄は「模倣は独創の母である」と言いました。完璧に模倣できた地点が、プロフェッショナルのスタートラインです。エリック・クラプトンも、ジミー・ペイジも、ジェフ・ベックも、最初は徹底したコピーから始めています。中途半端な理解のまま「オリジナリティ」を語るのは、単なる自己満足に過ぎません。

黒澤明監督の映画『七人の侍』は、実に見事なチームビルディングの教科書です。リーダーは同質な人材を集めるのではなく、技量も性格も異なるプロフェッショナルを集め、全体としてのバランスを取ります。ムードメーカー、無口な達人、参謀役、橋渡し役。それぞれが自分の役割を理解し、自律的に動く。これこそがプロフェッショナル集団です。

今の日本では、新卒一括採用やハウツー偏重の教育が、「自分を知る(know yourself)」機会を奪っています。流行のスキルを追いかけるだけでは、死ぬまで漂流者のままです。ブログや日記を書くことは、自分とのコミュニケーションを始めるための有効なツールでしょう。

結局のところ、プロフェッショナルとは肩書きではなく、覚悟です

自分を律し、学び続け、楽しみながら壁を越え続ける。その姿勢を持つ人が増えない限り、日本はこれからも「埋もれたまま」なのでしょう。

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2026年1月3日土曜日

「義」は生きているか――令和に問う『武士道』の現在地

 

静と動――武士道が伝えてきた『義』の二つの表情
  

2026年年初に「義」を考える

――新保祐司・新渡戸稲造・アメリカ人の視点から――

私は新聞を読まなくなって何十年も経ちますが、元旦の新聞だけは別です。各紙の論調を一望すると、その年の日本がどこに立っているのかが、うっすらと見えてくるからです。

2026年元旦、産経新聞の「正論」で、文芸評論家・新保祐司氏が「義」を正面から論じていました。年末からたまたま武士道やヤクザ、さらにはアメリカ人の言う「義務」や「責任」について考えていた私にとって、この論考は不思議な符合を感じさせるものでした。

新保祐司氏のいう「義の国」

新保氏は、日本が内憂外患の危機に直面するいま、必要なのは制度改革や対症療法ではなく、「義」を時代思潮の基調に据えることだと述べています。そして令和を「第2の明治」と捉え、明治の精神の核心こそが「義」であったと指摘します。

新保氏が引くのは、札幌農学校に学んだ内村鑑三と新渡戸稲造です。内村の『後世への最大遺物』が説く「勇ましい高尚なる生涯」、新渡戸の『武士道』が最初に掲げる徳目「義」。それらはいずれも、損得や空気ではなく、正しいと信じる道を実践する生き方を意味しています。

新保氏の文章で印象的なのは、「昨年は『勇ましい高尚なる生涯』とは対極的な出処進退を随分見せられた。もうたくさんである」という一節です。これは、近年の日本の政治や組織に蔓延する、責任回避や保身、責任転嫁への強い違和感を代弁しているように感じました。

新渡戸稲造『武士道』とは何か

新渡戸稲造の『武士道』は、明治33年に英文で出版されました。序文には有名なエピソードがあります。

ベルギーの法学者から「日本には宗教教育がないのに、どうやって道徳教育をするのか」と問われ、新渡戸は自分に善悪の観念を植え付けたのが「武士道」だったことに気づいた、と述べています。

アメリカやヨーロッパでは、宗教が道徳の基盤です。ニューヨークでは、ユダヤ教の祝祭日を考慮したスクールカレンダーが組まれ、子どもは宗教や民族意識の中で育ちます。一方、日本人の日常生活では宗教心はほとんど表に出てきません。新渡戸はそこを否定するのではなく、「宗教に代替する精神的基盤としての武士道」を提示しました。それが「The Soul of Japan」「The Yamato Spirit」です。

『武士道』は全17章からなり、3章から11章で徳目が体系的に論じられます。最初に置かれているのが「義(Rectitude or Justice)」です。義とは、単なる正しさではなく、「敢為堅忍」、すなわち実行力と忍耐力を伴った決断の力だと説明されます。義のない勇気は無謀であり、義のない礼は猿芝居であり、義を欠けば名誉も忠義も成り立たない。これらの徳目は相互に結合した一つの体系なのです。

私自身、この本は夏目漱石の『私の個人主義』と並ぶ座右の銘です。英語は難しいですが、三年間の中学英語は『武士道』一冊で十分だと本気で思っています。「The feeling of distress(惻隠の情)」などの表現を、外国人との会話でさらっと使えたら、それだけで日本人としての背骨が伝わるはずです。余談ですが、私は『武士道』は、新渡戸がクエーカー教徒であるアメリカ人の奥様に書いたラブレターのように感じます。

アメリカ人の考える「義」

興味深いのは、「義」は決して日本人だけの専売特許ではないことです。アメリカで仕事をしていた頃、私の周囲には海軍や海兵隊の将校出身者が何人もいました。彼らに共通していたのは、強い「sense of obligation」、つまり義務感でした。

日系人初の米太平洋艦隊司令官、ハリー・ハリス提督は、日本人の母から「義理(duty)」を叩き込まれたと語っています。「国民は国家が必要とするときに奉仕する」という感覚は、アメリカではごく自然なものです。義務と責任が対になっている社会だからです。

ルース・ベネディクトは『菊と刀』で「義理は日本人特有の範疇だ」と述べましたが、私は必ずしもそうは思いません。中国人にも、アメリカ人にも義を重んじる人はいます。問題は、現代社会において、正義の道理を勇気をもって実行する人が極端に少なくなったことです。

スペインの哲学者オルテガが「我は我と我が状況である」と言い、エリック・ホッファーが群衆心理の中で描いたように、人は環境と人間関係によって形づくられます。義を欠いたネットワークに身を置けば、義は育たないのです。 

「武士道」は生きているか

新渡戸稲造は『武士道』の終盤で問いかけます。
Is Bushido Still Alive?

吉田松陰の

「かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂」を英語で紹介しながら、武士道とは状況に流されず、覚悟をもって行動する精神だと示しました。

いまの日本で、「やむにやまれぬ」という言葉が、どれほどの重みをもって使われているでしょうか。権力を守るために仲間を裏切り、責任を国民に転嫁する姿は、「The Soul of Japan」とは正反対です。

新保祐司氏が期待するように、厳しい国際環境が日本人の皮膚に「搔痕」を与え、その下から「一人の武士」が現れるのかどうか。その答えは、私たち一人ひとりが「義」を自分の問題として引き受けるかどうかにかかっています。

もし『武士道』を読んだことがなければ、ぜひ一度手に取ってみてください。そこには、今の日本に最も欠けている背骨が、静かに、しかし揺るぎなく書かれています。

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2025年12月27日土曜日

スキルと覚悟のバランス

 

前言

このスライドは、今から30年ほど前に作ったものです。人生一番生意気な40歳前後にまとめた資料ですが、いま振り返ると当時よりもずっと今の社会に切実に当てはまる気がしています。  

日本社会は相変わらず、いや以前にも増してスキル(能力)ばかりを追い求め、「commitment(覚悟)」はどうしても後回しにされがちです。資格や方法論は増えたのに、「どこまで引き受けるのか」という問いは軽くなった。そんな違和感があります。

もっとも、これを人生論として考えてほしいなどと言い出す時点で、すでに上から目線の自己中心的な高齢者の完成形かもしれません。それでもなお、組織の話としてではなく、自分自身の人生に引き寄せて考えてもらえたら――そう願って、あえてこの古いスライドを持ち出しました。

スキルと覚悟のバランス

――スキルだけでは、組織も人も強くならない――

私たちはしばしば「スキル不足」を問題にします。ITスキルが足りない、専門知識が弱い、コミュニケーションが下手だ――。確かにスキル(Capability)は重要です。しかし、それだけでは組織も人も強くなりません。

今回修正したスライドが示しているのは、極めてシンプルで、しかし見落とされがちな事実です。スキルと同等、いやそれ以上に重要なのが個人の「覚悟」である、ということです。

スキルとは何か ―― 図の左側

図の左側にある「スキル(Capability)」は、大きく二つに分かれます。

① 社会的スキル(ヒューマンスキル)
  • チームワーク
  • コミュニケーション
  • 意思決定
  • 他者との協働  等々
② 技術的スキル(テクニカルスキル)
  • ITスキル
  • 会計・税務などの制度的知識
  • 方法論、専門知識  等々
これらはいずれも「学べば身につく」能力です。研修やOJT、資格、経験によって、ある程度は後天的に獲得できます。しかし、ここで話を終えてしまうと、現場でよく見る“残念な光景”に行き着きます。

    、、、スキルはある。
    、、、しかし、誰も責任を取らない。
    、、、誰も本気で踏み込まない。

能力が足りないのではありません。覚悟が欠けているのです。


覚悟とは何か ―― 図の右側

そこで登場するのが、図の右側にある 「覚悟(Commitment)」 です。

英語で言えば Commitment。中国語で言うなら「承諾」が最も近いでしょう。「覚悟」という言葉が持つ精神論的な響きではなく、自分で引き受けると決める意思が核心です。

今回のスライドでは、覚悟を「組織に属する個人」ではなく、一人の人間として生きる覚悟として、次の4点に整理しました。

  1. 自分の立ち位置と価値観を引き受ける覚悟
    ─ どこに立ち、何を守り、何を引き受けるのかを自分で決める

  2. 自分の成長を止めない覚悟
    ─ 年齢や環境を理由に、可能性の更新をやめない

  3. 人との関係を育てる覚悟
    ─ 孤立を選ばず、信頼・尊敬・関心をもって関係に関与する

  4. 他者の人生に貢献する覚悟
    ─ 見返りを前提にせず、誰かの成功を本気で支援する

重要なのは、すべては個人の覚悟から始まるという点です。「会社が悪い」「環境が悪い」と言う前に、自分は何を引き受けると決めたのか(責任)が問われます。


スキル × 覚悟 = 相乗効果

このスライドの核心は、中央にある言葉です。

相乗効果(Synergy)

スキルと覚悟は、足し算ではありません。掛け算です。
  • スキルが高くても、覚悟がゼロなら成果はゼロ
  • 覚悟があっても、スキルがなければ空回りする
一人ひとりが
  • スキルを磨き、
  • 覚悟を引き受け、
スキルと覚悟が噛み合ったとき、人はようやく自分の人生を自分の足で進めるようになります。

人生と組織に共通するピラミッド構造


スライドは、成功を次のピラミッドで示しています。
  1. スキル × 覚悟
  2. 自分にしかできない貢献を通じて、人生で出会う人々と長く続く信頼関係を築く
  3. 楽しめる環境 ─ 自分も、周囲も
  4. 成功 ─ 組織においても、人生においても

ここで重要なのは、順序を飛ばせないということです。スキルと覚悟という土台がないまま、成功だけを求めても、それは砂上の楼閣になります。

スキルだけでは足りない理由

スキル偏重の組織や人生では、こうした現象が起きがちです。
  • 判断を先送りする
  • 責任の所在が曖昧になる
  • 「できる人」が静かに去っていく
これはスキルの問題ではありません。覚悟の欠如です。

逆に、覚悟を引き受けた人は違います。未熟でも学び、失敗しても前に出る。その姿勢が周囲の能力を引き出し、結果として組織も人間関係も強くします。

成功は、覚悟とスキルの上にしか積み上がらない

強い組織は、制度やスキルから生まれるのではありません。強い人生も、肩書きや運から生まれるのではありません。一人ひとりのスキルと覚悟の相乗効果から生まれます。
  • 能力を磨くこと
  • そして、それをどこに使うと引き受けるのかこの二つが揃って初めて、
信頼が生まれ、
人に囲まれ、
楽しめる環境が育ち、
結果として「成功」が積み上がっていくのです。

スキルだけがあっても、覚悟がなければ届かない。
覚悟だけでも、スキルがなければ形にならない。
だからこそ、スキルと覚悟のバランスが重要なのです。

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2025年12月19日金曜日

イソップ寓話が日本に突きつける問い ~ 狼と仔羊

 
イソップの『狼と仔羊』が教える、現代への警告


昔から折に触れて考えてきたことがありますが、これまで文章にまとめる機会がありませんでした。忘れないうちに、ここに書き留めておこうと思います。それは、中国共産党の言動や行動を見ていると、どうしてもイソップ寓話の一つ『狼と仔羊』を思い出してしまう、ということです。

まず、この寓話を簡単に紹介します。

川の上流で水を飲んでいた狼が、下流で静かに水を飲んでいた仔羊に目をつけます。狼は「お前が水を濁したせいで、私は汚れた水を飲まされた」と言いがかりをつけます。しかし、仔羊は「私は下流にいますから、上流のあなたの水を濁すことはできません」と、冷静に事実を説明します。

すると狼は、「去年、お前は私を侮辱した」と別の罪をでっち上げます。仔羊が「その頃、私はまだ生まれていません」と反論すると、狼は「ならばお前の父親だ」と、さらに理屈をねじ曲げ、最後にはそのまま仔羊を食べてしまいます。

この物語が教えるのは、極悪非道な嘘つきの前では、どれほど正当で論理的な弁明をしても無力である、という冷酷な現実です。相手が最初から結論ありきで害意を持っている場合、理屈や正論は通用しないのです。

私には、この狼の姿が、現在の中国共産党の振る舞いと重なって見えます。仔羊が日本であったり、周辺の他国であったりする構図です。

中国共産党に対して、正当性や国際法、論理を積み上げた主張を行っても、それは彼らの前ではほとんど力を持ちません。共産党の支配と存続のためであれば、どれほど悪辣であっても、どれほど露骨な嘘であっても、ためらいなく使う──その姿勢は、まさに『狼と仔羊』の狼そのものです。

だからこそ、日本の政治家や経済界、そして教育界に携わる人々には、この寓話を単なる昔話として片付けず、現実の教訓として肝に銘じて対応してほしいと、切に願います。

正論を述べれば分かり合える、論理を積み重ねれば納得させられる、という前提は、相手によっては成り立ちません。狼に対して仔羊の理屈が無力であったことを、私たちは忘れてはならないのです。

イソップの寓話は短い物語ですが、そこには時代を超えて通用する、人間社会の本質が凝縮されています。『狼と仔羊』は、まさに現代を生きる私たちへの、重い警告だと感じています。

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2025年12月16日火曜日

誰も決めないという病

 

「空気を読む」文化が危機対応を壊す 
  ~ 臨機応変を許さない日本社会  

――準備・覚悟・責任という欠けたピース

「臨機応変に対応せよ」。

企業の現場でも、政治の世界でも、危機が起きるたびに繰り返される言葉です。しかし実際には、日本社会は臨機応変が得意とは言い難い。むしろ、非常時になるほど判断が遅れ、混乱が拡大する場面を私たちは何度も目撃してきました。

問題は個々人の能力や度胸の欠如なのでしょうか。今回は、臨機応変という言葉の本質を掘り下げながら、日本人がそれを苦手とする構造的理由、そして身につけるための条件を整理します。

1.臨機応変とは「思いつき」ではなく、準備と覚悟である

まず確認しておきたいのは、臨機応変とは決して「その場の思いつき」や「精神論」ではない、という点です。

本来の臨機応変が成立するためには、少なくとも次の三つが必要です。
  • 第一に、選択肢(オプション)を事前に把握していること。
  • 第二に、最低限守るべきライン、すなわちフォールバックやコンティンジェンシーを決めていること。
  • 第三に、現場で決断する権限と、その結果を引き受ける覚悟があること。
この三点がそろって初めて、人は不完全な情報の中でも判断できます。逆に言えば、どれか一つでも欠けていれば、臨機応変は単なる行き当たりばったりに堕してしまいます。

日本ではしばしば、臨機応変が「空気を読むこと」「その場を丸く収めること」と誤解されがちです。しかし本質はその逆です。臨機応変とは、空気に従う力ではなく、責任を引き受けて判断する力なのです。

2.日本人が臨機応変を苦手とする根本原因

① フォールバック・プランを持たない文化

日本社会の大きな特徴の一つは、「100%でなければ意味がない」という思考です。その結果、「50%でも続ける」「被害を最小化するために引き返す」という発想が嫌われがちです。

これは歴史を振り返っても同じです。昭和の十五年戦争においても、あるいは国際的なテロ事件や金融危機の際の企業対応においても、「最悪を想定しない」「引き返す最低線を決めていない」という共通点が見られます。

フォールバックを考えることは、敗北を認めることではありません。本来は、生き残るための知性です。しかし日本では、それが「弱気」「責任回避」と見なされ、忌避されてきました。その結果、状況が悪化しても止まれない構造が温存されてきたのです。

② 「サーバント適合型」リーダーの量産

もう一つの要因は、人材の育成と評価の問題です。日本の教育や組織は、長らく「言われたことを忠実に実行する人」を高く評価してきました。

その結果、
  • 自分で判断しない
  • 決断しない
  • 責任を引き受けない
管理職が量産されてきました。いわば「係長止まり」の優秀さです。彼らは平時には有能ですが、非常時には機能しません。

臨機応変ができないのは、個人の資質の問題ではありません。判断しない人ほど安全に生き残れる構造そのものが、臨機応変を不可能にしているのです。

③ 「村の掟」と精神主義

非常時になると、日本ではしばしば精神論が前面に出てきます。「気合」「一体感」「頑張ろう」という言葉が飛び交い、具体的な判断は先送りされます。

背景にあるのは、「村の掟」とも言うべき同調圧力です。協調性を乱さないこと、空気を壊さないこと、村八分に遭わないことが、合理的判断よりも優先されてしまう。

その結果、非常時ですら人間関係の維持が最優先され、判断は遅れ、全体がパニックに陥る。この構図は、現代の企業や政治の現場にも色濃く残っています。

3.臨機応変の前提条件①:基礎と引き出しの多さ

臨機応変は、誰にでもできる魔法ではありません。「守破離」や職人、演奏家の世界が示している通り、徹底した基礎の上にしか成立しないものです。

型を知らない人は、応用できません。
引き出しが少ない人は、状況に対応できません。

にもかかわらず、日本では「守」だけで止まり、「破」「離」に進めない育成が常態化しています。型に従うことと、型を超えることは矛盾しません。むしろ、型を極めた者だけが、自由になれるのです。

4.臨機応変の前提条件②:現場でのイニシアチブと決断

臨機応変に必要なのは、全員の合意ではありません。必要なのは、現場で主導権を持ち、決断する人間です。

コンセンサスを待ち、上司の顔色をうかがい、本社や東京の指示を待つ――その間に、状況は刻々と悪化します。

臨機応変とは民主的であることではなく、責任を引き受ける覚悟です。結果が失敗だったとしても、その判断をした人が組織として守られる。この前提がなければ、誰も動きません。

5.なぜ昭和の戦争でも、今でも同じなのか

以上、述べてきたように、日本が臨機応変を苦手としてきた理由は一貫しています。
  • 不都合な事態を想定しない
  • 引き返す線を決めない
  • 判断する人を育てない
  • 判断する人を守らない
その結果、状況が変わっても止まれない。

重要なのは、「臨機応変ができなかった」のではなく、臨機応変を許さない構造が存在していたという点です。この構造は、昭和の戦争から現代の政治・企業経営に至るまで、本質的には変わっていません。

臨機応変とは、空気を読む力ではありません。
最悪を想定し、最低線を決め、現場で責任を引き受ける力です。

その力を育て直さない限り、日本はこれからも同じ場所で立ち尽くすことになるでしょう。














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2025年12月1日月曜日

日本はなぜ中国に舐められるのか?

 

日中関係の根本は変わっていない

~ 15年越しの考察

いま、日中関係が再びぎくしゃくしています。何も目新しいことではないように思います。いま起きている現象は、15年前に私が感じていた懸念とほとんど同質のものです。むしろ、あの頃より見えにくく、複雑になり、深刻になっています。

この15年間、中国も日本も世界も大きく変化しました。中国はさらなる経済成長を遂げ、日本は国際政治の舞台で後退を続け、アメリカの戦略も様変わりしました。しかし日中関係の根本だけは、驚くほど変わっていません。

私は1970年代、文化大革命の真っ最中の中国に強い関心を抱きました。以来50年以上観察してきましたが、中国に対する本質的認識はいまも変わりません。ここで言う「中国」とは、言うまでもなく1949年に成立した中国共産党の国家です。党が統制し、歴史も情報も意思決定も一元的に管理する社会です。この前提を理解しなければ、日中関係は永遠に見誤ると思います。

いつも腹立たしいのは、日本国内の言論人と称する人々が、同じ思い込みを繰り返してはメディアで声高に叫び続けることです。視聴率しか興味のないマス・メディアも同罪です。そこには見識も歴史観も倫理観もありません。ウソと情緒とプロパガンダに対しては、冷静な真実の積み重ねによってしか対抗できないはずなのに、国内の議論はますます浅く軽くなっています。

中国人の反日感情はどう作られるのか

15年前、私は自社の上海オフィスの中国人コンサルタント(いわゆる“80后”)から、このようなコメントを聞きました。

子供のころは日本を嫌っていない。しかし、学校教育で植え付けられたイメージが、事件が起きた瞬間に思い出されるだけなのです。

つまり反日感情は常に燃えているわけではなく、引き金さえあればいつでも再燃します。国民感情は政府の統治手段の一要素なのです。

2005年の反日暴動も、尖閣の衝突事件も、まさにその構図が露骨に現れた事例でした。私は当時こう書きました。

「歴史とは勝者が書き換えるものである。現在を制する者は過去を制し、過去を制する者は未来を制する」。

オーウェルの『1984年』の一節です。この構造は今も変わっていません。

中国の問題、日本の問題

私は当時の反日騒動について、二つの理由を挙げました。一つは中国国内の社会不安です。所得格差、失業、汚職。国民の不満を逸らすには、外敵をつくるのがもっとも簡単で効果的な手法です。これは共産党統治の本質であり、今も全く同じ構造が続いています。

もう一つは日本の弱さです。政治の機能不全、経済力の低下、そして何よりも国家としての自信の喪失です。15年前の私はこう書きました。

日本が弱くなればなるほど、近隣諸国は元気が出てくる。

そしてこの構造もまた、全く変わっていません。もちろん、そこにはアメリカの外交戦略の意思があります。

日本社会の危うさ

私が危惧していたのは、中国の強硬姿勢そのものではありません。日本の側にある精神的崩壊です。外交と芸能ニュースを同列に扱うメディア、歴史認識を失った政治家、国家としてのビジョンも誇りも示せない社会。国民の心はすり減り、視野は狭くなり、余裕が無くなっています。

15年前の私はこう書いていました。

この国は国家としての誇りや気骨をどう取り戻すのか?

その問いは今も答えが出ないままです。むしろ当時より深刻になっています。

結局、何が変わっていないのか

私が観てきた50年以上の中国、そして日中関係を振り返ると、次のことだけは確信を持って言えます。

日中の緊張は、事件や偶然で起きるのではなく、構造から必然的に生じるのです。

中国側の統治構造、歴史教育、国家戦略。
日本側の精神的な弱さ、政治の失策、メディアの劣化。

15年前も、今も、問題の根本には何も変化がありません。

本稿をまとめながら、ひとつだけ希望を述べるとすれば、それは日本人が自国を知り、相手を知ろうとする姿勢を捨ててはいけないということです。孫子は言いました。

「知己知彼、百戦百勝」。

これは戦争の論理ではなく、外交にも国際社会にも通じる普遍の智恵です。

日中関係はこれからも形を変えながら続いていくでしょう。しかし、本質を見誤らなければ、危機は必ず乗り越えられるはずです。真実に誠実であろうとする姿勢だけが、プロパガンダと歴史の改ざんを超える唯一の道なのです。

駐日総領事・薛剣のXにおける暴言や、王毅外相に代表される日本に対する態度は、日本政府が招いたものです。つまり、日本を舐めている中国共産党を生み出したのは、日本の政治であり、事なかれ主義の敗戦後の日本精神なのです。

果たして、高市新政権はどこまで軌道を修正できるのでしょうか。

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2025年11月27日木曜日

日本の若者よ、試練から逃げるな ~ 完璧ではなく「試練への耐性」を身につけよ

 

『Hidden Potential』のメッセージから考える、日本の教育とキャリア形成

アダム・グラント教授の著書『Hidden Potential』には、次のような一節があります。

完璧さというのは幻想である。いずれ目指すゴールに到達したければ、その事実を理解し、ある程度の不完全さを受け入れることを学ぶ必要がある。

この言葉は、アメリカのエリート層、とりわけ難関大学に進学するような若者に向けたメッセージだと解釈できます。失敗を嫌い、完璧を求めすぎるがゆえに、最終的に成長が阻害される――アメリカの高学歴層に実際に見られる現象です。しかし、一つ注意すべきことがあります。このまま日本の若者にコピー&ペーストして当てはめてしまうことは、必ずしも正しいとはいえないということです。

なぜか。問題の根底にある価値観が、日本ではアメリカとはまったく異なります。

アメリカの心理学と日本の現実は違う

アメリカの心理学は基本的にデータと統計に支えられています。個人のパフォーマンス、キャリア、モチベーションの研究も定量化されるのです。対して、日本に根づく心理学・教育観は、より深層心理的で精神文化的な文脈を含みます。しかし、ここ何十年も、日本ではアメリカ発の自己啓発がほぼ原文のまま「輸入」されています。

その結果、次のような問題が起きていると思います。
  • 優秀さの基準が他国のものに置き換わってしまう
  • 成果主義や自己効力感の議論だけが強調される
  • 「自分とは何者か」を問う文脈が欠落する
  • 試練を経験する過程より結果だけが重視される
グラント教授の言葉を無批判に取り入れるのではなく、日本という文脈の中に置き直す必要があります。

日本の若い世代に最も不足しているものは「試練への耐性」

私は長年アメリカと中国で仕事をしてきました。そこで確信したことが一つあります。

日本の若者の弱点は、能力でも知性でもない。
逆境や試練に対する耐性が弱いことだ。

人生は試練の連続です。仕事でも人生でも、「理不尽」は必ずやってくる。完璧主義どころか、むしろ挫折に遭遇した瞬間に崩れてしまう例を少なからず目にしてきました。これは個人の資質の問題というより、教育や社会の仕組みがそうさせている部分が大きい。

冒頭のスライド(30年ほど前に作成したもの)では、試練への対応から自尊心が形成されるプロセスを示しています。
  • 自分から飛び込む試練もある
  • 無理やり降ってくる試練もある
  • うまくいく時も失敗する時もある
  • しかし重要なのは「逃げずに対応すること」
試練を乗り切るからこそ、経験は教訓となり、自尊心が生まれ、次の挑戦につながる。

「完璧を求めるな」ではなく「逃げるな」

グラント教授の主張を日本の現状に合わせて読み替えるなら、こうなります。
  • 完璧を求めなくてもいい
  • しかし、試練は避けてはいけない
試練から逃げ続ける限り、いつまでも大人になれない。自分の弱点を克服するのは、いつも現実であり経験です。アメリカの若者は競争の中で育ち、失敗しながらも前進する。しかし、日本の若者は失敗しないように生きすぎる。だから、打たれ弱い。そのままでは、世界で通用する大人にはなれないと思います。

上手に人を頼ればいい。試練は一人で戦う必要はない

もちろん、全てを独力で切り抜ける必要はない。困った時に支援を求めることは、弱さではない。むしろそれは成熟の証なのです。
  • 友人の助けを借りればいい
  • 先輩を頼ればいい
  • 家族のサポートが必要なら言えばいい
日本では「人に頼ること=甘え」という偏った考えがある。しかし真実は逆です。人の支援を受けてでも試練を乗り越えることが、自尊心を形成する。

もっと狡猾で、もっと強い若者を

私は日本の若者が世界で最もポテンシャルを秘めていると思っています。だからこそ言いたい。

試練を避けるな。苦しみを成長に変えろ。

アメリカ人や中国人よりも賢く、逞しい若者が日本から育ってほしい。頼りない自己啓発書ではなく、自らの人生の試練を引き受けてほしい。人生は完璧に設計されたレールの上を走るものではない。むしろ混沌と理不尽をどう生き抜くかで決まる。なんだか、暑苦しい上から目線ですね、、、、。

そして最後にひとつ。今はちょうど感謝祭の季節です。

完璧とは、成功とは、幸福とは、誰かが決めるものではない。自分の人生に感謝し、自分だけの道を切り拓いていくことこそ、最大の成長で

日本の若者には、その未来がある。私は心から期待していますよ!

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2025年11月25日火曜日

「性格は環境で決まる」~ 人生を変えるのは“誰と出会うか”

 
東田島カトリック幼稚園(昭和30年代 福岡市)

ビジネス誌のオンライン版に、興味深い記事がありました。

「幼稚園の先生によって、将来の年収に1000ドル以上の差が生まれる」という、ペンシルバニア大学ウォートン校のアダム・グラント教授の研究を紹介したものです。

なるほど、幼少期の教育環境が人格や能力形成に大きく影響するという指摘はもっともです。しかし私が強く思うのは、そこで本当に問われているのは「先生という“個人”」ではなく、子どもを取り巻く“環境全体”の力ではないか、という点です。

もっとも、幼少期の環境は日米で大きな差があります。スペインの哲学者オルテガは「私は、私と環境でできている」と述べました。この言葉は、人格や性格の本質を端的に言い表していると感じます。

性格を育てる最大の要因は、家庭の“生き様”です

幼児に最も長く、強く影響を与えるのは、実は幼稚園の先生ではありません。間違いなく、親です。子どもは、親の言うことよりも、親の生き方・態度・振る舞いを見て育ちます。
  • 困難にどう向き合うか
  • 怒りや失敗にどう対処するか
  • 挑戦するのか、安全地帯に留まるのか
そうした日常の「背中」が、そのまま性格の設計図になります。

私たちを形づくる最大の力は、家庭という“環境”と、そこで起きる無数の“邂逅”(人やモノとの出会い)だと言えるでしょう。

才能(ギフト)よりも重要な「性格スキル」

大谷翔平選手のように、生まれながらのギフティッドであり、後天的に磨かれたタレンティッドでもある人は、例外的です。しかし多くの人は、天才ではありません。

では、私たち全員が持ち、後天的に伸ばせるものは何か。

それが、アダム・グラントがさまざまな研究で示している「性格に由来するスキル」です。

私はかつて、コンサルティング会社で多くの中途採用面接に関わりました。コンサルの採用は人事部の仕事ではなく、マネジメントが直接責任を持つのが原則です。

そこで最重要視したのは、知識でも経歴でもなく、性格でした。知識や経験は真偽の確認です。性格だけは“土台”です。ここが弱いと、どれだけスキルを積んでも、土台から崩れてしまうのです。

アダム・グラントが語る「性格スキル」の3要素

アダム・グラントは著作の中で、人の成長を左右する「性格由来の力」を整理しています。なかでも重要なのが以下の3つです。

1.意志力

不快から逃げず、小さな一歩を踏み出す力です。人は「変わりたい」と「変わりたくない」を同時に持っています。コンフォートゾーンから出る力は、人生を大きく分けます。

2.積極性(プロアクティブさ)

環境から学び、吸収し、適応していく力です。“人間スポンジ”のように新しい経験を取り入れ、不要なものを捨て、変化に柔軟に対応する姿勢が求められます。

ここで重要になるのが、良いメンターとの出会いです。出会いは、人を変える最大の装置だからです。

3.自己統制力(新渡戸稲造『武士道』の“克己”)

「できない完璧」ではなく、「できる現実」に基準を置き直す力です。完璧主義はしばしば挫折の原因になります。達成可能な基準を設定し、粘り強く進む力が、人生の持久力を生みます。

性格は“環境”がつくり、環境は“邂逅”で形づくられる

プレジデントの記事が示していたのは、幼児教育の力でした。しかし、より大きな本質はこうではないでしょうか。
  • 性格は才能を超える。
  • 性格は後天的に鍛えられる。
  • 性格を鍛えるのは、環境と邂逅である。
子どもをどんな環境に置くか。
どんな人やモノと出会わせるか。
何より、親である私たち自身がどんな生き方を見せるか。

幼稚園の先生は重要です。しかし人生を決めるのは、もっと大きな“環境の総量”です。そしてその環境は、私たち自身が選び、つくり出すことができます。

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2025年11月3日月曜日

出る杭とフェミニズム ― 高市早苗という“日本の試金石”

 
ネットで拾った画像(著作権は不明)


米外交問題評議会(CFR)のシーラ・スミス氏が、「日本初の女性首相となった高市早苗の政治的意味」を論じた記事を発表しました。

スミス氏は、彼女が安倍路線を継承する保守政治家でありながら、女性リーダーとして日本社会の固定観念を揺さぶる存在になる可能性を指摘しています。彼女にとってフェミニズムとは「女性優遇政策」ではなく、「国家の強さと文化的自立をどう両立させるか」という政治哲学の一部として描かれているようです。

つまり、スミス氏の目には、高市氏は「女性だから首相になった」のではなく、「首相になったら女性だった」政治家として映っている。これは、日本国内の一部論者が「女性であること」に過剰な意味を読み込む態度とは対照的です。

実際、日本のフェミニズムはどこか歪んで伝わってきたように思います。アメリカのフェミニズムが「人間としての平等」という普遍理念から発展したのに対し、日本のそれは「被害者意識」と「敵探し」が先に立ちがちです。

その典型が、社会学者・上野千鶴子氏の発言です。高市氏が自民党総裁に選出された際、上野氏はX(旧ツイッター)でこう書きました。

「初の女性首相が誕生するかもしれない、と聞いてもうれしくない」。さらに「ジェンダーギャップ指数は上がるだろうが、女性に優しい政治にはならない」と続け、高市氏が「選択的夫婦別姓」に慎重な姿勢をとっていることを批判しました。

しかし、高市氏自身は、旧姓の通称使用拡大には長年尽力してきました。「別姓に反対する=女性の敵」という単純な構図では捉えられないのです。上野氏のような“学問的フェミニズム”が現実社会を見下ろす視線に陥ると、むしろ女性の現実的な選択肢を狭めることになりかねません。そうじゃないですか?

フェミニズムとは、本来、性別に関係なくすべての人が平等に尊重される社会を目指す思想です。「女性が優遇されるべきだ」という主張ではなく、「性別に関係なく能力が正当に評価されるべきだ」という考え方のはずです。ところが日本では、フェミニズムが“女性のための旗印”に変質し、男性と敵対する運動のように誤解されてきました。

数日前のブログで書きましたが、繰り返します。社会主義者・北一輝の言葉です。

「男女は断じて同一の者に非ざる本質的差異を持つ」。男女は異なるが、だからこそ折り合いをつけて共に生きる――彼は100年前に、すでに成熟した平等観を語っていました。これは「知行合一」、つまり「言っていることとやっていることが一致する」人間観にも通じます。

高市氏が目指しているのは、まさにそうした現実的な「折り合いの政治」ではないでしょうか。性別にこだわるよりも、沈みかけた日本の船をどう立て直すか――そこにこそ本質があります。もっとも、背後にある魑魅魍魎とした党勢力とのバランスは、折り合いがつくかどうか、イバラの道でしょうが、、、。

それにしても、日本社会には「出る杭を打つ」習性が根強く残っています。誰かが少しでも成功すると、すぐに「気に食わない」と叩く。それが女性なら、さらに容赦がない。こうした“横並び文化”が、日本のフェミニズムをも萎縮させてきたのかもしれません。

アメリカでは、女性リーダーを「象徴的存在」として支える文化があります。一方の日本では、「女性がトップになるなら、私たちより何倍も優れていなければ」という暗黙のプレッシャーがある。結果として、「出る杭」は伸びる前に切り落とされてしまうのです。

フェミニズムを語るなら、まず「成熟した眼差し」を持つべきです。誰かを叩くのではなく、静かに見守る。最初から協力しなくても、せめて静観するくらいの余裕を社会が持てるかどうか――それが、真のジェンダー平等の第一歩ではないでしょうか。

高市政権の船出をどう評価するかは人それぞれですが、「女性であること」を理由に足を引っ張るようでは、日本の社会の成熟も、フェミニズムの再生も、まだまだ夜明け前なのかもしれません。
   
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2025年11月2日日曜日

迷子になる勇気 ― 井伏鱒二『山椒魚』が映す日本社会の閉塞

 

井伏鱒二の『山椒魚』が発表されたのは1929年、昭和の幕開け、満州事変の直前の頃です。


それから約一世紀が経った今も、この作品は学校の国語教科書に掲載され続けています。けれども、現代の教育現場でこの作品がどこまで深く読まれているのかといえば、疑問を感じざるを得ません。  

多くの場合、「自分の殻に閉じこもった山椒魚の孤独」という心理的・道徳的な読み方にとどまり、そこに潜む社会的比喩までは掘り下げられていないように思います。

社会に出て組織の中で働いた経験を持つ人が読むと、この短編はまったく別の表情を見せます。

山椒魚が閉じこもった「岩屋の穴」は、まさに現代日本の組織社会そのものを象徴しているように見えるからです。狭く、息苦しく、しかし奇妙に安定した空間。そこに閉じ込められた山椒魚は、他者を責め、言い訳を重ね、自分の境遇を嘆きながらも、けっして外へ出ようとしません。彼を不自由にしているのは他者ではなく、自分自身なのです。そして、蛙。山椒魚によって岩屋に閉じ込められた生物です。当初は山椒魚と罵り合うのですが、最終的には山椒魚の孤独を理解し、両者の間に奇妙な連帯感が生まれます。なんだか、いったん入社すると、惰性でそのまま定年まで、、、。

この構図は、いまの日本社会に驚くほどよく似ています。

学校では、与えられた問いに「正しい答え」を返すことが評価されます。「なぜ」「どうして」と問うことは煙たがられ、他人と違う意見を持つことが「面倒」とされる。社会に出れば、上司の指示に従うことが『協調性』とされ、異論を唱える者は『空気が読めない』と排除される。

こうして人々は、自分で考え判断する力を失い、洞窟の中で不満を言うだけの存在になってしまいます。

井伏が『山椒魚』を書いた頃、日本は急速な近代化のただ中にあり「自律」という概念を置き去りにしていました。国家も個人も、外から与えられた枠組みの中で「秩序」を優先し、「自由」を恐れたのです。その構図は、戦後を経た現代でもあまり変わっていません。むしろ管理と監視の技術が高度化したことで、私たちはより精密な「洞窟」の中に閉じ込められているのかもしれません。

思えば、山椒魚が岩屋に閉じこもることになったのは、「ほんの気まぐれ」でした。外に出るタイミングを逃したことが、彼を永遠の囚人にしたのです。日本社会もまた、戦後のある時期に「自由より安定」「個より組織」という選択をしました。その結果、社会は安定しましたが、精神の自由を失いました。自らの判断で動く勇気――すなわち「自律」――が奪われていったのです。もちろん、外的要因は多々ありましたが、、、。

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2025年11月1日土曜日

チームビルディングという幻想 ― 日本が自律を失った理由

1998年頃に作成したスライド
 

組織という病理 ― 日本が「自律」を失った理由


高市新政権が船出しました。
外交も内政も、ようやく舵を切ったばかりです。

それにもかかわらず、主要メディアは早くも冷笑的な論調を競い合っています。どうもこの国では、政治家が何かを「始める」ことよりも、「まだ何もしていない」段階で叩くことに快楽を見いだす人々が多いようです。私は、もう少し静観するくらいの知的余裕を持ちたいと思います。

もっとも、政権批判そのものの是非を論じたいわけではありません。私が気にしているのは、この国の組織や教育の根に深く巣食っている「自律の欠如」という問題です。どれほど立派な理念を掲げた政権が誕生しても、日本の組織文化そのものが変わらない限り、社会の底力は決して上がらないでしょう。
 
「タコつぼ国家」の正体

日本の組織は、一言で言えば「タコつぼ型」であります。専門領域を掘り下げることが美徳とされ、他の部門には立ち入らない。互いに干渉せず、協働せず、しかし波風も立たない。そこに「和」が保たれていると信じているのです。

しかしながら、この「和」はきわめて奇妙な代物です。意見をぶつけ合う「嵐(ストーミング)」の段階を避けることで、組織は表面上の平穏を保ちますが、その実、内部には無関心が蔓延します。誰も責任を取らず、誰も決断しない。こうしてチームは「協働する群れ」ではなく、「並列する個」の集合体に堕していくのです。
 
リーダー不在の共同体

日本の組織には、リーダーがいません。いや、正確に言えば、「命令する人」はいても「導く人」がいないのです。上司は部下を育てるのではなく、監視します。会議では「意見」よりも「空気」が支配する。その光景には、自由よりも服従を美徳とする国民性の影が見えます。

本来、リーダーとはチームを支配する者ではなく、その自律を促す者です。ところが日本では、上に立つことを「責任」ではなく「特権」と誤解し、下にいることを「服従」と思い込む。そのため、誰もリーダーになりたがらない。上司を軽蔑し、部下を育てず、結果として組織全体が「管理の奴隷」と化していくのです。

教育が奪った「自ら考える力」

私は、この問題の根源は教育にあると考えています。日本の教育は、答えを覚え、他者に認められることを目的としてきました。その結果、「自分で問いを立てる力」が育たなかった。教師は常に「教える者」であり、生徒は永遠に「与えられる者」であり続けたのです。

自ら考える訓練を受けないまま社会に出た人々が、「上の指示」を待つのは当然のことです。それを「協調性」と呼び、「組織人の美徳」としてきました。しかしその実態は、自律を放棄した従属の連鎖にほかなりません。
 
「褒めない社会」とモチベーションの空洞

日本人は、人を褒めるのが苦手です。褒めれば「贔屓」と見なされ、評価は常に「相対的な順位」で語られます。この文化の中で育った人間は、他者の評価に依存するようになります。その結果、「何のために働くのか」という根本的な目的意識を見失ってしまうのです。

セルフ・モチベーションが育たない社会では、リーダーもまた育ちません。リーダーとは、誰かに褒められるために動く存在ではないからです。自己の信念と目的意識をもって行動する――そこにこそ、真の自律があると私は思います。

信頼のない国に自由はない

結局のところ、昨今の日本社会の病理は「信頼の欠如」に尽きます。上司は部下を信じず、教師は生徒を信じず、親は子を信じない。信頼のない場所では、自律も自由も育ちません。だからこそ、組織は「管理」に走り、教育は「監視」に堕していくのです。

私は思います。この国に必要なのは、新しいスローガンでも、派手なリーダーでもありません。一人ひとりが自分の判断で動く勇気であります(迷子になる勇気)。信頼し、任せ、失敗を許す文化を取り戻さない限り、日本は永遠に「管理社会の徒花」に咲き続けることでしょう。

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2025年10月27日月曜日

まだ間に合う教育再生 ― 若い世代に託す希望



若い世代へのエール

私は高齢者ですから、まずは正直に言わせてもらいます。50歳以上の人たちにいろいろ提言しても、もう手遅れです(人間が、総合的に最も機能するのは50代後半から60代前半だという研究もあるようですが、、、)。耳が遠くなったわけではありません。 頭の中のアップデート機能が、そろそろサポート終了を迎えつつあるのです。

ですから、希望は若い世代に託すしかありません。小中学生から40歳前半くらいまでの人たち、そして彼らを育てる親御さんたち。ここに日本の未来を変えるカギがあります。

「流行」ではなく「原理」を学ぶ

最近は何かと「AIドリル」「プロンプト力」「デジタル人材」など、横文字が飛び交っています。しかし、流行りのツールを追いかけていても、学びの本質には近づけません。道具は時代とともに変わりますが、思考の基礎体力は変わらないからです。

教育の目的は、最新ツールの使い方を覚えることではなく、「抽象度を上げ、全体を見渡す目を育てること」だと思います。つまり、木を見て森を見ずではなく、「森の成り立ち」を理解できる人を育てる。これこそが、AIの時代に、人間が人間であり続けるための知恵です。

子供たちには、本、できれば一冊でも二冊でも古典を読んでほしいと思います。長年読み継がれてきた文章には、時代を超える「人間の知恵」が詰まっています。気に入った部分はどんどん真似していい。模倣は創造の第一歩です。昔の文人たちは皆そうして成長しました。パクることは、恥ではなく学びの技です。

モチベーションとインセンティブを混同していませんか?

さて、日本では「モチベーションが上がらない」という言葉がやたらと聞かれます。しかし、モチベーション(やる気)とインセンティブ(ご褒美)を混同している人が多いようです。

モチベーションとは、自分の内側から湧き出る「よし、やるぞ」という気持ち。インセンティブは、そのやる気を引き出す外側の仕掛け――つまり、ニンジンです。

「ご褒美がないと動かない」では、インセンティブに頼り切った状態です。本当の学びは、ニンジンがなくても走り出すようなモチベーションから生まれます。

では、そのモチベーションはどこから来るのか?
社会のリアリティがそれを育てます。

平均化社会の罠

アメリカの子供たちは、街角でホームレスや薬物中毒者を見ます。同時に、巨大な家に住み、高級車を乗り回す大富豪も見ます。彼らのモチベーションは明快です。「こうはなりたくない」「ああなりたい」――この振れ幅が、行動の原動力になるのです。

一方、日本はどうでしょう。

極端な貧困もなく、極端な富裕も少ない。コンビニに行けば、とりあえず何かは買える。安心で穏やかな社会である一方、「危機感」や「憧れ」という刺激が少ないのも事実です。過度な平均化は、やる気の平準化でもあります。 個性が磨かれる前に、角を丸めてしまうのです。

これは教育にも同じことが言えます。「みんな一緒に、同じペースで」――確かに優しい響きですが、長い目で見れば、誰のためにもなっていません。

「機会の平等」と「結果の平等」は違う

平等主義は大切です。しかし、「機会の平等」と「結果の平等」を混同してはいけません。日本の教育は、時に「結果の平等」に偏りすぎています。

小学校低学年までは、皆で同じことを学ぶのが良いでしょう。しかし、高学年になると、子供たちの得意・不得意、興味の方向ははっきりしてきます。それなのに、どんなに才能があっても、「みんな同じスピードでやりましょう」と言われたら、やる気のある子ほど退屈します。

能力別クラスという言葉は日本では敬遠されがちですが、本来は「格差」ではなく「最適化」の仕組みです。優秀な子を伸ばすと同時に、不得意な子が別の才能を見つけるチャンスにもなる。平等とは「全員が同じ結果を出すこと」ではなく、「全員が自分の可能性を発揮できること」ではないでしょうか。

Gifted と Talented ― 才能の芽をどう育てるか

英語で「Gifted & Talented」という表現があります。Gifted は生まれつきの才能。Talented は努力で伸ばす力。才能があっても磨かなければ錆びますし、努力があれば凡人も変わります。両方がそろって、初めて真の成長が生まれるのです。

日本の教育は、Gifted(天賦の才)を恐れ、Talented(努力する才)を強調しすぎたのかもしれません。「みんな同じように頑張りましょう」と言いながら、実は誰の個性も伸ばせていないのです。これでは、努力の報酬も曖昧になり、モチベーションも生まれません。

刑法の改正に学ぶ ― 一人ひとり違っていい

最近、刑法が改正され、懲役と禁錮が統一されて「拘禁刑」になりました。これも象徴的な変化です。社会が「罰する」より「更生させる」方向に舵を切ったということです。なぜなら、受刑者も一人ひとり違う背景を持つからです。

教育も全く同じです。

子供たちは一人ひとり違う。家庭環境も、関心も、成長のスピードも違う。それを理解せずに「画一的な正解」を押し付ける教育では、人材が育つわけがありません。拘禁刑が人間の多様性を認める制度改正だとすれば、教育にも同じ発想の転換が必要です。

コンサルタントが考える「生きるスキル」

私はこれまでグローバルなビジネスの世界でコンサルティングに携わってきました。その経験から言えるのは、どんな業界でも必要とされるのは「基本的な人間力」だということです。

大人になる前に、子供たちが身につけるべきは、次のようなスキルです。
  • 自分で考える力
  • 責任ある生き方
  • イニシアチブ(自分から動く姿勢)
  • 相手の意見を聴く寛容さ
  • チームワーク
  • 強靭さ(インテンシティ)
  • 向上心
  • インテグリティ(倫理観・スキル・野心のバランス)
  • 信頼性
どれも、試験では測れません。
でも、社会に出てからはこれらがすべてです。

子育て世代へのお願い

子供の教育は、学校任せではうまくいきません。

親御さん自身が、子供の「得意」と「苦手」を見抜く力を持つことが大切です。そして、失敗を恐れない子に育ててあげてください。失敗を笑い飛ばせる余裕こそ、人生の最高の学びです。

子供が「なんで勉強しなきゃいけないの?」と聞いたら、こう答えてあげてください。「将来、自分で考えて、自分の足で立てるようになるためだよ」と。

結びに ― ユーモアを忘れずに

日本の教育には、確かに課題が山ほどあります。でも、それを嘆いていても仕方ありません。

教育の未来は、制度や予算よりも、人間の心の在り方にかかっています。子供たちに必要なのは、完璧な教科書ではなく、「応援してくれる大人の背中」です。

大リーグでは、大谷翔平や山本由伸が従来の大リーグを変えつつあるのではないかと議論されています。それは、かれらの精神力や心の持ち方に注目しはじめているからです。

教育の未来は、制度や予算よりも、人間の心の在り方にかかっています。

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2025年9月11日木曜日

若手をどう育成するか?

 

中小企業の経営者の約8割が、若手社員の育成に課題を感じているという調査があります。育成手法としては1on1ミーティング、OJT、オンライン研修が中心ですが、経営者の3割弱が「効果があまりない」と感じており、現場では指示待ちの若手や主体性の欠如に悩む声が少なくありません。主体性やコミュニケーション能力を育むには、座学だけでなく実践を通じた体験型の研修が重要だと考える経営者も多いようです。

しかし、このような調査結果は「どう育てるか」という手法の話に偏りすぎています。つまり、what(生き方や在り方)よりもhow(方法論)が前面に出てしまう。これまで機会あるごとに何度も言及しましたが、日本社会は「無駄と余裕がなさすぎる」ため、時間をかけて内面から育つプロセスに余白がありません。   
 
ロールモデルは持つだけでは十分ではないと思います。それを自分なりに咀嚼し、少しずつ超えていくことこそが本当の成長です。私はこれを「ロールモデルの継承と超克」と呼んでいます。何事も簡単には変わらず、すぐに超越できるわけではありません。経験上、徐々に時間をかけて変わるもので、いくら努力してもすぐには結果が出ないことも多いのです。でもあきらめてはいけません。何十年もたって、気が付いたら自分が若手のロールモデルになっていた──そんな感覚で日々を過ごすことが大切だと思います。

この考え方は、私が音楽や芸能の体験からも実感しています。例えば、エリック・クラプトンの演奏は、初期のブルースの影響を受けつつも、長年の試行錯誤の末に自分の音楽性として消化されています。単に模倣するだけでは、あの独自の表現は生まれません。同様に、桂枝雀さんの落語も、師匠の型を受け継ぎながら、自らの経験や観察を加えて独自の笑いを作り上げました。いずれもロールモデルの「超克」があって初めて、その個性や魅力が花開いたのだと感じます。

若手社員育成においても同じことが言えます。教えたり指示したりするだけでは限界があります。経営者や先輩の背中を見せつつ、本人が失敗や試行錯誤を通じて学び、自分なりのやり方を見つける余白が必要です。そのプロセスを丁寧に支えることで、主体性や課題解決能力といったスキルは自然に身についていきます。座学だけではなく、実践を通じた学びが重要であると多くの経営者が感じているのは、まさにこの「時間をかけて自己形成を促すプロセス」が必要だからだと思います。

私自身も、若手に対して「こうしなさい」と教えるだけではなく、自分の経験や考え方を共有する中で、彼らが少しずつ自分の軸を見つける手助けを意識してきました。そして、彼らが成長し、自分のやり方を確立したとき、いつの間にか自分が若手のロールモデルになっていたことに気づくのです。

結局、若手育成とは「結果を急がず、プロセスに寄り添うこと」だと、私は経験上そう思います。短期的な成果や即効性だけを求めるのではなく、時間をかけたロールモデルの継承と超克を支援することが、組織全体の持続的成長につながるのではないでしょうか。

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2025年9月10日水曜日

責任の再定義 ― 日本政治と公共性のゆくえ



ゴシップレベルの主要メディア

首相続投の根拠として持ち出された世論調査はまったく当てにならないものです。マスメディアは自らの報道に反省の弁はないのでしょうか?世論調査を「民意」とすること自体、あまりにリテラシーが低く、真剣に議論する価値がないと考えます。したがって、「石破おろし」そのものを批判する必要はありません。

問題なのは、石破政権の功罪や政界再編の議論において、評論家やメディアの見方が浅く、抽象度が低いという点です。そこにこそ、現代ニッポンの本質的な問題があります。

責任の喪失と国民の変化

現代日本では、社会全体に規範意識が薄れ、個人も確固たる信念やアイデンティティを失いつつあります。戦後の集団主義に依存したシステムはもはや機能せず、組織は個人を守らず、政治も国民を護らない状況です。国民自身も国家や政府との距離を置き始めています。

その中で、石破政権が国民に投げかけた唯一の貢献は、「責任」という概念を再考させたことだと思います。つまり、個人が自己決定権を持ち、自らの生き方を自立的に選択せざるを得ない社会に移行しつつあるという事実です。

民主主義と自由主義のねじれ

民主主義は全員一致と均質性を理想とし、自由主義は多様性と自己責任を前提とします。日本はこの二つの思想をどのように宥和させるかという難題に直面しています。

日本的リベラリズムは「平等」に過剰に傾き、「責任を伴う自由」を後景に追いやってきました。その結果、自己中心的な高齢社会と、公共性の急速な喪失を招いています。

プラトンは『国家』において、民主主義の致命的な欠陥は「個人が独立してバラバラに考えだすこと」にあると述べました。いまのアメリカ社会はまさにその姿を映し出しています。日本も同じ危機に直面しているのではないでしょうか。

日本的公共性の復権へ

現代社会において問われているのは、自己統治の道徳と共同主観の構築です。つまり、
  • 個人が自分を律する道徳性(個)、
  • 共同体の一員としての公共意識(公共)、
そのバランスが「自己責任」の本質だと考えます。

日本のリーダーは、西欧思想をそのまま輸入するだけでは不十分です。日本の歴史や精神に根ざし、ときにはプラトンまで立ち戻って、責任・公共・自由の新たな均衡を構想することが求められています。

責任の再定義

石破政権をめぐる政界再編は確かに注目されますが、真に重要なのはその政局運びではありません。日本社会全体が「責任」をどう再定義し、個と公共のバランスをどう築いていくのか、ここにこそ論点があります。

パターナリズムに安住していた時代は終わりました。これからは国民一人ひとりが、自己統治と公共意識を備えた主体となれるかどうか。それこそが、日本の政治と社会を再生させる最大の課題なのです。

日本の政治家は責任を知らず、国民は自由を誤解している。その結果、自由と責任の均衡が崩れ、公共性が失われつつあります。石破政権が提示したものは、まさにその再定義の必要性だったのではないでしょうか。

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2025年9月9日火曜日

リトマス試験紙としての政治

 

井の頭通りのアジサイ(撮影:三鷹の隠居)


リトマス試験紙と紫陽花は、どちらもpH(酸性・アルカリ性)によって色が変わるという共通点があります。その色の変化はリトマス試験紙と紫陽花では逆です。リトマス試験紙が酸性で赤、アルカリ性で青に変わるのに対し、紫陽花は土壌が酸性だと青く、アルカリ性だとピンクや赤色に変化します。

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リトマス試験紙としての政治日本政治の混乱は、一見ただの派閥争いに見えます。しかし、私はこれを“リトマス試験紙”と考えています。国民も政治家も、自らの思想を持っているかどうかが試されているのです

昭和の15年戦争に至った原因を振り返ると、その大きな責任は政党政治家にありました。党内や党派間の泥仕合が続き、その延長線上で国家そのものが誤った方向へと進んでしまったのです。この本質は今もなお変わっていないように見えます。国民もまた、その構図に無自覚でいる人が多いのではないでしょうか。

石破茂という総理大臣の出現や、繰り返される政治の混乱、そして自民党総裁選の行方は、その点を改めて突きつけています。これらは単なる政局や権力闘争ではなく、右側の人にとっても左側の人にとっても、自らの思想や信念があるのかどうかを映し出す「リトマス試験紙」のような役割を果たしているのです。

自民党はこれまで「戦後レジームの守り番(護衛)」としての役割を担ってきました。しかし、本当に戦後レジームからの脱却を目指すなら、自民党自身がその問いにどう答えるのかこそが試されるべきでしょう。思想なき政治は、数字や派閥力学に翻弄される似非民主主義に堕してしまいます。

日本にも賢人は必ず存在すると信じたい。ただし、今の政治構造の中ではそのような人物は表に出にくく、隠れたままです。思想のない政治家が目立てば目立つほど、賢人はますます埋もれてしまいます。

石破茂の登場や総裁選の混乱は、政治家や国民に「思想があるのかないのか」を突きつけるリトマス試験紙です。その答え次第で、日本の民主主義が形骸化の道をたどるのか、それとも次の段階へ進むのかが決まるのではないでしょうか。

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2025年9月8日月曜日

埋もれた日本と「政党政治」という病

 
甲陽軍鑑(ネットで見つけた画像)

甲斐の戦国大名である武田氏の軍学書です


昭和の15年戦争に至った原因の一つは、政党政治家の責任だったと言われます。そして残念ながら、その本質は今もあまり変わっていないようです。政党間や政党内で繰り広げられるのは、国の未来を賭けた真剣勝負というより、どろどろとした泥仕合。政党だけが滅びるならまだしも、政党の崩壊はそのまま国の凋落につながります。だからこそ、マスメディアも政治評論家も、そして私たち国民自身も、もう少し真剣に「自分たちの未来」を考えたほうがいいのではないでしょうか。

そんな中で石破総理が昨夜、ついに辞意を表明しました。とはいえ、次の総理が誰になろうと、日本の政治が劇的に変わるとは思えません。なぜなら、責任と権限の「概念」を理解しないまま、言葉だけで場を取り繕うという芸風が、この国の政治家のDNAに刻まれているからです。

ここで私が言う「埋もれた日本」とは、和辻哲郎が『埋もれた日本』(1951年)で論じた世界観・日本観から来ています。和辻は、応仁の乱から江戸初期にかけての多様な思想が、徳川の長い鎖国体制の中で摘み取られ、日本の思想的可能性が「埋もれてしまった」と指摘しました。民衆の一揆や下克上に象徴されるエネルギーが、本来は社会を変える多様性の芽であったのに、それを抑え込んだ結果が「埋もれた日本」なのです。

和辻はまた、『甲陽軍鑑』に触れています。そこでは、国を滅ぼす大将のタイプとして、(1)うぬぼれの強い「バカなる大将」、(2)見栄っぱりな「利根すぎる大将」、(3)道義心の弱い「臆病なる大将」、(4)他人の意見を聞かない「強すぎる大将」を挙げています。理想の大将は、仁慈に富み、人を見る明(あきらかさ)を備えた人物だと。うぬぼれや虚栄を去って得られる「明」を持つリーダーが現れて初めて、組織は強く揺るぎないものになるのだと説いています。さて、今の日本にそんな「明」を持つリーダーはいるのでしょうか。

私は15年ほど前の日記に、こう書いたことがあります。――ブログや日記は「自分が何を考えているかを知るためのツール」だ、と。私自身、自分がこの世で一番信用ならない人物だと思っていますからね。そんな私から見ても、今の日本社会は相当に“自分を知らない”。流行のスキルをハウツー本や就活セミナーで身につけることが、プロフェッショナルやグローバル化への近道だと信じてしまう。けれど本当は、知らない人と交わり、自分を試し、自分が何者であるかを理解するところから始めなければ、一生「漂流者」のままです。

小林秀雄は『私の人生観』でこう語りました。

「知性の奴隷となった頭脳の最大の特権は、何にでも便乗出来るという事ではありませんか」。

なるほど。便乗の知性だけなら、この国は世界屈指の資源大国でしょう。ですが、反骨精神やロック魂はどこへ行ったのか。江戸後期の武士の気概が、いつのまにか蒸発してしまったのかもしれません。信義や名誉を重んじ、自らの命をかけて責任を果たす姿勢。敵に対しても「敵ながらあっぱれ」と認める潔さ。そうした武士の強い精神の代わりに、詰め腹を切らされる総理大臣が量産されているのが現状です。

政治家たちは「誠実」を声高に語りますが、誠実とは本来「自分のやっていることに一生懸命である」ことです。嘘つきや詐欺師と不誠実を同じ袋に入れてしまうような言葉遊びで誠実を語られても、国民はますます白けてしまうでしょう。

結局のところ、日本の課題は「自分を知ることなく世間(空気)に身を任せる」姿勢にあります。その延長線上に「埋もれた日本」がある。そして、その象徴が「課題がある限りやめられない」と言い放ち、結局は詰め腹を切らされた総理大臣の姿だったのかもしれません。
    
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2025年9月5日金曜日

Z世代の幸福度低下を考える

 
自衛隊にオスプレイの一号機が導入されたのは2018年、
私が自衛隊仕様のオスプレイを作成したのは2011年でした。


Z世代の幸福度

最近の国際研究によれば、Z世代を中心に若者の幸福度が大きく下がっているといいます。ニューズウィークの記事でもその事実が指摘され、原因のひとつにスマホやSNSの影響があげられていました。確かに、SNSの過剰な比較や孤独感は否定できません。しかし、問題はそれだけではありません。住宅価格の高騰、教育費や医療費の負担、不安定な雇用やギグワークの広がり。こうした経済的背景が、人生の節目で安定を得られない不安を生み出しています。さらに気候変動や国際紛争の影響もあり、若者世代は「将来への希望が持ちにくい」という心理的な圧迫を受けています。

ただし、これらはグローバルに共通する課題であり、同時に各国ごとに特有の問題も存在します。日本には日本独自の問題があり、そこに目を向けなければ本質は見えてきません。

比較幸福論

日本人は自らの幸福を絶対的に感じ取るのではなく、「他人と比べて自分がまだ恵まれている」「まだマシだ」と考えることで安心を得る傾向があります。私はこれを「日本人比較幸福論」と呼んでいます。一見すると社会の調和を保つ役割を果たしているように見えますが、根本的には自立した幸福感を育てないという欠点を抱えています。

戦後教育は、個人の価値観を育むよりも「システムや他者に従順であること」を重視してきました。その結果、若者たちは「比較」なしに自分の幸福を定義することが難しくなっているのです。この構造的問題が、Z世代の幸福度低下の深層に作用していると考えられます。

ごっこの世界

もう一つの要因は「ごっこの世界」です。江藤淳が指摘したように、日本社会は「実体」より「形」にとどまりがちです。

過去の日記を振り返ると、私は東日本大震災時の政府対応を「国ごっこ」と書き、教養を欠いた政治家の振る舞いを「政治ごっこ」と表現しました。国民が無関心のまま日常を過ごすこともまた「ごっこ」にすぎません。オルテガの大衆人や、ニーチェの末人、そして魯迅が描いた「阿Q」のように。

そして今の日本の総理を見ていると、その「ごっこの世界」が極まった感があります。戦艦のプラモデルを愛好するのは趣味として結構なことですが、一国の総理大臣がまるで「電車ごっこの運転手」のように国を導いている姿は滑稽を通り越して危うい。総理の人生そのものが、日本社会の問題の本質、つまり、すべてが「ごっこ」の延長にあることを象徴しているように思えてなりません。

考えられる解決策

私がもっとも危惧しているのは、「問題意識を持たないまま虚無的になる」若者が増えていることです。問題意識がなければ危機意識も芽生えず、当事者意識も持てないまま、ただ日常を消費して、やがて高齢者になって行くことになります。

だからこそ、今の10代から40代の人たちにこそ伝えたいのです。まずはどんな話題でもよい、自分の問題として考えてみること。スマホでも、仕事でも、教育でも構いません。比較の物差しではなく、自分自身の物差しで「なぜなのか」を考え始めること。それが虚無を打ち破り、未来を選び取る第一歩になるのです。ibgの迷子になる地図やノートはそのためのツールです。

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