2010年7月30日金曜日

百日紅


庭の隅っこに咲いた八月の花、サルスベリです。サルスベリは、中国語で「百日紅」ですが、サルスベリを日本語の漢字で書いても「百日紅」です。どこからどう撮っても絵にならない花ですね。これは、二階の窓から、そうです、真上から撮影しました。

夏目漱石は「吾輩は猫である」の中で、百日紅の特徴、つまり、比較的長い間花が咲いているということを非常にうまく使っています。鈴木君と主人が話をしているところに迷亭君が来て3人で昔話をするところです。このあたりは、夏目漱石の真骨頂ですね。いきですねぇ。落語の世界にも通じる実にウィットに飛んだ3人の掛け合いです。

「迷亭はあの時分から法螺吹だったな」と主人は羊羹を食い了(おわ)って再び二人の話の中に割り込んでくる。「約束なんか履行した事がない、それで詰問を受けると決して詫びた事がない何とか蚊とか云う。あの寺の境内に百日紅が咲いていた時分、この百日紅が散るまでに美学原論という著述をすると云うから、駄目だ、到底出来る気遣はないと云ったのさ。すると迷亭の答えに僕はこう見えても見掛けに寄らぬ意志の強い男である、そんなに疑うなら賭をしようと云うから僕は真面目に受けて何でも神田の西洋料理を奢りっこかなにかに極めた、、、、(中略)。愈(いよいよ)百日紅が散って一輪の花もなくなっても当人平気でいるから、愈西洋料理に有り付いたなと思って契約履行を逼ると迷亭済まして取り合わない」。

夏目漱石は、慶応3年1867年の生まれで、大正5年1916年に亡くなっています。「吾輩は猫である」は明治38年日露戦争の頃の作品です。漱石は明治を生きた代表的な日本人ですね。

***

2010年7月29日木曜日

太宰治のこと

後方が玉川上水の太宰治が入水したあたり

私の散歩道に、太宰治が山崎富栄と入水自殺した場所があります。歩道の脇に玉鹿石(ぎょっかせき)という岩石がポツンと置いてあるだけです。何の説明もなく、ただ「青森県北津軽郡金木町産 1996年(平成8年)6月」と書かれたプレートがあるだけなので(北津軽郡金木町は太宰の故郷)、ここが太宰治が入水自殺した地点とは分かりません。

小学校か中学校の教科書といえば、太宰治の「走れメロス」ですねぇ。なぜなんでしょうね?いまでも載っているようです。もし、太宰治がこのことを知ったら苦笑いでしょうか?太宰治は明治42年生まれ、自殺したのが戦後1948年(昭和23年)38歳の時です。太宰が「走れメロス」を書いたのは1940年30歳の時、真珠湾攻撃よりも前のことです。

太宰治は1945年に「パンドラの匣」、1946年に「十五年間」、1947年に「トカトントン」、「冬の花火」と「斜陽」、そして最後に「グッドバイ」と「人間失格」を発表しています。戦後の一連の作品をよーく読むと、太宰治の自殺は単なる心中ではなく、もっと複雑な要素がいっぱい絡まっていたのではないかと思ってしまいます。

敗戦後、日本国民は豹変しました。日本人の多くは、マッカーサーを征服者ではなく保護者と見なして従順に従いました。これには、マッカーサーも驚いたでしょうね。占領政策は、心配していた日本軍の武装解除なんて何の問題もなかった。それよりも、もっと重要なことに気付いた。それは、日本人の精神の武装放棄です。つまり、この国のバックボーンとなる文化と伝統ですね。それで、徹底した言論統制を行ったのです。占領軍の検閲は、検閲削除が行われた事実すら明らかにしてはならないという徹底したものでした。戦前戦中の日本政府よりも厳しかったんですね。これらは、学校の歴史の授業では出て来ません(興味のある方は、江藤淳著「忘れたことと忘れさせられたこと」文春文庫を読んでください)。

太宰治の戦後の一連の作品をよーく読んでみると、占領軍の検閲に対する憤りと、戦後180°転換した日本人に対する絶望感があるのではないかと思います。明らかに戦前戦中の作品とは違うように感じるのです。小学校や中学校で「走れメロス」を教えるのではなく、高校生になってから太宰治の戦後数年の作品を読ませて、戦後の日本文学とアメリカ軍の占領政策についてクラスで議論すると、かなり面白い授業ができると思います。

要するに、文学作品は書かれた時代背景を理解することが重要なのですね。

○●○ ○●○ ○●○ ○●○

「十五年間」(昭和21年)

真の勇気ある自由思想家なら、いまこそ何を措(お)いても叫ばなければならぬ事がある。天皇陛下万歳! この叫びだ。昨日までは古かった。古いどころか詐欺だった。しかし、今日に於いては最も新しい自由思想だ。十年前の自由と、今日の自由と内容が違うとはこの事だ。それはもはや、神秘主義ではない。人間の本然の愛だ。アメリカは自由の国だと聞いている。必ずや、日本のこの真の自由の叫びを認めてくれるに違ひない。

「冬の花火」(昭和22年)

「負けた、負けたと言うけれども、あたしは、そうじゃないと思うわ。ほろんだのよ。滅亡しちゃったのよ。日本の国の隅から隅まで占領されて、あたしたちは、ひとり残らず捕虜なのに、それをまあ、恥かしいとも思わずに、田舎の人たちったら、馬鹿だわねえ、いままでどおりの生活がいつまでも続くとでも思っているのかしら、相変らず、よそのひとの悪口ばかり言いながら、寝て起きて食べて、ひとを見たら泥棒と思って、(また低く異様に笑う)まあいったい何のために生きているのでしょう。まったく、不思議だわ」。

「あたしは今の日本の、政治家にも思想家にも芸術家にも誰にもたよる気が致しません。いまは誰でも自分たちの一日一日の暮しの事で一ぱいなのでしょう? そんならそうと正直に言えばいいのに、まあ、厚かましく国民を指導するのなんのと言って、明るく生きよだの、希望を持てだの、なんの意味も無いからまわりのお説教ばかり並べて、そうしてそれが文化だってさ。呆れるじゃないの。文化ってどんな事なの? 文のお化けと書いてあるわね。どうして日本のひとたちは、こんなに誰もかれも指導者になるのが好きなのでしょう。大戦中もへんな指導者ばかり多くて閉口だったけれど、こんどはまた日本再建とやらの指導者のインフレーションのようですね。おそろしい事だわ。日本はこれからきっと、もっともっと駄目になると思うわ。若い人たちは勉強しなければいけないし、あたしたちは働かなければいけないのは、それは当りまえの事なのに、それを避けるために、いろいろと、もっともらしい理窟がつくのね。そうしてだんだん落ちるところまで落ちて行ってしまうのだわ」。

「トカトントン」(昭和22年)

もう、この頃では、あのトカトントンが、いよいよ頻繁に聞え、新聞をひろげて、新憲法を一条一条熟読しようとすると、トカトントン、局の人事に就いて伯父から相談を掛けられ、名案がふっと胸に浮んでも、トカトントン、あなたの小説を読もうとしても、トカトントン、こないだこの部落に火事があって起きて火事場に駈けつけようとして、トカトントン、伯父のお相手で、晩ごはんの時お酒を飲んで、も少し飲んでみようかと思って、トカトントン、もう気が狂ってしまっているのではなかろうかと思って、これもトカトントン、自殺を考え、トカトントン。

***

2010年7月26日月曜日

グリコのジャイアントコーン


「赤」のジャイアントコーンを食べた後に撮影しました。だから、「青」と「白」しか写っていません。

私は長年のグリコの隠れファンで、いつかこの熱い気持ちを江崎グリコの社長さんに伝えたいと思っているのですが、、、、。

数あるグリコの製品の中でも、このジャイアントコーン愛好の歴史は筋金入りです。子供のころから食べています。ジャイアントコーンは1960年代にジェットコーンとして発売されたのですよ。つまり、半世紀近い歴史があるのです。知っていましたか?

一つのブランド、それも、たかがアイスクリームのブランドが半世紀も継続する、凄いですねぇ。本当に価値ある資産です。真似をされないようにお願いしたいものです。

***

2010年7月24日土曜日

「英語ができる」って?

英語という大きな問題

日本に生まれ日本で育った日本人にとって、英語というのはいつまでたっても頭の痛い問題ですね。英語教育に関しては、専門家の先生方が各種各様の意見を数多く提言されています。私のような教育の素人が口を出すことではないのかも知れません。しかし、ビジネスの世界から少しだけ言わせて下さい。

私の英語は通用しない

私は30年以上の間、英語や中国語の世界で仕事をしてきました。英語で会議をしたり、プレゼンテーションをしたり、採用のインタビューをしてきました。アメリカ人の上司に評価されたり、アメリカ人の部下を評価したり、アメリカ人のクビを切ったり、、、。オフィスに日本人は私しかいない期間も随分ありました。でも、正直言って私の英語なんて、箸にも棒にもかからない類のものです。例えば、朝オフィスに行って、アメリカ人秘書に対して彼女の一日が楽しくなるような事を一言で言えるかといったら言えないのです。セクハラにならないように、気の利いた言葉を英語で言うなんて芸当はできない。なぜならば、私は日本文化を背負った日本人だからです。

「英語ができる」って?

ビジネスの世界で「英語はできるに越したことはない」でしょう。では「英語ができる」ってどういうことでしょうか?ペラペラとアメリカ人の発音でしゃべることでしょうか?それともTOEICのような英語検定で900点以上を取ることでしょうか?

もし、アメリカ人の発音に近づけようとするならば、幼児の頃からネイティブ・イングリッシュを聞かせ続けると発音はアメリカ人っぽくなるのでしょうね。「L」と「R」の違いとか。TOEICで900点をとることを目指すのであれば、TOEIC対策の勉強をすればよろしい。日本の受験英語で100点を取ることが「英語ができる」と言うのであれば、受験参考書の英語を勉強する必要があります。「英語ができる」って随分と曖昧ですね。

ビジネスの世界では、アメリカ人の発音でペラペラと英語を話すことは必要ありません。なぜならば、アメリカではインド人や中国人がとんでもない発音で堂々と英語を話しているからです。英語圏の人たちでさえ、南アフリカの人たちやオーストラリア人の英語は独特で何を言っているか分からないし、アメリカ国内でも南部の人たちは南部の発音です。つまり、誰も英語教材のような英語は話していないのです。それでも、相手がどんな英語を話そうが、相手の主張を理解しなくてはいけないし、こちらだって黙っていられない。発音がどうであれ、使っている単語が中学生の単語であれ(私のことですよ!)、相手が分かるまで説得しなければなりません。相手がちゃんとした英語でも、相手の主張が無茶苦茶な場合だってあります。うかうかとはしていられません。

だから、ビジネスの世界は、文法だ単語だなんて言ってられないのです。契約書のようなビジネス文章は、書けるに越したことはないですが、日本語でも書けないのに英語なんて日本人には無理と思って間違いない。アメリカ人や弁護士に依頼すべきものです。Eメールは最低のルールだけ(例えばpunctuation:句読法)は習得しておいたほうがいいです。教養が表れますから。

最後に子供の英語教育に関して私の意見をご紹介します(私には修学期の子供はいないのですが、、、)。

脳の言語空間(考える場所)を大きくする

私は、幼いころから発音をアメリカ人のように訓練するよりも、考え、理解し、判断する脳の言語空間を大きくすることの方が大切だと思います。日本で生まれ育ったわれわれ日本人の言語空間を支配するのは日本語です。一人の時は日本語で考えるわけです。したがって、日本語の語彙やセンテンスが多ければ多いほど思考は深まります。夏目漱石や三島由紀夫のように多くの言葉を知っていたら、どんなに考えの幅は広がるのではないかと思います。幼児期のように日本語の言語空間が十分に発達していない段階で外国語を始めた場合、日本語の言語空間の発達を阻害することになるのではないでしょうか?ビジネスの英語はもっと後からでも十分です。どうあがいても、アメリカ人のようになることはないのですから。

蛇足ですが、今の日本の政治家をご覧なさい。彼らの発する日本語があまりにも貧困なために、かれらの脳の言語空間はどうなっとるのか?と思ってしまいます。

好きでたまらないという情熱

大事なのは、好きで好きでたまらないという「情熱(PASSION)」だと思います。1日24時間1年365日ギターを弾いていたい、そして、その情熱が10年も20年も続く人だけが、プロギタリストのグループに参加できるのだろうと思います(プロのスタート地点として)。英語に関して言えば、英語が好きで好きでたまらないというのではなく(そう言う人もいるかも知れませんが)、好きで好きでたまらないものを追求する上で、英語が必要である状況に自分がいることですね。例えば、アメリカ人の映画俳優が好きでたまらない、大リーグの選手が好きで追いかける、アメリカの特定のロックバンドのことは何でも知っていたいとか。

私が英語に興味を持った取っ掛りは、アメリカのTVドラマでした。ドラマに出てくるアメリカ人の生活は新鮮でしたね。「どうして日本と違うんだろう、、、」と。冷蔵庫も大きいし、食べているものは何でも美味しそうに見えました。それと、たまに放送局のミスで日本語の吹き替えが突然に原語、つまり、オリジナルの英語に変わったりしたのです。そうすると、何を喋っているのか全く理解出来なくなる。小学生の私は、英語が分かったほうが楽しいだろうなと思ったわけです。

私の情熱なんて、たかだかTVドラマくらいのレベルなので、その後大きく発展することはありませんでしたが、英語に対して関心を寄せることにはなりました。その後は、興味の対象は、ビートルズやアメリカ映画に移っていったのです。

***

2010年7月21日水曜日

リズム感は子供のうちに


私は歌が唄えない、いわゆる音痴です。嫌ですね、、、何が嫌かって、10数年前に家族に指摘されるまで、自分が音痴だとは知らなかったことです。

実は、白状したくないのですが、リズム音痴でもあります。これも、最近まで知らなかった、というか、認めようとしなかった。でも、悲しいことですが事実です。

リズム感がないということは致命的ですね。リズムは全ての基本だからです。最近、久しぶりにハーモニカを練習しています。「ギターは難しいので、それではハーモニカ!」という私らしい極めて安易な発想です。でも、ハーモニカだって簡単じゃない。ハーモニカもリズムがキーなのです。吹いて吸って口でリズムをとる。吹いたり吸ったり、そして、その合間に4分休符、8分休符、16分休符など吹いたり吸ったりしない部分があります。

ビートルズのデビュー曲は、ご存じの通り「Love Me Do」です。非常に地味な曲ですね。40年もの間、「なぜこの曲がビートルズのデビュー曲なのか?!」と不思議に思っていました。YouTubeに映像があったので、初めて観ることができました。ジョン・レノンの吹くハーモニカが実にいい味を出しています。1小節に1つの4分休符と2つの8分休符、音を出すところと休符で出さないところ、実にメリハリが効いていて、ジョンのハーモニカはリズム感がいいのです。GとCとDの3つのコードしか使わないけど、ジョージ・ハリソンのバックで弾くアコースティック・ギターもリズムに乗っています。

リズム感は小さい時につけないとダメです。

3~4歳の子供に対して、子供は言葉を習う天才などと言って、幼児英語教室なんかに行かせるよりも、マイケル・ジャクソンの「THIS IS IT」を四六時中流しておくほうが将来役に立つかも知れません。また、子供と遊ぶ時に、打楽器なんかを取り入れると面白いと思いますね。子供と一緒に散歩をするときは、2ビート、4ビート、8ビート、16ビートとビートを変えて歩く。先ずは、お母さんたちがそれらのビートを区別できなくてはいけません。お母さんたちのちょっとした工夫で、将来は和製マイケル・ジャクソンに大化けするかもしれませんよ!

世界の一流のミュージシャンは、プログラミング(打ち込み)なんかしなくても、正確なリズムを刻めます。ビートルズがデビューした頃には、プログラミングによるデジタル録音なんかなかったですものね。機械のリズムに頼る日本の音楽界は、、、うーん、本物が誕生しにくいと思います。

***

2010年7月20日火曜日

我が家のアジサイ

我が家のアジサイがやっと咲きました。色は白です。ちなみに、紫陽花は中国語では「繍球花」です。加賀てまりみたいなイメージでしょうか。

***

2010年7月19日月曜日

いつまでも変わらない日本の教育

昭和の初期に民俗学者の柳田国男が歴史教育について語っています。

「中等教育の科目は、大体これを二つに分けることができる。一つは、数学とか理科で、もう一つは国語なり地理歴史である。数学とか理科は、世界どこに行っても同じように教えられ同じように役に立っている共通の学科である。しかし、国語なり地理歴史なりは、これに由って同時に生徒を日本の好き青年たらしめ、さらになお将来の『好き日本人』たらしむるために、とくに設けられている科目である」と。

どこかで書いたような気もしますが、歴史は国によって異なって記述されていますし、それでいいのです。また、同じ国でも時代によって見方は変わってきます。戦後60数年が経ち、当時は明らかにできないような事実だって判明する場合もあります。つまり、歴史とは相対的なものなのですね。歴史教育のキーポイントは、こういったことを子供たちに伝えることだと思います。

日本は歴史教育だけでなくて、政治や経済においても相対的というのが下手くそです。恐らく列島の中で既得権益を守ろうとする力が強すぎるのでしょうね。動的に変化する世界情勢の中での日本の位置を認識することなく、列島内の既得権益だけをいつまでも守ろうとするのであれば、この国はこのままゆっくりと収縮していくでしょう。

日本の教育は、一番分かりやすいサンプルです。

受験を中心とした教育システムを否定して本当に改革してしまったら、塾や予備校の夏期講習は成り立ちませんし、学校の多くの先生たちは教え方を変えなくてはいけません。そして、親も自分たちの責任を学校や塾に押しつけられなくなります。大人たちは自己中心的に既得権益を守ろうとするため、子供たちは世界の中で相対的に競争力のない大人になっていきます。

***

2010年7月17日土曜日

朋、遠方より来たる


夕べは、ホームパーティでした。サンフランシスコから老朋友(ラオポンヨウ)が来たので、友人が集まりREUNIONです。 しばらく、論語の話はやめようと思ったのですが、正に論語の冒頭の部分、「朋有り遠方より来たる。また楽しからずや」ですね。

論語は知らなくても、この部分を知っている方は多いと思います。ところが、この部分は様々な解釈が存在します。「近くからだけでなく遠くからも朋がやって来る」、「遠くから人が来て朋になる」、「同じことを学ぶ同士が遠くからやって来る」、等々です。

私の解釈は、「旧友と久しぶりに会った時に恥ずかしくないよう、日頃から問題意識をもって勉強しておきなさい。そうすれば、高いレベルの議論ができて、それは人生で一番大切なことなのよ。世間が認めてくれなくても、痩我慢でもいいじゃないの。常に学んでおけば旧友はちゃんと敬意を払ってくれる、それでこそ君子たるものだ」です。

どうでしょうか?

子曰。學而時習之。不亦説乎。有朋自遠方來。不亦樂乎。人不知而不慍。不亦君子乎。

子(し)曰(いわ)く、学(まな)びて時(とき)に之(これ)を習(なら)う。亦(また)説(よろこ)ばしからずや。朋(とも)有(あ)り、遠方(えんぽう)より来(き)たる。亦(また)楽(たの)しからずや。人(ひと)知(し)らずして慍(いきど)おらず、亦(また)君子(くんし)ならずや。

***

2010年7月16日金曜日

これだけ知ればアナタも論語通!

「え~、またロンゴ~~~」と言わないで下さい。

最小の知識で最大の効果。「君子不器」だけでも覚えておいて下さい。わずか四つの漢字です。ナイショですが、私は二つ三つのセンテンスしか知りません。でも、効果は抜群です。

「君子不器」、君子(くんし)は器(うつわ)ならず。

優れた人物は、ただ一つの才能に優れているだけでなく、どんなことにもうまく対応するものだということです。英語で言うcomprehensiveですね。

乱暴に分類すると、世の中には2つの種類の仕事があると思います。一つは、決められた枠の中に定められたルールに従って数字を並べていくような仕事、もう一つは、曖昧模糊としたものに対して何らかの枠を設けるような仕事です。前者の代表格は会計士や税理士のような仕事で、後者は資格試験もライセンスも存在しないコンサルタントですね。

実は、コンサルタントも若い頃は特定の分野に専念します。まだ新人なのにクライアント企業の幹部に「私は経営コンサルタントです」と言っても相手にしてもらえません。

「君子不器」の「器」は自分の専門分野のことで、器に特化する人はスペシャリストです。スペシャリストに対しゼネラリストという言葉があり、日本企業では「何でも屋」とあまり良い意味で使われないようです。しかし、欧米ではゼネラリストに「何でも屋」といった貶んだ意味合いはありません。マネジメントと言われる人たちは、スペシャリストとしてキャリアを経たゼネラリストなのです。

「君子不器」は、スペシャリストからゼネラリストへのシフト、つまり、ある年齢になったら一つの分野だけでなく、複数にわたる分野や人・組織をまとめるマネジメントスキルが必要だと言っているのでしょう。

政界で言えば、官僚をうまく操る政治家ですね。今の日本は政治家(大臣)なのか官僚なのか区別がつきませんが、、、おっと、余計なことでした。

***

2010年7月15日木曜日

切磋琢磨って?

論語 学而十五

子貢曰、貧而無諂、富而無驕、何如、子曰、可也、未若貧時樂道、富而好禮者也、子貢曰、詩云、如切如磋、如琢如磨、其斯之謂與、子曰、賜也、始可與言詩已矣、告諸往而知來者也。

子貢曰わく、貧しくして諂(へつら)うこと無く、富みて驕(おご)ること無きは、何如(いかに)。子曰わく、可なり。未だ貧しくして道を楽しみ、富みて礼を好む者には若(し)かざるなり。子貢曰わく、詩に云う、切するが如く、磋するが如く、琢するが如く、磨するが如しとは、其れ斯れを謂うか。子曰わ く、賜(し)や、始めて与(とも)に詩を言うべきのみ。諸(こ)れに往(おう)を告げて来を知る者なり。

○●○ ○●○ ○●○ ○●○

広辞苑で「切磋琢磨」を引くと、「玉・石などを切りみがくように、道徳・学問に勉め励んでやまないこと、また、仲間どうし互いに励まし合って学徳をみがくこと」とあります。 私のような老百姓(ラオパイシン)が広辞苑に楯を突くなんて無茶苦茶な話ですが、論語の学而十五を読むと、切磋琢磨は少々ニュアンスが異なるように感じます。

切磋琢磨とは、学習する側ではなく指導する側に対して「誤った教え方をしてはいけないよ」とガイドしているのではないかと思います。語源を辿ると、「切」は骨や象牙を切ること、「磋」はそれらをみがくこと、「琢」は玉石を砕き加工すること、「磨」は玉石を磨くことです。つまり、「学生や弟子一人一人の個性や資質を見きわめて、的確な指導、コーチングをしないといけません」と言っているのではないでしょうか? 料理で例えるならば、素材に合わせた調理法です。

子供の成長を一番身近で観察しているのは母親です。したがって、母親の我が子を見る眼は本当に重要です。お母さんたちには、世の中で流行の教育論・子育て論なんて軽信することなく自分の判断力を信じてもらいたいですね。

余談ですが、私は学而十五の前段の部分も好きです。孔子は、貧しくても道を楽しみ(道楽)、富んでも礼儀を忘れない(敬意をはらう)ことは大事だと言っています。

今の日本は真逆の方向に突っ走っていると思いませんか?

***

2010年7月14日水曜日

世界で一番


吉祥寺のスーパーで山形のサクランボを買ってきました。日本のサクランボは本当に美味しい。香りがあって上品な甘さで瑞々しくて、間違いなく「世界で一番」です。チェリーなんて言わずに、サクランボで通して欲しいですね。

***

2010年7月13日火曜日

無責任で姑息には、、、

日本の政治は無責任で姑息ですな、、、。 政府だけでなく国民もですよ。

政治家と言う人たちは、多面的に国益を考えることができるから政治家であるべきです。 国家運営は多面的であるばかりでなく、列島の中だけで終わらないから難しいのです。勝手に国際ルールを作られてはたまらない。だから、ルール策定の国際会議には参加しなければならない。つまり、これが外交ですね。

各国首脳の集まる中で(G8とかG20)、他国のトップ達と立ち話もできない人に国の運命を任せられますか?私は恐ろしいことだと思います。こんなことを些細なことだと言ってはいけないと思います。日本はこういったことができなかったから、先の大戦で300万人以上も死ぬことになったのです。

しかし、選挙開票報道のマスコミはひどい、レベルの低さを煽る触媒そのものです。

水戸のご老公様だったら、どう総括されるでしょうか?

「天誅を加えてやるからそのつもりでいなさい」
「悪人と結託して良民を苦しめておる」
「私腹を肥やすことに専念しておる」
「言語道断!」
「卑怯きわまりない!」
「無礼千万である!」
「何たる悪党か!」
「この期に及んでまだ言い逃れをするつもりか!」
「たわけ者めが!」
「覚悟してお沙汰を待て!」
「お前たちのような悪党は見たことがない」
「代官たるもの、もそっと人を見る眼を持たんといかんぞ」

、、、、おっと、政治の話はやめましょう。 地雷を踏んじゃいます。

***

2010年7月10日土曜日

明日は参院選

(参院選の選挙看板@玉川上水)

明日は選挙ですね。さて、立候補者の皆様は、日本をどう思うか、日本のためなら自分を捨ててもいいという「志」はあるでしょうか? 水戸の黄門様は、いつも「骨のある人間が好きだ」と言われますが、果たして骨のある候補者はいるでしょうか?

***

2010年7月9日金曜日

そろそろ夏休み ~ 絵日記

柳田国男が「青年と学問」(岩波文庫 青138-2)の小序でいいことを言っています。最後の部分を引用します。

「、、、不幸にして自分たちの学問は、いつまでたっても改良と訂正とが必要である。これを印刷に付するのはこのまま信用せられんがためでなく、むしろ自分も読者諸君とともに後日虚心平気にもう一度これを批評せんがためである。昭和三年三月」 。

柳田国男は、小冊子を遺すのは講演で同じ事を繰り返し言わないようにするための手控(てびか)えであるとも言っています。柳田国男のような大先生をさしおいておこがましいのですが、私のようなものでも10年20年30年前に書いた自分の日記を読むのは、「虚心平気にもう一度これを批評せんがため」に良いのです。自分の考えが変わった部分もあるし、相変わらず同じようなことを言っていたり。このブログは、寝言のような文章にデジタルカメラで撮った写真を貼り付けているだけで非常に安直なものです。しかし、自分の考えを纏める備忘録のようなものにはなっています(ブログの中で似通ったことを言っている場合もありますが、、、ご容赦願いたい)。

そろそろ夏休みですが、小学生の夏休みの宿題の定番は絵日記ですね。

印象に残る場面を絵に画いて、絵の説明を簡潔に文章にまとめる。これって、ビジネスの世界でも全く同じことです。手書きの絵を画く代わりにパワーポイントのようなソフトウェアで図を作成します。絵心がないとパワーポイントの絵もカッコよく作成することができません。説明を簡潔にまとめるということは、パワーポイントスライドのスピーキングポイント、つまり、何を伝えたいかという部分です、子供に絵日記を説明させると、それはプレゼンテーションの練習にもなりますね。お母さんたちにとっては、子供とのコミュニケーションにもなりますし、コーチングの実践にもなります。

一流のビジネスパーソンの育成、グローバル人材の育成なんて、夏休みの絵日記で十分かも知れません。

***

2010年7月8日木曜日

ランタナの和名は「七変化」

(オリーブの木の下に咲いたランタナ)

ランタナの日本名は「七変化」、何となく日本の政治家みたいですね。

読売新聞に「就職留年7万9000人、大卒予定7人に1人」という記事が載っていました。

企業の採用担当者は、多くの場合は人を評価する見識なんてありません。個性個性と言いながらも、従順なロボット型の学生を言われた数だけ採用マニュアルに従って採用しているだけです。一方、学生諸君は、会社で何をやりたいのか、将来何になりたいのかを考えずに、偏差値的に会社を格付けし、とにかくどこかの会社(ブランド)の一部になろうとしています。

マスメディアは、真実に迫ると言う本来の自分たちの使命を忘れ、バランスのとれた報道ができなくなっています。日本政府は、「元気な日本を復活させる」なんて抽象的なスローガンを声高に叫んでいるだけです。 政党の概念はあっても国の概念があるのかないのか疑いたくなります。

国全体が熱病に罹ってフ~ラフ~ラしているのです。はやく熱病から覚めて欲しいものです。

***

2010年7月7日水曜日

オリーブの木に実がなった

実を結ぶっていいですね。

玄関のオリーブの木に実がなりました.。
(2度クリックしてみて下さい、大きくなります)

***

2010年7月4日日曜日

日本人の連帯感を選挙の争点にすれば?


参議院選挙ですね。昨年の夏に帰国したときは、列島中が「ノリピー」と「政権交代。」でした。 もう一年が経つんですね。去年の選挙には間に合わなかったのですが、今回は投票できます。

正直なところ、政治の如何によっては「日本人を辞めるオプション」もキープしておきたいですね。

日本人は、足るを知っている人たちだと思います。革命的になれない温厚な国民性です。アメリカ人のように、満足することを知らない人たちではありません。 しかし、それを政治家が聞こえの良いスローガンで煽っている。

日本は随分と変わりましたね。それは、歴史や文化のような長い時間をかけて積み上げてきたものを大切にするという気持ちがなくなっていることです。それどころか、彼方此方で粉々に破壊しようとしているように感じます。

要するに、民族の誇りを教えない日本の戦後教育の勝利でしょうか?(認めたくはないですが、、、)。歴史的常識を学校とマスメディアが歪曲し続けるならば、民族としての連帯感なんて生まれないですものね。それとも移民の国であるアメリカ型に移行する?

***

2010年7月3日土曜日

日本の将来推計人口 ~ こうなりますよ。

ダブルクリックすると大きくなります。よ~くご覧ください。

20年後の2030年、65歳以上の人口は 3667万人、日本の人口の約28%となります。現在の小学生以下の子供達が自尊心を持って力強く育っていかないと、2030年の日本は今よりも元気がでていないでしょう。

過去の活力に復帰するのではなくて(復活)、政治家先生には2030年の日本の元気を考えて頂きたいですね。そもそも、いつの時代を「元気な日本」としているのでしょうね?

***

2010年7月1日木曜日

新入社員の独立希望 過去最低

徳富蘇峰の書による漢詩が刻まれた「松陰吉田先生留跡碑」(鎌倉 瑞泉寺)

新入社員の独立希望 過去最低
6月29日 6時53分 NHKニュース

この春大学を卒業した新入社員は、将来の独立を希望する割合がこれまでで最も低く、就職した会社で長く働くことを希望する傾向が強まっていることがわかりました。

この調査は、東京にある産業能率大学総合研究所が平成2年から新入社員を対象に毎年行っていて、ことしもおよそ500人が回答しました。それによりますと、将来独立して会社を設立したいという割合は8.7%と、調査を始めて以来最も低く、IT関連企業の成長が目立った10年ほど前の半分になりました。その一方、終身雇用を希望する割合は71.1%と、これまでで2番目の高さとなったほか、「転職」のイメージについては、「キャリアアップではなく挫折だ」ととらえる人もこれまでで最も高い37.3%に上り、就職した会社で長く働くことを希望する傾向が強まっていることがわかりました。

調査に当たった産業能率大学の秋山和久さんは「厳しい雇用環境を受けて安定志向が強まっている。また、今の仕事にしっかり取り組もうという姿勢の表れでもあると思う。企業側の人材活用の質が問われることになる」と話しています。

○●○ ○●○ ○●○ ○●○

日本の就職は、「自分が何をしたいか、自分が何になりたいか」ではなくて、会社の名前、つまり、ブランド名で決まります。日本の教育システムと同じで、会社の標準偏差みたいなものがあって、世間(セケン)で、有名だとか一流だとか言われている会社に職を求めます。入社後は、営業になるのか、経理畑に行くのか、人事屋になるのか、その会社で何をしたいのかは問いません。有名企業の一部になれればいいと言うわけで、入社後は、その企業の一部であるというプライドがドライバー(元気の源)となります。

キャリアアップは、あくまでも一つの企業内でのキャリアパスを考えるのです。これを、「今の仕事にしっかり取り組もうという姿勢の表れである」と解釈するのか、、、どうでしょう? 安定した経済成長過程にいるのであれば、これでも何とかなるかも知れないのですが、今の世界やこれからの日本ではダメですね。どんなに大きな企業でも先を読むことは難しくなっているのです。今年の新入社員の考えは、世界の動向や日本のポジショニングからすると、非常にナイーブです。

これからは、自分で考え、自分で行動し、自分で検証して修正できる人材が生き残ると思います。「自分で考える」と言うのは、学校教育でも、企業の新人教育でも盛んに言われますね。でも、「自分で考える」ってどういう事でしょうか? 私は、自分で情報を収集し、自分の意見を持っておくことだと思います。人から与えられた情報でなく、自分で情報を収集し、取捨選択し、軽信しない感覚です。そういった、自分で集めた情報に基づく決断力・実行力が大事だと思います。

企業組織で働くということは、どうしても上からの指示をトリガーとして行動することになります。中間管理職になっても役員になっても、上から来た指示を下に指示する、下から報告されたことを上に報告する。大きな組織ほどこういった傾向が強いのです。

「将来、どうなるか分からない、不安定ではあるがチャレンジしよう!」という若者の割合が10%もいないのであれば、元気のある日本の復活は難しいでしょう。

***