2025年7月8日火曜日

はじめての味──ピザ、ビーフシチュー、ハンバーガー、そしてラーメン

先日、わが家で食べたビーフシチュー

昭和三十年代の終わりか、四十年代の初め。場所は福岡市、天神か川端のあたり。正確な場所は記憶の中で少し曖昧ですが、そこに洋画のロードショーを上映する映画館がありました。なぜかその一階(?)には、ちゃんとしたレストランが併設されていて、子どもだった私にはまるで「異世界の入り口」のような場所でした。

映画館で洋画を観る。スクリーンの向こうには、現実にはない世界が広がっていて、その刺激は確実に私の人格形成に影響を与えました。でも、インパクトを受けたのは映画だけではありません。私がそのレストランで出会ったのが、人生初の「ピザ」と「ビーフシチュー」でした。

ピザは、今となってはコンビニでも買える食べ物ですが、当時の私のまわりには、ピザという料理を食べたことのある人間など一人もいませんでした。子どもながらに「これはなんだ?」と圧倒されました。

さらに強烈だったのがビーフシチューです。シチューというからには、牛乳で煮た白いスープのようなものを想像していたのですが、出てきたのはこってりとレンガ色のルウ。その中に、ジャガイモとニンジンがごろりと入っていて、そして、驚くほど大きな牛肉のかたまり。しかも、その肉が、箸でも崩れるほどに柔らかかった。これが“牛肉”なのかと、言葉を失いました。

もうひとつ忘れられないのが、佐世保で食べたハンバーガーです。食べたのは1964年11月、米原子力潜水艦「シードラゴン」が佐世保に寄港したときのこと。当時、核を積んだ原潜の寄港は社会問題となっており、全国で反対運動が起きていました。そんな中、父がなぜか「原潜を見に行こう」と言い出して、福岡から佐世保まで車で連れて行かれました。

昼時に立ち寄ったのが、アメリカ海兵隊相手に営業しているバーでした。昼間だけランチ営業をしていたそのバーのカウンターで、父と並んで出されたハンバーガーにかぶりついた記憶が、いまも鮮明に残っています。パンにはさまれていたのは、肉のパティとスライスオニオンだけという、実にシンプルなものでしたが、それがとにかく旨かった。ポパイの漫画に出てくるウインピーが手にしていた“謎の食べ物”が、ようやく目の前に実体をもって現れた瞬間でした。

そしてもう一つ、福岡スポーツセンターのプールの帰りに友人と食べた町中華のラーメン。お金がなかった私たちは、一杯のラーメンを二人で分けて食べました。今でこそ「豚骨ラーメン」として知られていますが、当時は単に“ラーメン”と呼んでいた気がします。スープは白濁していて、上にはきくらげと紅ショウガがのっていました。器から漂う独特の香りと、どこかクセのある味。でも、それが妙にうまかった。どこか知らない町のにおいがしたのです。

私は4歳から14歳までの10年間を福岡で過ごしました。だから、人生で初めて食べた「外の味」はほとんどがこの町での出来事です。ピザも、ビーフシチューも、ハンバーガーも、ラーメンも。今となっては定番中の定番ですが、あの頃の私は、それらに触れるたびに、世界の広さを体感していたのだと思います。

子どもの頃に「本物の味」に出会っておくことは、とても大切なことです。

それは単なる味覚の話ではありません。社会に出て、一流の人たちとともに働く中で痛感するのは、「本物を知っているかどうか」が、その人の判断力や直感に大きく影響するということです。本物を知っていれば、ニセモノに対して本能的な違和感を覚えるようになる。料理でも、仕事でも、人でも、そして言葉でも。

あの映画館も、あのレストランも、もうないでしょう。けれど、スクリーンの暗がりと、皿の上の衝撃の味は、いまも私の中に生きています。もしかしたら、人生の方向性は、あのとき、すでに定まっていたのかもしれません。   

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2025年7月7日月曜日

国の未来を語れない人たちが、未来を握っている件

日本の夜明けはくるか? それとも将来はすべて山の中か?

たまには政治家の“生の声”でも聞いてみるか。参院選も近いことだし、各党の党首が何を語るのか一応チェックしておこう。そう思って、車のラジオをつけたのですが……五分もしないうちに不愉快な気分になりました。


いや、ひどい。あまりにもひどい。

議論の低空飛行ぶりに耳を疑ったのは、一度や二度ではありません。企業経営をしていると、財務諸表のトップの数字、つまり売上高が作れないことが何よりつらいものです。日本の最大の問題は、まさにこの「トップの数字」が国として作れていないことにあります。にもかかわらず、言い方は違いましたがその核心に触れたのは作家の百田尚樹さんだけでした。あとは数字をいっぱい並べて胡麻化そうとするだけで、それではやたら味を濃くする素人の料理と同じです。言葉はあっても、その重みが感じられない。ビジョンを提示し、実行計画を聞かれているのに、そこから逃げているように見えました。

私にとって驚きだったのが、山本太郎が「少しだけ」まともに聞こえたことでした。

あの山本太郎が、です。私にとって彼のイメージは、映画『難波金融道』に出てきた、調子のいいノリで利息の取り立てをする闇金の舎弟公平くん。威圧感ゼロの軽薄キャラ。信用できる人物だとは今でも思っていませんよ。ただ、それほどまでに他の党首たちの話がひどかった。相対的に見えてしまっただけです。むしろ、そう見えてしまったこと自体が、日本の政治の末期的症状を表しているのではないでしょうか。

石破さんに至っては、いったい何を言っているのかもよくわからない。

テープの再生どころではなく、どこを見て誰に向かって話しているのかが不明。人間の温度というよりも、私の人生において、絶対に友達にはならない種類の人です。私は石破さんを何十年も前から見ていますが、安倍元総理が「一番総理にしてはいけない人物」と評したのも頷けます。しかし、その石破さんが、総理大臣になってしまった。神輿は軽い方がいい。官僚にも、野党にも、敵対国にも、そして党内のライバルにとっても。

維新の吉村さん、国民民主の玉木さんも同様です。言葉が薄っぺらい。社会経験が乏しいから、言葉に血が通っていない。結局のところ、彼らも「選挙目当て」で、使い回しのセリフを繰り返しているにすぎません。

被害を被っているのは、私たち国民です。

無能で、しかし権力欲だけは強い。そんな人物を「トップ」に据える代償を、国民が税金というかたちで負担している。本当に怖いのは、こうした光景に、国民が何も感じなくなっていることです。いや、正確には、「感じてはいるけれど、諦めている」ことです。何を言っても無駄。誰がやっても同じ。選んでも、変わらない。そんな空気が、社会全体に広がっています。

こうした政治家たちの姿を見ていて、作家である百田さんの言っていることが一番まともに思えました。いや、正確には、私の考えと近い部分がいくつかあったというだけです。ただし、それを公言するのは、「日本の空気」の中ではあまりにも誤解を生みやすい。だから、これまであえて言及しませんでした。こうして「言ったら損」という雰囲気そのものが、この国の病なのかもしれません。

たぶん、私たちはもう、とっくに答えを知っているのかもしれませんね。

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2025年7月6日日曜日

リーダーなきAI時代を、文化はどう生き抜くか


参議院議員選挙の期日前投票に行ってきました。
車の中で党首討論のニュースを聞きながら、暗澹たる思いになりました。


ガラパゴスAIでもいいじゃないか 

中国のAI開発は、どうやらこのまま独自路線を突き進む構えのようです。しかもその進化は、あくまで中国共産党の方針に則ったかたちで行われる見込みです。つまり、都合のいい出力だけをAIにさせ、検閲済みのコンテンツを中国国内はもちろん、東南アジア、アフリカ、南太平洋の小国、さらには南米諸国へと拡散していく。もう始まっていると言っても過言ではないでしょう。

一方、三権分立などという「面倒な仕組み」が存在しない国が、AIの世界で主導権を握ることには、大きな危険がつきまといます。チェック機能がないAIほど恐ろしいものはありません。言ってみれば、ノーブレーキで暴走する大型トレーラーのようなものです(loose cannon)。

アメリカもまた、AI規制については頭を抱えています。州ごとに法律が異なるうえ、利害関係者も多く、法整備はまるでジャングルの中を手探りで進む探検のようです。自由は多いが、統一感はない。それがアメリカの強みでもあり、弱点でもあります。

日本に残された可能性

では日本はどうか。実は、AI時代の“隠れた本命”になり得る条件がいくつか揃っています。中央集権型の統治システムを活かせば、AIに関する法整備も比較的スムーズに進められるはずです。もっとも、そこにはリーダーシップという魔法の言葉が必要です。そして、それが今の日本に最も欠けているという現実。何とも皮肉な話です。

さらに残念なことに、日本の政治家にはリーダーシップだけでなく、AI時代にもっとも求められる「倫理観」が見当たりません。倫理と論理の区別もつかないのでは?と首をかしげたくなるような発言が、党首討論でも飛び交っています。

政治家こそ、AIのように強大な力を持ちながらも、国民のことを考える倫理観を第一にすべき存在のはずです。そもそも、そういう志があって政治家になったのではないのでしょうか。そう信じたいのですが、政治家の言動を見る限り、その “はず” はもはや “幻想” なのかもしれません。

文明が文化を食いつくすとき

AI技術の発展は、確かに人類にとって大きなチャンスでもあります。しかし、それは同時に、文化という繊細で時間をかけて育まれてきたものを破壊する力をも内包しています。アメリカと中国に共通するのは、他国の文化をあまり尊重しないという姿勢です。効率と支配、合理と規模。そんな価値観がAIと結びつくと、世界は文化の砂漠と化すかもしれません。

それに対して日本は、数千年にわたって文化を育んできた稀有な存在です。明治維新以降、急速に西洋化を進め日本精神の崩壊を促進した。敗戦後はアメリカ化に突き進みましたが(自発的隷従)、まだ取り返しがつかないほどではありません。今こそ、自国の文化と精神を見つめ直すチャンスではないでしょうか。

ガラパゴスAIという選択肢

「日本のAIはガラパゴスだ」と笑う声もあるかもしれません。しかし、文化を土台にした “ガラパゴスAI” こそが、世界に一石を投じる価値のある存在ではないか? 合理性だけを追い求めるのではなく、倫理観、精神性、そして多様性を重んじる技術のあり方を提示する。そんなAIなら、人間社会との共存も夢ではないはずです。

日本にはその提案をする資格がありますし、責任もあります。必要なのは、未来を見据えたビジョンと、それを語れるリーダーです。そして何より、文化の重要性を忘れない感性です。

高齢者としての、ひとりごと

私はもう高齢者です。この国の行く末を決めるような大きなことはできません。能力も財力もありません。静かに暮らし、やがて黙って消え去る存在です。しかし、今の政治や政治家を見ていると、やはり黙っていられない。子や孫が生きていく未来の日本が、文化も倫理も失った無機質な国になるかもしれないと思うと、不安を覚えます。

どうか日本のリーダーたちに、文化と文明のバランス感覚を取り戻してもらいたい。そして、日本という国が「人間らしさ」を軸にAIとの向き合い方を世界に提示できる……そんな幻想くらいは、まだ捨てきれずにいます。
    
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2025年7月5日土曜日

「AIで雇用が消えるのか」という問いに、どう向き合うか

あさりの酒蒸し

料理を作って味わうことから何を感じ、どう生きているかを確認する 


AIの進化と普及によって、仕事がなくなるのではないか、雇用が奪われるのではないかという不安が高まっているというアメリカ発信の記事を読みました。アメリカの経営者たちはこの問題についてさまざまな見解を表明し、それを日本のメディアも大きく報じている。だが、その報道に接するたびに、私は違和感を抱くのです。

日本とアメリカでは、そもそもビジネスの環境も、テクノロジーに対する感覚も大きく異なります。アメリカの経営者の発言を、そのまま日本に当てはめることには無理があります。

実際、「AIによる業務の効率化が従業員のレイオフにつながるか?」という問いひとつ取ってみても、日本とアメリカでは事情がまるで違う。アメリカでは、雇用の契約形態も職務分掌も明確で、「仕事がなくなればクビ」というのが合理的な現実として受け入れられています。一方、日本ではたとえ業務がAIで効率化されようとも、それだけで即レイオフという話にはなりにくい。むしろ、新しい仕事を生み出すことで雇用を維持する方向に知恵が絞られる。

アメリカの企業で働くと、大きく分けて二つのレイヤーが存在します。ひとつは、マネジャーやマネジメント層を目指す層。もうひとつは、昇進は望まないが一定の給料を安定的に得られればよいという層です。後者は、AIによって職務が代替されるとレイオフの対象になりやすい。AIによって業務が合理化されれば、「人間である必要がない」と判断されてしまうからなのです。

加えてアメリカの職場では、実力を上げて成果を出し続ければ、それに見合った報酬が得られる仕組みになっている。難度の高い仕事に挑み、評価を得れば給料が上がる。さらに、実力をつけた人材は、より高い報酬やポジションを求めて他社へ転職するという選択肢も当然のように存在しています。こうした流動性の高さと成果主義の文化の中では、AIの登場が直接的に「雇用喪失」につながりやすい構造があるのは否めない。

では日本はどうでしょうか。日本の企業には、アメリカのような明確な職種区分や、昇進を前提としたレイヤーの分断がそれほど強くない。マネジメント層と非マネジメント層の間にも、大きな構造的な隔たりは存在しない。しかも、雇用の安定性が強く意識される日本社会では、AIによる業務効率化が直ちにレイオフにつながることは稀だと思います。企業はむしろ、社員を別の部署に異動させたり、AIに置き換えられない仕事を新たに作り出すことで、雇用の継続を図ろうとする傾向が強いと思います。

ただし、これは楽観してよい話ではありません。たとえAIが「人間の仕事を奪わない」としても、それは人間が何もせずに済むという意味ではない。むしろ、AIをどう使いこなすか、どう人間の思考や創造性や判断力と組み合わせるかが、今後の仕事の質を決定するのです。とくにマネジメント層にとっては、AIの力を戦略的に使いこなすスキルが求められる一方で、AIに判断の主導権を握られてしまえば、自らの役割を失いかねないというリスクもあるのです。

さらに、AI導入による法的リスクも無視できません。たとえば、AIに業務を全面的に委ねた結果、著作権侵害や誤った判断による瑕疵担保責任が発生し、訴訟に発展するようなケースも想定される。場合によっては、それが企業の存続に関わる重大な問題へと発展することもあります。

だからこそ、日本社会は、日本の環境に合ったAIとの付き合い方を自分たちの頭で考えなければならないのです。AIという新たなテクノロジーの本質と進化をしっかりと理解し、日本固有の制度、文化、倫理観を踏まえた合理的かつ持続可能なプランを構築していくべきです。

未来は、予測ではなく設計(ビジョン)するものです。その設計において、AIに任せきりになるのではなく、人間がAIをどう使いこなし、ともに進化していくかが、これからの鍵を握っています。日本政府や経済界のお歴々に任せておいても大丈夫なのか? 教育界の重鎮は現状をどこまで理解しているのでしょうか?

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2025年7月4日金曜日

セルフサービスって、ほんとに嫌い!

ファミレスのテーブル

セルフサービスって、苦手というより――大嫌いです。

コンビニのレジで他人のやりとりを眺めたり、店員に「今日も暑いねぇ」と一言こぼしたり、品物の場所を聞いて「そこです」と事務的に返されて、でもなんとなく通じ合ったり。そうやって何年も通ううちに、中国人店員とも軽口を交わせるようになる。そんな“距離の縮まり方”が楽しい。

買い物って、ただモノを買うだけじゃない。人とすれ違って、ちょっと何かが通じる、そんな時間でもあるのですよ。

1980年代は中国語で仕事をしていました。90年代はアメリカで英語中心。あの頃は、言葉の向こうにちゃんと“人”がいた。何語でも、どこの国の人でも関係ない。言葉って、結局は人と人をつなぐためのものだったから。そして、その言葉の背後には個人の人となりがある。

ニューヨークに住んでたころは、ナッシュビルに4年間、毎週出張することがありました。

ナッシュビルのアメリカン航空のグランドホステスとも顔見知りになって、「毎週毎週大変ね」なんて言われると、出張もちょっと悪くない気がしたものです。言葉と気配で、人と人がつながってた。金曜の夕方、「Have a nice weekend」と言われて、「You, too! Have a good one!」と返す――たったそれだけで、心がちょっと浮くんです。

なのに、今はどうでしょう。

コンビニも、レストランも、空港のチェックインですら、人間に会うことすらままならない。タッチパネルが「いらっしゃいませ」と言ってくるけど……いや、いらっしゃってないんですよ、誰も。そこに“人”はいない。ただのタッチパネルのスクリーン。黙ってぴっぴと注文して、番号札を持って、黙って待つ。人間ガチャ、ハズレなしの無人対応。店員との会話なんて「非効率」の一言で片づけられる時代になりました。

私のような旧式の人間は、もう社会的コストなんでしょうね。生産性は低いし、テンポも悪いし、つい話しかけて場の空気を乱す。世間は「便利になった」と言うけれど、その正体って実は「人と人との断絶」だったんじゃないか。便利のために、誰もが静かに孤独へと閉じ込められていくディストピアの世界。

アメリカでは、この無人化社会はもう10年以上前から始まってました。笑顔で「How are you doing?」と話しかけてくれてたレジ係も、今は無言のキオスクに取って代わられた。日本も、気がつけばすっかりそっち側の人になってしまった。

世の中がどんどん「便利」になればなるほど、私には逆に不便で、生きにくくて、居心地が悪くなる。頑固ジジイ? 大いに結構。このまま誰とも話さず、無人の世界でひっそりフェードアウトするのも悪くはない。

というか、もう既に世の中からはサインアウト済みかもしれませんね。ははは……。

 







ファミレスでは料理もロボットが運んでくる。話かけても返事はしない!


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2025年6月30日月曜日

モスバーガーで迷子になる

久しぶりにモスバーガーへ行ってきました。おそらく5年、いえ、6年ぶりかもしれません。

家人に頼まれて、テリヤキバーガーとオニオンリングを買いに行ったのです。ちょうど銀行にも用事があり、お店は駅の反対側ではありますが、それほど遠回りにもならないので引き受けることにしました。

お店に入ると、まず驚きました。カウンターではなく、ターミナルのような端末が置かれていて、自分で注文し、その場で支払いも済ませる方式になっていました。

私は現金で支払いたかったので、カウンターの中にいた店員の方(おそらく私よりは年下ですが、見た目は立派な高齢者)に「現金で払うにはどうしたらいいですか」と尋ねました。すると、その方はやや高飛車な口調で「キャッシュレスです」とおっしゃいました。

そういう時代なのだと、しぶしぶ受け入れて画面を操作し始めましたが、出てくるのはポイント決済やコード決済ばかり。ようやくクレジットカードの選択肢を見つけて安心したのも束の間、「会員番号を入力してください」と表示されました。

私はモスバーガーの会員ではありません。「会員でない場合はどうしたらいいのでしょうか」と再び尋ねると、店員の方は少々面倒くさそうな顔で、カウンターの上にある小さな三角形の札を指さしながら「そこから番号を一つ取って、それを入力してください」と教えてくれました。

たかだか770円の買い物です。それにしては、やけに手続きが多いと感じました。まるで謎解きゲームでもしているような気分になります。

カード決済であれば、お店側も数パーセントの手数料を取られるはずです。現金でさっと支払う方が店にも優しいのではないかと思います。

特に、私のような年金暮らしの高齢者などは、おだてておけば気を良くして余計なものまで注文するかもしれません。商売とは、そういうものではないでしょうか。

もっとも、「人のぬくもりだとかサービスで差別化して、多少値段が高くても気にしないような人は、そもそもチェーン店などに来るべきではない」という考え方もあるのでしょう。それはそれで、納得できます。

外に出ると、茹だるような暑さが体にまとわりつきました。まだ6月だというのに、真夏のような陽気です。梅雨は一体どこへ行ってしまったのでしょうか。

私は、現金で物が買えるというのが日本の良さの一つだと思っていました。
もともと外食はあまりしない方なのですが、こうして支払い方法が煩雑になると、ますます足が遠のきそうです。

買って帰ったテリヤキバーガーは、家人が「おいしい、おいしい!」と言って喜んでくれました。それを聞いて、少し報われた気がしたのです。

けれど、次にモスに行くときは——いや、しばらくは、ないかもしれない。

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2025年6月29日日曜日

まだ育ってないのは自分だった ~ 親としての未完成さに気づく瞬間

 一年ぶりに、アメリカ・テネシー州ナッシュビルから息子一家が一時帰国しました。

息子はもうすぐ40歳。アメリカで弁護士として働いており、妻は大学で英語を教えたり、文章を書いたりと文筆の仕事をしています。共働きで、二人の子どもを育てながら、物価の高騰や治安の不安、広がる経済格差の中で、なんとか日々を乗り切っているようです。

今回は七五三のお祝いもかねての帰国で、吉祥寺の写真スタジオで撮影をしました。子どもたちは着替えに少し時間がかかったり、撮影も長丁場になりましたが、案外楽しそうにしていて、カメラの前で笑ってくれるその姿に、こちらまで自然と笑みがこぼれました。

ただ、今回の再会が手放しの幸せばかりかというと、少し違っていました。自分自身の体調の不安もありましたし、ふとした瞬間に、心の中に小さな苛立ちや不寛容な気持ちが顔を出してしまう場面もあって、自分自身の未熟さを思い知らされるようなところがありました。

孫たちは元気で明るい、本当に良い子です。ただ、生活のちょっとした場面で、「あれ?」と引っかかるような瞬間がいくつかありました。たとえば、物を大切に扱う感覚が少し薄いように見えたり、食べ物を無造作に残してしまったり。もちろん、時代も文化も違いますし、私自身が育った昭和の感覚や日本流をそのまま当てはめるのは違うと思いつつ、やはり少し気になってしまうのです。

息子とお嫁さんは、ともにアメリカ育ちの一人っ子です。息子がニューヨークの大学に入学した18歳のときから、私たちは一緒に暮らしていません。二人とも日々忙しく働きながら、子育てにも奮闘している様子を見て、よくやっていると思う一方で、「限られた環境の中でも、子どもたちがもう少し日々の物事を丁寧に受け止められるようになれば」と、そんなふうにも感じました。とはいえ、それは私の古い価値観なのかもしれません。

息子はアメリカ社会には批判的な視点も持っているのですが、ビジネスの現場では、「日本人や日本企業とは関わらない」ときっぱり言っていました。「時間の無駄だから」と。

その言葉には、少し寂しさも覚えましたが、納得もしています。というのも、それは時代の流れというより、彼自身がアメリカ社会の中で、アメリカ人と対等にやり合えるだけの実力を備えているからだと思うのです。

私にはそうした力はありませんでした。アメリカ人の組織で働いていたとはいえ、英語という壁もあり、日本人であることを足がかりにしながら、なんとか折り合いをつけてサバイブしてきた——そういう生き方しかできなかったというのが正直なところです。

「日本にはいいところがたくさんあるのだから、無理に“世界標準”を目指さず、このままガラパゴス化を進めてもいいんじゃないか」と、息子は笑いながら言っていました。皮肉ではありますが、どこか現実を射抜いているように思います。

ところで、撮影のあと歩いた週末の吉祥寺は、驚くほど外国人観光客であふれていました。つい最近まで、こういう光景はなかった気がするのに、本当に世の中の変化は早いものですね。

ガラパゴスが商業主義の観光地になる、、、、。  
  
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