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2026年2月4日水曜日

人生のグランドストラテジー ――なぜ日本人は「自分の物差し」を持てないのか

 

上の図は、私が今から20年ほど前に作成した「人生設計とキャリアプラン」を示すものです。

山登りに人生を喩え、社会人としての出発点から、50代以降に至るまでを、一続きの登攀として描いています。 足場は限られ、途中で引き返すことも容易ではありません。この図が示しているのは、成功モデルや理想像ではありません。むしろ、「人生にグランドストラテジーがないまま登ることの危うさ」を可視化したものです。

図の左下には「社会人登山口」があります。
  • 20代は「学に志す」。社会に出て、自分の専門性の軸を探し、学ぶことにエネルギーを注ぐ時期です。
  • 30代は「学を継続する」。資格取得や実務経験を通じて、学びを実装し、自分の足場を固めていく段階です。
  • 40代になると、「立つ&惑わず」。組織の中で一定の立場を得る一方で、自分は何者なのか、どこへ向かうのかという根源的な問いに直面します。
  • 50代、「人生を楽しめるか?」。ここで初めて、それまでの選択が静かに問い返されることになります。
この図の中央に置いた言葉が、「自分の物差し」です。

他人の評価や会社の肩書き、世間の常識ではなく、「自分は何を基準に、どの山を登っているのか」。これを持たないまま登り続けると、努力すればするほど、風の強い危険な稜線に立たされることになります。最悪の場合は、雪庇を踏み抜く。図の上部にある「無限風光在険峰」とは、雄大な景色は険しい峰の頂にこそある、という意味です。ただし、険しい峰である以上、足場は決して安定していません。自分の物差しを持たずに登れば、そこで立ちすくむことにもなります。

ここで多くの人が混乱するのが、「ビジョン」という言葉です。

ビジョンと聞くと、明確な理想像や、達成すべき成功イメージを思い浮かべがちです。しかし正直に言えば、理想の人生が何なのかなど、誰にも分かりません。若い頃にそれを描ける人は、ほとんどいないでしょう。 高齢になった今の私にも、正直なところ分かりません。

それでも、ビジョンを考えることには意味があります。それは、「人生の最後のフェーズを、おぼろげながら想像すること」です。私は、老人ホームでアルトサックスやハーモニカを吹いていたい!

自分は、どんな人間として人生を終えていたいのか。老いた自分は、どんな場所に立っていたいのか。そして、他者は最終的に、自分のことをどういう人間だったと思ってくれるのか。

ここで重要なのは、「自分がどう思うか」だけではありません。他者の記憶に、どのような存在として残るのか。言い換えれば、これはアイデンティティの問題です。

理想を完全に実現できる人は、ほとんどいません。しかし多くの人は、人生の終盤において、「この人には助けられた」「この人には感謝している」。そう言ってくれる人が何人かいることを、心のどこかで望んでいるのではないでしょうか。

恐らく、それで十分なのです。それこそが、「どんな人生を送りたいか」という問いへの、きわめて現実的な答えであり、ビジョンと呼んでよいものだと思います。ビジョンとは成功の設計図ではなく、自分はどんな存在として人生を終えたいのかという価値観の宣言なのです

ビジョンと戦略、戦術の違いを整理しておく必要があります。

ビジョンは「どんな山に、なぜ登るのか」。グランドストラテジーは、「限られた時間、能力、人間関係といった資源を、長期的にどう配分するか(resource allocation)」。戦術は、「今日、何をするか」です。

日本人は、この三つを混同しがちです。昭和の15年戦争を研究してみてください。日本社会は、目の前の課題を丁寧にこなす戦術能力においては、極めて優れています。しかし、「そもそもどの山に登っているのか」という問いを立てる訓練を、ほとんど受けてきませんでした。戦略性を学ばないまま大人になった人間が、次の世代を教えている。そう言ってしまえば、身も蓋もありませんが、現実はそこにあります。

その背景には、正解依存の教育、他者依存の社会構造、そして戦後日本が国家としてグランドストラテジーを自ら描かずに済んできたという歴史があります。企業が個人の人生設計を肩代わりしてくれた時代は終わりましたが、思考の習慣だけが、いまも残っています。AI時代に突入した現在、この思考習慣を変えられないままで、日本人はどこへ向かうのでしょうか。

だからこそ、これからの時代には、「自分の物差し」を意識的に持つことが必要になります。

完璧な答えを出す必要はありません。ただ、「自分はどんな存在として、誰に、どう記憶されたいのか」。その問いを言語化し、人生のどこかに据えておくこと。それこそが、人生のグランドストラテジーの出発点なのだと、私はこの図を見返しながら、あらためて感じています。

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2026年2月3日火曜日

子育ては一生続く。でも、干渉は一生いらない

子育てを考えるとき、私はいつも「起業」との共通点を思い浮かべます。

どちらも、成果は枝葉や果実として目に見える形で現れますが、本当に重要なのは、目に見えない「土壌」と「根」です。どんな養分や水分を、どの程度与えるのか。そして、どこで手を止め、成長を待つのか。その判断ひとつで、木の育ち方は大きく変わります。


子育てと起業に共通するのは、「育てる」ことではなく「育つ環境を整える」ことです。過度な養分や水分は、かえって根を弱らせてしまいます。

私の愛犬チャーリーは、正直に言って躾に失敗しました。

かわいい、かわいいと可愛がりすぎ、必要な距離を取らなかった結果です。叱るべき場面でも感情を優先し、こちらの都合よりも「まあいいか」を選び続けた。そのツケは、すべて飼い主である私に返ってきています。

一方で、息子はまったく逆でした。

親としては自由に育てたつもりですが、結果としては少々自立しすぎたきらいがあります。頼られることも少なく、拍子抜けするほどです。犬と息子を並べて考えるのは妙な話ですが、関わり方ひとつで、ここまで結果が違うのかと考えさせられました。

子育ては、おそらく自分が死ぬまで続くのだと思います。ただしそれは、死ぬまで子どもに干渉し続けるという意味ではありません。むしろ逆で、親がどう生きるか、その姿そのものが、子どもにとって最大の教材になるのではないでしょうか。

人間も動物です。情愛そのものに大きな違いはありません。しかし福沢諭吉は、人間と動物の違いを「相手に対する敬意」だと言いました。情愛だけでなく、敬意をもって相手を見ること。そこに、人間の教育の本質があるのだと思います。

情愛や敬意を欠いた子育てが続けば、社会正義は機能しなくなり、卑怯者ばかりが量産されてしまいます。私は息子が納税者になったとき、「これで親の務めは終わった」と正直ほっとしました。しかし福沢は容赦なく言います。子を生み、養い、教え、一人前の人間として社会に送り出して初めて、親の名に恥じないのだと。

シリコンバレーのパロアルトの飲茶レストランで、さまざまな訛りの英語が飛び交う光景を目にしたことがあります。インド訛り、中国訛り、韓国訛り、あらゆる英語が飛び交っていました。そこに、日本語訛りの英語はほとんど見当たりませんでした。日本人がいないわけではない。しかし選手層が薄く、存在感が出ないのです。

日本という社会は、テーマパークのようです。サファリパークと言ってもいい。安全で、親切で、居心地はいい。しかし、その中で過保護に育った人間は、ジャングルのような現実世界では目立ちません。世界には多様な「優秀さ」があるという事実を、親自身がまず理解しておく必要があると思います。

論語にある「切磋琢磨」という言葉も、私は少し違った意味で受け取っています。学ぶ側の努力というより、教える側への戒めではないか。素材を見極め、無理に削らず、的確に磨く。料理で言えば、素材に合った調理法です。流行の教育論や、誰かの成功体験を、そのまま我が子に当てはめる危うさを、親はもっと自覚すべきでしょう。

日光東照宮の三猿の彫刻を思い出してください。
子育てとは人生全体を見通す営みなのだと教えています。子育て、成長、挫折、友情、旅立ち。人生は順番通りには進みませんし、挫折は何度も訪れます。親ができるのは、転ばせないことではなく、転んだときに立ち上がる力を信じることではないでしょうか。

子育てにおける最大の敵は、「知らないこと」ではありません。「知ろうとしないこと」です。事勿れ主義は、親にとっては楽ですが、子どもも同じように育ってしまいます。独立自尊の個人とは、不安定で壊れやすい存在です。だからこそ、自信と自尊心を日々更新し続ける必要があります。その覚悟を、親自身が生き方で示すしかありません。

福沢諭吉は、まず身体を鍛えよと言いました。

獣のような身体をつくり、後で人の心を養えと。健康を管理できない人間は、社会人としても自立できません。子育てとは、知識を詰め込むことではなく、生き抜くための土台を整えることなのだと思います。

子育ては、起業とよく似ています。

種を蒔き、土壌を整え、あとは自然の力に任せる。根を育て、枝葉や果実は、その子自身のものです。親ができるのは、環境を整え、過度に手を出さないことだけです。

チャーリーを見て苦笑し、息子の背中を見て少し寂しくなる。その両方を引き受けながら、私は自分に問いかけざるを得ない。

子どもに何をしたかではなく、自分はどう生きているのか。子育ては一生続く。でも、干渉は一生いらないのだと。
 
福沢諭吉の言葉

福沢諭吉は、130年以上前に、すでに子育ての本質を言い切っていました。

天下の橐駝(たくだ=植木屋)は能く樹木の根を養うてその生力を盛んにし、枝葉花実はその自然の発生に任して各その美を呈せしむるのみ。教育の橐駝、果たしてここに見る所あるや否や。

(福沢諭吉『教育の方向如何』明治十九年)

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2026年1月31日土曜日

プロフェッショナルとは何か

 


プロフェッショナルとは何か


― ゼネラリストとスペシャリストを混同し続ける日本社会へ


日本のビジネス界を見渡すと、長年変わらない「基本的な勘違い」があります。それは、プロフェッショナル、ゼネラリスト、スペシャリストという概念の区別が、極めて曖昧なまま使われていることです。言葉だけが一人歩きし、レベルセットが行われないまま議論が進む。その結果、抽象度の低い、噛み合わない会話が延々と続く。これは日本のビジネスシーンの慢性病と言っていいでしょう。

添付した1枚目のスライドでは、「プロフェッショナル」を中心に、ジェネラリスト、スペシャリスト、エキスパートという概念を整理しています。ここで最も重要なのは、プロフェッショナルとは職種や専門分野の名称ではなく、姿勢であるという点です。

プロフェッショナルの前提にあるのは、顧客第一主義、すなわち「真のニーズに応える」ことです。自己満足でも自己中心でもない。常に相手の価値を最大化するために、自分をどう使うかを考える存在です。

ところが日本では、専門知識や技能を持っている人、つまりスペシャリストを「プロ」と呼んでしまう傾向が強い。極端な話、「うちはスペシャリストしかいません」と胸を張る会社すらあります。しかし、専門性があることと、プロフェッショナルであることはイコールではありません。スペシャリストやエキスパートは「スキル中心」の世界にいます。一方でプロフェッショナルは、スキルを含みつつも、それをどう使い、どう統合し、誰のために価値を出すのかという「働き方・生き方」の問題なのです。

2枚目のスライドでは、プロフェッショナルを支える三つの柱として、People Management、専門性、自己管理能力を示しています。

ドラッカーが繰り返し述べているように、マネジメントとは他人を動かす技術ではありません。本質は「自らをマネジメントすること」にあります。これは新渡戸稲造が『武士道』で語った「克己(こっき)」と同義でしょう。自分をコントロールできない人間が、他者をマネージできるはずがないのです。

政治家は英語で “Law Maker” とも呼ばれます。法律を作り、私たちの税金を使うことを国民からアウトソースされている、れっきとしたプロフェッショナルのはずです。それにもかかわらず、今の政治にプロフェッショナルの姿が見えないのはなぜでしょうか。責任と権限の概念を理解せず、言葉だけで場を取り繕う。その姿は、ビジネスの世界とも不気味なほど重なります。

プロフェッショナルとは、決して「できる人」ではありません。自分に満足せず、常に次の壁に挑み続ける人です。一つ壁を越えれば、また次の壁が現れる。その過程を苦行ではなく、楽しみとして引き受ける。論語にある「知る者は好む者に及ばず、好む者は楽しむ者に及ばず」という言葉の通り、楽しみながらやっている人の中からしか、本物のプロフェッショナルは生まれません。

小林秀雄は「模倣は独創の母である」と言いました。完璧に模倣できた地点が、プロフェッショナルのスタートラインです。エリック・クラプトンも、ジミー・ペイジも、ジェフ・ベックも、最初は徹底したコピーから始めています。中途半端な理解のまま「オリジナリティ」を語るのは、単なる自己満足に過ぎません。

黒澤明監督の映画『七人の侍』は、実に見事なチームビルディングの教科書です。リーダーは同質な人材を集めるのではなく、技量も性格も異なるプロフェッショナルを集め、全体としてのバランスを取ります。ムードメーカー、無口な達人、参謀役、橋渡し役。それぞれが自分の役割を理解し、自律的に動く。これこそがプロフェッショナル集団です。

今の日本では、新卒一括採用やハウツー偏重の教育が、「自分を知る(know yourself)」機会を奪っています。流行のスキルを追いかけるだけでは、死ぬまで漂流者のままです。ブログや日記を書くことは、自分とのコミュニケーションを始めるための有効なツールでしょう。

結局のところ、プロフェッショナルとは肩書きではなく、覚悟です

自分を律し、学び続け、楽しみながら壁を越え続ける。その姿勢を持つ人が増えない限り、日本はこれからも「埋もれたまま」なのでしょう。

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2026年1月7日水曜日

そのニュース、子どもに説明できますか? ――親世代が直面する「思考停止メディア」の正体

 

社会の木鐸とは何か?


――沈黙する日本のジャーナリズムと、饒舌なコメンテーターたち――

「社会の木鐸」という言葉があります。本来は、権力や時代の空気に警鐘を鳴らし、社会に時間的・思想的な奥行きを与える存在を指す言葉です。木鐸は叩かれて音を出すものではなく、自ら響くから意味がある。しかし、近年の日本のジャーナリズムを見ていると、どうも拡声器と化してしまったように見えます。しかも音量だけはやたらと大きい。

今回のアメリカによるベネズエラ攻撃をめぐる日本の報道を見て、その思いは一層強くなりました。事実関係は断片的、背景説明は乏しく、国際政治の文脈はほぼ消失しています。代わりに並ぶのは、スタジオで頷き合うコメンテーターの「お気持ち」と、司会者の「分かりやすいまとめ」です。分かりやすいのは結構ですが、浅いものを分かりやすくしたところで、浅さが際立つだけではないでしょうか。

欧米のメディアも、もちろん完全に清廉潔白ではありません。スポンサーの影響も受けますし、政治的バイアスもあります。しかし、少なくとも「何が争点で、どこが分かっておらず、誰の利害が衝突しているのか」を整理しようとする最低限の知的誠実さは保たれています。ところが日本では、その手前で話が終わってしまう。原因は明白です。日本のメディア自身が、日本という国を相対化して理解しようとしていないからです。

政治の話になると、日本の報道は急に情緒過多になります。怒り、悲しみ、正義感――いずれも大切な感情ですが、それらが事実や構造分析を押し流してしまっては本末転倒です。マックス・ウェーバーが語った「レジティマシー(正統性)」の議論など、ほとんど耳にすることがありません。誰が、なぜ、どのような正統性をもって権力を行使しているのか。国家も都市も、そこを問わずに語れるほど単純ではないはずです。

にもかかわらず、テレビに登場する「知識人」や「有識者」たちは、疑念を投げかけるよりも、場の空気を整えることに熱心です。異論は「炎上リスク」、沈黙は「大人の対応」。こうして議論は痩せ細り、思考の筋肉は衰えていきます。本来、信念と疑念がぶつかり合うことで思想は鍛えられるはずですが、今や疑念そのものがマナー違反のように扱われているのです。

日本のジャーナリズムが劣化した理由は、一つではありません。記者クラブ制度、視聴率至上主義、広告依存、そして教育の問題。特に教育の影響は深刻です。受験を目的化した教育は、問いを立てる力ではなく、正解を当てる技術だけを磨いてきました。その結果、「分からないことを分からないと言う」「仮説を立てて検証する」といった思考の基本動作が社会全体で弱体化しています。

面白いのは、中国の若者の方がこの点ではよほど健全だという事実です。彼らは人民日報や国営テレビを鵜呑みにしません。「報道の逆を考える」というリテラシーが、皮肉にも全体主義体制の中で育っている。一方、日本では「自由な報道」があるはずなのに、それを無批判に消費するだけの大衆が量産されています。トーマス・ジェファーソンの言葉を借りるなら、「新聞ばかり読む人は、何も読まない人より教養がない」という状況が、テレビを含めて拡張されているように見えます。

かつて小林秀雄は、敗戦直後の講演で「人生観」という言葉の軽さを指摘しました。今の日本は、その軽さを思想だけでなく、報道にも持ち込んでしまったようです。重たい問題を、軽やかなトークで処理する。その場では分かった気になりますが、何も残らない。まるで栄養バランスを考えないファストフードのような報道が、毎日大量に消費されています。

社会の木鐸とは、本来、不人気で、面倒で、時に嫌われる存在です。叩かれても黙らず、空気を読まず、問い続ける。ユーモアとは、その厳しさを和らげるための知性であり、決して思考停止の潤滑油ではありません。しかし今の日本のメディアは、ユーモアを「笑い」に矮小化し、皮肉を「悪意」と誤解しているように見えます。

坂口安吾は「もっと堕落しろ」と言いました。堕ちきることで、初めて目が覚めるかもしれない、と。日本のジャーナリズムも、もしかすると今はその段階にあるのかもしれません。どこまで堕ちるのか、いつ目覚めるのか、それは分かりません。ただ一つ言えるのは、社会の木鐸が沈黙したままでは、国家の未来図は決して描けないということです。

木鐸は、誰かが叩いてくれるのを待つものではありません。自らの内部に空洞を持ち、響く準備ができているかどうか。その問いは、メディアだけでなく、私たち一人一人にも向けられているのだと思います。

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2019年1月22日火曜日

仁と礼

散歩道にある消火栓 ~ 果たして機能するのか?

外交って「仁」と「礼」が重要です。自分の家族や仲間、自分の国家に対する愛情とそれらを守護する心、つまり、それが「仁」です。そして、他者とのコミュニケーション(プロトコル)と言えるのが「礼」だと思います。仁があっても礼がなければ意味は無いし、仁がなく礼だけがあるのも駄目です。思いやりの気持ちを持って相手に伝えることが肝心なのです。もっとも、外交だけじゃない、人間の本質でしょう。

哀しいかな、今の日本は「仁」も「礼」も恐ろしく劣化しました。政治家やメディア関係者は酷い、また、教育者に自覚は有るや無しや?

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2019年1月4日金曜日

いま日本が議論すべきこと

Trump pushes border wall in surprise media briefing, but takes no questions
 01/03/2019
CNBC.com



President Donald Trump made a quick, unannounced stop 
in the White House briefing room Thursday to reiterate his 
hard-line border wall stance amid an ongoing partial 
government shutdown.
The surprise appearance, which lasted just a few minutes, 
marked the president's first time speaking from the briefing 
room podium. He answered no questions from reporters, 
who shouted questions at him as he walked out of the room.
***

孔子は、仁者というものは「自分が立ちたいと思えばまず人を立たせ、自分が達したいと思ったらまず他人を達せさせる」と言います。孔子さまの時代から2000年たっても人間は「今だけ、金だけ、自分だけ」という自分の利益だけを追求する世界のようです。アメリカや中国は最先端を突っ走っています。だから、大統領のプレスコンファランスでもケンカするしかない。品がないったらありゃしない、、、。

平成の終わりを話題にするよりも、世界中で近代が終わろうとしている事を日本は議論すべきでしょう。明治の偉人たちが憂いた「精神の近代化」も150年経った今でも達成できていないのですから。福沢(諭吉)さん、夏目(漱石)さん、森(鴎外)さんが議論に加わる事ができれば、深夜の討論番組のようなエンタメの世界にはならないでしょう。

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2016年12月21日水曜日

和して同ぜず

改札へ続く列 @ 夜のJR三鷹駅

 君子和而不同,小人同而不和
(君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず)

先が読めない2017年になろうとしています。

孔子さまのいう「和して同ぜず」ということが益々重要度を増してくるのでしょう。 しかし、困ったことにそれが日本人の最大の弱点であることに気づいている人は少ないような気がします。

「和する」というのは、人と交わることです。ベタベタすることでなく互いに協力するという事です。「同ぜず」というのは自律しているということです。 つまり、個人のアイデンティティ(個人の規範)が明確になっていることです。 この両方がなくては、個性を育てることはできないと言ったのは小林秀雄です。

小林秀雄によると、「和して社会的なものを持たなければ個性的なものは生まれない。 他人に心から協力しようとする気の無い人は、自分に対してだって協力ができないから、自己統一の力がないことになる。だから、利己主義という自己防衛の形になって現れてしまう」ということです。

世界中で、他者への信頼がなくなり、無私な行動が見うけられなくなった。 物事の本質が見えていないからでしょう。 一億総活躍(Dynamic Engagement of All Citizens)社会の中で自律したキャリアを考えることは賛成です。だが、大前提となる「和して同ぜず」は中高年になってからでは手遅れだと思います。

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2015年11月16日月曜日

故きを温ねてばかりいたら

人生を変えた一枚(3枚組のレコードですが、、、)

故きを温ねて新しきを知る、以て師と為るべし

ふるきばかりを温(あたた)めていたら、とうとう今年も11月も半ばになってしまいました。 やはり、私の師は10代の頃に聞いた音楽です。

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2015年6月30日火曜日

キャリアを考えるということ


多くの人は孔子さまじゃないので30で立つのは難しい。 30歳でも「学を継続し一途に走り続ける」が理想です。 40って人生で一番迷う時だと思います。 だから、mid-life crisis なんて言葉があります。 50になって天命を知る人よりも、我欲が更に強くなる人が多い、、、。 もっとも今は寿命が長いので50で天命を知ることはないか? 60歳にして耳順(したが)うということですが、60歳になると益々人の話なんて聞かないものです。70

私はリアリストなので、嫌いなものは文句なく嫌いだということを 自分の物差し としてやってきました。 伝統の精神は我が家のチャーリーに受け継がれています。














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2014年2月4日火曜日

温故知新 ~ ミュージックライフ


実家の物置を整理していたら、むかし夢中になっていた雑誌が出てきました。

1971年のレッド・ツェッペリンの音は今聞いても昔のままですが、私の耳は少しは進歩したかもしれません。 彼らとの距離が数ミリか数センチ縮まった感じがして嬉しく思います。 40年かかりましたが、、、。  

昔の事柄をもう一度調べたり考えたりして、新たな道理や知識を見い出し自分のものとすることって、所謂、「温故知新」なのですが、新たな知識を自分のものとしないまでも自分の成長を確認するにはいいですね。 

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2012年3月27日火曜日

克己する

早咲きの桜(JR三鷹駅南口)

克己復礼為仁(克己復礼を仁と為す)。

克己(こっき)とは自分に打ち克つ、つまり、self-controlのことです。 自分に克ち、他者に対しては礼を重んじる。 それが仁となる。 孔子も孟子もリーダーの必要条件は仁だと言っていますね。 自分に厳しく他者に対して思いやりとか愛情で接することです。

孔子は言います。 「礼にはずれたことを見たり、聞いたり、言ったり、したりしてはいけない」。

あっちを見てもこっちを見ても、礼にはずれることばかりじゃありませんか! どうしましょう? 克己して、出来る限り賢い人たちと付き合うことですね。

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2012年2月16日木曜日

ソーシャルメディアじゃなくて、自分の足元を見る

石は石でしかないか?

「仁は遠からんや、我れ仁を欲すれば、斯(ここ)に仁至る」 。(子曰、仁遠乎哉、我欲仁、斯仁至矣)。

孔子が言った。 仁の道は、我々の手のとどかない、遠いところにあるものではない。 自分が仁の道を求めさえすれば、すぐに仁の道は来るものだ。

禅で言うところの照顧脚下、つまり、「キョロキョロしないで、自分の足下を見ろ」ということですね。

アメリカで長く暮らし世界中を旅した禅の大家である鈴木大拙は、「人間の人間たる所は、社会的生活をなし能うところにある」と言っています。 「人間特有の価値ある生存を可能ならしめるところのものがなくてはならぬ。 このなくてはならぬものを完成していくのが万物の霊である」と。 「万物の霊」って福沢諭吉も言っていましたが、人間のあるべき姿のことです。 集団生活だと蟻や蜂のようだし、独立独行だと獅子や虎のようで、人間であるならば、社会的生活を全うしなければならないと説いています。 社会的生活を通して自己を見つめる。 日常を大事にしろということでしょう。

政治でもビジネスの世界でも、例え、それが国境を跨ぎグローバルになろうとも、人間ですから「社会的生活をなし能う」ことが大事ですね。 そして、自分の日常が存在するドメイン(領域)のレベルが高ければ高いほどいい。 どうも日本は社会的生活をマスメディアという媒体を通して行う。 自分の眼で見て判断しない習慣がついている。 だから、誰かに都合のよい幻想か、自分にとって都合のよい幻想となる。 結果、ハクスリーのディストピアの世界になっていくのだろうと思います。 つまり、常に全体主義に陥る危険性があるということです。

自分の「観の目」と「見の目」(宮本武蔵「目付之事」)で判断して、仁の道に至りましょう!

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2012年1月4日水曜日

温故知新

堀合遊歩道にある井戸
井戸の取手は切断され、水道の蛇口になっています
(写真には映っていませんが蛇口のハンドルは反対側)

昔、三鷹から北北西に伸びる国鉄武蔵野競技場線という単線があったそうです。今は細長い堀合(ほりあわい)遊歩道になっています。

昭和26年、中島飛行機製作所跡に武蔵野グリーンパーク野球場(国鉄スワローズのホーム球場)ができました。 武蔵野競技場線は都心から野球観戦客を運ぶための路線だったようです(中島飛行機製作所跡は戦後進駐軍の兵舎になりグリーンパークと呼ばれていた)。

1952年まで明治神宮球場がGHQに接収されていたために、プロ野球や六大学の試合をする野球場が足りなかった。 そこで、急遽建設されたのが武蔵野グリーンパーク野球場ということです。ところが、昭和31年には閉鎖解体されてしまいました。 プロの公式線は16試合しか行われなかったとか。 そして、野球場の解体と共に武蔵野競技場線も廃線になりました。

野球場閉鎖の理由は、都心から遠かったことや、突貫工事に問題があったようですが、一番の原因は「日本の独立」により神宮球場が返還されたことだそうです。

線路は、太宰治で有名な跨線橋のあたりから中央線の支線として分かれていたらしく、いまでも軌道補修の線路として一部残っています。


温故知新、、、う~ん、自分の頭の中の行間を読むと、恐らく、古いものや死んでしまった人も大切にして過去と対話しましょうよ、、、、ってのがあったのかも。

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2012年1月2日月曜日

一歩前に踏み出す

2012年 元旦

孔子は一生涯で一番大事なことを一字で言うならば、『恕(じょ)』であると言っています。

相手の気持ちや考えを十分に理解した上でアクションをとりなさいということです。 コンサルティング・ビジネスの難しいところは、『恕』 だけじゃダメで、『恕』 になった上で、つまり、相手の心になった上で、岡目八目の価値をださないといけないことです。 理解できない相手だって出てきますからね、、、難しい。

若い集団である ibg は、Year of the Dragon どこまで成長するでしょう? 高速にいっぱい失敗して高速に回復し、いつも一歩前に踏み出して欲しいものです。

子貢問曰、有一言而可以終身行之者乎、
子曰、其恕乎、己所不欲、勿施於人

子貢問いて曰く、「一言にしてもって終身これを行なうべきものありや」、
子曰く、「それ恕か、己の欲せざるところは、人に施すなかれ」

子貢が尋ねる、「一言で生涯守るべき信条となる、あるとすれば何でしょうか」 。孔子は言った、「恕だろう。人からされたくないことは、自分からも人にしないことだ」

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2011年11月19日土曜日

下学上達

「養分を吸収する」(11月10日)に関して、台湾のカブちゃんがコメントをくれました。

○●○●○●○●○●○

「子曰、不怨天、不尤人、下学而上達」
(子曰く、天をも怨みず、人をも尤(とが)めず)、下学(かがく)して上達す)。

このスライドを見た時に私の心に浮かんだのは、論語のこの一句です。 時期が来るまで待つということは、口で言うのは簡単ですが、実際には非常にしんどいことだと存じます。 特に私のような凡人は、なかなかうまくいかない時には、愚痴りたくもなりますし、外部環境や他人のせいにもしたくなる。

「下学」の意味の解釈は色々あると思うのですが、そんなしんどい時こそ身近なもの(丁度木の根の周りに書いてあるようなこと)に学び続けてこそ、人間はじめて上達や成長がある(幹や根が太くなっていく)ということだと思います。 また、この後「知我者其天乎」(我を知る者はそれ天か)と続くのですが、要は、自分で自分を信じて前に進むしかないのだと思います。

○●○●○●○●○●○

いつものことですが、カブちゃんには頭が下がります。 コンサルタント業務の上に居酒屋経営、そして、台湾大学の大学院生と八面六臂の活躍です。

「下学上達」なんて何十年も聞いていない言葉です。 地道に実践を積んでいくってことでしょう。 自分で考えてみるということでもある。でないと上達しない。

評価は自分じゃない、周り(天か?)がすることで、結果は後からついて来るって事じゃないですかね? 福沢諭吉 「学問のすすめ」の「十七編 人望論」に通じるところもあるかも知れない。 最近よく「私なりに一生懸命やっています」って聞きます。 総理大臣までが言っています。「自分で評価してどうするんだよ!」と言いたい。

カブちゃんが言うように、自分を信じるしかないんだろうと思います。それが「四十にして惑わず(不惑)」(今の時代だったら五十くらい?)、50才くらいでやっと惑いがなくなる。 ツリーの絵は「下学するには養分を吸収する根を張ることが重要」だと言いたいのです。 根を張らないで知識やテクニックだけをつけても、四十になっても五十になっても迷い続ける。 天命を知る事にならない。(注:二十代や三十代は知識やテクニックの比重は高い)。 「上達」は時間がかかってしんどいことだから、養分吸収の根の張り方が重要でしょう。


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2011年10月9日日曜日

ワーク・ライフ・バランスの意味

今日のJR三鷹駅前

数日前、「Work-life balanceは配慮ということだ」と書きました。

実はWork-life balanceって、孔子の「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」でもあります。日本人は、会社のような組織に属している場合、協調性と言って表面だけ和している人たちが多い。それは「同じて和せず」ということです。 つまり、付和雷同ということなのです。

Work-life balanceと言うのは、人は誰一人として同じじゃない、一人ひとり別々の個性があるということを前提に、自分の個性を殺さず相手に配慮しながら共通の目的(vision)に向かうということです。 「仕事と生活の調和」なんて利己的なことだけじゃないですね。

http://ibg-kodomo.blogspot.com/2010/12/blog-post_13.html

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2011年9月24日土曜日

プロフェッショナルがいなくなる

今朝の武蔵野の空

昔の日本は、仕事の中に生き甲斐を見つけるとか、より難しい問題に取り組んだり、一層高いレベルに到達することを目標としていたようなところがありました。 でも、今の日本を見ていると、仕事に対する考え方が少し違うのかなと思ってしまいます。 仕事に生き甲斐を感じるのは、ラーメン屋さんの湯切りの姿くらい? ちょっと言い過ぎですか?

プロフェッショナルって、自分に満足することなく、常により高いレベルに達することを徹底的に追究する人たちです。仕事ができるようになると、より難しいレベルにチャレンジしたくなる。 一つ壁を乗り越えても、また次の壁がやってくる。 また乗り越えようと努力する、いや、努力じゃなくて、その過程に生き甲斐を感じて楽しむ。それがプロフェッショナルの道です。

「学問を積み重ねてこれを知っているという人も、知ることが大好きだという人には及ばない。しかし、知ることが好きだという人も、楽しんで学んでいる人には及ばない」(「子曰、知之者不如好之者。好之者不如楽之者」論語)。

プロフェッショナルは楽しみながらやっている人の中から生まれる。 楽しめる事を見つけることは重要です。 見つかるまで時間がかかるかもしれない。 でも、それは決して無駄な時間じゃない。


追)新卒一括採用なんて半年のバカ騒ぎで一生を決めるようなことは今直ぐにでもやめた方がいいですね。 本当のプロフェッショナルがいなくなっちゃいます。

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2011年6月30日木曜日

学生のための人生設計 ~ 自分の人生は自分で決める

大事なことは、先ずは、どういったオプションがあるのかを確認することです。 色んな人の人生を参考にするのもいいと思います。 具体的に、中長期的な計画をたてても、大抵はその通り行かないものです。 そもそも戦略なんて、臨機応変に見直す必要があります。 外部環境も自分も変化するからです。

孔子は、論語(為政篇)で以下のように言っています。

子曰、吾十有五而志乎學(志学)、三十而立(而立)、四十而不惑(不惑)、五十而知天命(知命)、六十而耳順(耳順)、七十而従心所欲、不踰矩

孔子は特別な人だし、今の日本人は長生きしますから、以下のように変更しました(勝手に変更するなんて失礼な話ですね、、、)。


孔子は思想家として30才で一人前になったようですが(而立)、我々凡人は40才くらいまでは修行です。 20代は自分自身の修行で、 30代はチームで仕事をしたり、管理職としての修行です。 不惑の40は意味深長ですね。 アメリカでよく言われる「midlife crisis」です。 「一回きりだと思って、くだらない過ちを犯すな」ということ、つまり、金銭的なこと、異性関係など、余計なことに惑わされるなということです。

50で天命を知るほど人格者ではないので、ささやかでも楽しい人生が送れているかが重要だと思います。 それは仕事であったり私生活であったりです。 60才になるまで自分の人生を自分で決めてこなかった場合、60代以降の人生はかなり苦しくなるでしょうね。

ビジョンなんて、実現できるかどうかは定かではありませんが、社会人になる頃に、自分の人生のビジョンを持っておいたほうが賢明だと思います。 「アンタどうなのさ?」と言われても、私はそんなもの持っていませんでした。 ただ何となく日本脱出を考えていただけでした。

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2011年5月1日日曜日

プロジェクト管理ということ

論語に「君子不器(くんしふき)」と言うのがあります。以前、このブログでも言及したことがありましたっけ?

私は、この「器」というのは英語で言う「function(ファンクション)」だと思っています。 「縦割りの機能」と言うことです。君子たるもの、ひとつの機能(部門または専門分野)だけではダメで、「process(プロセス)」で考えなさいと言っているのでしょう。

プロジェクト管理とは、幅広く考える。先を考える。統合して横断的に考える。うーん、なかなか難しいですね。プロジェクトも、企業も政府も、そして、個人の人生も同じですね。

http://ibg-kodomo.blogspot.com/2010/07/blog-post_9713.html

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2010年12月13日月曜日

日本人の付和雷同、アメリカ人のチームワーク

学校で「協調性がない」と言われたら?

喜びましょう。

逆に、幼稚園や小学校の先生から、「お子さんは、協調性があってよい子ですよ」と言われたら、危機感を感じたほうがいいかもしれません。

「協調性」って注意を要する言葉です。

日本の学校や会社組織では、「協調性」が重要視され、「和」がチームワークの基本であるかのように言われます。しかし、「和」とは、自分の主体性を堅持しながら他の人と協調することなのです。学校の先生を含む多くの日本人は、この「和」の意味を誤解していると思います。「和」の前提は、個人の主体性です。主体性がないと「同じる」ことになる。つまり、「付和雷同」というわけです。

これが、孔子の言うところの「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」(君子和而不同、小人同而不和)の意味するところなのです。夏目漱石は、主体性を軽視して西欧に迎合した明治時代の日本を死ぬまで憂いたのでしょう。
http://ibg-kodomo.blogspot.com/2010/02/blog-post_05.html (夏目漱石の「自己本位」に関する過去のブログ)。

仕事をする上でチームプレーヤーであるかどうかは重要な点です。だから、就職の面接で「チームプレーヤーだと思いますか?」と言うのはよく聞かれる質問です。しかし、「チームワーク」に関しても、「協調性」や「和」と同じで、多くの日本人の認識は、少しばかり世界とギャップがあるように思います。

「チームワーク」というのは、チームメンバーが同じて和せず、つまり、メンバー全員が単に協調することではありません。本当の協力や協調というのは、一人ひとりが自分の個性を尽くして、同じ目的を貫くということです。個性や技量は違っても(それぞれに「技がある」ことは大切ですが、、)、同じ目的のために全力を尽くすということであって、だから、ベクトルを合わせるために、または、わかり易くするために「Vision(ビジョン)」が重要になってくるわけです。

日光東照宮 御本社の屋根

(「Vision」と「チームワーク」がしっかりしていたので、日光東照宮は完成したのでしょうね)


「付和雷同」の意味:

自分にしっかりとした考えがなく、他人の言動にすぐ同調すること。「付和」は定見をもたず、すぐ他人の意見に賛成すること。「雷同」は雷が鳴ると万物がそれに応じて響くように、むやみに他人の言動に同調すること。「雷同付和らいどうふわ」ともいう。「付」は「附」とも書く。

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