“Men Are People, Women Are People”: Fukuzawa Yukichi’s Unfinished Revolution
Associate Director of Georgia Tech Center for International Business Education and Research
December 18, 2025
論文の要約
彼は「男も人間、女も人間」と明言し、平等とは同一化ではなく、道徳的責任を男女に等しく課すことだと考えました。『日本男子論』では、日本の男女問題の根源は女性の地位ではなく男性の私的行動にあると断じ、一夫多妻や妾制度を男性の特権として批判した。福沢諭吉にとって平等とは女性を引き上げることではなく、男性が自らの特権を引き受け直すことを意味していました。
福沢諭吉再考 ~ 私の感想
福沢諭吉のこの考え方は、実は現代の日本社会にもそのまま当てはまるのではないかと思いました(Unfinished Revolution)。日本では法律や制度の上では男女平等がかなり進みましたが、家庭や職場の日常に目を向けると、「空気」や「暗黙の役割分担」の中に、形を変えた不平等が残っているように感じます。
たとえば、育児や介護、職場での気配りや感情面のフォローといった、いわゆる「見えにくい労働」は、今でも女性に多く委ねられがちです。一方で男性は、「手伝う側」「サポートする側」にとどまっている場面も少なくないのではないでしょうか。福沢が鋭く指摘したのは、こうした不平等が法律や理念の問題というよりも、日々の振る舞いや生活習慣の中で繰り返し作られている、という点でした。
彼にとって平等とは、スローガンを掲げることではありませんでした。私生活の中で自分を律し、責任を引き受けること――とくに男性が、自分に与えられてきた無自覚な特権と向き合うことが不可欠だと考えていたのです。現代の日本が本当に問われているのも、女性を「支援する」姿勢そのものではなく、男性が自らの立ち位置を見直す覚悟なのではないか、そんなことを考えさせられました。
ここからは少し言いにくい点ですが、男性の私だからこそ、あえて書いておきたいことがあります。女性の側もまた、知らず知らずのうちに「被害者である立場」に安住してしまっている部分はないでしょうか。福沢諭吉が示したような、「責任をどう引き受けるか」という男女平等の視点は、日本のフェミニズムの議論の中で、十分に参照されてきたのか疑問に感じます。
とくに、日本でフェミニズムを牽引してきた知識人――たとえば上野千鶴子氏のような存在が、福沢の議論、つまり「不平等の根源を女性の被害ではなく、男性の道徳的な甘さや私的行動に見た視点」を、どこまで真剣に受け止めてきたのかは、検証されるべき問いだと思います。
日本のフェミニズムの議論には、被害者意識を出発点とする構造が強く見られるように感じます。それは抑圧を可視化するという点では大きな意味がありますが、その枠組みが固定化してしまうと、「男性=加害者、女性=被害者」という単純な対立から思考が始まり、そこで終わってしまう危うさもはらんでいます。
福沢諭吉が最も警戒していたのは、まさにそうした「道徳的な免罪符」が再生産されることでした。彼の平等論は、被害の正当性を競う思想ではありません。むしろ男性に対して、自分の特権を自覚し、日常生活の中で自制と責任を引き受けるよう、厳しく求めるものでした。しかもそれは、今から150年も前の明治時代に提示された考え方です。
福沢にとって平等とは、声高に権利を主張することではなく、行為と責任が一致しているかどうか、つまり「知っていることを実際に行う」こと――知行合一によってしか成立しないものでした。もし日本のフェミニズムが、制度批判や言葉の闘争に重心を置くあまり、日常の行動規範や私的領域での倫理の改革に十分踏み込めなかったのだとすれば、それは結果として、日本独自に変質したフェミニズムを生んでしまった可能性もあるのではないでしょうか。
福沢諭吉の思想は、女性を救済する物語ではありません。男性に重い責任を背負わせる思想です。その厳しさゆえに、現代のフェミニズム論は彼の問いを正面から引き受けてこなかったのかもしれません。しかし、日本のフェミニズムが次の段階へ進むためには、「被害から始まる思考(被害者意識)」ではなく、「責任から始まる思考」へと転換する必要があるように思います。
その問いを、福沢諭吉はすでに150年前に、私たちに突きつけていたのです。
福沢諭吉のこの考え方は、実は現代の日本社会にもそのまま当てはまるのではないかと思いました(Unfinished Revolution)。日本では法律や制度の上では男女平等がかなり進みましたが、家庭や職場の日常に目を向けると、「空気」や「暗黙の役割分担」の中に、形を変えた不平等が残っているように感じます。
たとえば、育児や介護、職場での気配りや感情面のフォローといった、いわゆる「見えにくい労働」は、今でも女性に多く委ねられがちです。一方で男性は、「手伝う側」「サポートする側」にとどまっている場面も少なくないのではないでしょうか。福沢が鋭く指摘したのは、こうした不平等が法律や理念の問題というよりも、日々の振る舞いや生活習慣の中で繰り返し作られている、という点でした。
彼にとって平等とは、スローガンを掲げることではありませんでした。私生活の中で自分を律し、責任を引き受けること――とくに男性が、自分に与えられてきた無自覚な特権と向き合うことが不可欠だと考えていたのです。現代の日本が本当に問われているのも、女性を「支援する」姿勢そのものではなく、男性が自らの立ち位置を見直す覚悟なのではないか、そんなことを考えさせられました。
ここからは少し言いにくい点ですが、男性の私だからこそ、あえて書いておきたいことがあります。女性の側もまた、知らず知らずのうちに「被害者である立場」に安住してしまっている部分はないでしょうか。福沢諭吉が示したような、「責任をどう引き受けるか」という男女平等の視点は、日本のフェミニズムの議論の中で、十分に参照されてきたのか疑問に感じます。
とくに、日本でフェミニズムを牽引してきた知識人――たとえば上野千鶴子氏のような存在が、福沢の議論、つまり「不平等の根源を女性の被害ではなく、男性の道徳的な甘さや私的行動に見た視点」を、どこまで真剣に受け止めてきたのかは、検証されるべき問いだと思います。
日本のフェミニズムの議論には、被害者意識を出発点とする構造が強く見られるように感じます。それは抑圧を可視化するという点では大きな意味がありますが、その枠組みが固定化してしまうと、「男性=加害者、女性=被害者」という単純な対立から思考が始まり、そこで終わってしまう危うさもはらんでいます。
福沢諭吉が最も警戒していたのは、まさにそうした「道徳的な免罪符」が再生産されることでした。彼の平等論は、被害の正当性を競う思想ではありません。むしろ男性に対して、自分の特権を自覚し、日常生活の中で自制と責任を引き受けるよう、厳しく求めるものでした。しかもそれは、今から150年も前の明治時代に提示された考え方です。
福沢にとって平等とは、声高に権利を主張することではなく、行為と責任が一致しているかどうか、つまり「知っていることを実際に行う」こと――知行合一によってしか成立しないものでした。もし日本のフェミニズムが、制度批判や言葉の闘争に重心を置くあまり、日常の行動規範や私的領域での倫理の改革に十分踏み込めなかったのだとすれば、それは結果として、日本独自に変質したフェミニズムを生んでしまった可能性もあるのではないでしょうか。
福沢諭吉の思想は、女性を救済する物語ではありません。男性に重い責任を背負わせる思想です。その厳しさゆえに、現代のフェミニズム論は彼の問いを正面から引き受けてこなかったのかもしれません。しかし、日本のフェミニズムが次の段階へ進むためには、「被害から始まる思考(被害者意識)」ではなく、「責任から始まる思考」へと転換する必要があるように思います。
その問いを、福沢諭吉はすでに150年前に、私たちに突きつけていたのです。
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