(ChatGPT生成のイメージ)
紙とペンの時代も、AIの時代も変わらない。
思考とは、取捨を決断する行為である。
BBC News 2025/12/20
https://www.bbc.com/news/articles/cd6xz12j6pzo
Are these AI prompts damaging your thinking skills?
George SandemanBBCは最近、生成AIの利用が人間の思考力や学習能力に与える影響について、興味深い記事を掲載しました。MITなどの研究によれば、AIを使って文章を書く人は、脳の認知活動が低下し、自分が書いた内容を十分に説明できなくなる傾向が見られたといいます。成果物の質は上がる一方で、学びや理解はむしろ浅くなる可能性がある――それがこの記事の核心でした。
この問題は、単なる新技術への不安ではありません。「人は考えることを、どこまで道具に委ねてよいのか」という、学問と教育の根幹に関わる問いです。そしてこの問いは、150年前にすでに福沢諭吉が投げかけていました。
その前に、まず生成AIが何をしているのかを、できるだけ平易に整理しておきたいと思います。
現在使われている生成AIの多くは、LLM(大規模言語モデル)と呼ばれる仕組みに基づいています。これは、人間のように意味を理解したり、価値判断を下したりしているわけではありません。膨大な過去の文章データを学習し、「この言葉の次には、どの言葉が来る確率が高いか」を計算し続けているにすぎません。
つまりAIは、「正しいか」「重要か」「信じるべきか」といった判断をしているのではなく、もっともらしい文章を確率的に並べているだけです。そこには問題意識も、ビジョンも、責任も存在しません。それにもかかわらず、人は流暢で整った文章を前にすると、「考えている」「理解している」と錯覚し、その出力を無批判に受け取ってしまいがちです。
ここに、AI時代の本質的な危うさがあります。
福沢諭吉は『学問のすすめ』の中で、学問とは単なる知識の吸収ではないと明確に述べました。とりわけ第十五編で語られる「事物を疑って取捨を断ずる事」という言葉は、学問の核心を突いています。何を信じ、何を捨てるかを、自分の頭で判断すること。それが学ぶという行為であり、独立した個人の条件だと福沢は考えました。
福沢自身、江戸時代の武士として生まれ、明治という激動の時代を生き、欧米を自らの目で見て回りました。漢学から出発し、オランダ語、英語へと学びを広げ、異文化との衝突の中で思考を深めていった人物です。だからこそ、権威や流行をそのまま信じることの危うさを、誰よりも知っていました。
AIは、まさに「取捨を断ずることができない存在」です。AIは疑いませんし、選びません。選別しているように見えても、それは価値判断ではなく計算結果です。にもかかわらず、その出力に判断を委ねてしまうとき、人間は自らの知性を手放すことになります。
この構図は、実は日本の戦後教育とよく似ています。
戦後の日本の教育は、「正解を覚えること」「空気を読むこと」「与えられた枠組みに従うこと」を重視してきました。問いを立てる力や、疑い、比較し、選び取る力は、必ずしも歓迎されてきたとは言えません。納得するまで質問する子供よりも、要領よく答えを書く子供の方が評価される。その積み重ねの中で、「取捨を断ずる知性」は育ちにくくなっていきました。
そこへ登場したのが、AIという「答えを即座に出してくれる道具」です。戦後教育が生んだ「正解依存」の体質と、生成AIの仕組みは、驚くほど相性が良いのです。考えなくても、それらしい答えが手に入る。しかも、誰かに叱られることもありません。その結果、「成果は良くなるが、学びは悪くなる」という状況が、教育の現場でも静かに進行しています。
福沢諭吉は、『学問のすすめ』の最後で「我々学者が勉強しなければならない」と述べています。この言葉は、現代では「大人こそが学ばなければならない」という警告として読むべきでしょう。政治家も、教育者も、親も、まず自らが考え、疑い、選び取る姿勢を持たなければ、子供にそれを求めることはできません。
AIを使うこと自体が問題なのではありません。問題なのは、考える主体をAIに明け渡してしまうことです。
150年前の福沢諭吉が説いた「取捨を断ずる力」は、AI時代の今日、かつてなく重みを増しています。便利さの陰で失われつつあるこの力を、教育の現場で、そして社会全体で、もう一度取り戻す必要があるのではないでしょうか。
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