ラベル 福沢諭吉 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 福沢諭吉 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2026年3月16日月曜日

キャリアとは何か ― パンくずとトレードオフでできている

 
ROAトレードオフ


アメリカで働いていた頃、キャリアの考え方が日本とはずいぶん違うことに気づきました。


日本では、まず「どの会社に入ったか」がキャリアの出発点になります。いわば会社が主語です。ところがアメリカでは、主語はあくまで個人です。会社は自分のキャリアを実現するための一つの舞台にすぎません。どちらが正しいという話ではありませんが、この違いは思った以上に大きい。

キャリアというものを、童話『ヘンゼルとグレーテル』に出てくるパンくずに例えて考えるということを聞いたことがあります。二人は森で迷わないように、歩きながらパンくずを落としていきました。英語ではこのパンくずを breadcrumb と呼び、キャリアの道筋を示す比喩としても使われます。

人は後になって振り返ったときに、自分の歩いてきた道が見えるものです。どんな仕事を選び、どんな経験をし、どんな人と出会ったのか。その小さな選択の積み重ねが、一つの道筋になっていきます。

キャリアとは単なる職歴ではありません。

人がどんな仕事を選び、どんな経験をし、どんな人と出会ってきたのか。その積み重ねが、その人の人生そのものになるのだと思います。

日本では、会社に入ること自体がキャリアの中心になります。営業になるのか経理になるのか、本人が決めるわけではなく、組織の中で役割が決まる。高度成長期にはそれでよかったのかもしれません。しかし今の時代、その構造だけで人生を預けるのは少し危うい気がします。

私は、キャリアとは「会社に合わせて生きること」ではなく、「人生の中に会社をどう位置づけるか」だと考えています。極めて当たり前のことだと思います。会社は人生の重要な舞台ではありますが、それが人生そのものではありません。家庭や地域社会、あるいは自分の教養や人間関係も含めて、すべてがキャリアの一部です。

そのキャリアを考えるとき、避けて通れないのが「トレードオフ」です。人は欲しいものをすべて手に入れることはできません。何かを選べば、別の何かを諦めることになります。

例えば、海外での経験を取るのか、日本での安定した就職を取るのか。専門を深めるのか、それとも別の分野に挑戦するのか。ある選択をした瞬間に、別の可能性を手放すことになる。このとき失われた可能性の中で最も価値の高いものを「機会費用」と呼びます。

ビジネスの世界でも同じです。経営学では、こうした選択を「トレードオフ」として説明します。

レストランをやるなら、回転率で勝負する立ち食い蕎麦屋にするのか、それとも高付加価値のフランス料理店を目指すのか。どちらでもいいのですが、どちらつかずの曖昧な商売はうまくいきません。

ビジネススクールでは、これを ROAトレードオフとして説明します。
ROA(総資産利益率)は「利益 ÷ 資産」で決まります。利益率を高めるか、回転率を高めるか。多くの場合、この二つはトレードオフの関係にあります。

つまり、高級フレンチのように利益率で勝負するのか、立ち食い蕎麦のように回転率で勝負するのか。戦略はどちらでもいいのですが、中途半端はうまくいかない。

アメリカではこういう意思決定の考え方を、中高生の段階から学校で教わります。日本の会社で働いていると、こうした発想を体系的に教わる機会はあまり多くないように感じます。

キャリアも同じで、自分がどこに軸を置くのかを考える必要があります。

そしてもう一つ重要なのがリスクです。

将来を正確に予測することは誰にもできません。だからこそ、ある程度のリスクを引き受けて意思決定をする必要があります。リスクという言葉は日本では「危険」として語られがちですが、本来は「機会」でもあります。リスクを取らなければリターンも生まれません。

若い頃は専門分野を徹底的に磨くことが大切です。しかし、ある年齢になると、もう一段上の視点が求められます。私はよく「君子不器」という言葉を思い出します。優れた人物は一つの器に閉じ込められない、という意味です。スペシャリストとしての経験を土台に、やがてゼネラリストとして人や組織を見る力が求められるのです。

振り返れば、キャリアは最初から設計図どおりに進むものではありません。むしろ後になって、「あのときの選択が次につながっていた」と気づくことのほうが多い。森の中に落としたパンくずのようなものです。

結局のところ、キャリアとは一生「普請中」なのだと思います。何度も迷い、何度も選び直しながら歩いていくしかない。

最後に思い出すのは、福沢諭吉の言葉です。

「一身独立して一国独立す」。

自分の人生の運転席に座るのは、会社でも政府でもなく、自分自身なのです。

***

2026年3月12日木曜日

「際」を生きるということ ―― 福沢諭吉 と「迷子になる勇気」

 

私の人生に大きな影響を与えた日本人の一人が、

福沢諭吉です。

福沢の人生を眺めていると、あることに気づきます。どこかで聞いたこともあります。彼は、ある意味で 「際(きわ)」に立って生きた人でした。

福沢諭吉が生きた「際」

福沢の人生を並べてみると、すべてが境界の上にあります。
  • 武士の時代 → 明治国家
  • 漢学 → 蘭学 → 英学
  • 封建社会 → 市民社会
  • 日本 → 西洋
彼の人生は、常に世界の変わり目 にありました。

福沢自身が書いていますが、蘭学を学ぶために長崎へ行ったとき、彼は気づきます。世界はオランダ語ではなく、英語で動いている。

そこで彼は迷わず方向を変えます。大胆な意思決定です。

つまり福沢は、最初から確信を持っていた人ではありません。
むしろ 現実を見て、方向を変え続けた人でした。

「迷子になる勇気」

私は『迷子になる勇気』という本を書きました。
後から考えてみると、この感覚は福沢の思想にかなり近いのではないかと思います。

福沢の有名な言葉があります。

天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず

これは単なる平等論ではありません。

本当の意味は
自分で考えろということです。

そして自分で考えるためには、ときには既存の道を外れる必要があります。

つまり、『迷子になる勇気』です。

日本思想の面白さ

ここで少し面白いことがあります。

西洋の思想は、多くの場合
体系(システム) を作ります。

しかし日本の思想は、むしろ

境界に立つ人から生まれることが多い。
例えば
  • 空海
  • 本居宣長
  • 福沢諭吉
  • 夏目漱石
  • 新渡戸稲造
  • 小林秀雄
この人たちは皆、どちらの世界にも完全には属していません。
だからこそ、世界の矛盾が見えたのだと思います。

私もずいぶん迷子になってきました

自分の人生を振り返ると、
私もまた境界の上を歩いてきたように思います。

言い換えれば、
私もずいぶん迷子になってきました。

仕事や生活の場としては
  • 日本(地方都市と東京)
  • 中国
  • アメリカ
三つの世界を経験しました。

しかも、アメリカのITやコンサルティング会社という
大きな組織の中でです。

これはある意味で
文化の境界線でした。

さらに考えると、私は
  • 技術
  • ビジネス
  • 歴史
  • 思想
そうした分野の境界にも立ってきたと思っています。

境界に立つ人には、一つの特徴があります。

違和感を感じることです。

そしてもう一つあります。

境界に立つ人は、どこにも完全には属さないため、少し孤独になります
授業をサボって喫茶店にいる時のように。

その結果、人は次のどれかを始めます。
  • 研究する
  • 思想を作る
  • 書く
福沢は『学問のすゝめ』を書きました。

私はそんな立派なことができる人間ではありません。
研究ができるほど忍耐力もありません。

ただ、自分の人生で経験してきたこと、考えてきたことを、
忘れてしまう前に少しずつ書き残しているだけです。

小さな檸檬

私が好きな短編があります。

梶井基次郎の『檸檬』です。

この作品もまた、境界の文学です。
  • 都市と個人
  • 近代と感覚
  • 憂鬱と解放
その境界に主人公は立っています。
そして彼は世界を変えようとはしません。

ただ、檸檬という小さな爆弾を置いて立ち去る。

文章を書くこと

私が文章を書き続けている理由も、
たぶんそれに近いのだと思います。

世界を変えることはできません。
あと10年以内に死んでしまう確率が高い。

しかし、日本の歴史や社会、教育や主体性について、
読んだ人が 少しだけ違う角度から考える きっかけになればいい。

それで十分です。

それはきっと、
小さな檸檬だからです。

私の愛車である
黄色のコペンのように。

***

2026年3月4日水曜日

AI時代における「成長を阻む5つの壁」 ――主体を失わないために

 

2月19日にUPした「成長を阻む5つの壁」を修正しました。

AI時代における「成長を阻む5つの壁」

――主体を失わないために


成長が止まるだけではない。
主体を手放せば、人は静かに退化する。


かつて「成長を阻む壁」とは、変化を拒む人間の内面的抵抗でした。
問題を認めない。判断を先送りする。行動しない。続かない。

しかし2026年、壁の正体は少し変わりました。

いま私たちの前にあるのは、
AIという強力な参謀の存在によって、主体を静かに手放してしまう危険です。

AIは敵ではありません。
むしろ、極めて有能な補助者です。

問題はただ一つ。
それでも自分が主体であり続けられるか。

主体とは何か。

私はこう定義します。

主体とは、便利さよりも自分の判断を選ぶ意志である。

その意志が弱まるとき、人は成長を止めます。

第1の壁 認識の壁
――「自分は主体でいる」と思い込む


AIは文章を書き、整理し、要約し、提案します。
気づかないうちに、思考の一部を委ねています。

しかし多くの人はこう言います。
「最終的には自分が判断している」と。

本当にそうでしょうか。

問いの立て方がすでにAI依存になっていないか。
選択肢の幅がAIの提示範囲に限定されていないか。

最初の壁は、
主体が少しずつ侵食されていることへの無自覚です。


第2の壁 判断の壁
――「AIがそう言うなら」と結論づける


AIはもっともらしい答えを出します。
整っている。速い。合理的。

だからこそ危うい。

検証しない。
反対仮説を考えない。
前提を疑わない。

判断とは、本来、
不完全な情報の中で責任を引き受ける行為です。

それを「AIが推奨したから」と外部化した瞬間、
主体は一歩後退します。


第3の壁 納得の壁
――「考えなくて済むのは楽だ」と合理化する


AIは思考の負荷を軽減します。
それは大きな恩恵です。

しかし恩恵は、筋力を奪うこともあります。

速い理解。
簡単な結論。
深掘りしない納得。

知性は、負荷をかけることで鍛えられます。
考え抜く時間を削ることは、主体の筋肉を削ることでもあります。

ここで問われるのは能力ではなく、意志です。

楽を選ぶか。
自分で考える不便を選ぶか。


第4の壁 行動の壁
――「AIを使っている」と言って安心する


「生成AIを導入した」
「DXを進めている」

技術導入は成果ではありません。

問いの質は変わったのか。
判断基準は磨かれたのか。
責任の所在は明確か。

AIを使うことと、主体的に決断することは別問題です。

行動の壁とは、
便利な仕組みを整えたことで、自分が変わったと錯覚することです。


第5の壁 継続の壁
――主体であり続ける努力をやめる


AIは人間より速く書き、広く調べ、整然とまとめます。
その能力は今後も向上します。

だからこそ、問いは厳しくなります。
それでもなお、

最終判断を引き受けるか。
意味づけを自分で行うか。
責任を外部化しないか。

主体でいることは、
一度の決意では足りません。

続ける意志が必要です。


主体とは何か

ここで原点に戻ります。
主体とは、

問いを立てること
判断を引き受けること
意味を与えること
結果に責任を持つこと

そして何より、

便利さよりも、自分の判断を選ぶ意志を持つことです。

これは新しい思想ではありません。

学問のすすめで、福沢諭吉は

「取捨を断ずること」の重要性を説きました。

情報があふれる中で、
何を取り、何を捨てるかを自ら決める。

それこそが福沢諭吉が言った独立の条件でした。

21世紀においても同じです。

AIが情報を整理してくれる時代において、
取捨を断ずる主体を失えば、
人は思考の主権を手放します。


結論

2026年の成長とは、
AIを使いこなすことではありません。

AIが高度化するほど、
人間の価値は「主体であり続ける意志」に集約されます。

速さではない。
便利さでもない。

主体を失わないこと。

それが、AI時代における成長の条件です。

そして成長を阻む最大の壁は、外部環境ではなく、
便利さに流される自分自身の内側にあります。


***

2026年2月3日火曜日

子育ては一生続く。でも、干渉は一生いらない

子育てを考えるとき、私はいつも「起業」との共通点を思い浮かべます。

どちらも、成果は枝葉や果実として目に見える形で現れますが、本当に重要なのは、目に見えない「土壌」と「根」です。どんな養分や水分を、どの程度与えるのか。そして、どこで手を止め、成長を待つのか。その判断ひとつで、木の育ち方は大きく変わります。


子育てと起業に共通するのは、「育てる」ことではなく「育つ環境を整える」ことです。過度な養分や水分は、かえって根を弱らせてしまいます。

私の愛犬チャーリーは、正直に言って躾に失敗しました。

かわいい、かわいいと可愛がりすぎ、必要な距離を取らなかった結果です。叱るべき場面でも感情を優先し、こちらの都合よりも「まあいいか」を選び続けた。そのツケは、すべて飼い主である私に返ってきています。

一方で、息子はまったく逆でした。

親としては自由に育てたつもりですが、結果としては少々自立しすぎたきらいがあります。頼られることも少なく、拍子抜けするほどです。犬と息子を並べて考えるのは妙な話ですが、関わり方ひとつで、ここまで結果が違うのかと考えさせられました。

子育ては、おそらく自分が死ぬまで続くのだと思います。ただしそれは、死ぬまで子どもに干渉し続けるという意味ではありません。むしろ逆で、親がどう生きるか、その姿そのものが、子どもにとって最大の教材になるのではないでしょうか。

人間も動物です。情愛そのものに大きな違いはありません。しかし福沢諭吉は、人間と動物の違いを「相手に対する敬意」だと言いました。情愛だけでなく、敬意をもって相手を見ること。そこに、人間の教育の本質があるのだと思います。

情愛や敬意を欠いた子育てが続けば、社会正義は機能しなくなり、卑怯者ばかりが量産されてしまいます。私は息子が納税者になったとき、「これで親の務めは終わった」と正直ほっとしました。しかし福沢は容赦なく言います。子を生み、養い、教え、一人前の人間として社会に送り出して初めて、親の名に恥じないのだと。

シリコンバレーのパロアルトの飲茶レストランで、さまざまな訛りの英語が飛び交う光景を目にしたことがあります。インド訛り、中国訛り、韓国訛り、あらゆる英語が飛び交っていました。そこに、日本語訛りの英語はほとんど見当たりませんでした。日本人がいないわけではない。しかし選手層が薄く、存在感が出ないのです。

日本という社会は、テーマパークのようです。サファリパークと言ってもいい。安全で、親切で、居心地はいい。しかし、その中で過保護に育った人間は、ジャングルのような現実世界では目立ちません。世界には多様な「優秀さ」があるという事実を、親自身がまず理解しておく必要があると思います。

論語にある「切磋琢磨」という言葉も、私は少し違った意味で受け取っています。学ぶ側の努力というより、教える側への戒めではないか。素材を見極め、無理に削らず、的確に磨く。料理で言えば、素材に合った調理法です。流行の教育論や、誰かの成功体験を、そのまま我が子に当てはめる危うさを、親はもっと自覚すべきでしょう。

日光東照宮の三猿の彫刻を思い出してください。
子育てとは人生全体を見通す営みなのだと教えています。子育て、成長、挫折、友情、旅立ち。人生は順番通りには進みませんし、挫折は何度も訪れます。親ができるのは、転ばせないことではなく、転んだときに立ち上がる力を信じることではないでしょうか。

子育てにおける最大の敵は、「知らないこと」ではありません。「知ろうとしないこと」です。事勿れ主義は、親にとっては楽ですが、子どもも同じように育ってしまいます。独立自尊の個人とは、不安定で壊れやすい存在です。だからこそ、自信と自尊心を日々更新し続ける必要があります。その覚悟を、親自身が生き方で示すしかありません。

福沢諭吉は、まず身体を鍛えよと言いました。

獣のような身体をつくり、後で人の心を養えと。健康を管理できない人間は、社会人としても自立できません。子育てとは、知識を詰め込むことではなく、生き抜くための土台を整えることなのだと思います。

子育ては、起業とよく似ています。

種を蒔き、土壌を整え、あとは自然の力に任せる。根を育て、枝葉や果実は、その子自身のものです。親ができるのは、環境を整え、過度に手を出さないことだけです。

チャーリーを見て苦笑し、息子の背中を見て少し寂しくなる。その両方を引き受けながら、私は自分に問いかけざるを得ない。

子どもに何をしたかではなく、自分はどう生きているのか。子育ては一生続く。でも、干渉は一生いらないのだと。
 
福沢諭吉の言葉

福沢諭吉は、130年以上前に、すでに子育ての本質を言い切っていました。

天下の橐駝(たくだ=植木屋)は能く樹木の根を養うてその生力を盛んにし、枝葉花実はその自然の発生に任して各その美を呈せしむるのみ。教育の橐駝、果たしてここに見る所あるや否や。

(福沢諭吉『教育の方向如何』明治十九年)

***

2026年1月27日火曜日

お金や契約を超えて、人が人を支えるとき ――質の高い人間関係が人生を豊かにする理由

 

人間交際の幅が広く、しかもその質が高ければ高いほど、人生は豊かになる

これは精神論でも理想論でもありません。現実に社会を生き抜いてきた人であれば、誰もが肌感覚として知っていることではないでしょうか。上の図は、そのことを非常に分かりやすく示しています。

左側に描かれているのは「公」の世界です。そこでは、お金や契約書がなければ他者は動きません。合理的で公平ではありますが、関係性は薄く、取引が終われば縁も切れます。現代社会の多くは、この「公」の論理で動いています。

一方、右側の図は「私」を中心とした人間関係の広がりを示しています。相互の「信頼と尊敬(trust & respect)」を土台に、知識や経験が共有され、時には契約書も報酬もなく、自然に手を貸してくれる人がいる。そうしたネットワークの層が厚いほど、人は孤立せず、困難にも耐えられるのです。

「甘え」が成立する場所は、どこへ行ったのか

私は以前、土居健郎の『甘えの構造』を引きながら、次のように書きました。

今の日本は「甘え」の解釈もアヤフヤだし、甘えや友情なんていうのもきわめて薄っぺらで、土居先生が『甘えの構造』で説明している「内」と「外」が曖昧になっていると思います。真の意味で甘える場所がなくなっているのではないでしょうか?

本来、人間関係のコアは家族にあり、その次に友人があり、さらに「楽屋」のような仲間と時間を共有する場があります。楽屋とは、緊張すべきステージとは異なり、失敗も弱さもさらけ出せる場所であり、同時に修練の場でもあります。

ところが今の日本では、ステージと楽屋の境界が曖昧になりました。緊張すべき場では緊張せず、緊張をほぐすための楽屋が存在しない。時間を共有し、成功も失敗も共に経験して友人をつくる手間を省き、SNSの「友達」が友達になったつもりになる――あまりにも安易です。

適度に甘えられる環境は、誰かが用意してくれるものではありません。自分で時間をかけて作るしかないのです。

信頼と尊敬がなければ、ネットワークは育たない

甘えの前提は「trust & respect(信頼と尊敬)」です。相手を尊敬するには、自分自身も尊敬されるよう努力しなければなりません。甘えの過剰は相互依存に堕しますが、健全な甘えは、人を自立へと導きます。親子関係、特に父と息子の関係は、一生をかけた trust & respect 構築のプロセスだと私は思っています。

この視点は、福沢諭吉の言う「人間交際」とも重なります。福沢は教育の要諦として、「智」「徳」そして「人間交際」を挙げました。知識やモラルだけでは不十分で、人と人との関係を築く力こそが文明の基礎だと見抜いていたのです。

映画『ソーシャル・ネットワーク』(2010年)は、その逆説を鮮烈に描いています。世界最大のSNSを作った主人公が、実は最も人間交際が苦手だったという皮肉。承認を求めるあまり、唯一の親友を失っていく姿は、「成功の代償とは何か」「お金より大事な価値とは何か」を私たちに突きつけます。

人間関係は「訓練」であり、「時間」を要する

アメリカのサマーキャンプの話も、人間関係が「訓練」であり、「時間」を要するものだということを象徴的に示しています。

サマーキャンプでは、子どもたちは数週間から数か月、見知らぬ他人と寝食を共にします。異文化交流と自立心の修行の場です。最初は衝突も摩擦も起こります。価値観も習慣も違う。しかし、共同生活のなかで役割分担が生まれ、助け合いが必要になり、喧嘩をしながらも、信頼と尊敬が少しずつ積み重なっていく。友情は、イベントではなく「過程」なのです。

重要なのは、そこに近道がないという点です。人間関係は効率化できません。評価シートもKPIもありません。時間を共にし、失敗を見て、時には我慢し、それでも関係を続ける――その積み重ねの先にしか、質の高いネットワークは生まれないのです。

現代社会は、あらゆるものを「契約」と「成果」で測ろうとします。それ自体は悪いことではありません。しかし、その論理だけで人間関係まで処理しようとすると、社会は極端に脆くなります。少しの失敗、少しの対立で、関係は簡単に切れてしまうからです。

だからこそ、「お金や契約を超えた関係」が人生のセーフティネットになります。困ったときに「契約外だけど、ちょっと手伝うよ」と言ってくれる人がいるか。利害が一致しなくても、「あなたのことは信頼している」と言ってくれる人がいるか。それは、運ではありません。若い頃からの選択と、積み重ねの結果です。

最後に、あえて厳しいことを言えば(高齢者の特徴ですね、、、)、質の高い人間関係を持つには「覚悟」が要ります。時間を差し出す覚悟、面倒を引き受ける覚悟、そして自分自身も評価される覚悟です。楽な道ではありません。しかし、その覚悟を引き受けた人だけが、年を重ねるほどに人生が豊かになっていく。

お金は失えば取り戻せます。契約は更新できます。しかし、信頼と尊敬で結ばれた人間関係は、人生そのものを支える「資本」です。

それを持っているかどうか――
その差は、思っている以上に大きいのです。

***

2026年1月26日月曜日

政治が幼く見える理由――親として考えたい「言葉」と教養の話

 

AIが「答え」を出す時代に、
人間に残されるのは、水面下で育つ力だ。


日本の政治を見て、私が考えていること

母国語の語彙が豊かで、表現の幅が広いほど、思考の空間も広がるのではないか。頭の中に言葉が多く存在すれば、それだけ考えを行き来させる余地が生まれる。逆に、使える言葉が少なければ、思考そのものが平板になってしまう。これは理屈というより、長年生きてきての体感です。

久しぶりに日曜朝の政治討論番組をテレビで観ました。大概は車の中で断片的にラジオで聞くのですが、 テレビで見ると、その酷さがよりはっきりします。 議論以前に、言葉が荒く、感情が表情に表れ、小学校の学級会のような政治家が多い。話している内容以上に、「この人は、どれだけ自分の言葉で物事を考えてきたのだろうか」と、そこが気になってしまったのです。言語は、その人の教養や人格を隠さずに映し出します。

もっとも、私自身も偉そうなことは言えません。語彙や表現力の乏しさに愕然とすることは、今でもあります。ブログを書くという行為は、書き手の力量を容赦なくさらすものです。その覚悟がなければ続けられない。そう思いつつ、 もう若くはありませんから 、今さら取り繕っても仕方がないと開き直って40年以上ぐだぐだと日記を書いています(年寄りは傲慢ですからね、、、、)。

突然に衆議院選挙が始まりました。日本の政治を見ていると、「政治ごっこ」という言葉が浮かぶことがあります。海外で暮らした時間が長かったせいで、私の感覚がずれているのかもしれません。しかし、テレビカメラの前で感情を制御できず、理念よりもその場の受けを優先する姿を見ると、どうしても幼さを感じてしまいます。

その原因の一つは、教養の欠如ではないかと考えています。教養とは単に知識量のことではありません。世界の歴史の流れをどう理解しているか、自分の国が国際社会でどんな位置にあるのか、そして自分自身が国民から何を託されているのかを、どれだけ自覚しているか。それらを含めた「生き方」そのものだと思います。

福沢諭吉は『学問のすすめ』で「人望」について語りました。多くの人から「あの人に任せておけば大丈夫だ」と思われること。それが教養の一つの形ではないでしょうか。権威や肩書きではなく、その人の姿勢や言葉、振る舞いから自然と伝わるものです。

政治と教育は切り離せません。国のビジョンが曖昧なままでは、教育も根を失います。義務教育は、子どもたちに日本人としての自信と希望を持たせる場であるべきだと思います。良いところも、失敗した歴史も、感情論ではなく、きちんと教える。それができなければ、考える力は育ちません。

私は本を読むとき、著者と議論するように読んできました。ページの余白に反論を書き込み、納得できないところで立ち止まる。本と格闘する経験は、思考の基礎訓練になります。討論番組が討論にならないのは、こうした訓練が不足しているからかもしれません。

オルテガは『大衆の反逆』で、凡庸さが権力を握る危険を指摘しました。思想を持たないまま声だけが大きくなり、創造的な少数を敵視する。マス・メディアやSNSが発達した現代では、その傾向はより強まっています。自分で考える努力を放棄した社会は、外からいくらでも誘導されてしまうでしょう。

それでも、私は絶望だけを語りたいわけではありません。教育を通じて、母国語で考える力を取り戻すことは可能だと思っています。AIが普及する時代だからこそ、自分の頭で問いを立て、判断する力が一層重要になります。

日本の政治に違和感を覚えるのは、政治家だけの問題ではなく、私たち自身の問題でもある。そう自戒しながら、これからも考え続けていきたいと思います。上手な答えは出なくても、考えることをやめない。それだけは手放したくありません。

***

2026年1月19日月曜日

なぜ教育は、劣等感を手放せない人を育ててしまうのか ――「理想との距離」では測れないもの

最近、劣等感について「理想の自分と今の自分のギャップが劣等感だ」と説明する文章を目にしました。アドラー心理学に基づく整理であり、劣等感を前向きな成長のエネルギーとして捉え直そうとする姿勢には、一理あると思います。劣等感それ自体は悪ではなく、解釈と行動次第で人生を前に進める力にも、足かせにもなる。事実は一つでも、解釈は無限である、という指摘も納得できます。

ただ、私はこの説明にどうしても引っかかりを覚えます。劣等感を「理想の自分」と「今の自分」の差として一般化してしまうと、見落とされるものがあると感じるからです。


比較しない人生と、「自分の軸」

私はこれまでの人生で、特別に優れた能力を持っていたわけでもなく、運動ができたわけでも、芸術的才能に恵まれていたわけでもありません。容姿もごく普通です。それでも致命的な失敗をせず、高齢者になるまでやって来られた理由を考えると、自分は劣等感も優越感も、人より弱かったのではないかと思うのです。

その理由は単純です。他者と比較して生きてこなかったからです。

中高生の頃の自我の成立に、他者の影響が比較的少なかったのかも知れません。十代の半ばには、すでに自分なりの価値観や人生観、死生観のようなものがありました。それは完成された思想ではありませんが、「自分はこう生きる」という軸のようなものです。通信簿のコメントには、「協調性がない」と共に、「競争心に欠ける」と書かれていました。

この軸があったため、他人の成功や評価を自分の尺度に持ち込まずに済んだ。結果として、「理想の自分」と「今の自分」を常に見比べる必要もなかったのだと思います。

劣等感と優越感は、同じ根から生える

劣等感が厄介なのは、それが個人のマインドを支配してしまうときです。劣等感は、往々にして他者との比較から生まれます。比較が始まると、人は自分の内側ではなく、外側の序列に価値判断を委ねるようになります。

そしてこの構造は、劣等感と優越感を同時に生み出します。どちらも同じ根から生えている感情です。

政治家でトップに上り詰める人たちを見ていると、この「劣等感と優越感の混合物」、つまりコンプレックスに強く支配されている人が少なくありません。総理大臣という地位にまで執着する背景には、理念や使命感よりも、内面の欠落感や承認欲求が透けて見えることがあります。

これは決して珍しい話ではありません。

国家と教育に埋め込まれた「比較の構造」

日本社会全体を見渡しても、この構造は繰り返されています。明治以降、日本は西欧に対する劣等感と優越感の間で揺れ動き、敗戦後はそれがアメリカに置き換わりました。夏目漱石がロンドンで精神を病んだ時代から、ほとんど変わっていません。

国家としての総括や学習を怠り、三百万人以上が亡くなった戦争の原因すら曖昧なまま、記憶喪失のように現代に至っている。この土台の弱さが、個人のコンプレックスを増幅させているように思えます。

福沢諭吉は『学問のすゝめ』で、envy を「怨望」と訳し、これを人間にとって最も害のある徳の欠如だと述べました。他人と幸福の水準を比較し、自分のほうが不幸だと感じたとき、自分を高めるのではなく、他人を引きずり下ろそうとする心。それが怨望です。これは劣等感が歪んだ形で固定化した状態と言えるでしょう。

教育の問題も、ここに直結しています。日本の教育は知識量を重視する一方で、概念を育てる訓練が不足しています。概念とは、世界をどう捉えるかという思考の枠組みです。

これが育たないと、自分の価値観や判断基準を内側に持てず、外部の評価や序列に過剰に適応するしかなくなります。その結果、劣等感と優越感の間をメトロノームのように揺れ続ける人間が量産されてしまう。


同じ条件を与えること(平等)と、同じ結果に到達できるよう条件を調整すること(公平)は、似ているようで本質的に異なる。この図は、教育を点数や順位で比較する仕組みにしてしまうと、子ども一人ひとりの違いや背景が見えなくなり、上位には優越感を、下位には劣等感を同時に生み出してしまうことを象徴的に示している


「未熟さ」を生きるという態度

私はこれまで、「自分は未熟である」という前提で生きてきました。しかし、それは劣等感ではありません。未熟であるという事実を受け入れたうえで、そこに可能性を見るという態度です。

未熟さにコンプレックスを感じる必要はないと思う。未熟であるということは、まだ余白があるということです。楽しめばいいのです。死ぬまで。

劣等感を「理想とのギャップ」として捉える発想は、成長を促す場合もあるでしょう。しかし、それ以前に必要なのは、他者との比較から距離を取り、自分なりの世界観や価値観を持つことです。

劣等感をどう使うか以前に、劣等感に支配されない構造をどう作るか。そこにこそ、教育と個人の生き方の本質的な課題があると、私は考えています。

少し、大げさですかね?

AIという鏡の前で、人間は何を問われているのか

ここで、AIの存在を考えてみる必要があります。AIは、人間よりも速く、正確に、そして大量に「正解らしきもの(ハルシネーション)」を提示します。知識量、処理速度、網羅性――そうした指標で見れば、多くの分野で人間はすでにAIに劣っています。

この事実だけを切り取れば、AIは新たな「比較対象」となり、人間の劣等感を刺激する存在に見えるかもしれません。

しかし、ここでも問題は能力差そのものではなく、「比較の構造」にあります。AIは序列を気にせず、承認も欲しがらず、劣等感も優越感も持ちません。ただ与えられた条件のもとで応答する存在です。

人間がAIに対して劣等感を覚えるとすれば、それはAIとの比較によって、自らを序列の中に置こうとする発想から生じています。

むしろAIの登場は、人間に問いを突きつけています。
「あなたは、何を基準に自分の価値を測っているのか」と。

他者との比較、社会的評価、数値化された成果――そうした外部基準に依存してきた生き方は、AIの前では容易に崩れます。だからこそ、これからの時代に重要になるのは、AIに勝つことでも、AIを恐れることでもありません。比較から自由になり、自分なりの世界観や価値基準を持つことです。

劣等感とは克服すべき欠陥ではなく、自分が何者であり、どこへ向かおうとしているのかを静かに問い返してくる、内なる羅針盤なのかもしれません。

AIという鏡の前に立たされた今こそ、人間はようやく、比較ではなく思想によって生きることを求められているのだと思います。

***

2025年12月21日日曜日

「取捨を断ずる力」を失った教育 ――福沢諭吉とAI時代の学問

(ChatGPT生成のイメージ)

紙とペンの時代も、AIの時代も変わらない。
思考とは、取捨を決断する行為である。

BBC News 2025/12/20

https://www.bbc.com/news/articles/cd6xz12j6pzo

Are these AI prompts damaging your thinking skills?

George Sandeman

2025年12月20日土曜日

被害から始まる平等、責任から始まる平等

 

“Men Are People, Women Are People”: Fukuzawa Yukichi’s Unfinished Revolution

James (Jim) H.
Associate Director of Georgia Tech Center for International Business Education and Research
December 18, 2025
論文の要約

本稿は福沢諭吉を、単なる先進的思想家や時代遅れの人物としてではなく、近代化の過程で日本社会が抱えた道徳的矛盾を直視した思想家として再評価しています。福沢諭吉が問題にしたのは法制度上の不平等ではなく、家庭内や日常生活において男性だけが道徳的規律を免除されてきた構造でした。

彼は「男も人間、女も人間」と明言し、平等とは同一化ではなく、道徳的責任を男女に等しく課すことだと考えました。『日本男子論』では、日本の男女問題の根源は女性の地位ではなく男性の私的行動にあると断じ、一夫多妻や妾制度を男性の特権として批判した。福沢諭吉にとって平等とは女性を引き上げることではなく、男性が自らの特権を引き受け直すことを意味していました。

福沢諭吉再考 ~ 私の感想

福沢諭吉のこの考え方は、実は現代の日本社会にもそのまま当てはまるのではないかと思いました(Unfinished Revolution)。日本では法律や制度の上では男女平等がかなり進みましたが、家庭や職場の日常に目を向けると、「空気」や「暗黙の役割分担」の中に、形を変えた不平等が残っているように感じます。

たとえば、育児や介護、職場での気配りや感情面のフォローといった、いわゆる「見えにくい労働」は、今でも女性に多く委ねられがちです。一方で男性は、「手伝う側」「サポートする側」にとどまっている場面も少なくないのではないでしょうか。福沢が鋭く指摘したのは、こうした不平等が法律や理念の問題というよりも、日々の振る舞いや生活習慣の中で繰り返し作られている、という点でした。

彼にとって平等とは、スローガンを掲げることではありませんでした。私生活の中で自分を律し、責任を引き受けること――とくに男性が、自分に与えられてきた無自覚な特権と向き合うことが不可欠だと考えていたのです。現代の日本が本当に問われているのも、女性を「支援する」姿勢そのものではなく、男性が自らの立ち位置を見直す覚悟なのではないか、そんなことを考えさせられました。

ここからは少し言いにくい点ですが、男性の私だからこそ、あえて書いておきたいことがあります。女性の側もまた、知らず知らずのうちに「被害者である立場」に安住してしまっている部分はないでしょうか。福沢諭吉が示したような、「責任をどう引き受けるか」という男女平等の視点は、日本のフェミニズムの議論の中で、十分に参照されてきたのか疑問に感じます。

とくに、日本でフェミニズムを牽引してきた知識人――たとえば上野千鶴子氏のような存在が、福沢の議論、つまり「不平等の根源を女性の被害ではなく、男性の道徳的な甘さや私的行動に見た視点」を、どこまで真剣に受け止めてきたのかは、検証されるべき問いだと思います。

日本のフェミニズムの議論には、被害者意識を出発点とする構造が強く見られるように感じます。それは抑圧を可視化するという点では大きな意味がありますが、その枠組みが固定化してしまうと、「男性=加害者、女性=被害者」という単純な対立から思考が始まり、そこで終わってしまう危うさもはらんでいます。

福沢諭吉が最も警戒していたのは、まさにそうした「道徳的な免罪符」が再生産されることでした。彼の平等論は、被害の正当性を競う思想ではありません。むしろ男性に対して、自分の特権を自覚し、日常生活の中で自制と責任を引き受けるよう、厳しく求めるものでした。しかもそれは、今から150年も前の明治時代に提示された考え方です。

福沢にとって平等とは、声高に権利を主張することではなく、行為と責任が一致しているかどうか、つまり「知っていることを実際に行う」こと――知行合一によってしか成立しないものでした。もし日本のフェミニズムが、制度批判や言葉の闘争に重心を置くあまり、日常の行動規範や私的領域での倫理の改革に十分踏み込めなかったのだとすれば、それは結果として、日本独自に変質したフェミニズムを生んでしまった可能性もあるのではないでしょうか。

福沢諭吉の思想は、女性を救済する物語ではありません。男性に重い責任を背負わせる思想です。その厳しさゆえに、現代のフェミニズム論は彼の問いを正面から引き受けてこなかったのかもしれません。しかし、日本のフェミニズムが次の段階へ進むためには、「被害から始まる思考(被害者意識)」ではなく、「責任から始まる思考」へと転換する必要があるように思います。

その問いを、福沢諭吉はすでに150年前に、私たちに突きつけていたのです。

***

2025年12月10日水曜日

個人主義の不在:漱石の警告と日本社会のいま ~ 考える自由より、従う安心を選ぶ国民へ

 

私の個人主義と、いまの日本という舞台について

高校生の頃に夏目漱石の「私の個人主義」を読んだとき、私は大きな衝撃を受けました。漱石が大正三年、学習院の学生に向けて語ったあの講演は、百年以上前のものとはとても思えないほど現代的で、そして鋭いものでした。「修養を積まない個人に、自由を扱う資格はない」「自由の背後には義務がある」という漱石の言葉は、私自身の人格形成に強く刻まれました。

半世紀以上経った今でも、私の考えはほとんど変わっていません。変わらないどころか、最近の日本社会のあり様を見ていると、むしろ漱石の言葉の重さは増す一方です。政治家も、メディアも、そして私たち国民も、「自由」と「責任」の関係性をどこかで取り違えているのではないかと感じるからです。

「自由」と「自分勝手」が混同されている国

そもそも日本では、「自由」と聞くと、どこか悪いことのように思われている節があります。子どもの頃から「勝手なことをしてはいけません」と言われ続け、そのまま大人になった私たちは、「自由=わがまま」という誤った等式を知らぬうちに心の中につくりあげてしまったのではないでしょうか。

自由とは、本来、互いの自由を尊重し合うためのルールを引き受け、責任を背負う覚悟をもつことです。しかし、日本では「責任」という言葉が出てきた瞬間、多くの人がスッと後ずさりする。責任を取る覚悟がないから、自由に近づくことすら避けてしまう。ある意味、非常に合理的です。面倒ごとを避けたい人にとって、「自由を放棄する」という選択は、責任も一緒に手放せる便利な方法なのです。

その結果、「個人の自由」よりも「空気を読む」という、世界でもかなり特殊な社会的ルールだけが異様に発達しました。自由よりも空気の方が強い社会。漱石が見たら、苦笑いしながら筆を走らせそうです。

政治家たちの「自由」はなぜか経費で育つ

こうした「自由と責任の不均衡」は、日本の政治の世界ではより露骨に現れています。政治資金収支報告書に並ぶ、社会通念上どう考えても首を傾げる支出の数々。遊興費、高額な備品購入、そして“何に使ったのかよくわからない”謎の項目。まるで、自由とは「公金を自由に使う権利」だと勘違いしたまま成長してしまった大人たちが、国会という舞台で演じているかのようです。

しかも驚くべきことに、これらは政治家個人の倫理観の問題であるにもかかわらず、「政治資金パーティーの仕組みが悪い」「法律が十分ではない」といった、責任転嫁のための舞台装置まで完備されています。責任を取るべき立場の人ほど、責任の所在を曖昧にする術だけは抜群に長けている。その姿は、漱石が説いた「修養ある個人」とは対極です。

 世襲議員が幅を利かせ、社会経験が乏しいまま政治家になれる仕組みも、この国の「個人主義の欠落」を象徴しているように思います。漱石が「権力を扱う価値のある人とは、修養を積んだ人だ」と語ったことを、ぜひ議員宿舎の枕元に貼っておきたいくらいです。

メディアは「国益」よりも「クリック数」を追う

政治家と並んで、もうひとつの大きな問題はメディアです。ジャーナリズム精神はどこへ行ったのか、まるで国全体を視聴率で運営しているのではないかと思う瞬間が増えています。

事実よりも数字、検証よりもスキャンダル、国益よりも炎上。結果として、政治家はますますパフォーマンスに走り、有権者は刺激ばかりを求めてしまう。社会全体が「考える力」を奪われ、責任をもたないまま「自由に批判するだけの存在」になってしまいました。

これでは、漱石が説いた「変化に対応できる個人主義」など育つはずがありません。変化に対応するどころか、変化を伝える側が率先して扇情的な情報で社会をかき回しているのですから。

責任を放棄した社会の行き着く先

こうして政治家、メディア、国民の三者がそれぞれの場で「責任」を回避し、「自由」を誤って運用していけば、社会はどうなるでしょうか。

 政治家は修養より集金力を磨き、
 メディアは探求心より煽り文句を磨き、
 国民は判断力より空気読みを磨く。

日本社会には、「自由なはずなのに責任を誰も取らない」という、奇妙な無責任のアンサンブルが完成します。現在の日本は、残念ながらそのハーモニーがあまりに“美しく”響いてしまっているように思えてなりません。

いま必要なのは、漱石と諭吉のあいだにあるもの

漱石は「自由には義務が伴う」と言いました。福沢諭吉は「人望とは実学を含む修養によって生まれる」と説きました。二人が共通して語ったのは、「個人の成長が社会の成長の前提である」という思想です。
  • 自由を主張するなら、その自由が他者と共存するための責任を引き受けること。
  • 社会を批判するなら、その社会を構成する一員として自分の役割を考えること。
  • 人望を求めるなら、人と交わり、苦労し、考え続けること。
これらは、百年前の日本にも、今の日本にも等しく必要な姿勢です。

政治家の不祥事やメディアの扇動に目を奪われがちな現代ですが、本当の問題はもっと深いところにあります。それは、「私たち一人ひとりが自由と責任の関係を理解しているか」という問いです。

 自由を望むなら、責任から逃げないこと。
 責任を果たすなら、自由を他者と分かち合うこと。


その積み重ねこそが、健全な民主主義を支える土台になるのだと、私は今でも信じています。

***

2025年11月28日金曜日

AIが進化するほど、人間の思考力が試される

 


想像力と判断力の時代へ
 ~AIと人間の「思考力」をめぐる攻防

ご承知のように、ChatGPTを代表とする生成AIは日々進化しています。しかし、その進化が進めば進むほど、悪用しようとする者と、それを阻止しようとする者のつばぜり合いは激化していくでしょう。いたちごっこは永遠に続くのです。では我々ユーザーはどうすべきなのか。結論は非常にシンプルです。想像力と判断力を鍛えるしかない。

弁護士である息子の洞察

弁護士である息子は次のように警告しています。

人間には「言葉の流暢さ(fluency)」だけで内容を信じてしまう傾向がある。これは特に法曹界で顕著だ。弁護士は言語の精度や構造から論理性を読み取る訓練を受けているため、「よく書かれた文章=正しい」と誤認しやすい。

しかし、AIは思考していない。特に専門領域では、形だけ整った文章に高度な分析性があるかのように錯覚してしまう。弁護士は引用文献の真偽には注意を払うが、もっと危険なのは**科学や統計を分析しているかのような「言語上の錯視」**だ。AIがしているのは推論ではなく、「推論風の言語生成」にすぎない。

それでもAIは脅威ではない。むしろ適切に使えば大きな力になる。ただし条件が一つある。AIは文章を作るが思考はしないという事実を理解することだ。

デジタルが進むほど必要になる曖昧さや創造力

こうした状況を見ると、今後のデジタル社会で必要となるのは、合理性だけではなく、むしろ人間の想像力や判断力、そして主体性であることがわかります。だとすれば、中学・高校時代に枠にはめられる受験勉強だけでは不十分になるのは明らかです。歴史や文学の意味は、むしろこれから高まるのだと思います。

興味深いことに、デジタル社会は本来の人間的な曖昧さや創造性を求め始めているのでしょう。

ラリー・エリソンの先見性に学ぶ

1990年代前半、私がボストンでオラクル創業者ラリー・エリソンのプレゼンを聞いたとき、オラクルは今よりずっと小さな会社でした。彼をホラ吹きセールスマンと揶揄する声もありました。しかし、彼の頭の中にはすでにインターネット中心の未来が描けていた。スマホすら存在しない時代に、「電話はスーパーセットになる」と語っていたのです(ラリーの言うスーパーセットとは今のスマホです)。

先を思い描く想像力。それこそが技術や社会を動かす本質だったのです。

日本社会の問題の根っこ:怨望という病

一方で、今日の日本の政治家を見ると、嫉妬ともコンプレックスとも言える感情が透けて見えます。序列社会の中で大学入試が最大の挫折と成功体験であった者が、権力や金を握ってしまったかのようです。彼らは自らの内面にある「ENVY」に支配されている。

福沢諭吉は『学問のすゝめ』で、この感情を「怨望」と訳し、最も有害なものだと断言しました。怨望とは、他者と自分を比較し、自ら努力して幸福になろうとするのではなく、他人を引きずり下ろすことで平均化しようとする態度です。まさに今の社会を覆う病理ではないでしょうか。

AI時代ほど人間が問われる

AIの進歩は、人間の思考を代替するのではなく、逆に我々が本来持つべき想像力と判断力を問う時代を開いていきます。AIは言語を生成できる。しかし考えるのは人間です。歴史や文学や教養とは、過去の遺物ではなく、デジタル社会の未来を考えるためのツールだということを忘れてはいけません。

AIの時代とは、むしろ人間性を取り戻す戦いの時代なのだと思います。

***

2025年10月13日月曜日

AIドリルが奪う「人間の学び」

 
孫とデジタルデバイス

面授口訣(めんじゅくけつ)の精神を忘れた教育 


「AI教育」ブームの違和感

最近、「AI教育」という言葉がネット上で飛び交っています。「AIドリルで学習効率3倍」「プロンプト力が武器になる」――そんな見出しが並び、まるでAIがすべての教育問題を解決するかのような幻想が広がっています。

とある教育系インフルエンサーは、「AIドリルなら48時間で苦手を克服」「個別最適化で成績アップ」と語ります。ここまでくると、もはや宗教の域です。最後には「親がまずAIを使いこなせ」と説教までついてくる。なるほど、AI信仰にも布教活動があるわけです。

しかし、私は思います。

教育とは、そんなに効率的にしてしまっていいものなのでしょうか。子どもが苦手を克服するよりも、その「苦手」と向き合い、悩み、考える過程こそが学びの本質ではないでしょうか。

義務教育にAI導入? ― 本音は「教師の効率化」

政府は「個別最適化」や「学習格差の是正」を掲げてAI導入を進めています。けれども、どうもその裏には「教師の手間を減らしたい」という本音が見え隠れします。

AIドリルとかデジタルテストというものは、結局のところ、教師の利便性に重点が置かれているように思います。面授口訣の“面授”の相手がiPad? そんなの教育じゃないでしょう。
子どもは分からないから単に従わざるを得ない。それでも親が黙っているのはなぜでしょうか――私はそこに、戦後日本の教育の歪みを見てしまいます。

教師の負担軽減は大切です。しかし、教育の根を犠牲にしてまですることではありません。教育とは本来「面授口訣」の営みでした。師が弟子に面と向かい、言葉を超えた意味を伝える。それは仏教の伝統にも通じる、知の伝達の原点です。AIドリルができるのは正誤判定であって、表情の読み取りや心の共感ではありません。教育の本質は「人間と人間の関係性」そのものにあるのです。

テクノロジーは「補助」にすぎない

もちろん、私はテクノロジーを否定するわけではありません。AIやICTは正しく使えば、教育を支える強力なツールになります。

ただし、それはあくまで「補助」です。今のようにAIを教育の中心に据え、すべてを効率化しようとする動きは、教育を根本から誤らせる危険があります。

AIを使えば使うほど、子どもには想像力や判断力が求められます。つまり、デジタル化が進むほど「非効率な学び」――文学や歴史のような、人間を問う学びが重要になるのです。

真のリーダーに必要な「ビジョン」

1990年代、ボストンでオラクルのラリー・エリソンの講演を聞いたことがあります。当時、彼はまだ“ホラ吹きセールスマン”と呼ばれていました。しかし、スマートフォンという言葉すらなかった時代に「スーパーセット」という未来構想を語っていた。その先見性こそ、真のリーダーの知性です。

一方、いまの日本の政治家や教育行政を見ていると、ビジョンどころか「自分の頭で考える訓練」すらしてこなかったように見えます。大学入試の失敗(東大に入れなかったとか)をトラウマに、コンプレックスを埋めるように「デジタル」「効率化」「DX」といった横文字を振りかざす――その姿は痛々しいほどです。

福沢諭吉が警告した「怨望」と「知性の退化」

福沢諭吉は『学問のすゝめ』第13編で、“怨望(えんぼう)”――他人の幸福を妬み、努力ではなく引きずり下ろして平均化する心――を最も忌むべき不徳としました。

現代日本の教育政策や政治の姿勢を見ていると、この怨望が息を吹き返しています。理解できないものを排除し、目立つ人間を叩き、平均点を取ることを「正義」とする。その結果、「自ら考える力」はどんどん失われていくのです。福沢はさらに第15編で「事物を疑って取捨を断ずる事」の重要性を説いています。真偽のあいまいなAI時代こそ、この言葉が求められています。

「AIを見抜く教育」が必要だ

AIドリルで正答率を上げても、それは「疑う力」や「納得する力」を育てません。「分からなかったら納得するまで先生に聞きなさい」と言える大人が減っている。いまの教育現場では、そんな子どもは「扱いにくい」として排除されてしまうのです。

AI教育に本当に必要なのは、「AIを使う教育」ではなく「AIを見抜く教育」です。つまり、「何を学ぶか」よりも「何を学ばないか」を自ら選べる知性。それこそが、これからの教育の柱になるべきです。

大人こそ学び直す時

福沢は「学者が勉強せねばならぬ」と書きました。現代に置き換えれば、それは「親や大人こそ学び続けねばならぬ」という意味です。

AI時代に問われているのは、子どもではなく大人です。政治家も教師も、そして親も、AIを“使う”前に“考える力”を取り戻す必要があります。

「面授口訣」に戻る ― 絵日記という原点

教育の根っこは「面授口訣」にあります。人が人に伝える。その関係の中にしか本当の知は育ちません。

AIドリルやデジタル教材がどれほど進化しても、人の温度にはかないません。だからこそ、子どもには「書く」「考える」「感じる」、つまり、五感を働かせる時間を取り戻してほしい。

一冊の絵日記――そこにはAIには真似できない“人間の思考の跡”が残ります。日々の中で自分の感情を見つめ、言葉にする習慣。それが、未来の知性を育てる第一歩なのです。

AIが主役の時代に、あえて人間らしい学びを取り戻すこと。それが「教育再生」への最初の一歩ではないでしょうか。そして、その出発点は、誰にでもできる日記を書くことです。日本語を書くことが、考えることのはじまりだからです。
  
***

2025年8月23日土曜日

AI時代に必要な「取捨選択」の力

 

慶応大学出身の現首相は、果たして創設者である福沢諭吉の『学問のすすめ』をきちんと読んだことがあるのでしょうか。はなはだ疑問に思います。衆参両議院の議員にしても、通読した経験のある人は一割にも満たないのではないでしょうか。

福沢諭吉は、人生の前半を江戸時代の武士として、後半を明治の知識人として生きました。ヨーロッパやアメリカを視察して異文化に直接触れ、漢学から出発してオランダ語、そして英語へと学びを広げました。自らギャップに飛び込み、思考を深めた人物でした。こうした経験の蓄積があったからこそ、『学問のすすめ』第15編において「事物を疑って取捨を断ずる事」という、時代を超えて通用する言葉を残すことができたのだと思います。

いま私たちは、AIとデジタル化の時代を生きています。真実と虚偽の境界はますます曖昧になり、本物と偽物を見抜くことが難しくなりました。福沢が指摘した「取捨選択の知性」は、この時代にこそ必要とされている能力です。しかし、日本の政治家の議論を見ていると、この知性の欠如ばかりが目立ちます。スパイ防止法や監視強化をめぐり、「人権がどうなる」「民主主義が壊れる」といった表層的なやりとりに終始する姿は、自らに統治する意志がないことの裏返しではないでしょうか。

さらに福沢は、取捨選択の前提として「自らのビジョンを持つこと」を暗に示していたように思います。将来の展望や問題意識がなければ、必要な情報は集まってきません。例えば子供の教育に強い関心を持っている人のもとには、教育に関する情報が自然と集まってくるものです。逆に問題意識のない人には、氾濫する情報に翻弄される未来しかありません。幕末から明治への激動を生きた福沢にとって、ビジョンを持たないこと自体が理解しがたいことだったのでしょう。

「軽々しく信じるべからず、また軽々しく疑うべからず。信と疑のあいだに必ず取捨の明なかるべからず」――この一節は、教育現場を見つめる上でも示唆に富んでいます。もし親が子供に「納得するまで質問しなさい」と日頃から言い聞かせていたら、判断力を備えた子供が育つでしょう。しかし現実には、そんな子供は受験戦争に不利となり、先生に嫌われるだけかもしれません。これこそが日本の教育の歪みであり、知性を育てるどころか抑え込んでいる現状だと思います。

『学問のすすめ』第15編の最後で、福沢は「我々学者が勉強しなければならない」と述べています。これは当時の慶応の先生たちへの呼びかけだったのかもしれません。しかし現代に生きる私たちには「親や大人こそ学ばなければならない」という警告として響きます。

そして何より求められるのは、政治家も親も一人の大人として、自らのビジョンを持ち、氾濫する情報の中から取捨選択する知性を鍛えることではないでしょうか。

***

2025年8月18日月曜日

アンビバレントな幼児性 ~ 成長できない社会と政治への疑問

 

NHK 2025年8月12日 19時00分


通常、人は矛盾する二つの感情や価値観を同時に抱くことがあります。心理学ではこれを「アンビバレント」と呼びます。たとえば、ある出来事に対して好きでもあり、嫌いでもあると感じる状態です。本来、人間はこのアンビバレントな感情をうまく調整し、全体としてバランスの取れた人格を形づくっていきます。それが「成長」です。

ところが今の日本を眺めると、このアンビバレントを調整できないまま、ただ矛盾を抱え込んでいる大人や組織があまりに多い。まるで幼児の延長線上にあるように見えるのです。教育の出発点は、本来この「アンビバレントな幼児性」からの脱却にあるはずなのに。

福澤諭吉は「智徳と人間交際を高め、禽獣の世界から文明に近づけるのが教育である」と言いました。智徳の「智」は手段やツールにあたるインテリジェンス、「徳」はモラル。そして「人間交際」は、社交性やコミュニケーションのことです。これは人と人との関係だけでなく、国家間の外交の根っこにも関わるものです。

しかし現代の日本は、「Where do you want to go?(目的)」が定まらないまま、手段やツールばかりにしがみついています。智徳のバランスは崩れ、智に偏重し、徳は軽視され、人間交際は自己中心的。結果として「他者が見えない社会」になりつつある。その一因は教育にありますが、もう一つ大きいのがマスメディアの影響です。

その象徴が「世論調査」です。私は学生時代、朝日新聞の世論調査のアルバイトを経験しました。兵庫県全域を回り、アポをとって家庭や工場の寮を訪ね歩いたのですが、回答者は偏り、設問は誘導的で、調査の精度はお粗末なものでした。半世紀前から「これは偽善だ」と思っていたのに、いまだにありがたそうに報じられている。驚くというより、もう呆れるしかありません。

今回もそうです。石破内閣の支持率38%と報じられました。新聞やテレビもさすがに「支持率回復!」とは書きません。書いても信じる人はいないし、出している側も中身が偏っていることを知っているからです。実際、その38%の多くは高齢者に偏っていて、若い世代の声はほとんど入っていない。未来を担う層が排除されたままの数字を「国民の声」と言い張るのは、どう見ても欺瞞です。

しかも、38%が「支持」なら62%は「支持しない」か「わからない」。ビジネスに例えれば、顧客アンケートで6割以上が不満を示しているのに、経営陣が「市場から高評価を得た」と胸を張るようなものです。まともな会社なら経営陣は即座に退任です。それを「まだ支持されている」と勘違いする総理と閣僚がいる。与党議員の多くは、次の選挙を意識して「いつドロ船を逃げ出そうか」と計算しているでしょう。本気で自分が支持されていると信じているのなら――残念ですが、幼稚園からやり直すしかありません。     
   
***

2025年7月10日木曜日

「文化」と「文明」のあいだで ── 今、教養とは何かを問う

 1980年代初期に北京の内部書店で購入した日本語版『毛主席語録』(初版)。




前書きは、毛沢東暗殺に失敗し謎の死を遂げた林彪です。



「文化」と「文明」のあいだで  ──  今、教養とは何かを問う

教養ある中国人とは誰か?

平川祐弘さんは「権威に盲従しない人」と言います(産経正論2025年7月8日)。なるほど、それは実に納得のいく定義です。だとすれば、日本における「教養ある知識人」とは誰のことを指すのでしょうか。

AIが急速に一般化し、「知識」へのアクセスがかつてないほど容易になった今こそ、本当の意味で問われるべきは「文化と文明」のバランス感覚だと思います。科学技術が文明を前に進める一方で、それをどう使うのかという価値判断は、つねに文化に根ざした教養に依拠せざるをえません。

私は、来年古希を迎えます。思い返せば、私の思考の支柱になってきたのは、学校でも教師でも教科書でもありませんでした。むしろ、明治から昭和初期にかけての知識人──いわゆる「文豪たち」の言葉でした。福沢諭吉、夏目漱石、芥川龍之介、太宰治……。彼らが直面していたのはまさに「文化と文明の相克」という現代的なテーマだったのです。

平川さんの記事でも指摘されていたように、かつての日本では「教養」とは漢籍に通じることを意味し、それに代わって西洋古典が読まれるようになってからも、文学や思想の素養は知識人の証でした。けれど今では、教養の中身そのものが曖昧になり、英語すら手段としてしか扱われず、学ぶべき「日本の近代古典」すら忘れられつつあるように思います。

一方、中国では『四書五経』が国民的古典としての地位を失い、かつて毛沢東の語録がそれに取って代わるかに見えた時期がありました。だが結局、『毛沢東語録』は読まれる古典にはなりきれず、現代の中国においても「敬意をもって読むべき本」が不在のままです。皮肉にも、教養ある中国人とは「語録を読まない人」と定義される時代になっているというのです。

日本においても、教養は形骸化しつつあります。全集を揃える家庭は減り、本棚の存在感はスマートフォンの画面に取って代わられました。それでも、私たちは「本を読む民族」から完全に堕ちてしまったわけではないと信じたいのです。

難解な古典に無理に立ち返らなくとも、たとえば明治の知識人の書いたものに立ち戻ることは可能です。彼らは「日本」という国家が急激に近代化するさなかで、何を守り、何を捨て、何を受け入れるかを懸命に考え、悩み、書き残しました。その営みこそ、現代を生きる私たちにとっての「教養」の原点になるはずです。

AIの時代だからこそ、人間の軸を持たなければならない。平川さんの言葉を借りれば、明治の古典を「カリキュラムの核」に据えること。それはノスタルジーではなく、未来への選択なのです。


***

2025年5月11日日曜日

自分の心構えを変える


サキソフォンもハーモニカも息継ぎが難しい。ロングトーンをキープして、上手に息継ぎをしないとリズムに乗ってグルーブ感を出すことはできません。政治やビジネスだとコミュニケーションの能力と言えるかも知れません。

日本の社会は数年、否、数年どころか数十年変わらないと考えておいた方がいいような気がします。だったらどう対応するのか?

自分の生きている社会が変わらないなら自分の心構えを変えるしかない。高度経済成長期(1955年頃~1973年頃)やそれに続く期間(1975年頃~1991年頃)は、みんなが高度経済成長の波に乗っていた。一生懸命自分の仕事をすれば昇進もするし給料も上がった。頑張っただけのリターンがあったのです。ところが、今はそうじゃない。これからも数十年、もしかしたら半世紀ほどは変わらないかもしれない。

ピーター・ドラッカーが、著書で「integrity of character」という言葉を使っています。これは「人格の一貫性、統合、完全性、高潔さ、誠実さ」ということです。前提は一人ひとりが自分の人格を持っていることです。その上で「integrity of character」を意識して生きるということです。

Integrity of character refers to the quality of being honest, ethical, and having strong moral principles, consistently reflected in one's thoughts, words, and actions. It means maintaining a whole and complete moral compass, unwavering in adherence to a code of values, and acting in alignment with one's beliefs, even when faced with pressure or temptation.

我が国の福沢諭吉先生は明治時代に『学問のすすめ』の中で同じようなことを言っています。福沢さんの方がドラッカーよりも先ですね。

『学問のすすめ』12編の後半は、「人の品行は高尚ならざるべからざるの論」です。「ならざるべからざる」なんて難しいですね。これは、漢文では不可不~の二重否定です。つまり、「高尚でないといけない」と言っています。さて、「人の品行は高尚ならざるべからざるの論」ですが、これは、まさしくインテグリティ(integrity)のことを言っているのだろうと思います。
   
インテグリティは日本語に翻訳しにくい。「志」という人もいれば、「誠実」と訳す人もいる。しかし、どうもしっくりこない。私は、「倫理観」と「スキル」と「野心」の3つのバランスがとれていることがインテグリティであると長いこと信じていました。しかし、福沢さんに「人の見識を高尚にしてその品行を提起するの法如何すべきや。その要訣は事物の有様を比較して上流に向かい、自ら満足することなきの一事に在り」と言われると、これがインテグリティかとも思います。

日本の社会がどれだけ停滞していても、一歩前に踏み出すと今までとは違った人格の持ち主が集まって来る。これまで足を引っ張ったり頭を叩いていた人たちが遠ざかって行くものです。要するに自分の「心構え」を変えることで、周りの状況を変えることはできる。日本社会がどうだこうだ批判ばかりしてみてもしょうがない。日本の政治家を見ても大企業の経営陣を見てもインテグリティを備えた人格者は極めて少ないのが今のニッポンなのです。

***

2024年10月14日月曜日

これからの時代、本当に大事な教育とは?

これからのAIの時代、つまりデジタル化が進化すればするほど、想像力や判断力やイニシアチブが重要になってきます。 だとすると、中学や高校時代に枠にはめられた受験勉強ではなく、歴史や文学を学ぶ意味が出てくるのです。 デジタルの世界が実は曖昧さや創造力が大切なんて皮肉ですね。

日本の教育はアメリカのMBAのようになっている。つまり、すぐに役立つものや世間が興味を持つ実務的なもののみが知識として重要視される状況です。1990年代前半にボストンでオラクルの創業者であるラリー・エリソンのプレゼンテーションを聞く機会がありました。オラクルは今の10分の1の売上、ラリーはホラ吹きセールスマンだと揶揄するジャーナリストもいた時代です。しかし、ラリーの頭の中にはインターネットを中心とした近未来がイメージできていたのでしょう。スマホがない時代にスマホを「スーパーセット」と言ってました。

今の日本の政治家は嫉妬というかコンプレックスが強いようです。コンプレックス(優越感と劣等感のミックス)が強い人たちに金と権力を持たせちゃいかん。コンプレックスの原因は序列社会の中で大学入試の失敗が人生の最大の挫折と思っていることかも知れません。基本は彼ら自身の内部にある「ENVY」でしょう。

福沢諭吉は『学問のすゝめ』十三編で「怨望」について書いています。多くの欧米の書物を読んで日本に紹介した福沢諭吉は、英語のenvy(エンヴィ)を「怨望(えんぼう)」と訳したのでしょう。 これは、妬みのことです。福沢諭吉はこれが一番よくないと言っています(凡そ人間に不徳の箇条多しと雖ども、その交際に害あるものは怨望より大なるはなし)。福沢諭吉は「怨望」を「他人と幸せのレベルを比較して、自分のほうが不幸せだと感じたら、自分が幸せになろうと努力するのではなく、他人を不幸に陥れようとして低レベルに平均化すること」と説明しています。  

***

2023年7月17日月曜日

クラプトンは温故知新


今日は何の日?

海の日ですね。 「海の恩恵に感謝するとともに、海洋国家日本の繁栄を願う」ということだそうです。

人生って辛いものですね。乗りきっていくには技術や方法論だけでなく、生き方そのものが大事でしょう。国も同じだと思いますよ。 国の生き方、つまり、それは、国のアイデンティティーであり文化です。 国民の祝日ってそういうものを代表しているものだと思っていました。 通常、そういったものは、勝者が敗者から剥奪するものなのに、自分から進んで放棄したり意味の無いものにする必要はない。

クラプトンは温故知新

クラプトン『Unplugged』(1992年)から『Malted Milk』です。いつものようにあまり練習しないで夜中の一発録画でした。

クラプトンはロバート・ジョンソンのこの曲が大好きなのでしょうね。80年代のクラプトンはアル中で施設にも入っていたそうです。アル中と闘いながらこういった曲をアコースティックギター一本で毎日のように歌っていたのでしょう。Malted Milk は麦芽乳です。禁酒時代にロバート・ジョンソンはビールやモルト(麦芽)ウイスキーを思い浮かべてこの曲を作ったのでしょう(1937年)。

私はデラニー&ボニー時代(1971年頃)以降のクラプトンはほとんど聞かなかったし動向もしらなかったのですが、1992年のアコースティックの『Unplugged』は発売と同時に買いました。クラプトンは、70年代はヘロイン80年代はアルコールと20年間ヘロヘロボロボロの人生だった訳ですが、そもそもそれがブルースそのもの、クラプトンはロバート・ジョンソンのようなブルースマンの楽曲を自分の人生と重ねて新たなクラプトン・ブルースにしました。要するに『温故知新』なわけです。

明治維新は温故知新の失敗

ヨーロッパ近代は文化が成熟した後に、文明が進化しグローバル化が進んだ。ヨーロッパの没落が始まりました(20世紀初頭)。そして人間の理性や合理性を全面的に押し出したアメリカが台頭した。ニーチェが言ったニヒリズムのアナーキーな世界になった(WWI以降のベルサイユ体制)。

日本はこういった歴史の流れの中で独立を保つべきだと主張したのが福沢諭吉でした。福沢諭吉は日本人の魂を残しつつ西洋文明を早急に取り入れるべきだと思っていたのです。福沢諭吉や後の西田幾多郎たちは西洋文明や思想は限界だと考え、日本を含む世界全体の調和を如何にして実現するかを考えたのだろうと思います。

***

2021年12月6日月曜日

目的は幸福を求めること

wondering what's on the table....

「万人共通の目的は幸福である」といったのはプラトンです。今の時代でも同じだと思います。

遺伝子の影響もあるでしょうが、日本人の問題は幸せになるための意思決定を自分で行わないことにあります。

仏教の言葉でいう「因縁果(いんねんか)」、原因があって結果があるのですが、どうも縁(環境や他者)に依存しすぎる。自分で決定しないから結果に対しての責任感が希薄です。さらに諦めがいいのか、結果に対する振り返り(reflection)がない。

「どう生きるか?」も大事ですが、そろそろ「なぜ生きるか?」を考える時です。

***

2021年9月28日火曜日

子育てはいつまで続くか?

 
チャーリーはもうすぐ9歳になります。躾はとっくに諦めています。

「子育てはいつまで続くのか?」

福沢諭吉は「子供が子供を育てることができるようになったら終了」と言いました。私の実感としてですが、子供が社会人になってから、つまり、20代30代になってからのほうが、親として子供の役に立てることや、子供に伝えるべきことは多くなるのだと感じています。自分ができていないから強く感じるのでしょうね、親の責任は大きい。子育ては自分が死んで終了なのでしょう。


「父母の職分は、子を生んでこれに衣食を与うるのみにては、未だその半ばをも尽したるものにあらず、これを生み、これを養い、これを教えて一人前の男女となし、二代目の世において世間有用の人物たるべき用意をなし、老少交代してこそ、始めて人の父母たるの名義に恥ずることなきを得べきなり」(「教育のこと」福沢文集 巻之一)。

***