大阪と神戸――高市早苗と北川景子
高市早苗さんと北川景子さん。このお二人を並べたとき、私は直感的に「大阪」と「神戸」という二つの街を思い浮かべます。高市さんは奈良のご出身ですが、その語り口や立ち居振る舞いには、どこか「大阪のおばちゃん」を思わせる直截さと図太さがあります。
一方、北川景子さんからは、はっきりと神戸、とりわけ阪急沿線から北の山手の空気を感じます。控えめで洗練され、前に出過ぎない。しかし、自分の輪郭は崩さない。その佇まいは、神戸という街が長年培ってきた美意識そのものです。
この二人を対比すると、大阪と神戸の違いが、非常に分かりやすく浮かび上がってきます。
前に出る大阪、距離を保つ神戸大阪は基本的に「前に出る街」です。遠慮よりも実利、建前よりも本音。笑いとツッコミで一気に距離を詰め、場の主導権を握る力があります。時にはどぎつく、押しが強い。しかし、それは生き抜くために磨かれてきた社会的スキルでもあります。
大阪のおばちゃん、という言葉は揶揄として使われがちですが、実際には非常に高度な能力の塊です。相手の懐に踏み込みながら、同時に相手を見極める。損得に敏感で、理屈よりも現実を優先する。高市さんに感じるのは、まさにこの「腹で判断する大阪的合理性」です。
大阪は、よそ者を受け入れる街でもありますが、それは迎合ではありません。「入ってくるなら、こちらのルールでやれ」という強さがある。だからこそ異物も呑み込み、笑いに変え、時には排除する。その雑多さと生命力が、大阪の本質だと言えるでしょう。
一方の神戸は、同じ関西でありながら、どこか一線を引いています。神戸の人は、自分たちが関西であることを否定しませんが、「一緒にされたくない」という感覚も確かにあります。大阪、京都、奈良とは少し違う場所に立っている、そんな距離感です。
神戸は港町として、早くから外国文化と接してきました。しかし、過剰に迎合することなく、それを自分たちの生活圏の中で静かに選別してきた歴史があります。北川景子さんの佇まいに感じるのは、前に出て空気を支配するのではなく、一定の距離を保ちながら相手に「察させる」力です。主張は控えめでも、流されない。これは大阪的な強さとは別種の、静かな強度だと思います。
大阪の現状――失われつつある「日常の顔」
大阪ミナミの生まれの私は、九州福岡時代の10年を経て、10代後半を大阪ミナミで過ごしました。上本町六丁目の府立高校に通い、心斎橋や宗右衛門町が学区でした。千日前の寿司屋の娘や相生橋筋の喫茶店の息子が同級生にいる、そんな環境です。あの頃の心斎橋は、商売の街であり、生活の延長線上にある街でした。
しかし、今の心斎橋を歩く気にはなれません。外国人観光客ばかりで、街が「誰のものなのか」分からなくなっている。ドラッグストアと土産物屋が並び、かつての日常の顔は見えにくくなりました。正直に言えば、「もう手遅れかもしれない」と感じる部分もあります。
ただし、文化が完全に消えたわけではありません。大阪には今も「表」と「裏」があります。観光地として消費される場所と、地元民が日常を営む場所。その住み分けが、大阪文化をかろうじて支えています。この図太さもまた、大阪らしさの一部です。
大都市のたどる運命――NYと東京の経験から
私は海外生活が長く、特にニューヨークには約20年住みました。1980年代後半から2009年までのNYは、劇的に変わりました。WASPが実権を握っていた時代からユダヤ系へ、そして新たな移民層へと、街の構成も人種も大きく入れ替わった。資本主義の論理だけが強烈に働く、リベラルでコスモポリタンの都市です。
東京も、20〜30年遅れで同じ道をたどっているように見えます。均一化された街並み、世界共通のブランド、観光客を優先する都市設計。これは、世界中の大都市がたどる運命なのかもしれません。
私は海外生活が長く、特にニューヨークには約20年住みました。1980年代後半から2009年までのNYは、劇的に変わりました。WASPが実権を握っていた時代からユダヤ系へ、そして新たな移民層へと、街の構成も人種も大きく入れ替わった。資本主義の論理だけが強烈に働く、リベラルでコスモポリタンの都市です。
東京も、20〜30年遅れで同じ道をたどっているように見えます。均一化された街並み、世界共通のブランド、観光客を優先する都市設計。これは、世界中の大都市がたどる運命なのかもしれません。
それでも、大阪と神戸に期待する理由
だからこそ私は、大阪や神戸には文化を失ってほしくないと思っています。「外国勢力を跳ね返してほしい」と言うと、過激に聞こえるかもしれません。しかし、これは排外主義ではありません。「取捨選択」の話です。
大阪には、非効率な人情と厚かましさがあります。安さや便利さよりも、「馴染み」や「面白さ」を優先する感覚は、グローバル資本が最も苦手とするものです。神戸には、選別眼と自立した美学があります。流行に流されず、「自分に合うもの」を見極める力は、均質化への抵抗になります。
大阪的なたくましさと、神戸的な自律。そして日本の原点である奈良や京都、これらが共存している関西は、本来、異物に対して非常に強いはずです。何でもかんでも「グローバル」「多様性」と言って飲み込むのではなく、笑い飛ばし、値踏みし、時には突き返す。その力こそが、関西の文化的免疫力です。
高市早苗という大阪的な強さと、北川景子という神戸的な凛とした佇まい。この対照は、単なる個人差ではありません。関西という土地が持つ多層性そのものです。
世界中の大都市が似た運命をたどる中で、大阪と神戸には、最後まで「自分たちの街」を自分たちの手で守り抜く存在であってほしいと、強く願っています。
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