哲学のない世界で上手に迷子になるために
――考えること・悩むこと・無知を自覚することのすすめ――
私たちはよく「哲学」と聞くと、ギリシャの白い石柱の下でひげを触りながら思索にふける老人の姿を思い浮かべます。しかし、私が哲学と言っているのは、そんな高尚なものではありません。哲学とは、実はもっと泥臭くて、もっと生活感のある営みです。考えること、悩むこと、そしてなにより――自分は無知であると自覚し続けること。これだけで、もう立派な哲学者なのです。なぜそんなことが大事なのか?それは逆を考えればすぐにわかります。愚か者というのは哲学ができない人のことだからです。
哲学ができない人、つまり考えない人、悩まない人、無知を自覚しない人。他者の言葉をそのまま飲み込み、自分の足で立たず、他人の判断に乗っかって生きていく人。
こういう人が権力の座につくと、世界はだいたい不幸になります。歴史を見れば枚挙にいとまがありません。私が敬愛する水戸の黄門様も言っていました。
「こんな大変な時だからリーダーの足をひっぱるな」という人がいますが、いやいや、そもそも足を引っ張られるようなリーダーを選んだのは誰なんでしょうか。哲学をしなかった国民が、哲学をしない政治家を生み出したのだとしたら、それは悲劇ではなく必然です。
日本人は「無駄と余裕」が嫌いである
私は昔から日本人は「無駄」や「余裕」が大嫌いだと感じています。しかも困ったことに、それが文化レベルで染み込んでいる。会社で意味のない結論のでない会議を午後5時から延々とやるような無駄をやる割には「無駄は敵だ!」とばかりに余裕を叩き潰す。完璧主義はさらに拍車をかける悪癖です。アメリカや中国なんて欠点だらけですよ。問題だらけの中から、“まあいいか”と前に進んでしまう。強引さもある。しかし日本は違う。
問題が100%解決しない限り前に進まない。
しかも誰かが少しでも余裕を見せたら、袋叩きです。
それでは新しい発想や魅力が生まれるはずがありません。私はずっと「無駄とか余裕から魅力が生まれる」と言い続けていますが、日本ではなかなか受け入れられません。そりゃあ長年日本を離れていたくもなるというものです。
ところで政治の世界で「仕分け」という言葉が持てはやされた時期がありますが、私は最初、「簿記の話?」と本気で思いました。政治の世界でまでコストカットとは、もはや笑うしかありません。アカウンティングとファイナンスのバランスが悪すぎる。
人間とは矛盾そのもの
ソクラテスのギリシャ哲学からヘーゲル、マルクス、毛沢東まで、多くの思想家たちが「矛盾」を語ってきました。なぜ人間はこんなにも矛盾だらけなのでしょう。私は思うのです。
人間は生まれてから死ぬまで、矛盾との戦いだからだ。
生きるということそのものが、自分の中にある無数の葛藤を引き受ける作業です。だから人間の作る政治や外交なんて、矛盾や葛藤の塊で当然なのです。「遺憾だ!」と列島の中だけで叫んでみたところで、矛盾は一ミリも減りません。
矛盾を解決する力こそ哲学であり、考える力なのです。
失敗を記憶するという智慧
リーダーに求められるものは、世界的な視野、歴史と文学への素養、そして責任感。この三つが揃わないと国はまともに運営できません。凡人が運命に逆らって国家権力を握ると、だいたい独裁になります。これは歴史が証明しています。スペインの哲学者オルテガは言います。
「人間の真の宝とは、積み重ねられた失敗である」
人類は何千年という時間をかけて、失敗という名の宝石をため込んできました。そこから学ばないなら、もはや人間とは呼べません。
ニーチェもこう言いました。
「超人とは、“もっとも記憶力の良い”人間である」
失敗を覚え、そこから学び、自分を更新し続ける者こそ強い。
日本では、歴史の失敗と向き合うことを避ける人が多い気がします。宗教の原理主義や独裁政治のせいではなく、単に無関心(虚無)と勉強不足でしょう。
「なんとなく信じてしまう」人々が大量生産される社会では、哲学は育ちません。問い続けることです。
日本の近代化の「精神的不徹底」
世界史の歩みは、ルネサンス、宗教改革、フランス革命を経て近代国家へと至ります。その中核は三つの精神です。- Humanism(人間主義)
- Rationalism(合理主義)
- Personalism(人格主義)
明治の文豪たち――漱石や鴎外――が明治政府の「上滑りの文明化」を批判したのは、この精神的近代化の遅れを感じていたからでしょう。鹿鳴館のドレスと燕尾服の下には、まだ「自律した個人」が育っていなかったのです。
150年経った今も、日本社会全体が自律した人格を確信できているかと言えば、どうにも怪しい。働き方改革の議論にしても、歴史の文脈を共有しないまま「効率」「生産性」と叫んでいるだけに見えます。
自律とは、迷路の中を歩く覚悟である
ニーチェは、「一人で迷路を歩く勇気こそ意志の力だ」と言いました。見える範囲だけでなく、遠くを見渡す目。新しい音楽を聴き分ける耳。そして、孤独に耐える力。これが哲学であり、自律の証です。サルトルもまた、「実存が本質に先行する」と述べました。人間は、生まれた瞬間には何者でもありません。経験し、学び、出会い、失敗し、悩む。その積み重ねによって、自分の本質を形づくっていくのです。
つまり、自分の人生を自分の決断で生きるしかないということです。誰かの言葉を借りて生きているうちは、いつまでも「他者の人生」を生き続けるだけです。
いま、世界は「哲学のない世界」に突入している
SNSのタイムラインは瞬間的な反応の洪水で、人々は“考える前にクリックする”生活に慣れ切ってしまったようです。悩む時間を「非効率」と呼び、無知を自覚することを「恥」と思う世の中。生成AIは、さらにそういった状況を加速させる。そんな社会で、哲学はますます軽視されます。考えない国民が増え、考えない政治家が選ばれ、そして考えない世界ができあがる。
私は今の世界が、まさにその段階に入ってしまったのではないかと思っています。


0 件のコメント:
コメントを投稿