大企業が舌なめずりして囲い込む「21世紀のカモ」の正体
(PRESIDENT Online 掲載記事)
隠居老人、最近の記事を読む
PRESIDENT Onlineに掲載された、ある大学教員による論考を読みました。大学の政経系学部で行われた講義をもとにした著書の一部だそうです。
私はその先生の本を読んでいません。
知ったのは、あくまでこの紹介記事だけです。
したがって、以下は「講義の全体像」を論じるものではなく、
公開されたテキストから受け取った印象に基づく感想です。
もっとも、古希を前にした隠居老人としては、人生もそろそろ先が見えてきました。今さら遠慮する必要もない。言いたいことは言っておこう――そんな心境です。
記事の主張は明快です。
資本主義の歴史は、「誰がカモにされてきたか」の歴史である。
19世紀のカモは労働者。
20世紀のカモは消費者。
そして21世紀のカモは、「参加者」だ。
テック資本主義の時代、人々はSNSや検索サービス、各種プラットフォームに参加することで、自らの個人データ、注意力、時間を無償で提供している。それこそが21世紀の「資本」であり、巨大テック企業は、それを原材料に富を蓄積する。
赤い通知バッジ(notification badge)、スワイプ操作、色彩心理を利用したUI(ユーザーインターフェイス)。人間の生理的・心理的特性を前提に設計された仕組みによって、私たちは自由意思で行動しているつもりで、実は囲い込まれている――。
議論は刺激的で、比喩も巧みです。しかし、読み終えたとき、私は強い違和感を覚えました。
正しい。しかし、、、、
内容が間違っているとは思いません。テック企業が人間の注意力を資源として扱っていることも、行動科学がビジネスに使われていることも、事実でしょう。
それでも息苦しい。
なぜか。
それは、この論考が最初から完成された世界観として提示されているからです。
資本主義は搾取装置であり、
参加者はカモであり、
自由は幻想であり、
人間は檻の中のネズミである。
分かりやすい。しかし、分かりやすすぎる。共産主義国家の人民のような、、、。
そして、これが「大学の講義」をもとにしていると知ったとき、隠居老人は、少し背筋が寒くなりました。
「如何なものか」では足りない
最初、私はこう思いました。
「考えさせる前に、世界観を与えるのは、如何なものか」。
しかし、考え直しました。
これは「如何なものか」という話ではありません。
間違っていると思います。
あらゆる「観」―― 世界観、歴史観、国家観、人間観――は、人格形成の過程で、自分で身につけていくものだからです。
教育が提供すべきなのは、結論ではなく、思考の材料と摩擦です。
この違和感は、私にある古い読書体験を思い出させました。
『The End of the American Era(アメリカ時代の終焉)』ハッカー(1970年)です。
アメリカの没落はベトナム戦争から始まった、
アメリカ人が、自分たちを特別な存在だと錯覚し、謙虚さを失い、学問が凡庸になっていった。
彼は、こんな趣旨のことを書いています。
- 平凡な学者が恐れるのは、他人から批判されることである。
- だから彼らは、決して間違いを指摘されないことしかやらなくなる。
- 凡庸な頭脳にとって最も都合がよいのは、
- ルールが明示され、全員が同じ手続きを踏む研究である。
これは、1970年のアメリカの話です。しかし、今のアメリカでも続いている。そして、今の日本も、急速にそうなりつつある――隠居老人には、そう見えます。
福田恆存の警告
さらに思い出すのが、昭和29年の福田恆存の言葉です。
アメリカ視察から帰国した福田は、
「アメリカは貧しい」と言いました。
物質的には豊かでも、
精神的なバックボーンが痩せている、という意味です。
私は2001年、15年ぶりに香港、上海、北京を訪れ、「中国は1980年代より貧しくなった」と感じました。高層ビルが増え、生活は便利になった。それでも、精神的な安定は見えなかった。
「神」や「お天道様」がない文明は危うい。
多民族化が進み、「神」の力が弱まったアメリカも危うい。
そして今――
精神的な支柱が溶け、「お天道様」が隠れた日本は、福田恆存が憂慮した時代より、もっと崖っぷちに立っているように見えます。
大学は、世界観を配る場所ではない
大学がやってはいけないことがあります。
- まだ経験の浅い若者に
- 権威ある立場から
- 感情に訴える完成形の世界観を
- 代替的な視点を十分示さずに与えること
それは教育ではありません。思想のインストールです。
一度インストールされた世界観は、あとから疑うことが難しい。
これは、長く生きた者の実感です。
おわりに――隠居老人の譲れない一言
私はその本を読んでいません。この記事だけを読んだ感想です。
それでも、「大学の講義を本にした」と聞いて、この完成された世界観が前面に出てくることに、1970年代アメリカと同じ匂いを感じました。
あらゆる「観」は、人格形成の過程で、自分で身につけていくもの
それを、考えさせる前に大学が与えてしまうのは――
如何なものか、否、間違っている
隠居老人の、率直な違和感として、ここに書き残しておきます。
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