2026年1月7日水曜日

そのニュース、子どもに説明できますか? ――親世代が直面する「思考停止メディア」の正体

 

社会の木鐸とは何か?


――沈黙する日本のジャーナリズムと、饒舌なコメンテーターたち――

「社会の木鐸」という言葉があります。本来は、権力や時代の空気に警鐘を鳴らし、社会に時間的・思想的な奥行きを与える存在を指す言葉です。木鐸は叩かれて音を出すものではなく、自ら響くから意味がある。しかし、近年の日本のジャーナリズムを見ていると、どうも拡声器と化してしまったように見えます。しかも音量だけはやたらと大きい。

今回のアメリカによるベネズエラ攻撃をめぐる日本の報道を見て、その思いは一層強くなりました。事実関係は断片的、背景説明は乏しく、国際政治の文脈はほぼ消失しています。代わりに並ぶのは、スタジオで頷き合うコメンテーターの「お気持ち」と、司会者の「分かりやすいまとめ」です。分かりやすいのは結構ですが、浅いものを分かりやすくしたところで、浅さが際立つだけではないでしょうか。

欧米のメディアも、もちろん完全に清廉潔白ではありません。スポンサーの影響も受けますし、政治的バイアスもあります。しかし、少なくとも「何が争点で、どこが分かっておらず、誰の利害が衝突しているのか」を整理しようとする最低限の知的誠実さは保たれています。ところが日本では、その手前で話が終わってしまう。原因は明白です。日本のメディア自身が、日本という国を相対化して理解しようとしていないからです。

政治の話になると、日本の報道は急に情緒過多になります。怒り、悲しみ、正義感――いずれも大切な感情ですが、それらが事実や構造分析を押し流してしまっては本末転倒です。マックス・ウェーバーが語った「レジティマシー(正統性)」の議論など、ほとんど耳にすることがありません。誰が、なぜ、どのような正統性をもって権力を行使しているのか。国家も都市も、そこを問わずに語れるほど単純ではないはずです。

にもかかわらず、テレビに登場する「知識人」や「有識者」たちは、疑念を投げかけるよりも、場の空気を整えることに熱心です。異論は「炎上リスク」、沈黙は「大人の対応」。こうして議論は痩せ細り、思考の筋肉は衰えていきます。本来、信念と疑念がぶつかり合うことで思想は鍛えられるはずですが、今や疑念そのものがマナー違反のように扱われているのです。

日本のジャーナリズムが劣化した理由は、一つではありません。記者クラブ制度、視聴率至上主義、広告依存、そして教育の問題。特に教育の影響は深刻です。受験を目的化した教育は、問いを立てる力ではなく、正解を当てる技術だけを磨いてきました。その結果、「分からないことを分からないと言う」「仮説を立てて検証する」といった思考の基本動作が社会全体で弱体化しています。

面白いのは、中国の若者の方がこの点ではよほど健全だという事実です。彼らは人民日報や国営テレビを鵜呑みにしません。「報道の逆を考える」というリテラシーが、皮肉にも全体主義体制の中で育っている。一方、日本では「自由な報道」があるはずなのに、それを無批判に消費するだけの大衆が量産されています。トーマス・ジェファーソンの言葉を借りるなら、「新聞ばかり読む人は、何も読まない人より教養がない」という状況が、テレビを含めて拡張されているように見えます。

かつて小林秀雄は、敗戦直後の講演で「人生観」という言葉の軽さを指摘しました。今の日本は、その軽さを思想だけでなく、報道にも持ち込んでしまったようです。重たい問題を、軽やかなトークで処理する。その場では分かった気になりますが、何も残らない。まるで栄養バランスを考えないファストフードのような報道が、毎日大量に消費されています。

社会の木鐸とは、本来、不人気で、面倒で、時に嫌われる存在です。叩かれても黙らず、空気を読まず、問い続ける。ユーモアとは、その厳しさを和らげるための知性であり、決して思考停止の潤滑油ではありません。しかし今の日本のメディアは、ユーモアを「笑い」に矮小化し、皮肉を「悪意」と誤解しているように見えます。

坂口安吾は「もっと堕落しろ」と言いました。堕ちきることで、初めて目が覚めるかもしれない、と。日本のジャーナリズムも、もしかすると今はその段階にあるのかもしれません。どこまで堕ちるのか、いつ目覚めるのか、それは分かりません。ただ一つ言えるのは、社会の木鐸が沈黙したままでは、国家の未来図は決して描けないということです。

木鐸は、誰かが叩いてくれるのを待つものではありません。自らの内部に空洞を持ち、響く準備ができているかどうか。その問いは、メディアだけでなく、私たち一人一人にも向けられているのだと思います。

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