2026年1月25日日曜日

精神のリレーは、どこで途切れたのか ――本を読まなくなった日本と、子どもたちに何を手渡せるか

 
北斎の地方測量の図

江戸時代という「成熟した社会」


私は、江戸時代を高く評価しています。もしかすると、日本人が最も安定し、最も「幸せ」に近い時代だったのではないかとさえ思うのです。それは決して、貧しさや身分制度を美化したいという意味ではありません。むしろ、江戸社会が持っていた身の丈に合った統治、共同体のサイズ感、教育と道徳の在り方に、現代の日本が失ってしまった多くのヒントが隠されていると感じるからです。

明治政府は、幕藩体制を解体し、西欧型の近代国家を急いで作ろうとしました。しかし、その近代化はどこか「上滑り」でした。国家のために働くという意識を、制度としては導入できても、精神としては根付かせることができなかった。結果として、日本人にとっての統治の単位は、国家ではなく、最後まで「村」や「地域共同体」に留まったのではないでしょうか。

江戸時代の社会は、藩という分権的な構造のもと、村落共同体が生活と秩序を支えていました。人々は顔の見える関係の中で生き、過度な競争や中央集権的な管理とは無縁でした。コントロールスパンとしては、まさにそこが限界であり、同時に最適解だったのだと思います。

教育も同様です。全国に三万以上存在した寺子屋は、庶民のための実に優れた教育システムでした。教師と生徒という関係ではなく、師匠と弟子、人と人との信頼関係を軸に、「教える」よりも「学ぶ」ことが重視されました。年長者が年少者を教え、知識だけでなく、徳や振る舞いを自然に身につけていく。これは、現代のeラーニングや画一的な教育制度では決して代替できないものです。

また、江戸時代の日本人は、決して内向きではありませんでした。いわゆる「鎖国」とは、世界から目を閉ざした政策ではなく、宗教を侵略の道具としない国々と選別的に交流する、極めて現実的な外交戦略でした。ペリー来航以前に、欧米が日本を高度な教育水準と治安を誇る国として認識していた事実は、もっと知られてよいと思います。

明治以降、無理な近代化は多くの歪みを生みました。その矛盾の隙間に軍国主義が入り込み、昭和の十五年戦争へと突き進み、敗戦後はアメリカの庇護のもとで「思考停止の平和」と「自己欺瞞」が続いています。国家の独立とは何か、日本人の誇りとは何かを、正面から考える機会は、先送りされ続けてきました。

江戸時代の人々は、落語や時代小説に象徴されるように、ユーモアと余裕を持ち、葛藤や緊張と共に生きていました。多様性があり、均一ではなかったからこそ、個人と集団の間に健全な摩擦が存在していたのです。今の金太郎飴のような社会より、よほど成熟していたのではないでしょうか。

グローバル化とは、無国籍になることではありません。自分の立脚点を明確にし、他者と向き合うことです。江戸時代の日本人が自然に持っていた愛郷心や倫理観は、日本のアイデンティティの重要な欠片です。それらをゼロから作り直す必要はありません。忘れ去られたものを、一つひとつ拾い集め、つなぎ直せばいいのです。

江戸時代を見直すことは、過去に逃げることではありません。日本人がどこから来て、どこで道を誤ったのかを知るための、未来への作業なのだと思います。
  
では、精神のリレーは、いったいどこで間違ったのでしょうか。
  
本を読まなくなったこと、それ以上に、「物語を共有しなくなったこと」が決定的だったと思います。今の日本では、精神のリレーが完全に途絶える可能性すら出てきました。これは大げさではありません。由々しき事態です。しかも、生成AIの中途半端な理解は、その断絶にさらに加速度を与えています。

だからこそ、私は、江戸時代の小説や時代劇の価値を、あらためて見直すべきだと考えています。もし公共性という言葉に意味があるのなら、政府がファンドしてでも、時代劇を作り続ける意義は十分にあるはずです。

害を及ぼすことしかないテレビ番組、特に「報道番組」と称しながら思考を奪うだけの番組を無くし、日本の文化や精神を未来へリレーする物語に投資する。これは懐古ではなく、未来への戦略です。

江戸時代を学ぶとは、過去に戻ることではありません。日本人が何を大切にし、どこで受け渡しを誤ったのかを知ることです。精神のリレーを、もう一度つなぎ直す。その作業を放棄した社会に、未来はないのだと思います。

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