2026年1月24日土曜日

なぜ日本は「狡猾(したたか)」になれなかったのか ――事実の隠ぺいと自己欺瞞、そして失われた政治感覚

 何を守り、何を子どもへ渡してきたのだろうか?

<正論>日本の国際政治上の威信維持へ「狡猾の感性」を復権させるとき
東洋学園大学教授・櫻田淳  2026/1/22 08:00

https://www.sankei.com/article/20260122-NK6UUOGF7JKRFBIHT3ZRPSC6WI/


永井陽之助の名前を目にして、久しぶりにその議論を思い出しました。それは、日本が国際政治の現実をどう見誤ってきたか、という問題です。 永井氏といえば、エリック・ホッファーの翻訳で知られていますが、同時に、日本の国際政治論に「現実を見る目」を持ち込んだ人物でもありました。

事実の隠ぺいや自己欺瞞の歴史は、どの国にもあります。アメリカにも、イギリスにも、フランスにもあります。問題は、それが存在するかどうかではなく、それを「自覚している人がどれだけいるか」ではないでしょうか。私には、日本はこの点で、他国よりも厳しい状況にあるように思えます。

中国共産党は、その典型でしょう。彼らは自らの正統性が脆弱であることを、少なくとも内心では理解しています。だからこそ、狡猾であり、計算高く、国際社会に対して仮面を使い分ける感性を持っている。これは道徳的に評価すべきことではありませんが、政治的現実としては否定しがたい事実です。

アメリカも同じです。トランプ氏の振る舞いは、しばしば中国の習近平と比較されますが、私には両者は本質的に似た存在に見えます。共産党という組織ではなく、「トランプ帝国」という個人に権力が集中しているだけの違いです。そこに理念があるかどうかより、力をどう使うかが優先されている点では、大差はありません。

では、日本はどうでしょうか。日本はしばしば「威信」を語りますが、そもそもアメリカの強い影響下にあるこの国に、失われるほどの威信が本当に残っているのか、私は疑問に思います。道徳を語る一方で、現実政治における計算や狡猾さを軽視し、結果として誰にも本気で相手にされない――そんな立場に陥ってはいないでしょうか。

和魂洋才や面従腹背といった言葉が示していた明治の気骨は、もはや一ミリも残っていない。そもそも明治の近代化そのものが、精神の近代化を本気で引き受けたものだったのかと問えば、答えは心もとない。制度や技術は西洋から急ごしらえで移植したが、内面の自立や批判精神までは育たず、近代化は結局、表層的な西洋化にとどまりました。

昭和の敗戦後、日本はその反省すら十分に行わないまま、今度はひたすらアメリカ化へと突き進んだ。とはいえ、昭和の時代には、ほんの数ミリではあれ、反骨精神を保ち続けた知識人が存在していたようにも思います。ところが現在はどうでしょうか。「敵」と「味方」を峻別する本質的な政治感覚や、立場や価値観の「濃淡」や「差異」を読み取る感受性は、どれほど雑巾をしぼっても、水一滴すら出てこないほど枯れ果ててしまった。

櫻田淳氏が述べる「狡猾の感性」とは、道徳を捨てることではありません。むしろ、道徳や倫理の価値をよく理解したうえで、それをいつ、誰に対して、どのように使うのかを判断する能力のことです。「国際政治では力こそがすべてだ」という単純な現実主義に流されることも、逆に、きれいごとだけで世界が動くと信じることも、どちらも危うい。

日本に必要なのは、純粋さでも、潔癖さでもなく、自分たちが置かれている現実を直視する冷静さではないでしょうか。自己欺瞞に気づかないまま道徳を語ることほど、国際政治の場で危険なことはありません。永井陽之助が語った「狡猾の感性」は、いまこそ、日本が取り戻すべき感覚なのだと思います。

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