
20年ほど前、ニューヨーク郊外タリータウンにて。
いま思えば、このときも、Yさんは変わらぬ距離感で隣に立っていました。
寛容さという、いちばん難しい技術
――Yさんの十回忌に寄せて
先輩であり、友人でもあったYさんが亡くなって、今年で十回忌を迎えます。同じ会社にいたのは1983年ごろからですから、付き合いは三十年以上になります。1990年ごろ、ドイツ駐在中だったYさんご一家が、ニューヨークの私の家に遊びに来てくれたこともありました。
振り返ってみると、いちばん強く思い出されるのは、Yさんとの散歩です。
私たちは何度も、お茶の水の聖橋で待ち合わせました。そこから湯島へ、谷中へ、時には上野まで、特に行き先を決めるでもなく、さまざまな話をしながら歩きました。仕事の話、技術の話、時事の話、ときには取り留めのない雑談。歩く速度も、会話の間も、いつも不思議と心地よかった。
途中で、Yさん行きつけの蕎麦屋に立ち寄り、ヘギ蕎麦を食べるのも楽しみの一つでした。向かい合って蕎麦をすすりながら交わす、とりとめのない会話が、なぜかとても心地よかったのです。
Yさんと最後に話したのは、亡くなる数日前の電話でした。
会話の内容は、ほとんど覚えていません。
ただ、そのときの自分の態度だけが、妙に鮮明に残っています。私は年下のくせに、Yさんに対していつもダメ出しをしていました。電話口でも、些細なことでつっかかる。すると空気は一気に重くなり、電話を切ったあと、決まって自己嫌悪に陥っていました。最後の電話も、結局そんな感じでした。
それでもYさんは、私の話を遮ることなく、最後まで聞いてくれました。
意見が違っても、声を荒らげることも、表情を変えることもない。ただ、受け止めてくれる。今思えば、あれは「我慢」ではなく、「寛容」だったのだと思います。なぜ、あのときもっとYさんの話に耳を傾けられなかったのか。聖橋から谷中まで、あれほど一緒に歩いた時間がありながら、その意味を十分に受け取れていなかった気がします。
Yさんは、ITのスペシャリストでした。
企業の現場で技術を磨き続け、晩年には農林水産省のCIO補佐官として、行政の中枢にも関わっていました。理屈に厳しく、技術や制度には妥協しない。その一方で、人に対しては驚くほど柔らかかった。その両立こそが、Yさんの本質だったように思います。
今はAIの時代です。
10年が経ち、生成AIが当たり前のように使われる時代になりました。
フィジカルAIやロボットの話題も現実味を帯びてきています。こうした変化を前に、寛容さとは何か、人間はAIとどう向き合うべきか――そうしたことを、Yさんともう一度、歩きながら議論してみたかったと思います。
けれども、それはもう叶いません。
AIは間違える、信用できない、といった声も多く聞かれます。しかし、異なる仕組みで考える存在を、私たちはどれほど理解しようとしているでしょうか。思えば私は、生きている人間であるYさんに対してさえ、理解する前に裁いていたのかもしれません。今になって思えば、ずいぶん傲慢でした。
社会は、異質な存在や新参者に対する一定の寛容さによって成り立ってきました。それは甘さではなく、責任であり、強さでもあります。排除ではなく、筋を通す。その姿勢を、Yさんは言葉ではなく、態度で示していました。
高齢者になって振り返ってみると、自分の最大の欠点は「寛容さが足りないこと」だったと痛感します。年を重ねるほど、それは簡単には身につかないものだと分かってきました。
けれども、聖橋から湯島へ、谷中へと一緒に歩いたあの時間と、Yさん、あなたの変わらない態度は、十年経った今も、私に問いを投げ続けています。寛容さという、いちばん古くて、いちばん難しい技術を、私はまだ学び続けているのだと思います。
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