2026年1月26日月曜日

政治が幼く見える理由――親として考えたい「言葉」と教養の話

 

AIが「答え」を出す時代に、
人間に残されるのは、水面下で育つ力だ。


日本の政治を見て、私が考えていること

母国語の語彙が豊かで、表現の幅が広いほど、思考の空間も広がるのではないか。頭の中に言葉が多く存在すれば、それだけ考えを行き来させる余地が生まれる。逆に、使える言葉が少なければ、思考そのものが平板になってしまう。これは理屈というより、長年生きてきての体感です。

久しぶりに日曜朝の政治討論番組をテレビで観ました。大概は車の中で断片的にラジオで聞くのですが、 テレビで見ると、その酷さがよりはっきりします。 議論以前に、言葉が荒く、感情が表情に表れ、小学校の学級会のような政治家が多い。話している内容以上に、「この人は、どれだけ自分の言葉で物事を考えてきたのだろうか」と、そこが気になってしまったのです。言語は、その人の教養や人格を隠さずに映し出します。

もっとも、私自身も偉そうなことは言えません。語彙や表現力の乏しさに愕然とすることは、今でもあります。ブログを書くという行為は、書き手の力量を容赦なくさらすものです。その覚悟がなければ続けられない。そう思いつつ、 もう若くはありませんから 、今さら取り繕っても仕方がないと開き直って40年以上ぐだぐだと日記を書いています(年寄りは傲慢ですからね、、、、)。

突然に衆議院選挙が始まりました。日本の政治を見ていると、「政治ごっこ」という言葉が浮かぶことがあります。海外で暮らした時間が長かったせいで、私の感覚がずれているのかもしれません。しかし、テレビカメラの前で感情を制御できず、理念よりもその場の受けを優先する姿を見ると、どうしても幼さを感じてしまいます。

その原因の一つは、教養の欠如ではないかと考えています。教養とは単に知識量のことではありません。世界の歴史の流れをどう理解しているか、自分の国が国際社会でどんな位置にあるのか、そして自分自身が国民から何を託されているのかを、どれだけ自覚しているか。それらを含めた「生き方」そのものだと思います。

福沢諭吉は『学問のすすめ』で「人望」について語りました。多くの人から「あの人に任せておけば大丈夫だ」と思われること。それが教養の一つの形ではないでしょうか。権威や肩書きではなく、その人の姿勢や言葉、振る舞いから自然と伝わるものです。

政治と教育は切り離せません。国のビジョンが曖昧なままでは、教育も根を失います。義務教育は、子どもたちに日本人としての自信と希望を持たせる場であるべきだと思います。良いところも、失敗した歴史も、感情論ではなく、きちんと教える。それができなければ、考える力は育ちません。

私は本を読むとき、著者と議論するように読んできました。ページの余白に反論を書き込み、納得できないところで立ち止まる。本と格闘する経験は、思考の基礎訓練になります。討論番組が討論にならないのは、こうした訓練が不足しているからかもしれません。

オルテガは『大衆の反逆』で、凡庸さが権力を握る危険を指摘しました。思想を持たないまま声だけが大きくなり、創造的な少数を敵視する。マス・メディアやSNSが発達した現代では、その傾向はより強まっています。自分で考える努力を放棄した社会は、外からいくらでも誘導されてしまうでしょう。

それでも、私は絶望だけを語りたいわけではありません。教育を通じて、母国語で考える力を取り戻すことは可能だと思っています。AIが普及する時代だからこそ、自分の頭で問いを立て、判断する力が一層重要になります。

日本の政治に違和感を覚えるのは、政治家だけの問題ではなく、私たち自身の問題でもある。そう自戒しながら、これからも考え続けていきたいと思います。上手な答えは出なくても、考えることをやめない。それだけは手放したくありません。

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