最近、劣等感について「理想の自分と今の自分のギャップが劣等感だ」と説明する文章を目にしました。アドラー心理学に基づく整理であり、劣等感を前向きな成長のエネルギーとして捉え直そうとする姿勢には、一理あると思います。劣等感それ自体は悪ではなく、解釈と行動次第で人生を前に進める力にも、足かせにもなる。事実は一つでも、解釈は無限である、という指摘も納得できます。
ただ、私はこの説明にどうしても引っかかりを覚えます。劣等感を「理想の自分」と「今の自分」の差として一般化してしまうと、見落とされるものがあると感じるからです。
比較しない人生と、「自分の軸」
私はこれまでの人生で、特別に優れた能力を持っていたわけでもなく、運動ができたわけでも、芸術的才能に恵まれていたわけでもありません。容姿もごく普通です。それでも致命的な失敗をせず、高齢者になるまでやって来られた理由を考えると、自分は劣等感も優越感も、人より弱かったのではないかと思うのです。
その理由は単純です。他者と比較して生きてこなかったからです。
中高生の頃の自我の成立に、他者の影響が比較的少なかったのかも知れません。十代の半ばには、すでに自分なりの価値観や人生観、死生観のようなものがありました。それは完成された思想ではありませんが、「自分はこう生きる」という軸のようなものです。通信簿のコメントには、「協調性がない」と共に、「競争心に欠ける」と書かれていました。
この軸があったため、他人の成功や評価を自分の尺度に持ち込まずに済んだ。結果として、「理想の自分」と「今の自分」を常に見比べる必要もなかったのだと思います。
劣等感と優越感は、同じ根から生える
劣等感が厄介なのは、それが個人のマインドを支配してしまうときです。劣等感は、往々にして他者との比較から生まれます。比較が始まると、人は自分の内側ではなく、外側の序列に価値判断を委ねるようになります。
そしてこの構造は、劣等感と優越感を同時に生み出します。どちらも同じ根から生えている感情です。
政治家でトップに上り詰める人たちを見ていると、この「劣等感と優越感の混合物」、つまりコンプレックスに強く支配されている人が少なくありません。総理大臣という地位にまで執着する背景には、理念や使命感よりも、内面の欠落感や承認欲求が透けて見えることがあります。
これは決して珍しい話ではありません。
国家と教育に埋め込まれた「比較の構造」
日本社会全体を見渡しても、この構造は繰り返されています。明治以降、日本は西欧に対する劣等感と優越感の間で揺れ動き、敗戦後はそれがアメリカに置き換わりました。夏目漱石がロンドンで精神を病んだ時代から、ほとんど変わっていません。
国家としての総括や学習を怠り、三百万人以上が亡くなった戦争の原因すら曖昧なまま、記憶喪失のように現代に至っている。この土台の弱さが、個人のコンプレックスを増幅させているように思えます。
福沢諭吉は『学問のすゝめ』で、envy を「怨望」と訳し、これを人間にとって最も害のある徳の欠如だと述べました。他人と幸福の水準を比較し、自分のほうが不幸だと感じたとき、自分を高めるのではなく、他人を引きずり下ろそうとする心。それが怨望です。これは劣等感が歪んだ形で固定化した状態と言えるでしょう。
教育の問題も、ここに直結しています。日本の教育は知識量を重視する一方で、概念を育てる訓練が不足しています。概念とは、世界をどう捉えるかという思考の枠組みです。
これが育たないと、自分の価値観や判断基準を内側に持てず、外部の評価や序列に過剰に適応するしかなくなります。その結果、劣等感と優越感の間をメトロノームのように揺れ続ける人間が量産されてしまう。
同じ条件を与えること(平等)と、同じ結果に到達できるよう条件を調整すること(公平)は、似ているようで本質的に異なる。この図は、教育を点数や順位で比較する仕組みにしてしまうと、子ども一人ひとりの違いや背景が見えなくなり、上位には優越感を、下位には劣等感を同時に生み出してしまうことを象徴的に示している。
「未熟さ」を生きるという態度
私はこれまで、「自分は未熟である」という前提で生きてきました。しかし、それは劣等感ではありません。未熟であるという事実を受け入れたうえで、そこに可能性を見るという態度です。
未熟さにコンプレックスを感じる必要はないと思う。未熟であるということは、まだ余白があるということです。楽しめばいいのです。死ぬまで。
劣等感を「理想とのギャップ」として捉える発想は、成長を促す場合もあるでしょう。しかし、それ以前に必要なのは、他者との比較から距離を取り、自分なりの世界観や価値観を持つことです。
劣等感をどう使うか以前に、劣等感に支配されない構造をどう作るか。そこにこそ、教育と個人の生き方の本質的な課題があると、私は考えています。
少し、大げさですかね?
AIという鏡の前で、人間は何を問われているのか
ここで、AIの存在を考えてみる必要があります。AIは、人間よりも速く、正確に、そして大量に「正解らしきもの(ハルシネーション)」を提示します。知識量、処理速度、網羅性――そうした指標で見れば、多くの分野で人間はすでにAIに劣っています。
この事実だけを切り取れば、AIは新たな「比較対象」となり、人間の劣等感を刺激する存在に見えるかもしれません。
しかし、ここでも問題は能力差そのものではなく、「比較の構造」にあります。AIは序列を気にせず、承認も欲しがらず、劣等感も優越感も持ちません。ただ与えられた条件のもとで応答する存在です。
人間がAIに対して劣等感を覚えるとすれば、それはAIとの比較によって、自らを序列の中に置こうとする発想から生じています。
むしろAIの登場は、人間に問いを突きつけています。
「あなたは、何を基準に自分の価値を測っているのか」と。
他者との比較、社会的評価、数値化された成果――そうした外部基準に依存してきた生き方は、AIの前では容易に崩れます。だからこそ、これからの時代に重要になるのは、AIに勝つことでも、AIを恐れることでもありません。比較から自由になり、自分なりの世界観や価値基準を持つことです。
劣等感とは克服すべき欠陥ではなく、自分が何者であり、どこへ向かおうとしているのかを静かに問い返してくる、内なる羅針盤なのかもしれません。
AIという鏡の前に立たされた今こそ、人間はようやく、比較ではなく思想によって生きることを求められているのだと思います。
***


0 件のコメント:
コメントを投稿