静と動――武士道が伝えてきた『義』の二つの表情
2026年年初に「義」を考える
――新保祐司・新渡戸稲造・アメリカ人の視点から――
私は新聞を読まなくなって何十年も経ちますが、
2026年元旦、産経新聞の「正論」で、文芸評論家・
新保氏は、日本が内憂外患の危機に直面するいま、必要なのは制度改革や対症療法ではなく、「義」を時代思潮の基調に据えることだと述べています。そして令和を「第2の明治」と捉え、明治の精神の核心こそが「義」であったと指摘します。
新保氏が引くのは、札幌農学校に学んだ内村鑑三と新渡戸稲造です。内村の『後世への最大遺物』が説く「勇ましい高尚なる生涯」、新渡戸の『武士道』が最初に掲げる徳目「義」。それらはいずれも、損得や空気ではなく、正しいと信じる道を実践する生き方を意味しています。
新保氏の文章で印象的なのは、「昨年は『勇ましい高尚なる生涯』とは対極的な出処進退を随分見せられた。もうたくさんである」という一節です。これは、近年の日本の政治や組織に蔓延する、責任回避や保身、責任転嫁への強い違和感を代弁しているように感じました。
新渡戸稲造『武士道』とは何か
新渡戸稲造の『武士道』は、明治33年に英文で出版されました。序文には有名なエピソードがあります。
新渡戸稲造の『武士道』は、明治33年に英文で出版されました。序文には有名なエピソードがあります。
ベルギーの法学者から「日本には宗教教育がないのに、どうやって道徳教育をするのか」と問われ、新渡戸は自分に善悪の観念を植え付けたのが「武士道」だったことに気づいた、と述べています。
アメリカやヨーロッパでは、宗教が道徳の基盤です。ニューヨークでは、ユダヤ教の祝祭日を考慮したスクールカレンダーが組まれ、子どもは宗教や民族意識の中で育ちます。一方、日本人の日常生活では宗教心はほとんど表に出てきません。新渡戸はそこを否定するのではなく、「宗教に代替する精神的基盤としての武士道」を提示しました。それが「The Soul of Japan」「The Yamato Spirit」です。
『武士道』は全17章からなり、3章から11章で徳目が体系的に論じられます。最初に置かれているのが「義(Rectitude or Justice)」です。義とは、単なる正しさではなく、「敢為堅忍」、すなわち実行力と忍耐力を伴った決断の力だと説明されます。義のない勇気は無謀であり、義のない礼は猿芝居であり、義を欠けば名誉も忠義も成り立たない。これらの徳目は相互に結合した一つの体系なのです。
私自身、この本は夏目漱石の『私の個人主義』と並ぶ座右の銘です。英語は難しいですが、三年間の中学英語は『武士道』一冊で十分だと本気で思っています。「The feeling of distress(惻隠の情)」などの表現を、外国人との会話でさらっと使えたら、それだけで日本人としての背骨が伝わるはずです。余談ですが、私は『武士道』は、新渡戸がクエーカー教徒であるアメリカ人の奥様に書いたラブレターのように感じます。
アメリカ人の考える「義」
興味深いのは、「義」は決して日本人だけの専売特許ではないことです。アメリカで仕事をしていた頃、私の周囲には海軍や海兵隊の将校出身者が何人もいました。彼らに共通していたのは、強い「sense of obligation」、つまり義務感でした。
興味深いのは、「義」は決して日本人だけの専売特許ではないことです。アメリカで仕事をしていた頃、私の周囲には海軍や海兵隊の将校出身者が何人もいました。彼らに共通していたのは、強い「sense of obligation」、つまり義務感でした。
日系人初の米太平洋艦隊司令官、ハリー・ハリス提督は、日本人の母から「義理(duty)」を叩き込まれたと語っています。「国民は国家が必要とするときに奉仕する」という感覚は、アメリカではごく自然なものです。義務と責任が対になっている社会だからです。
ルース・ベネディクトは『菊と刀』で「義理は日本人特有の範疇だ」と述べましたが、私は必ずしもそうは思いません。中国人にも、アメリカ人にも義を重んじる人はいます。問題は、現代社会において、正義の道理を勇気をもって実行する人が極端に少なくなったことです。
スペインの哲学者オルテガが「我は我と我が状況である」と言い、エリック・ホッファーが群衆心理の中で描いたように、人は環境と人間関係によって形づくられます。義を欠いたネットワークに身を置けば、義は育たないのです。
「武士道」は生きているか
新渡戸稲造は『武士道』の終盤で問いかけます。
Is Bushido Still Alive?
吉田松陰の
新渡戸稲造は『武士道』の終盤で問いかけます。
Is Bushido Still Alive?
吉田松陰の
「かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂」を英語で紹介しながら、武士道とは状況に流されず、覚悟をもって行動する精神だと示しました。
いまの日本で、「やむにやまれぬ」という言葉が、どれほどの重みをもって使われているでしょうか。権力を守るために仲間を裏切り、責任を国民に転嫁する姿は、「The Soul of Japan」とは正反対です。
新保祐司氏が期待するように、厳しい国際環境が日本人の皮膚に「搔痕」を与え、その下から「一人の武士」が現れるのかどうか。その答えは、私たち一人ひとりが「義」を自分の問題として引き受けるかどうかにかかっています。
もし『武士道』を読んだことがなければ、ぜひ一度手に取ってみてください。そこには、今の日本に最も欠けている背骨が、静かに、しかし揺るぎなく書かれています。
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