2026年1月12日月曜日

日本はどこへ向かっているのか――ロードマップ(続編)

 

これからの世界を、生きていく世代


毎日のニュースを見ながら、「これは自分の生活や、子どもの将来と本当に関係があるのだろうか」と感じたことはないでしょうか?

国際情勢や安全保障の話題は、難しく、どこか遠い世界の出来事のように語られがちです。しかし、親として考えてみると、それらは決して無関係ではありません。どんな価値観のもとで社会が動き、どんな力関係の中で国が判断を下しているのかは、子どもたちがこれから生きる環境そのものを形づくるからです。

いま私たちが直面しているのは、
  • 善悪ではなく力が支配する世界
  • 大人が説明を放棄すると、子どもは空気だけを学ぶ
今回は、専門家の議論ではなく、親の立場から、今の世界と日本のあり方を考えてみたいと思います。

「世界のヤクザ化」と日本の立ち位置を、現場感覚から考える

本稿は、特定の「思想」や「立場」から世界情勢を論じるものではありません。親米でも反米でもなく、右翼でもリベラリストでもない、ごく普通の一個人が、長い時間と複数の現場をくぐり抜けてきた経験から感じている違和感を、言葉にしておこうという試みです。

結論から述べます。

現在のアメリカ、中国、ロシアは、私の感覚では「仁義を失ったヤクザ組織」に近い振る舞いを見せています。これは感情的な罵倒ではありません。秩序がどのように保たれ、どのように壊れていくのか、その構造についての話です。

任侠とヤクザの決定的な違い

私が1970年代半ば、10代を過ごした大阪ミナミの世界には、少なくとも二つの層がありました。一つは、いわゆる任侠の世界、つまり理念としての姿です。そこでは、弱い者を守ること、筋を通すこと、仁義を切ることが重んじられていました。また、越えてはならない一線については暗黙の了解があり、何よりも約束を破ることが最大の恥とされていました。

もう一つは、そこから堕落した、ただの暴力団です。こちらは利益最優先で、恐怖によって支配し、嘘や裏切り、言い訳が常態化しています。上に立つ者は責任を取らず、外面だけは立派に整える。両者の違いは明確でした。

任侠とは、秩序を保つための暴力です。一方、ヤクザ化とは、秩序を壊すための暴力です。この区別を見失うと、世界で起きていることは理解できません。

冷戦期までのアメリカには「仁義」があった

私が長く身を置いてきたアメリカ社会を振り返ると、かつては国家としての「仁義」が確かに存在していました。それは、WASPが支配していた時代であり、アメリカに余裕があった頃でもあります。少なくとも当時のアメリカは、条約を重んじ、同盟国への配慮を一応は示し、「最後の一線」を守ろうとしていました。

ルールを破るときでさえ、建前としての理由を語ろうとしました。これは、国家レベルにおける任侠的な振る舞いだったと言えるでしょう。もちろん、完全に清廉だったわけではありません。しかし、「筋を通しているつもりではあった」という点に、一定の秩序が存在していました。その均衡が、ベトナム戦争あたりから徐々に崩れていったのです。

いまのアメリカは「ヤクザ化」している

近年のアメリカを見ていると、その変質は明らかです。約束よりも国内政治を優先し、同盟国を便利な下請けのように扱い、利益がなければ切り捨てる。しかし、責任は取らない。そして自分たちの暴走は「正義」と声高に叫ぶ。

これはもはや「親分」でも「任侠」でもありません。看板だけが残った暴力装置です。アメリカと長く関わってきた人ほど、この違和感を強く覚えるのではないでしょうか。

中国・ロシアは最初から「仁義を持たない型」

一方で、中国やロシアは少し性質が異なります。彼らの特徴は、仁義よりも面子を重んじ、約束よりも力関係を優先する点にあります。弱者保護という発想は乏しく、ルールは支配者の都合で書き換えられます。

彼らは、任侠から堕ちた存在ではありません。最初からヤクザ的な統治構造を持ってきた国家です。だからこそ、交渉の作法も前提も、西側の感覚とは根本的に異なります。

日本が一番まずい立場にいる理由

問題は、日本の立ち位置です。日本は今も、義や恥、約束といった任侠的価値を、どこかで信じています。しかし、相手はすでにそれを共有していません。それでもなお、「きっと分かってくれる」と期待してしまう。

私が10代を過ごした大阪ミナミの感覚で言えば、これは「もう仁義が通じない組織相手に、昔の筋を期待しているカタギ」です。最も危険な立ち位置だと言わざるを得ません。

私の視点について

私は、日本社会の内側も、アメリカの組織の内側も、そして暴力が日常に近かった空間も、すべて現実として見てきました。だから、親米でも反米でもなく、特定のイデオロギーに依拠しているわけでもありません。ただ、「空気が変質している」という事実に気づいているだけです。

この感覚は、メディアに登場する多くのコメンテーターや国際政治学者には、必ずしも共有されていないように感じます。

まとめ

私が一貫して書いているのは、独立宣言ではなく交渉であり、感情ではなく条件であり、夢想ではなく現実です。これは、仁義が崩れた世界で、それでも生き延びるための最低限の知恵だと考えています。

最後に、問いを一つに集約します。
「世界がヤクザ化したとき、日本はどう振る舞うべきか」。

答えは一つです。仁義がある前提で動くのをやめ、仁義がない前提で、しかし自分たちは任侠心、つまり筋を失わない。そのために必要なのが、これまで提示してきたロードマップなのです。

※本稿で用いる「ヤクザ」という表現は、特定の個人や集団を指すものではありません。秩序や責任、約束といった倫理が失われた状態を説明するための比喩として用いています。

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