AIに何を教えるかではなく、AIの答えをどう疑い、どう判断するか。
その力を、日本の教育は育ててきただろうか。
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フェイクニュース時代に必要な“科学リテラシー”とは?AI、 SNS全盛で混沌とする社会を生き抜く術
横上菜月( Wedge編集部)
日本の教育は、なぜ思考力を育てられないのか
生成AIとSNSが日常に浸透し、真偽不明の情報が瞬時に拡散する時代において、「科学リテラシー」の重要性が改めて問われています。Wedgeの記事で石浦章一氏が指摘するように、科学的判断とは「絶対的な安全/危険」を断言することではなく、不確実性を前提に、確率と根拠をもとに考える態度であるということです。
しかし、こうした思考態度を日本の教育は本当に育てているのでしょうか?
日本の教育は考える訓練になっているか?
日本の初等・中等教育では、理科であれ国語であれ、「どう感じたか」「どう思ったか」という情緒的な反応が重視されがちです。観察結果から因果関係を考え、仮説を立てて説明する訓練は、十分に行われているとは言い難いと思います。実は、as-is を調査して因果関係を考え、仮説検証するのはコンサルティングの王道です。
欧米では、原子力や放射性廃棄物といったテーマを扱う際にも、「技術が社会にどのような影響を与えるか」「利点とリスクをどう評価するか」といった価値判断を含む議論が教育の中に組み込まれているようです。一方、日本の教科書は、放射線の種類や半減期といった事実説明にとどまり、社会的意味や判断のフレームワークをほとんど扱わない。
この差は、単なるカリキュラムの違いではないと思います。「考える訓練」をどこまで教育の中心に据えているかという、思想の違いなのです。
受験システムが破壊する思考の連続性
さらに深刻なのは、日本の受験システムが、教育内容そのものを無効化している点です。
直近30年の高校「現代国語」を見れば、その教材は明らかにポストモダン以降の世界観、価値観の多様性、不確実な社会をどう生きるかというテーマと重なっています。ibgで議論した「ポストコロナのPOVである『迷子になる地図』」とオーバーラップしています。(ibgで議論した「ポストコロナのPOVである『迷子になる地図』」、つまりあらかじめ用意された正解ルートが存在せず、立ち止まり、迷いながら考えることが求められる時代認識とオーバーラップしています)。
つまり、教科内容自体は「これからの世界」を見据えて設計されているのではないでしょうか?
ところが、その背景となる世界観は、入学試験において完全に無視される。入試が終わった瞬間、それまで読んできたテキストや思考の枠組みは「点数を取るための材料」として消費され、ゼロリセットされる。そのまま社会人になり、年は流れて定年を迎えるのです。
これは偶然ではないし、必然でもない。受験を頂点とする制度設計の中で、思考よりも選別を優先してきた結果なのです。
国語教育と受験の致命的な乖離
問題は、
教科内容の設計者は、おそらく現代国語を通じて
しかし、受験は「いかに効率よく正解を選ぶか」がすべてであり、塾や予備校はそのための思考を狭める技術を短期間で教え込む。入試問題は「選択する力」、つまり思考の幅を意図的に削ぎ落とす能力を要求する。
結果として、
善意に解釈すれば、学校教育は「自由に考える力」を育てようとしていると言えます。しかし受験は、それを全面的に否定している。これはもはや矛盾ではなく、構造的破壊と言ってよいのです。
AI時代に露呈する日本教育の弱点
生成AIは、この問題をさらに露わにします。
AIは「それらしい答え」を瞬時に生成します。だが、根拠を吟味し、確率で判断し、社会的影響まで考える責任は人間側に残されています。にもかかわらず、国語教育が本来担うべき論理的・概念的思考力が、受験によって骨抜きにされてきた日本では、AIの出力を批判的に読む力が育ちにくいのです。
コロナ禍のワクチン議論や原発問題で露呈したのも、「ゼロリスク」を求める非科学的態度でした。これは理科の問題ではなく、言語と思考の問題です。
教育を変えなければ、未来は変わらない
日本の政治家に感じる「人間的魅力の乏しさ」や「政治的リテラシーの不足」は、個人の資質の問題ではない。受験を頂点とする教育システムが、概念を扱う力、抽象的に考える力、文化的背景を踏まえて議論する力を削いできた結果なのです。有名大学の卒業証書が水戸黄門の印籠になっている。
フェイクニュースとAIが溢れる時代に必要なのは、
教育を変えなければ、日本の未来は変わらない。
***
横上菜月( Wedge編集部)
日本の教育は、なぜ思考力を育てられないのか
生成AIとSNSが日常に浸透し、真偽不明の情報が瞬時に拡散する時代において、「科学リテラシー」の重要性が改めて問われています。Wedgeの記事で石浦章一氏が指摘するように、科学的判断とは「絶対的な安全/危険」を断言することではなく、不確実性を前提に、確率と根拠をもとに考える態度であるということです。
しかし、こうした思考態度を日本の教育は本当に育てているのでしょうか?
日本の教育は考える訓練になっているか?
日本の初等・中等教育では、理科であれ国語であれ、「どう感じたか」「どう思ったか」という情緒的な反応が重視されがちです。観察結果から因果関係を考え、仮説を立てて説明する訓練は、十分に行われているとは言い難いと思います。実は、as-is を調査して因果関係を考え、仮説検証するのはコンサルティングの王道です。
欧米では、原子力や放射性廃棄物といったテーマを扱う際にも、「技術が社会にどのような影響を与えるか」「利点とリスクをどう評価するか」といった価値判断を含む議論が教育の中に組み込まれているようです。一方、日本の教科書は、放射線の種類や半減期といった事実説明にとどまり、社会的意味や判断のフレームワークをほとんど扱わない。
この差は、単なるカリキュラムの違いではないと思います。「考える訓練」をどこまで教育の中心に据えているかという、思想の違いなのです。
受験システムが破壊する思考の連続性
さらに深刻なのは、日本の受験システムが、教育内容そのものを無効化している点です。
直近30年の高校「現代国語」を見れば、その教材は明らかにポストモダン以降の世界観、価値観の多様性、不確実な社会をどう生きるかというテーマと重なっています。ibgで議論した「ポストコロナのPOVである『迷子になる地図』」とオーバーラップしています。(ibgで議論した「ポストコロナのPOVである『迷子になる地図』」、つまりあらかじめ用意された正解ルートが存在せず、立ち止まり、迷いながら考えることが求められる時代認識とオーバーラップしています)。
つまり、教科内容自体は「これからの世界」を見据えて設計されているのではないでしょうか?
ところが、その背景となる世界観は、入学試験において完全に無視される。入試が終わった瞬間、それまで読んできたテキストや思考の枠組みは「点数を取るための材料」として消費され、ゼロリセットされる。そのまま社会人になり、年は流れて定年を迎えるのです。
これは偶然ではないし、必然でもない。受験を頂点とする制度設計の中で、思考よりも選別を優先してきた結果なのです。
国語教育と受験の致命的な乖離
問題は、
- 現代国語の内容を設計した人々
- 受験テクニックを教える塾・予備校
- 現場の教師
教科内容の設計者は、おそらく現代国語を通じて
- 思考のフレームワーク
- 抽象化する力
- 異なる価値観を往復する知性
しかし、受験は「いかに効率よく正解を選ぶか」がすべてであり、塾や予備校はそのための思考を狭める技術を短期間で教え込む。入試問題は「選択する力」、つまり思考の幅を意図的に削ぎ落とす能力を要求する。
結果として、
- 学校で習う国語:視野を広げ、多様な考え方を学ぶ
- 受験で求められる国語:思考を限定し、迷わず切り捨てる
善意に解釈すれば、学校教育は「自由に考える力」を育てようとしていると言えます。しかし受験は、それを全面的に否定している。これはもはや矛盾ではなく、構造的破壊と言ってよいのです。
AI時代に露呈する日本教育の弱点
生成AIは、この問題をさらに露わにします。
AIは「それらしい答え」を瞬時に生成します。だが、根拠を吟味し、確率で判断し、社会的影響まで考える責任は人間側に残されています。にもかかわらず、国語教育が本来担うべき論理的・概念的思考力が、受験によって骨抜きにされてきた日本では、AIの出力を批判的に読む力が育ちにくいのです。
コロナ禍のワクチン議論や原発問題で露呈したのも、「ゼロリスク」を求める非科学的態度でした。これは理科の問題ではなく、言語と思考の問題です。
教育を変えなければ、未来は変わらない
日本の政治家に感じる「人間的魅力の乏しさ」や「政治的リテラシーの不足」は、個人の資質の問題ではない。受験を頂点とする教育システムが、概念を扱う力、抽象的に考える力、文化的背景を踏まえて議論する力を削いできた結果なのです。有名大学の卒業証書が水戸黄門の印籠になっている。
フェイクニュースとAIが溢れる時代に必要なのは、
- 母国語で深く考える力
- 科学的根拠を確率として評価する態度
- 思考の幅を広げたうえで判断する知性
教育を変えなければ、日本の未来は変わらない。
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