2026年1月30日金曜日

タコツボ社会という病理

タコツボ社会という病理

日本社会から世界へ広がる「自閉的共同体」の弊害

この図は、もともと日本社会の構造的な問題、いわゆる「タコツボ社会」の弊害を表現するために描いたものです。

タコツボ社会とは、組織や集団がそれぞれ狭い内部論理に閉じこもり、全体最適や他者との連携を顧みなくなる状態を指します。

日本の大企業を思い浮かべると、その姿は分かりやすいでしょう。製造部門、販売部門、物流部門、財務管理部門が、それぞれ自分たちの論理と都合で動き、横の連携が極端に弱い。部分最適は追求されますが、全体として会社がどこへ向かっているのかを誰も把握していない。結果として、非効率や責任の所在不明が常態化します。

この構造は、日本の教育システムにも色濃く表れています。

学校教育では、国語、数学、理科、社会、英語といった教科ごとに、多くの「柱」を次々と立てていきます。それ自体は知識を身につけるという意味で必要な作業です。しかし問題は、その柱同士をつなぐ「梁(はり)」が、ほとんど意識されないまま教育が進む点にあります。

知識をどう統合し、現実の社会や人生にどう結びつけるのか。本来ならば最も重要な問いが置き去りにされたまま、教育は大学受験へと突き進みます。そして入試が終わった瞬間、それまで必死に立ててきた柱は役目を終えたかのように忘れ去られていきます。学んだ知識が社会生活や現実の問題とどう関係するのかを考える機会は、ほとんど与えられません。

これはまさに、知のタコツボ化です。教科という名の壺の中で知識を詰め込み、壺の外とのつながりを考えない。その延長線上に、社会に出てからも全体を見渡せず、自分の担当領域だけに閉じこもる人間が生まれていくのは、ある意味で必然なのかもしれません。

このタコツボ構造は、戦前・戦中の日本にも重なります。

昭和の戦争を振り返れば、日本帝国において陸軍と海軍が事実上バラバラに行動していたことはよく知られています。国家存亡をかけた局面でさえ、組織間の連携や相互理解が欠如していた。ここにも、巨大なタコツボが並列して存在していた姿を見ることができます。

この図の下半分に描かれているのは、そうした「内輪だけの狭いコミュニティ」です。

外部の声は遮断され、異なる価値観は拒絶される。内部では自己正当化が繰り返され、やがて他の共同体に対して敵意すら向けるようになります。閉じこもるだけでなく、他者に対して攻撃的になるのが、この構造の危険な特徴です。

最たる例として、この図では宗教を象徴的に描いています。

本来、宗教は人間の内面を支え、倫理や節度をもたらすものだったはずです。しかし、共同体が自閉化すると、宗教は排他的なアイデンティティ装置へと変質します。「自分たちだけが正しい」「外は敵だ」という思考が強化され、反目と対立が固定化されていきます。

そして、この構図は宗教に限りません。昨今の世界情勢を見渡すと、強大な軍事力や経済力を持つ国家や巨大組織が、外部からの監視やコントロールを受けないまま、自分たちの利益と面子のためだけに行動している姿が目に入ります。閉じこもるだけでなく、他の共同体に対して攻撃的になる。その姿は、巨大化した自閉的共同体そのものです。

一方で、この図の上半分は「本来あるべき姿」を示しています。

組織は別であっても、人間である以上、相互理解と相互扶助が可能なはずです。立場や役割が違っても、対話を通じて相手の状況を想像し、必要であれば手を差し伸べる。そこには壁はあっても、完全な断絶はありません。

この上半分を貫くキーワードが「寛容」です。

寛容とは、相手に迎合することでも、無条件に許すことでもありません。自分とは異なる価値観や立場が存在することを認め、その存在を前提に関係を築こうとする態度です。教育においても、組織においても、国家においても、この寛容がなければ統合の梁は架かりません。

タコツボ社会の怖さは、当事者自身がその閉塞に気づきにくい点にあります。壁の内側だけが世界になり、外が見えなくなる。その状態が長く続くと、疑問を持つこと自体が裏切りとみなされるようになります。そうして社会は静かに、しかし確実に硬直していきます。

30年前に描いたこの図の問題意識は、残念ながら色あせるどころか、いまや日本社会を超え、世界全体の課題として私たちの前にあります。だからこそ、この図は過去の回顧ではなく、現在への警鐘として、改めて読み直されるべきものだと傲慢なジジイは思うのです。

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