2025年10月8日水曜日

フェミニズムと自由の原点 ― 高市総裁が映す“平等”のかたち

 
出典:Adobe Stock

自民党総裁選で高市早苗氏が新総裁に選出され、初の女性首相誕生の可能性が現実味を帯びてきました。これに対して、多くの国民からは期待や歓迎の声が上がっていますが、日本のフェミニズム研究の第一人者である社会学者・上野千鶴子氏は、「うれしくない」と率直な思いをX(旧ツイッター)で発信しました。

上野氏は、「初の女性首相が誕生するかもしれない、と聞いてもうれしくない」と投稿。さらに、スイスのシンクタンク「世界経済フォーラム」が毎年発表する「ジェンダーギャップ指数」に言及し、「来年は日本のランキングが上がるだろう。だからといって女性に優しい政治になるわけではない」と指摘しました。

特に上野氏は、高市氏が「選択的夫婦別姓」に慎重である姿勢を問題視。「これで選択的夫婦別姓は遠のくだろう。別姓に反対するのは誰に忖度しているのだろう?」と批判的な見方を示しました。もっとも、高市氏自身は旧姓の通称使用拡大に政治家として長年取り組んできた経緯があります。

一方で、立憲民主党の辻元清美参議院議員は、党派を超えて祝意を述べました。「高市さんと私は20代の頃から『朝まで生テレビ』で議論してきた対極の存在」としながらも、「ガラスの天井をひとつ破りましたね。たとえ意見や考え方が違っても、すべての人の幸福のために力を尽くす。その思いでしっかり熟議しましょう」と前向きなメッセージを送りました。

この辻元氏の発言には、普段彼女の政治姿勢に賛同しないと語る一部の有権者からも、「今回はよかった」「さすが大阪のおばちゃん」と評価の声があがりました。

高市氏の総裁就任を巡っては、社会的な立場や政治的な思想によって、評価が大きく分かれています。しかし、この議論から見えてくるのは、「女性であること」そのものよりも、「どのような価値観に基づき、どのような社会を目指すのか」という、より本質的な視点が問われているということです。

男であれ女であれ、魅力的な人は魅力的であり、家庭にいる女性もオフィスで働く女性も同じように尊重されるべきです。性別によって役割が決まるのではなく、互いの違いを認め合い、折り合いをつけながら共に生きていくことこそが、成熟した社会の姿といえるでしょう。

その意味で注目すべきなのは、社会主義者・北一輝の思想です。彼は社会主義者ですから、当然のごとく男女平等主義者でしたが、同時に「断じて同一の者に非ざる本質的差異」があることを認めていました。男と女は物理的に異なり、それぞれにしかできないこともある。互いに理解できない現実もある。にもかかわらず、人は努力して折り合いをつけながら共に生きていくものだ、という視点は、今日のジェンダー論にも通じる重要な視座ではないでしょうか。

ここで思い起こされるのが、アメリカ建国の精神です。

「すべての人は平等に造られている(All men are created equal)」という独立宣言の一節は、当初は女性や有色人種を含まない限定的なものでした。しかしその理念――「個人の自由と平等を守る」という普遍原理――が、のちの黒人解放運動や女性参政権運動、そしてフェミニズムの礎となっていきました。

つまり、フェミニズムとはアメリカ建国の「自由の精神」を、性の次元において拡張し、実践しようとする試みでもあるのです。性別を超えた「人間としての尊厳の平等」を求める思想こそ、民主主義の延長線上にあるべきものです。

とはいえ、今のアメリカ社会を見れば、その理想はむしろ遠のいているようにも見えます。分断と対立の構図は深まり、自由の名のもとに他者を排除する風潮すらある。皮肉なことに、アメリカ建国の理念は、最も古くに掲げられながら、最も実現が遅れている理想なのかもしれません。

もしかすると、「すべての人が平等に造られている」という思想は、日本が先に実現していたのではないか――そう感じる瞬間すらあるのです。

そして、そのような社会を目指すのであれば、「知ることと行うこと」が一致している(知行合一)、つまり「言っていることとやっていること」が一致している人物こそが信頼に値します。性別を盾にするのではなく、より抽象度の高い「平等」という理念にどう向き合うのかが、今まさに問われているのです。

フェミニズムとは、本来、性別を問わずすべての人が平等に扱われるべきだという思想です。日本ではしばしば誤解されがちで、「フェミニスト=女性を優遇する人」と捉えられることもありますが、それは本質ではありません。フェミニズムは、性差別をなくし、機会の平等を追求する考え方であり、男性でも女性でも支持しうる思想です。

つまり、「フェミニストは女性だけのもの」とするのではなく、性別に関係なく、すべての人がその理念を共有し得るものである――この視点が、これからの議論の出発点となるべきなのです。

なお、私自身は上野千鶴子さんについて深く知っているわけではありません。発言や立場を見る限り、非常に学者らしく、現実社会からはやや距離のある意識の持ち主であるように感じます。ときに、彼女のフェミニズムは「女性優位論」として映ることもあり、彼女の実生活と発言の間に乖離があるようにも見えます。つまり、「知行合一」とは程遠い印象を受けるのです。ファンの方には申し訳ありませんが、こうした違和感を覚える人も少なくないのではないでしょうか。

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