野球
(ネットで見つけた画像です)
昨日のワールドシリーズ第3戦、ドジャース対ブルージェイズは本当にすごかったですね。
延長18回、まるで二試合分のような死闘でした。びっくりしました。最後はフリーマンのウォークオフ・ホームラン(サヨナラ本塁打)で決まりましたが、私が心を打たれたのはやはり大谷翔平の姿でした。彼は勝敗だけを追っているのではない。
もちろん勝ちたい気持ちは誰よりも強いでしょう。
それでも彼の表情には、勝ち負けを超えた「野球そのもの」への愛情があふれていました。
延長18回を戦い抜いたあとも、大谷は笑っていた。
その笑顔を見て、敵味方の選手も観客も、誰もが感じていたはずです。
――大谷は、野球というスポーツそのものを愛しているのだと。
この姿を見て、私は言語学の「シニフィアン」と「シニフィエ」という概念を思い出しました。少し難しい言葉ですが、簡単にいえば「シニフィアン」は言葉の“かたち”、“音”であり、「シニフィエ」はその言葉が指し示す“意味”や“本質”のことです。
たとえば、赤ん坊が「りんご」という言葉を覚えるとき、最初はただ音として「りんご」を覚えます。そのあとに、丸くて赤くて甘い果物だと理解する。つまり「りんご」という音(シニフィアン)と、「果物としてのりんご」(シニフィエ)が結びつくことで、初めて“モノの概念”が形づくられていくのです。
そして、その「概念」は育つ文化や環境によって違ってきます。
私には二人の孫がいます。二人ともアメリカの南部で生活しています。
当然ながら英語の世界の中で成長している訳です。
ジージとしては少し寂しいのですが、私が「りんご」と言っても、彼らの頭の中に浮かぶ“apple”は、私が思い描く「りんご」とは少し違うのです。言葉を覚えるということは、同時に「世界の見方」を身につけることでもある――そう感じます。
だからこそ、私は幼児や小学生の「英語早期教育」に懐疑的です。言葉を学ぶことは単なるスキル(ツール)ではなく、その人がどんな文化の中で世界をどう感じ取るかという、もっと深い営みだからです。
大谷翔平が見せてくれるのは、まさに「シニフィエ=本質」を愛する姿勢だと思います。アメリカの野球、日本の野球という枠を超えて、彼は「野球そのもの」という普遍的な本質を楽しんでいる。その姿が観る人の心を打ち、国境を越えて感動を共有させるのです。
私たちも、ものごとを見るときに“思い込み”というフィルターを外し、
その奥にある「本質」に目を向けてみたい。
そうすれば、少し大げさかもしれませんが――
生きることそのものが、少し楽しくなるような気がします。
生きることそのものが、少し楽しくなるような気がします。
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