散歩
ある週刊誌で、ネット界の“論破王”と呼ばれる人物の「人生後半の生き方の記事」を読んで、頑固ジジイとしては一言、言いたくなりました。
彼は「生きる意味なんて考えるのは暇な人のすることだ」と言い切り、「おいしいごはんを食べる幸せが、一日を生きた意味だ」と続けていました。どうやら、「あまり深く考えずに、死ぬまで毎日をそれなりに楽しめばいいじゃないか」ということらしいのです。もし誤解があったらごめんなさいね。
しかし、いくら成功して財を成したとしても、まだ50歳にも満たない人が、高齢者に向かって人生論を上から目線で語るというのは、どうにもいただけません。彼の言葉には、苦しみながらも真剣に生きてきた体温や重み、そして謙虚さが感じられないのです。
小林秀雄は戦時中に「無常という事がわかっていない。常なるものを見失ったからである」と書きました。たった4ページの随筆に、人生の真実が詰まっています。時は流れ、人は老い、やがて死ぬ――それが無常です。しかし、この当たり前の真理を忘れた社会では、人間がどんどん軽くなっていく。軽くなれば、言葉もまた軽くなる。
では、「常なるもの」とは何でしょう。それは、過去から未来へと受け継がれていく命のつながりであり、私たち一人ひとりの中に流れている見えない根のようなものだと思います。人間は弱く、迷い、失敗します。それでも無常を意識しながら、日々を精一杯生きる――その営みこそが「生きる意味」なのではないでしょうか。
ここで思い出すのが、17世紀の哲学者パスカルの言葉です(「パスカルの定理」しか知らない?)。彼は『パンセ』(パスカルのメモであり日記)の中でこう書いています――
「人間は一本の葦にすぎない。自然の中でもっとも弱いものだ。だが、それは考える葦である。」
パスカルは、人間の弱さと同時に、「考える」ことこそが人間の尊厳であると説きました。嵐が吹けば折れてしまうような存在でも、宇宙の意味を問い、善と悪、愛と死を思索することができる。その思考の力こそが、人間を“ただの生物”から“人間”たらしめているというのです。
この観点から見れば、「考えることは暇な人のすることだ」という論破王氏の言葉は、まるでパスカルへの真っ向からの挑戦です。たしかに、過剰な思索が人を病ませることはあります。けれど、「考えないこと」が生きる知恵だとしたら、人間はもはや“考える葦”ではなく、ただの“風に揺れる草”と同じになってしまうのではないでしょうか。
論破王氏の言っていることは、戦後の日本の義務教育の産物そのもののように聞こえます。
「どこかの国が攻めてくることなんかないじゃないか。だから軍隊なんていらない。もし敵が攻めてきても白旗を挙げて降伏すればいい。たとえそうしなくても、国際連合が救ってくれるじゃないか。同盟国のアメリカだって黙っていないぞ!」
この論法と、彼の「生きる意味なんて考えるだけ無駄」という言葉は、どこか似ていると思いませんか?思考をやめて、他人の善意や仕組みに依存する。自らの主体を手放す。その先にあるのは、便利で安全かもしれないけれど、魂のない社会です。
もしパスカルがこの記事を読んだら、おそらくこう反論するでしょう。
「考えない人間は、もはや葦ですらない。」
ただし、年長者として少し弁護もしておきましょう。
論破王氏の言う「暇つぶしとして生きる」という発想も、現代の過剰ストレス社会においては、一種のサバイバル哲学なのかもしれません。仕事も人間関係も過密で、情報が洪水のように押し寄せる時代。彼は、人間の尊厳よりも「壊れないで生き延びること」を優先しているのです。つまり彼の本音はこうでしょう。――どんなに臆病でも卑怯でもいいじゃないか。風に吹かれても、壊れないで生きてさえいれば、と。
しかし、パスカルはそこに異を唱えるはずです。私も異を唱えます。
考えることは苦しみでもあるけれど、その苦しみを通してしか人間は成長しない。「考える」という行為こそが、私たちを人間として立たせる支柱なのです。思考を捨てた安寧は、見かけの平穏にすぎません。
「生きる意味を考えるのは暇だ」というのは、実は最も暇な人の発想かもしれません。虚無の中で「まあ、適当に生きればいい」と笑うのは、ニーチェの言う“末人”そのものです。自分の仕事や一日を、ひたむきに、真剣に生きること。それは若い人にも、高齢者にも共通の、人間としての誇りです。
パスカルはこうも書いています。
「人間の偉大さは、自分がみじめであることを知っている点にある。」
自分の弱さや空虚を見つめ、それでもなお意味を探そうとする。その姿こそが、人間の尊厳なのです。
だからこそ、人生とは、時間を潰すことではなく、無常の中で意味を見つけようとする営みそのものなのです。おいしいごはんを食べることも、誰かと笑い合うことも、それ自体が生きる意味であってよい。けれど、そこに「なぜ自分は笑うのか」「なぜ生きたいのか」と考える一瞬があるからこそ、人生は単なる暇つぶしではなく、物語になるのです。
生きるとは、考えること。
考えるとは、折れそうな自分を支えること。
パスカルの言う「考える葦」として、私は残りの人生も、風に吹かれながら考え続けたいと思います。
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