2025年10月30日木曜日

言葉の品格を失う社会へ ― メディアと言葉の暴力

 

昨今のメディアに出てくる人たちの言葉の乱れは、目に余るものがあります。堂々と間違った言葉づかいをし、それが繰り返されるうちに、あたかもそれが「正しい日本語」であるかのように広まってしまう。大げさに言えば、かつて日本社会に共通して存在していた「言葉の善」が崩れはじめているのではないでしょうか。


ある新聞のオピニオン欄で指摘されていたように、最近のメディア空間では「批判」と「ハラスメント」の境界があいまいになっています。政治家や公人に対して、政策論争ではなく、人格攻撃や嘲笑が先行する場面が増えている。報道の現場でも、関係者の軽率な発言が電波に乗るなど、「言葉の暴力」が常態化しつつあります。

本来、言葉は品格をともなうものでした。相手を敬う言葉づかいの中に、社会の秩序と人間の尊厳が宿っていた。ところが、いまの言葉は自己主張の武器となり、他者を攻撃するための道具になりつつあります。SNSの世界では、それがさらに増幅され、匿名の「集団的ハラスメント」として拡散していく。

言葉の乱れとは、単なる語彙や文法の問題ではありません。もっと深いところで、人間の意識の劣化を意味しています。言語は単なる意思伝達の手段ではなく、人間の意識の構造そのものです。私たちは「考えてから言葉にする」と思いがちですが、実際は逆です。人間は「言葉によって考える」存在なのです。つまり、言葉が粗雑になれば、思考そのものもまた粗雑になる。

「バベルの塔」(旧約聖書)は、その象徴的な警鐘だったのかもしれません。神は人間の傲慢さに怒り、言葉を通じなくしてしまった。なぜ「言葉」を乱すという方法を選んだのか。それは、言語が人間の協調や思考の根幹をなしているからです。言葉を失えば、共同体は崩壊する。いまの日本社会もまた、静かに同じ病を患っているように見えます。

さらに厄介なのは、AIの登場です。AIが生み出す「言葉」は、意味を理解して発せられるものではなく、確率的にもっともらしく並べられた記号の連鎖にすぎません。そこには「意志」も「倫理」もない。それでも、私たちは便利さに慣れ、その機械的な言葉を“自然な会話”と錯覚しつつあります。

もし私たちが、言葉を単なる情報伝達の手段としてしか扱わなくなったら、人間らしさの根幹が失われます。言葉の品格とは、他者を思いやり、自分の感情を律する力のことです。言葉を粗末にすることは、人間を粗末にすることと同じです。

民主主義とは、本来「言葉によって成り立つ制度」です。だからこそ、「言葉の暴力」が蔓延すれば、政治も社会も荒廃する。いま、私たちに問われているのは、「政治の品格」よりもむしろ「言葉の品格」ではないでしょうか。

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