最近、「聞く力」や「聴く力」という言葉が、ビジネスや教育の世界で盛んに語られています。ある記事「『聴く力』と『聞く力』の本質的な違いとは?」では、「聞く」は判断を伴わない受動的行為、「聴く」は判断を保留しつつ、相手の感情や背景に寄り添う能動的行為と定義されていました。確かに、他者の話を真摯に聴く姿勢は、コミュニケーションの質を高め、組織や社会をより健全にするうえで不可欠な要素でしょう。しかし、私はそこに一つの大きな前提が抜け落ちていると感じます。それは、「聴く」ためには、自らの思考力が不可欠だということです。
聴くことは単なる受容ではありません。相手の言葉を理解し、自分の中で咀嚼し、背景や意図を推測しながら、内に問いを立てる行為です。つまり、「思考する耳」がなければ、聴くことは成立しません。にもかかわらず、日本ではこの「思考力」を鍛える教育が長らく欠けてきました。結果として、「聴く」以前に「考える」ことそのものが弱まっているように思えてなりません。
思考を欠いた“聴く”は、単なる服従になる
日本では、「傾聴」がしばしば“人の話を黙って聞くこと”と誤解されがちです。ビジネス研修では「相手を否定せず受け止めよう」と教えられ、学校でも「人の話を最後まで聞きなさい」と繰り返し教えられます。しかし、これは本来の「聴く」とは異なります。思考を伴わない「聴く」は、実際には“服従”や“迎合”にすぎません。そこに自分の頭で考える主体が存在しないからです。
聴くとは、相手を理解する努力であり、そのうえで自分の立場を再構築する行為です。「理解する」と「同意する」は違います。しかし日本ではこの二つが混同され、「聴く=従う」「聞かない=反抗」という単純な構図に陥りやすい。この構図が、教育や政治の劣化を助長しているように思えてなりません。先日の自民党総裁選の候補者たちの演説を聞いても、そこには相手を聴く姿勢も、自ら考える意志も希薄です。言葉は整っていても(整っていない人もいましたが)、中身が空虚。“聴く力”を語る以前に、“考える力”が欠落しているのです。
母国語の喪失と「考える耳」の衰退
私は、教育の根本問題は「母国語で考える力の衰退」にあると考えています。言葉は単なる情報伝達の手段ではありません。言葉こそ、思考そのものです。母国語の精度が低ければ、思考の精度も低くなる。つまり、「日本語で深く考える力」が弱まれば、「聴く力」もまた育たないのです。
私はアメリカで長く暮らし、子育てもしました。中国でも生活し、仕事もしました。アメリカの教育は「自分の言葉で考える」ことに重点が置かれています。アメリカの小学生はディベートを通じて、論理的に話し、質問し、反論する訓練を受けます。日本の教育は、「正解のある答え」を求めすぎる。作文は“模範解答”に近づけるように指導され、評論文は“出題者の意図”を読む訓練にすり替えられています。その結果、思考は浅く、概念は貧しく、言葉は形式だけが整う。この環境で「聴く力」を育てるのは、土台から無理な話なのです。
中国の場合は、テクノロジーの急速な進化の“おかげ”(?)で、本来の良さを自ら潰しているように思います。以前は、古典を通じて語彙と概念の豊かさを身につけ、比喩や構文の深さで思考の筋肉を鍛えようと努力していました。
教育が生む「無思考のエリート」
私は今回の自民党総裁選を見て、日本の教育が生み出した“無思考のエリート”の姿を見た気がしました。彼らは皆、立派な大学を出て、弁舌も整っている。しかし、その言葉には「概念の芯」がない。問題を抽象的に捉える力も、哲学的な自問もない。彼らの発言は、耳障りのいい言葉を並べただけで、どの言葉も「借り物の思想」にすぎません。まるで教育が“知識のインストール”だけを行い、“思考の生成”を放棄してきた結果を見せつけられているようです。それを視聴率や販売部数のためだけに報道するメディアの姿勢には、今さらながらあきれ果てるばかりです。
私は教育こそが国の未来を決めると考えています。もしこの国が、思考しない人々を量産し続けるなら、いかに経済を立て直しても本質的な再生はあり得ません。AIがどれほど進化しても、思考の基礎がなければ使いこなせない。聴く力を語る前に、まず「考える力」を教育の中に取り戻すことが急務です。
AI時代の「聴く力」は“思考”と“対話”の結晶である
AI時代のいま、「聴く力」はこれまで以上に重要になります。なぜなら、AIは「聞くこと」はできても「聴くこと」はできないからです。AIはデータを解析し、文脈を模倣することはできますが、人間の意図を「考えて理解する」ことはできません。だからこそ、人間がAIと共存していくには、「思考を伴った聴く力」が必要なのです。ユーザーが受動的になってはいけないのです。
教育の現場でAIドリルが導入され、個別最適化が進むこと自体は悪くありません。しかし、AIが“考える代わり”になった瞬間、子どもたちは「考えずに答えを得る」ことに慣れてしまう。それは、聴く力どころか、人間としての感性をも鈍らせる危険があります。AIの時代に問われるのは、「どう聞くか」ではなく、「何を考えながら聞くか」です。思考を放棄した聴取は、AIと何ら変わりません。
聴くとは、思考することである
「聴く力」は確かに重要です。しかし、それは“思考の上に築かれた力”です。思考を欠いた聴取は単なる従属であり、思考を伴う聴取こそが真の「理解」へと至ります。教育の目的は、単に知識を教えることではなく、「自ら考え、他者を理解し、共に生きる」人を育てることです。聴くとは、他者を通して自分を問う行為であり、思考とは、自己と世界をつなぐ行為です。この二つが重なり合うところに対話が生まれ、社会が成熟します。
私たちはもう一度、「聴く力」と「聞く力」の違いを表層的なテクニックとしてではなく、「思考する人間として生きるための力」として捉え直すべきです。教育を変えなければ未来は変わらない。聴く力を育てるとは、思考の土壌を耕すことにほかなりません。
0 件のコメント:
コメントを投稿