2025年10月13日月曜日

AIドリルが奪う「人間の学び」

 
孫とデジタルデバイス

面授口訣(めんじゅくけつ)の精神を忘れた教育 


「AI教育」ブームの違和感

最近、「AI教育」という言葉がネット上で飛び交っています。「AIドリルで学習効率3倍」「プロンプト力が武器になる」――そんな見出しが並び、まるでAIがすべての教育問題を解決するかのような幻想が広がっています。

とある教育系インフルエンサーは、「AIドリルなら48時間で苦手を克服」「個別最適化で成績アップ」と語ります。ここまでくると、もはや宗教の域です。最後には「親がまずAIを使いこなせ」と説教までついてくる。なるほど、AI信仰にも布教活動があるわけです。

しかし、私は思います。

教育とは、そんなに効率的にしてしまっていいものなのでしょうか。子どもが苦手を克服するよりも、その「苦手」と向き合い、悩み、考える過程こそが学びの本質ではないでしょうか。

義務教育にAI導入? ― 本音は「教師の効率化」

政府は「個別最適化」や「学習格差の是正」を掲げてAI導入を進めています。けれども、どうもその裏には「教師の手間を減らしたい」という本音が見え隠れします。

AIドリルとかデジタルテストというものは、結局のところ、教師の利便性に重点が置かれているように思います。面授口訣の“面授”の相手がiPad? そんなの教育じゃないでしょう。
子どもは分からないから単に従わざるを得ない。それでも親が黙っているのはなぜでしょうか――私はそこに、戦後日本の教育の歪みを見てしまいます。

教師の負担軽減は大切です。しかし、教育の根を犠牲にしてまですることではありません。教育とは本来「面授口訣」の営みでした。師が弟子に面と向かい、言葉を超えた意味を伝える。それは仏教の伝統にも通じる、知の伝達の原点です。AIドリルができるのは正誤判定であって、表情の読み取りや心の共感ではありません。教育の本質は「人間と人間の関係性」そのものにあるのです。

テクノロジーは「補助」にすぎない

もちろん、私はテクノロジーを否定するわけではありません。AIやICTは正しく使えば、教育を支える強力なツールになります。

ただし、それはあくまで「補助」です。今のようにAIを教育の中心に据え、すべてを効率化しようとする動きは、教育を根本から誤らせる危険があります。

AIを使えば使うほど、子どもには想像力や判断力が求められます。つまり、デジタル化が進むほど「非効率な学び」――文学や歴史のような、人間を問う学びが重要になるのです。

真のリーダーに必要な「ビジョン」

1990年代、ボストンでオラクルのラリー・エリソンの講演を聞いたことがあります。当時、彼はまだ“ホラ吹きセールスマン”と呼ばれていました。しかし、スマートフォンという言葉すらなかった時代に「スーパーセット」という未来構想を語っていた。その先見性こそ、真のリーダーの知性です。

一方、いまの日本の政治家や教育行政を見ていると、ビジョンどころか「自分の頭で考える訓練」すらしてこなかったように見えます。大学入試の失敗(東大に入れなかったとか)をトラウマに、コンプレックスを埋めるように「デジタル」「効率化」「DX」といった横文字を振りかざす――その姿は痛々しいほどです。

福沢諭吉が警告した「怨望」と「知性の退化」

福沢諭吉は『学問のすゝめ』第13編で、“怨望(えんぼう)”――他人の幸福を妬み、努力ではなく引きずり下ろして平均化する心――を最も忌むべき不徳としました。

現代日本の教育政策や政治の姿勢を見ていると、この怨望が息を吹き返しています。理解できないものを排除し、目立つ人間を叩き、平均点を取ることを「正義」とする。その結果、「自ら考える力」はどんどん失われていくのです。福沢はさらに第15編で「事物を疑って取捨を断ずる事」の重要性を説いています。真偽のあいまいなAI時代こそ、この言葉が求められています。

「AIを見抜く教育」が必要だ

AIドリルで正答率を上げても、それは「疑う力」や「納得する力」を育てません。「分からなかったら納得するまで先生に聞きなさい」と言える大人が減っている。いまの教育現場では、そんな子どもは「扱いにくい」として排除されてしまうのです。

AI教育に本当に必要なのは、「AIを使う教育」ではなく「AIを見抜く教育」です。つまり、「何を学ぶか」よりも「何を学ばないか」を自ら選べる知性。それこそが、これからの教育の柱になるべきです。

大人こそ学び直す時

福沢は「学者が勉強せねばならぬ」と書きました。現代に置き換えれば、それは「親や大人こそ学び続けねばならぬ」という意味です。

AI時代に問われているのは、子どもではなく大人です。政治家も教師も、そして親も、AIを“使う”前に“考える力”を取り戻す必要があります。

「面授口訣」に戻る ― 絵日記という原点

教育の根っこは「面授口訣」にあります。人が人に伝える。その関係の中にしか本当の知は育ちません。

AIドリルやデジタル教材がどれほど進化しても、人の温度にはかないません。だからこそ、子どもには「書く」「考える」「感じる」、つまり、五感を働かせる時間を取り戻してほしい。

一冊の絵日記――そこにはAIには真似できない“人間の思考の跡”が残ります。日々の中で自分の感情を見つめ、言葉にする習慣。それが、未来の知性を育てる第一歩なのです。

AIが主役の時代に、あえて人間らしい学びを取り戻すこと。それが「教育再生」への最初の一歩ではないでしょうか。そして、その出発点は、誰にでもできる日記を書くことです。日本語を書くことが、考えることのはじまりだからです。
  
***

0 件のコメント:

コメントを投稿