肉吸い
本来はもっとシンプルですが、色んなものを入れてみました
透明なだしに、甘辛い薄切り牛肉と刻みネギが浮かぶ。ひと口すすれば、関西の出汁特有の丸い味が舌の奥に広がり、ふっと大阪の記憶がよみがえります。あの街の雑踏、ストレートで猥雑な活気、派手なネオン、そして鉄板でソースが焦げたお好み焼きの匂い――私の青春のロクでもない思い出は、すべてあの大阪ミナミにありました。
福岡の十年の後、私は東大阪に移り住みました。中学三年の二学期からのことです。福岡から転校してきた私にとって、大阪の中学生たちはずいぶんと大人びて見えました。彼らの話す言葉、着こなし、そして何より「生き方」がどこか違う。街全体が、エネルギーというより、彼らの“生臭い現実”の匂いに満ちていました。
当時の大阪の公立高校は五つの学校区に分かれていました。私の通っていた小阪中学は第三学区。大阪ミナミの繁華街から生駒山のふもとまでをカバーする広い範囲でした。高校は上六と鶴橋の間、真田丸で知られる真田山の近くにありました。
学区がミナミを含むせいか、クラスメートの顔ぶれもさまざまでした。心斎橋の子ども服屋の息子、宗右衛門町のすし屋の娘、玉造の畳屋の息子――それぞれが小さなドラマを背負っていたように思います。授業をサボってブラブラするエリアは、言うまでもなくミナミの繁華街でした。今思えば、それが私の社会勉強の始まりだったのかもしれません。
「肉吸い」は、そんなミナミの記憶と切っても切れない味です。
発祥の店は、難波千日前の老舗うどん店「千とせ」。吉本新喜劇のスター・花紀京が、二日酔いの朝に「肉うどん、うどん抜きで」と注文したのが始まりだといいます。肉うどんのうどん抜き、それが「肉吸い」。あっさりした出汁に牛肉の旨味が染み出して、当時はうどんを食べなかった私の選択肢のひとつでした。
花紀京といえば、私にとってはビートルズやストーンズと並ぶヒーローでした。吉本は私たちの生活と地続きにあり、南街劇場の前を通るときの高揚感はいまも忘れられません。映画を観る前に「千とせ」で肉吸いを食べて腹ごしらえをするか、あるいは551蓬莱でシューマイをテイクアウトして映画を観ながら食べるか。そんな他愛もない選択に、青春のモラトリアムがありました。
当時は裏社会の抗争が続き、「大阪戦争」と呼ばれた時代でもありました。街の路上で白昼に射殺事件が起きることもあり、ミナミは常にどこか危険な香りをまとっていました。けれど、そこには確かに“生きている街”の鼓動があった。光も闇も引き受けながら、街全体がひとつの生命体のように脈打っていたのです。
そんなミナミが、いまや外国人であふれ返っています。道頓堀のグリコの看板の前では、朝から晩まで人が途切れません。心斎橋筋商店街も、難波の交差点も、聞こえてくるのは英語、中国語、韓国語。まるで日本語のほうが少数派のようです。
もちろん、観光で賑わうのは悪いことではありません。大阪は昔から人情と商魂の街であり、異国の人を受け入れてきた土壌もある。けれど、最近のミナミを歩くと、あの頃の大阪の“一体感”が消えてしまったように感じるのです。コンビニの前に座り込む若者たち、悪質なキャッチ、夜の路上で酔った観光客が叫ぶ声。まるで1970年代から80年代前半のニューヨーク・タイムズスクエアのような光景です。「安全」と「活気」は両立しないのかもしれません。けれど、あの頃のミナミには、雑多で荒っぽくても、確かに“大阪ミナミの匂い”がありました。
福岡から東大阪へ、そしてアメリカへ――。
後に私はアメリカで暮らすようになり、会社のカフェテリアでBLT(ベーコン・レタス・トマト)サンドをよく食べました。いつも「BLTマイナスL(レタス抜き)」と注文していました。そのとき大阪の「肉吸い」を思い出して、一人ニヤリとしました。
――うどんの入っていない肉うどん。
それが、大げさかもしれませんが、何だか自分の人生のようにも思えたのです。どこか“抜け落ちた”ものを抱えながら……やめておきましょう。
いま大阪に帰るたび、ミナミを歩くと、観光地化した街並みの裏に、あの頃の自分たちの足音がかすかに聞こえる気がします。千日前の喫茶店丸福の匂い、夜の心斎橋のざわめき、南街劇場のネオン。それらはもう二度と戻らないけれど、確かに私の中に息づいています。
「肉吸い」という名の、あの不思議な食べ物。
花紀京が二日酔いで頼んだ、何気ない注文から生まれた一杯。その味には、どこか「生き延びるための知恵」が溶け込んでいる気がします。派手でもなく、豪華でもなく、ただ“生きていくための味”。それこそ、大阪ミナミという街の精神そのものだったのではないでしょうか。
いまのミナミは、もうあの頃のミナミではありません。私の心の中だけで、あの雑多で熱い街の彷徨を思い出すのです。
あの街の中には、確かに“青春の匂い”がつまっている。
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