自民党の総裁選が週末に結果発表されるそうですが、正直、まったく興味がありません。バカバカしくて、ただのお笑い種にしか見えないからです。一方で、今週の吉祥寺・三鷹界隈はやたらと人出が多い。不思議に思っていたら、中国の国慶節休暇で大量の観光客が押し寄せているのだとか。こちらのほうが、よほど生々しく時代の動きを感じさせます。
小林秀雄の『無常という事』(昭和17年)の最後の一行は、こう結ばれています。
「無常という事がわかっていない。常なるものを見失ったからである」。
この随筆はたった四ページですが、読むたびに考え込まされます。無常とは、時間が常に流れ、世界が常に変化し、人が老い、やがて死ぬという当たり前の真理です。国だって同じこと。小林がこの言葉を綴った背景には、ミッドウェー海戦を控えた当時の日本人への警告があったのかもしれません。
八十年後の日本。戦時中ではありませんが、精神的にはあの頃と大差ないように見えます。世界の空気を読むことなく、未来に対してただ自分の欲望と格闘しているような政治家たち。人生の無常をどれだけの人が意識しているのでしょうか。教育者は、生徒にどう伝えているのでしょうか。
では「常なるもの」とは何か。私は、人の基層にあるDNAだと思います。先人から受け継いだものを、今の私が次へと繋いでいく。それがかろうじての「常」なのでしょう。失敗もするし、立ちすくむこともある。しかし時は流れ、やがて老い、死ぬ。要は毎日を精一杯生きよ、ということです。
一方で、中国からの観光客ラッシュを目の当たりにしながら思い出したのは、「真贋」の問題でした。中国は「ニセモノ天国」と揶揄されてきました。私は昔から「中国が本当に先進国になりたいなら、まず贋作文化をなくさねばならない」と考えていました。それは単なる知財問題ではなく、「真贋を見抜く力」が文明の成熟度を示すと考えていたからです。
しかし、戦後80年を迎える日本もまた、その「真贋を見極める目」を失いつつあります。政治家もしかり。誰が本物で、誰がニセモノなのか。西郷隆盛像を「時代が生んだ幻想」と見抜いた芥川龍之介の冷静さは、今の日本に必要な視座です。
小林秀雄は言いました。模倣を超えて滲み出るのは「精神の質」だと。本物を見抜く眼を持たぬ社会は、AIによる模倣の洪水に飲み込まれ、何が真で何が偽かを判断できなくなるでしょう。
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結局、総裁選の顔ぶれを眺めて笑い飛ばし、中国の観光客ラッシュに驚嘆する私の雑感も、突き詰めれば「無常」と「真贋」に行き着きます。国家経営も企業経営も、人の生き方すらも、そこからは逃れられません。
小林や芥川の言葉に背を押されながら、吉祥寺サンロードの人混みをすり抜けます。とはいえ、観光客の若者にぶつかりそうになってヨロけるばかりで、「精一杯生きよ」どころか「精一杯転ばないようにせよ」というのが実態です。
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