2025年10月3日金曜日

総裁選と国慶節、吉祥寺で考えた無常

 
まだまだ安全な早朝の吉祥寺

自民党の総裁選が週末に結果発表されるそうですが、正直、まったく興味がありません。バカバカしくて、ただのお笑い種にしか見えないからです。一方で、今週の吉祥寺・三鷹界隈はやたらと人出が多い。不思議に思っていたら、中国の国慶節休暇で大量の観光客が押し寄せているのだとか。こちらのほうが、よほど生々しく時代の動きを感じさせます。

小林秀雄の『無常という事』(昭和17年)の最後の一行は、こう結ばれています。

「無常という事がわかっていない。常なるものを見失ったからである」。

この随筆はたった四ページですが、読むたびに考え込まされます。無常とは、時間が常に流れ、世界が常に変化し、人が老い、やがて死ぬという当たり前の真理です。国だって同じこと。小林がこの言葉を綴った背景には、ミッドウェー海戦を控えた当時の日本人への警告があったのかもしれません。

八十年後の日本。戦時中ではありませんが、精神的にはあの頃と大差ないように見えます。世界の空気を読むことなく、未来に対してただ自分の欲望と格闘しているような政治家たち。人生の無常をどれだけの人が意識しているのでしょうか。教育者は、生徒にどう伝えているのでしょうか。

では「常なるもの」とは何か。私は、人の基層にあるDNAだと思います。先人から受け継いだものを、今の私が次へと繋いでいく。それがかろうじての「常」なのでしょう。失敗もするし、立ちすくむこともある。しかし時は流れ、やがて老い、死ぬ。要は毎日を精一杯生きよ、ということです。

一方で、中国からの観光客ラッシュを目の当たりにしながら思い出したのは、「真贋」の問題でした。中国は「ニセモノ天国」と揶揄されてきました。私は昔から「中国が本当に先進国になりたいなら、まず贋作文化をなくさねばならない」と考えていました。それは単なる知財問題ではなく、「真贋を見抜く力」が文明の成熟度を示すと考えていたからです。

しかし、戦後80年を迎える日本もまた、その「真贋を見極める目」を失いつつあります。政治家もしかり。誰が本物で、誰がニセモノなのか。西郷隆盛像を「時代が生んだ幻想」と見抜いた芥川龍之介の冷静さは、今の日本に必要な視座です。

小林秀雄は言いました。模倣を超えて滲み出るのは「精神の質」だと。本物を見抜く眼を持たぬ社会は、AIによる模倣の洪水に飲み込まれ、何が真で何が偽かを判断できなくなるでしょう。

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結局、総裁選の顔ぶれを眺めて笑い飛ばし、中国の観光客ラッシュに驚嘆する私の雑感も、突き詰めれば「無常」と「真贋」に行き着きます。国家経営も企業経営も、人の生き方すらも、そこからは逃れられません。

小林や芥川の言葉に背を押されながら、吉祥寺サンロードの人混みをすり抜けます。とはいえ、観光客の若者にぶつかりそうになってヨロけるばかりで、「精一杯生きよ」どころか「精一杯転ばないようにせよ」というのが実態です。

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2025年10月2日木曜日

プロサラリーマンと起業家のあいだ

 
日本工業倶楽部会館(経済同友会)


近年、日本では「プロ経営者」という言葉がもてはやされています。大企業の経営を任され、企業改革を進めた人物は、しばしばその代表格として紹介されます。たしかに株主や市場の期待に応え、業績を立て直した手腕は評価に値します。しかし私は、その姿を見て「プロ経営者」というよりも「プロサラリーマン」と呼ぶ方がしっくりくると感じています。経営を委託されているようでも、株価を上げることを優先順位とされるアメリカのCxOと呼ばれる経営者とも違います。

なぜなら、その人の歩んできた道は、一貫してサラリーマンとしての成功の軌跡だからです。与えられた枠組みの中で成果をあげ、組織を率いて成果を出す。確かに難しい仕事ですが、そこには「ゼロから会社を立ち上げ、存続させる」という経験は含まれていません。トヨタやホンダの創業者とは異なります。

私は二十年、自ら起業した会社の経営を続けてきました。いつまでたっても零細企業です。経営者とは言えないレベルです。だが、自分の会社を存続させることは容易ではありません。単に売上を伸ばすだけでなく、会社のビジョンを明確に描き、そのビジョンを共有できる人材を集め、独自の企業文化を育てなければならないからです。サラリーマン経営者と起業家の違いは、まさにこの「文化を育てる」経験にあると思います。

プロサラリーマンは既存の仕組みをうまく操る達人です。一方、起業家は仕組みそのものをゼロから創り、価値観を共有する土台を築かなければなりません。両者はどちらも社会に必要ですが、その重みや意味は本質的に異なります。政府や教育の目標として「起業家の育成」がスローガンのように掲げられていますが、起業の現実を理解していないのであれば、どれほど立派な言葉を並べても実際には機能しません。ここに私は大きな隔たりを感じます。

日本社会が「プロサラリーマン」を英雄視するあまり、起業家の営みを軽視してはいけないと思います。組織文化を生み出すこと、ビジョンを社会に問うこと。そうした営みこそが、社会に新しい息吹を与えるのです。

20年たっても我が社は全く拡大していません。奇跡的に倒産していない、というのが唯一の実績です。でもまあ、20年もやっていれば“我が社っぽさ”みたいな文化は出てきました。あとは、これを伝承できるかどうか ― そこが一番の山場です。

自民党の総裁選が10月4日に投開票されるようです。

制度や慣習の枠に収まる「安定的な運営」しかできない政治家ばかりだと、日本のような停滞国家は抜本的に変わりません。政治家もまた、修羅場を経験し、既成概念を打破する挑戦が必要だということです。

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2025年10月1日水曜日

若者への提言 ~ 井伏鱒二の山椒魚にならないために

 

楽譜を書くのも楽しみの一つ


私が長く働いたアメリカと日本を比べて痛感するのは、社会のルールそのものが大きく違うということです。経営者の役割も、社員の在り方も、税や年金の仕組みも異なります。二十年アメリカで納税をした私が最後に思ったのは、「もうアメリカで税金は納めたくない」ということでした。問題だらけの日本ですが、日本には日本のルールがある。いまは、「もう日本で税金なんか納めたくない(怒!)」です。

組織にはその組織のエコノミーがあり、その本質を理解したうえで結果を出す。それが第一歩なのです。

もちろん、ルールが旧態依然として変更が必要な場合もあります。しかし成果を出して周囲に認めさせてからでなければ、ルールを動かす力にはなりません。転職してきたばかりの人が「この会社の仕組みはおかしい」と訴えても、耳を貸す人はいないでしょう。日本は転職そのものが難しい社会ですから、なおさらです。結果として、成長の機会がアメリカより圧倒的に少なくなっているのです。

同じような人材が、変わらない組織の中で長く働き、気心の知れた仲間と「あうんの呼吸」で仕事を回す。表面上は快適ですが、それはまさに井伏鱒二の『山椒魚』の世界です。成長のために広い世界へ出られるはずなのに、自ら小さな穴に閉じこもっている。その状態を「コンフォートゾーン」と呼ぶならば、日本社会全体がそこに安住してしまっているのです。世間をしらない、世襲を繰り返す政治家が多数を占める日本の政治も同じですね。

しかし今や、そのコンフォートゾーン自体が壊れ始めています。サファリパークで安全に「ジャングルごっこ」をしていられた時代は終わりました。フェンスは破られ、外敵は潜入し、決まった時間に餌も出てこない。もはや守られた環境ではなく、リアルなジャングルで生き延びるしかありません。

未来を明るくできるのは、やはり若い世代です。私はもう十分に歳を重ねましたが、去年からアルトサックスに挑戦しています。ジェームス・ブラウンを支えた名サックス奏者メイシオ・パーカーに、一ミリでも近づきたいと日々練習を続けています(一年経っても進歩はありませんが、まだまだ気持ちは前向きです)。

いまの日本は、もはや安全なサファリパークではなくなりつつあります。フェンスは壊れ、外敵は入り込み、餌も約束通りに出てこない。ならばフェンスを立て直すのか、それともジャングルで生きる力をつけるのか。選ぶのは、これからの世代です。

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