2025年11月29日土曜日

Seize the Day ~ 時間という名の無常

 


今年も、もう一か月を残すばかりとなりました。

驚くほど時の流れが早く感じられます。長く生きれば生きるほど、一年という時間の感覚が短くなるとはよく言われますが、それは単なる感覚の問題以上のものだと思います。時間とは、年齢や環境によってその速度や重さが変容していく奇妙な現象です。若い頃には永遠に続くように思えた一日が、いつのまにか風のように過ぎ去ってしまいます。ビートルズの「When I’m 64」を初めて聴いた頃、64歳など想像も及ばぬ遥かな未来に感じました。
    
最近どうも日本人の時間感覚が鈍くなっているのではないかと感じることが少なくありません。本来、一日一日を心を込めて、楽しみながら生きればよいはずです。しかし多くの人々は、ただ忙しさに追われ、時間の意味を深く考える余裕を失いつつあります。日本人は時間の使い方が下手であると思います。仕事と遊びのバランスが悪く、閑暇とは本来「思索や省察に費やす時間」であるにもかかわらず、単なるレジャーや娯楽と置き換えてしまっています。子どもが小さい家庭では仕方がないという事情もあるでしょう。それでもあえて言わせてもらうと、生産性を上げるために必要なのは、忙しく働いている瞬間そのものではなく、むしろ閑暇(レジャー)の時間の使い方なのだ、と。

欧米では壮年期こそ最も自由度が高い時期です。人生を自らの意思で歩む時期であり、自分が自分の人生を引き受けることが求められます。ところが日本では、子どもの頃と高齢期こそが最も自由で、むしろ守られる存在になります。人生の時間構造において、日本は欧米と真逆なのです。

時間とは私たちの社会において信頼や関係性と密接に結びついています。

信頼関係の構築には時間がかかります。「時間を守る」「約束を守る」「嘘をつかない」──ただこの3つを繰り返すだけです。しかし、これを長年にわたって続けることは意外に難しいのです。私は社会人になりたての頃、何のスキルもなく、自分の価値も分かりませんでした。上司やクライアントに振り回されるのは嫌でしたし、できれば毎日を気分良く過ごしたいと思っていました。そのとき私にできる唯一のことは、約束の時間よりずいぶん早く現場に行くことでした。「絶対に遅れない」。それしか誇れるものがないとさえ思っていたのです。

人間社会の根本は「対等な信頼関係を維持する責任」であると思います。国家でも企業でも個人でも同じです。今、世界はこの原則を失いつつあります。理念と目的を失えば、国も会社も人も信用されません。日本の政治や教育が迷走しているのは、まさにこの信頼の根本が揺らいでいるからにほかなりません。暴走する巨大国家はもっとひどいですが、、、。

時間にはもうひとつの側面があります。

人生や歴史の中に繰り返し襲う無常の感覚です。日本人は「どう生きるべきか」を深く問う機会をいくつも与えられてきました。阪神淡路大震災、オウム真理教事件、東日本大震災、御嶽山噴火、熊本地震。そして世界が停まったコロナ禍の3年、令和6年元旦、団欒のひとときを突然襲った大地震。そのたびに日本の精神は問われてきたはずです。

『平家物語』も『方丈記』も鎌倉時代に書かれました。人間は生と死の狭間にあって不可逆的に変化します(無常)。しかし自然は循環します。平安から鎌倉時代の日本人は、循環的変化の中で人間の生き様を認識していました。だからこそ「徒然草」も「方丈記」も、死と時間に向き合うための文学だったのです。

お釈迦様はこう言いました。

ただ今日なすべきことを熱心になせ。
誰か明日の死のあることを知らん。


ラテン語の Carpe diem(Seize the day)と同じ意味です。時間は永遠に続くものではありません。だからこそ、「今日」という一日を生きよ、と。

時間の意味をもっと深く受け止めるべきだと感じます。閑暇の価値を取り戻し、一日を丁寧に生きる。愚直に時間を守り、約束を守り、信頼を積み重ねる(今や世界は、嘘で塗り固めた国ばかりですが、、、)。

時間とは単なる流れではありません。それは私たち自身の生き方そのものです。Carpe diem──今日という日を大切に生きるということ。それは日本人が今、本気で取り戻すべき時間感覚なのだと思います。

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