本来、報道は権力の言い分やプロパガンダを吟味し、歴史的背景、外交、安全保障のリアリティを踏まえて「自国にとって何が真実なのか」を冷静に提示するのが仕事のはずです。ところが現実には、論理の裏付けもなく、概念の理解も浅い。上滑りのコメントを並べ、勉強不足を自ら晒すような報道が、堂々と“ニュース”として垂れ流されている。
そして情けないことに、日本の財界もまた利益を優先し、都合の悪い論点を避けてメディアと同じベクトルに流れがちです。メディアが迎合し、財界が沈黙し、政治が空気を読み、大衆が思考停止する──この構造こそ、中国の暴走を結果的に助長していると言っても過言ではありません。
ホセ・オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』(1930年)。
世界大恐慌、全体主義の台頭──混乱の中でオルテガが警告したのは、
「凡庸な平均人が権力の座に登り、社会を支配する危険」でした。
残念ながら、今の日本のメディアを見ていると、「中国共産党の発信を、そのまま音読しているのでは?」と疑いたくなる場面すらあるのです。
政府の公式見解、国際社会の批判、中国国内の現実──本来なら複数の視点を示すべきところが、結論ありきで“わかりやすく加工”された情報ばかり。これでは報道ではなく、プロパガンダの請負業です。そして情けないことに、日本の財界もまた利益を優先し、都合の悪い論点を避けてメディアと同じベクトルに流れがちです。メディアが迎合し、財界が沈黙し、政治が空気を読み、大衆が思考停止する──この構造こそ、中国の暴走を結果的に助長していると言っても過言ではありません。
オルテガが描いた「大衆」とは誰のことか
こうした状況を理解する上で、ぜひ読み返すべき古典があります。ホセ・オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』(1930年)。
世界大恐慌、全体主義の台頭──混乱の中でオルテガが警告したのは、
「凡庸な平均人が権力の座に登り、社会を支配する危険」でした。
彼は「大衆」をこう定義します。
- 自分を他人と同じだと疑わず、それを誇りとする人々
- 何の努力もせず、既得権を当然のように享受する“満足しきったお坊ちゃん”
- 外の世界でも家の中と同じように振る舞えると信じ、取り返しのつかないものなど何もないと考える人間
「思想のない大衆人ほど、社会の複雑さに無自覚なまま政治・社会の中心に入り込み、有能な人材の創造性を圧殺する」
今の日本社会とあまりに似ていないでしょうか?
政治家が「国民のみなさま、いかがでしょうか!」と声を張り上げ、迎合と自己保身を競う姿を見るたびに、ノブレス・オブリージュとは無縁の“大衆人の政治”が実現してしまったのだと痛感します。
しかし日本では、そのメディアが自ら大衆化してしまった。その結果、一億総大衆化の国では、国外勢力が世論を誘導するのは極めて簡単です。必要なのは、マス・メディアを押さえるだけ。
答えは単純です。
一億総“大衆化”の国で、情報はどう扱われるか
「大衆」とは mass(マス)であり、マス・メディアとは本来 “大衆を扱うための仕組み” です。しかし日本では、そのメディアが自ら大衆化してしまった。その結果、一億総大衆化の国では、国外勢力が世論を誘導するのは極めて簡単です。
必要なのは、マス・メディアを押さえるだけ。
あとは国民が思考停止のまま、同じ方向へ揃って歩いてくれる。
これこそが、オルテガの描いた「大衆の反逆」が現代日本において露骨に出現している姿ではないでしょうか。
我々にできる唯一の抵抗
ではどうすべきか。答えは単純です。
「情報を受け取る側が変わるしかない」。
メディアの言うことをそのまま信じるのではなく、自ら考える。
自ら調べる。
自ら疑う。
高校3年の夏休みに、オルテガの『大衆の反逆』を丸一冊読み込むくらいの“余裕”と“意志”を、今の日本人は取り戻すべきでしょう。
自ら調べる。
自ら疑う。
高校3年の夏休みに、オルテガの『大衆の反逆』を丸一冊読み込むくらいの“余裕”と“意志”を、今の日本人は取り戻すべきでしょう。
報道が堕落しても、国家が迷走しても、最後に残るのは私たち自身の思考だけなのです。
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