2025年11月2日日曜日

迷子になる勇気 ― 井伏鱒二『山椒魚』が映す日本社会の閉塞

 

井伏鱒二の『山椒魚』が発表されたのは1929年、昭和の幕開け、満州事変の直前の頃です。


それから約一世紀が経った今も、この作品は学校の国語教科書に掲載され続けています。けれども、現代の教育現場でこの作品がどこまで深く読まれているのかといえば、疑問を感じざるを得ません。  

多くの場合、「自分の殻に閉じこもった山椒魚の孤独」という心理的・道徳的な読み方にとどまり、そこに潜む社会的比喩までは掘り下げられていないように思います。

社会に出て組織の中で働いた経験を持つ人が読むと、この短編はまったく別の表情を見せます。

山椒魚が閉じこもった「岩屋の穴」は、まさに現代日本の組織社会そのものを象徴しているように見えるからです。狭く、息苦しく、しかし奇妙に安定した空間。そこに閉じ込められた山椒魚は、他者を責め、言い訳を重ね、自分の境遇を嘆きながらも、けっして外へ出ようとしません。彼を不自由にしているのは他者ではなく、自分自身なのです。そして、蛙。山椒魚によって岩屋に閉じ込められた生物です。当初は山椒魚と罵り合うのですが、最終的には山椒魚の孤独を理解し、両者の間に奇妙な連帯感が生まれます。なんだか、いったん入社すると、惰性でそのまま定年まで、、、。

この構図は、いまの日本社会に驚くほどよく似ています。

学校では、与えられた問いに「正しい答え」を返すことが評価されます。「なぜ」「どうして」と問うことは煙たがられ、他人と違う意見を持つことが「面倒」とされる。社会に出れば、上司の指示に従うことが『協調性』とされ、異論を唱える者は『空気が読めない』と排除される。

こうして人々は、自分で考え判断する力を失い、洞窟の中で不満を言うだけの存在になってしまいます。

井伏が『山椒魚』を書いた頃、日本は急速な近代化のただ中にあり「自律」という概念を置き去りにしていました。国家も個人も、外から与えられた枠組みの中で「秩序」を優先し、「自由」を恐れたのです。その構図は、戦後を経た現代でもあまり変わっていません。むしろ管理と監視の技術が高度化したことで、私たちはより精密な「洞窟」の中に閉じ込められているのかもしれません。

思えば、山椒魚が岩屋に閉じこもることになったのは、「ほんの気まぐれ」でした。外に出るタイミングを逃したことが、彼を永遠の囚人にしたのです。日本社会もまた、戦後のある時期に「自由より安定」「個より組織」という選択をしました。その結果、社会は安定しましたが、精神の自由を失いました。自らの判断で動く勇気――すなわち「自律」――が奪われていったのです。もちろん、外的要因は多々ありましたが、、、。

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