働くという宗教 ― 日本人の勤勉の起源と誤解された“改革”
「ワーク・ライフ・バランスという言葉を捨てる」――日本初の女性総理となった高市早苗氏のこの発言が、賛否両論を巻き起こしました。
「時代錯誤だ」との批判もあれば、「本音を言ってくれた」と喝采する声もある。興味深いのは、この一言が、私たち自身の「働くこと」への無意識の信仰を見事に浮かび上がらせたという点です。
日本社会では、「働く」ことは単なる生活の手段ではありません。それは“使命”であり、“徳目”であり、時に“信仰”でもあります。高市氏の発言が反発と共感を同時に呼んだのは、そこに「働くこと=善」という、日本人の深層倫理が刺激されたからにほかなりません。
江戸の「労働倫理」がつくった日本精神
日本人の「働く」ことへの執念は、戦後の企業社会に始まったものではありません。その源流は、江戸時代の思想家・石田梅岩にまで遡ります。梅岩は、「勤勉・正直・倹約」を徳とし、働くこと自体を天の理(天理)にかなう行いと説きました。つまり、仕事とは単なる生計手段ではなく、宗教的修行であり、人が救済に近づく道だったのです。
この思想を山本七平は「仕事の思想」と呼び、「日本教」という言葉で表しました。輸入された宗教や制度を日本流に翻案し、道徳と労働を結びつけてしまう――この“文化的変換装置”こそが日本社会の特徴です。仕事=救済という思想は、江戸庶民の心学を通じて社会全体に浸透し、やがて渋沢栄一の「論語と算盤」へとつながっていきます。
「働き方改革」は何を改革すべきか
日本人の勤勉は、近代化の原動力であり、同時に呪縛でもあります。問題は「働き過ぎ」そのものではなく、「なぜ働くのか」という哲学を失ったことです。欧米の制度を模倣し、残業時間の上限を定め、テレワークを導入しても、肝心の“仕事観”が空洞化したままでは何も変わりません。改革とは制度の輸入ではなく、価値観の再解釈なのです。
江戸時代の人々が、士農工商の身分を問わず、労働を通して「天に恥じぬ生き方」を追求したように、現代の私たちも「働くことの意味」を問い直す必要があります。働くことを単なる経済活動ではなく、自らの倫理や信念を体現する行為と捉えること――それこそが日本人の「働く」という概念の核心なのです。海外からの労働者を組織に取り込もうとしてもうまくいかないのは、こうした精神的背景が共有されていないからでしょう。
日本人は本当に働きすぎか
日本人は「休むこと」に罪悪感を覚えやすい民族です。休暇中でもメールをチェックし、会議資料を整える。それは単に勤勉だからではなく、「働くことが自己の存在証明」だからです。もちろん、欧米でも同じような感情は存在しますが、日本ではそれがより強烈に作用します。山本七平が指摘したように、日本では「空気」が人を支配します。周囲の期待、組織の雰囲気、沈黙の了解――そうした“見えない倫理(peer pressure)”が、私たちを机に縛りつけているのです。
だからこそ、働き方改革の本質は、時間や場所の問題ではなく、この“空気”をどう読み替えるかにあります。日本人が誇る「働くことの意味」――勤勉・倹約・正直を否定するのではなく、その根底にある倫理を理解し直すこと。それが、これからの社会に求められる精神的アップデートだと思います。
「働く」という日本的概念
私は、日本人が働き過ぎだとは思いません。
アメリカでも、本当に働く人は文字どおり24時間働いています。組織で出世や昇給を望むなら、他人と同じ努力では評価されない。一方で、9時から5時まできっちり働き、昇進を望まない人たちもいます。どちらの生き方も、それぞれが自ら選び取った結果です。
つまり、働くとはその社会の価値観(人生観)の表れであり、日本には日本独自の考え方があります。石田梅岩が説いたように、日本人にとって働くとは、勤勉であり、正直であり、倹約を旨とする生き方のこと。それは、士農工商を問わず共有された、日本人の根本精神であり、いわば日本的宗教観の一部でもあります。
問題は、この何百年も続く「働くこと」の思想を理解しないまま、欧米の制度や価値観を“正しいもの”として輸入してしまうことです。「働くことの意味」は、国によって異なります。日本には、日本人の“働く哲学”がある――私はそう思います。
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