2025年11月3日月曜日

出る杭とフェミニズム ― 高市早苗という“日本の試金石”

 
ネットで拾った画像(著作権は不明)


米外交問題評議会(CFR)のシーラ・スミス氏が、「日本初の女性首相となった高市早苗の政治的意味」を論じた記事を発表しました。

スミス氏は、彼女が安倍路線を継承する保守政治家でありながら、女性リーダーとして日本社会の固定観念を揺さぶる存在になる可能性を指摘しています。彼女にとってフェミニズムとは「女性優遇政策」ではなく、「国家の強さと文化的自立をどう両立させるか」という政治哲学の一部として描かれているようです。

つまり、スミス氏の目には、高市氏は「女性だから首相になった」のではなく、「首相になったら女性だった」政治家として映っている。これは、日本国内の一部論者が「女性であること」に過剰な意味を読み込む態度とは対照的です。

実際、日本のフェミニズムはどこか歪んで伝わってきたように思います。アメリカのフェミニズムが「人間としての平等」という普遍理念から発展したのに対し、日本のそれは「被害者意識」と「敵探し」が先に立ちがちです。

その典型が、社会学者・上野千鶴子氏の発言です。高市氏が自民党総裁に選出された際、上野氏はX(旧ツイッター)でこう書きました。

「初の女性首相が誕生するかもしれない、と聞いてもうれしくない」。さらに「ジェンダーギャップ指数は上がるだろうが、女性に優しい政治にはならない」と続け、高市氏が「選択的夫婦別姓」に慎重な姿勢をとっていることを批判しました。

しかし、高市氏自身は、旧姓の通称使用拡大には長年尽力してきました。「別姓に反対する=女性の敵」という単純な構図では捉えられないのです。上野氏のような“学問的フェミニズム”が現実社会を見下ろす視線に陥ると、むしろ女性の現実的な選択肢を狭めることになりかねません。そうじゃないですか?

フェミニズムとは、本来、性別に関係なくすべての人が平等に尊重される社会を目指す思想です。「女性が優遇されるべきだ」という主張ではなく、「性別に関係なく能力が正当に評価されるべきだ」という考え方のはずです。ところが日本では、フェミニズムが“女性のための旗印”に変質し、男性と敵対する運動のように誤解されてきました。

数日前のブログで書きましたが、繰り返します。社会主義者・北一輝の言葉です。

「男女は断じて同一の者に非ざる本質的差異を持つ」。男女は異なるが、だからこそ折り合いをつけて共に生きる――彼は100年前に、すでに成熟した平等観を語っていました。これは「知行合一」、つまり「言っていることとやっていることが一致する」人間観にも通じます。

高市氏が目指しているのは、まさにそうした現実的な「折り合いの政治」ではないでしょうか。性別にこだわるよりも、沈みかけた日本の船をどう立て直すか――そこにこそ本質があります。もっとも、背後にある魑魅魍魎とした党勢力とのバランスは、折り合いがつくかどうか、イバラの道でしょうが、、、。

それにしても、日本社会には「出る杭を打つ」習性が根強く残っています。誰かが少しでも成功すると、すぐに「気に食わない」と叩く。それが女性なら、さらに容赦がない。こうした“横並び文化”が、日本のフェミニズムをも萎縮させてきたのかもしれません。

アメリカでは、女性リーダーを「象徴的存在」として支える文化があります。一方の日本では、「女性がトップになるなら、私たちより何倍も優れていなければ」という暗黙のプレッシャーがある。結果として、「出る杭」は伸びる前に切り落とされてしまうのです。

フェミニズムを語るなら、まず「成熟した眼差し」を持つべきです。誰かを叩くのではなく、静かに見守る。最初から協力しなくても、せめて静観するくらいの余裕を社会が持てるかどうか――それが、真のジェンダー平等の第一歩ではないでしょうか。

高市政権の船出をどう評価するかは人それぞれですが、「女性であること」を理由に足を引っ張るようでは、日本の社会の成熟も、フェミニズムの再生も、まだまだ夜明け前なのかもしれません。
   
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