
My grandchildren are growing up learning to think for themselves.
All I can do is watch over them.
自己決定という教育
「子どもを幸せにすることが親の務めなら、子どもの自己決定力をのばす関わりをすることが大切だ」ある教育支援団体の代表がそう語っていました。
その人によれば、2万人の日本人を対象とした調査で「自己決定力が幸福感をもたらす」ことが明らかになったそうです。これは、まったくその通りだと思います。人は誰かに決められて生きるのではなく、自分で決めることによって初めて“幸福”という感覚にたどり着くのだと思います。
ただ、少し補足したいのは、「再登校」や「学校に行くこと」そのものが、すべての子どもにとっての幸福とは限らないという点です。授業をサボって街を彷徨するのも、立派なオプションのひとつです。自分で選んだ結果なら、不安も孤独も自分で受け止めるしかない。それが“自己決定”というものではないでしょうか。学校に行かずに喫茶店でたむろした経験のない大人には、この感覚は少しわかりにくいかもしれません。
アメリカでは、落ちこぼれにも軍隊や地域ボランティアという“別の選択肢”が用意されていますが、日本では選択肢がほとんどありません。受験偏差値というレールの上を走るだけで、レールを外れた瞬間に「落伍者」扱いされてしまう。教育とは本来、枠を与えることではなく、枠を自分でつくる力を育てることのはずです。
子育ての本質は「オプションを与える」こと
自己決定とは「克己」である
ただ、少し補足したいのは、「再登校」や「学校に行くこと」そのものが、すべての子どもにとっての幸福とは限らないという点です。授業をサボって街を彷徨するのも、立派なオプションのひとつです。自分で選んだ結果なら、不安も孤独も自分で受け止めるしかない。それが“自己決定”というものではないでしょうか。学校に行かずに喫茶店でたむろした経験のない大人には、この感覚は少しわかりにくいかもしれません。
「考えない教育」が生んだ国
日本の教育は、「枠の中で考えないこと」を教えてきたように思います。文科省が定めたカリキュラム、学校の規則、そして「みんなと同じであること」の重圧。その結果、「自分で考える」という脳の筋肉が育たないまま大人になり、社会に出てから突然「自分の人生を選びなさい」と言われるのです。これでは、無理もありません。
日本の教育は、「枠の中で考えないこと」を教えてきたように思います。文科省が定めたカリキュラム、学校の規則、そして「みんなと同じであること」の重圧。その結果、「自分で考える」という脳の筋肉が育たないまま大人になり、社会に出てから突然「自分の人生を選びなさい」と言われるのです。これでは、無理もありません。
アメリカでは、落ちこぼれにも軍隊や地域ボランティアという“別の選択肢”が用意されていますが、日本では選択肢がほとんどありません。受験偏差値というレールの上を走るだけで、レールを外れた瞬間に「落伍者」扱いされてしまう。教育とは本来、枠を与えることではなく、枠を自分でつくる力を育てることのはずです。
子育ての本質は「オプションを与える」こと
親ができるのは、正解を押しつけることではなく、選択肢(オプション)を提示することだと思います。どんなに間違って見えても、子ども自身に選ばせてみる。その選択が失敗だったとしても、失敗の中にしか学びはありません。人間の脳は、成功と失敗を繰り返すうちに“自分の枠”を作っていく。それが「学ぶ」ということだと私は思います。
教育産業が「生きる力を育む」などとスローガンを声高に叫ぶ時代ですが、本当に必要なのは「ヒマ(閑暇)な時間」ではないでしょうか。何もしない時間、ボーッとする時間があってこそ、人は考えることを学ぶのです。これが私の考える“閑暇の教育”です。考えない社会に育つ子どもたちに、せめて考える時間を返してあげたいと思います。このままだと、生成AIが考える画一化された社会になっていきます。
教育産業が「生きる力を育む」などとスローガンを声高に叫ぶ時代ですが、本当に必要なのは「ヒマ(閑暇)な時間」ではないでしょうか。何もしない時間、ボーッとする時間があってこそ、人は考えることを学ぶのです。これが私の考える“閑暇の教育”です。考えない社会に育つ子どもたちに、せめて考える時間を返してあげたいと思います。このままだと、生成AIが考える画一化された社会になっていきます。
自己決定とは「克己」である
新渡戸稲造の『武士道』には「克己」という言葉があります。自己を制すること。つまり、自分で選んだ道を、責任をもって歩むということです。精神力とは、他人に勝つ力ではなく、自分に勝つ力のことです。それは、先ほどの「自己決定力」と同じ根っこにあると感じます。
結局のところ、自己決定とは“生きる力”そのものです。誰かの指示で動くロボットではなく、調教された動物でもない。失敗も迷いも含めて、「自分で決めた」人生を歩むこと。
それが幸福の第一歩ではないでしょうか。
結局のところ、自己決定とは“生きる力”そのものです。誰かの指示で動くロボットではなく、調教された動物でもない。失敗も迷いも含めて、「自分で決めた」人生を歩むこと。
それが幸福の第一歩ではないでしょうか。
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