たとえば、ある作家が書いた『定年後の人生を考える本』(某ビジネス誌系の出版社)では、人生後半戦を三つの段階に分けている。45~59歳、60~74歳、75歳以降――。 そして、40代半ばから「死ぬことを意識し始める」ときに、人は自らの人生を見つめ直すべきだと説く。60~74歳を「黄金期」と呼び、成長の形を変えながら、年齢に応じた“生き方の知恵”を持つことが大切だと。
確かに部分的にはもっともです。しかし、こうした議論はどうしても「ハウツー本的」になりがちで、心の奥の問題、つまり“生きることの意味”にまで踏み込まないように感じます。老いとは、単なる体力や環境の衰えではなく、「心の老化」のことではないか、、、。
ここからがほんまの話や(高齢者は関西弁がええねん)。
人生は「定年」で終わらへん。もういっぺん、始める勇気っちゅうもんや。
人間な、年を言い訳にしだしたら、心が成長をやめてまう。
「もうこの歳やしなぁ」て口にした瞬間、それは体やのうて、心が老けた証拠や。ほんまの老いっちゅうのは、年齢やあらへん。あきらめの言葉が根ぇ張ったときや。
挑戦せんようになったら、坂道は一気に下り坂や。
人生ちゅうのはな、墓入るまでずっと途中やねん。
歳っちゅうのは限界を決めるためのもんやのうて、味わいを深めるための時間や。年重ねてからの情熱は、ひつこいで、芯から燃えとる。
それが、人間がよう熟れた証や。魅力的や。
「無理や」と思う心が老いを呼び、「やってみよか」と思う心が若さを取り戻すんや。挑戦いうても、別に大それたことやのうてええ。
新しい楽器を手に取ってみる。
知らない分野の勉強をちょっとはじめる。
日記をつける。小さな一歩で、ええんや。
やり直す勇気、迷子になる勇気。
それがあったら、人間はいつまでも若いんとちゃうか?
いくつになっても、始める人は若いんや。
七十前にサックス始める? そらええやないか。
どんだけ若うても、あきらめた人間はもう老人や。
心が虚ろなやつほど、年寄りくさいねん。
歳いったらいったで、おもろなることは山ほどある。
ギターでも、サックスでも、ハーモニカでもちょっとずつでええ。
進歩があるうちは、自分を見捨ててへん。
妥協とか、あきらめるいうのは、自分を置いていくことや。
――せやからな、何歳になっても、始めたらええ。
人生っちゅうのは、終わりやのうて、つづきや。
死ぬまで迷子でええねん。
注)本稿に流れる思索の多くは、小林秀雄、三島由紀夫、福田恒存、会田雄次、石原慎太郎、西部邁といった先人たちの思想に学んだものです。彼らの言葉を糧にしながら、私は自分なりの生のかたちを探しているのだろうと思います。
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