補正予算が“無事に”成立したというニュースを耳にすると、なぜか逆流性食道炎のような違和感が残ります。もちろん、補正予算そのものが悪いわけではありません。本来、予期せぬ事態への緊急対応として機能するはずの仕組みです。ところが日本では、いつの間にかこれが「予定調和」と化し、年度当初の本予算の段階から「まあ、どうせ後で補正するんでしょ?」という空気が漂っています。これは、企業でいえば「期初の計画は建前、実態は期中のドタバタで調整」という、あの残念な文化にどこか似ています。つまり、国家規模の“場当たり経営”です。
高市政権が今後どう推移するかは未知数ですが、どうにも国家としての“共同主観”が欠けているように思えてなりません。国のビジョンや長期計画が見えないのです。企業でいえば、創業者の志が二代目、三代目と薄まり、やがて「うちも他社と同じでいいや」と没個性化していくあのプロセスに近いものがあります。国家までサラリーマン経営になるとは、なかなか洒落になりません。
補正予算の常態化という「国の癖」
補正予算が常態化する理由は、政治的要因が大きいと言われます。選挙前になると、なぜか地元の道路がにわかに補修され、地元向け事業が突然動き始める。景気対策というより、票の対策です。それに、予算編成の段階で“財政規律”を演出するために一度は歳出を抑え、あとから補正で盛る、という手法がすっかり日常になっています。透明性は下がり、国家の家計簿は「付け足し」「後出し」「どんぶり勘定」のオンパレード。こんなブラックボックスに企業が未来投資できるわけがありません。長期計画がない国に、民間投資はついてこない
日本の民間企業が設備投資を控えるのは、先行き不透明だからです。誰だって、霧の中でアクセルは踏みません。ところが国は、その霧を晴らす長期計画を示さない。AIへの投資、エネルギー政策、交通網、地方再生――どれも中途半端で、「来年どうなるか」さえ分からない。これでは企業の経営者が“任期中の保身”を優先してしまうのは、むしろ当然でしょう。多くの経営者は創業家でもなく、サラリーマンなのですから。しかも日本は、需要より供給が足りないという構造的問題を抱えています。人口ピラミッドを見れば明らかなように、労働力が圧倒的に不足している。米騒動のときと同じで、需要があっても供給が追いつかなければ市場は混乱します。ならば、短期の需要予測にふりまわされるのではなく、国家が「供給力拡大」のための長期計画を示し、公共投資を明確にすべきなのです。
国家が方向性を示せば、企業は言い訳なく投資できます。未来が見えれば、企業は動く。これは世界中どこでも同じ原理です(社会主義の計画経済を言っているのではありませんよ)。
PB(プライマリーバランス)という呪文
政府は財政規律の旗として「PB黒字化」を掲げています。もちろん、財政健全化は立派です。しかしながら、これを金科玉条にして必要な投資を削るのは、ダイエット中だからといって必要な栄養まで抜くようなものです。結果、体力(経済成長)が衰えます。しかも日本は通貨発行権を持っている。国債発行が即破綻につながるわけではありません。もちろん無制限にやればインフレが暴走しますが、いまの日本で問題なのは、むしろ投資不足による“衰弱”のほうでしょう。
では、賃金はどう上げるか?
反対意見もあるようですが、私は公務員の給与を2割ほど引き上げるのは、一つの有効策だと思います。「優秀な人材は公務員へ」 となれば、企業は賃上げせざるを得ません。社会全体に賃上げムードが生まれ、消費は活性化し、税収も増える。確かに財源の問題はありますし、すべての民間企業が追随できるわけではありませんが、政府が率先して賃金上昇のモデルになることには意味があると思います。多くの経営者に当事者意識が欠けるのは事実でしょう。しかし、その前に国家そのものが問題意識を持っていない。国の方向性が定まらないから、企業も動けず、賃金も上がらず、国民は疲弊していく。国が、未来への確実なコンパスを示すこと。これがまず必要なのです。
かすかな兆し
もっとも、こうした混迷のなかで、まったく希望がないわけではありません。裏側でどのような力が動いているかは依然として不透明ですが、高市政権の出だしを見るかぎり、今回は日本政治がようやく“軌道修正”へと舵を切るのではないか、という微かな兆しがないわけではありません。もちろん期待しすぎれば裏切られるのが日本政治の常ですが、少なくとも従来のような場当たり的対応から一歩踏み出す気配だけは見えます。問題は、その気配を実際の政策へ落とし込めるかどうか、そして政官財の古い慣性に押し戻されず維持できるかどうかです。この国が立ち直るチャンスがあるとすれば、今まさにその入口にいるのかもしれません。
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