2025年11月15日土曜日

大谷翔平はなぜ特別なのか ~ 答えは“本質への偏愛”です

AI が生成した「大谷翔平っぽい人物」

大谷翔平のMVPが問いかける ― 才能の扱い方、日本の教育への疑問

大谷翔平選手が、今年のナ・リーグMVPを獲得しました。毎年のように大きな結果を残しながら、そのたびに本人は淡々と前を向きます。ワールドシリーズ優勝からわずか一週間後には、すでにトレーニングを再開していたと聞きます。

私は大谷選手の活躍を見るたびに、アメリカの Gifted and Talented プログラム を思い出します。そして同時に、日本の教育は才能をどう扱っているのか――その問いを避けられません。

■ 大谷翔平は「ギフテッド」であり、さらに「タレンティッド」です

大谷翔平選手は、明らかに gifted(天性の資質)を備えて生まれた人です。並外れた身体能力に加え、野球という競技を俯瞰して捉える抽象的思考や、課題を自ら設定して解決する創造性、そして高い判断力が若い頃から際立っていました。

しかし、それだけでは大谷翔平にはなれません。

gifted に talented がつくのは、「生まれつきの才能は、努力によって伸ばさなければ消えていく」というアメリカ教育の哲学からです。

大谷選手はまさにその「才能を磨ききった人」です。野球が好きで仕方なかった。だからこそ、好きなことに思い切り没頭し、知識を自然に取り込み、技能を自ら高めていきました。

その背景には、好きな野球に打ち込む息子を尊重し、環境を整えたご両親の理解があったと考えます。小さな大谷少年が自ら考えた課題にとことん向き合えるよう、親が“余計な口出しをしなかった”ことは想像に難くありません。

才能は、こうして環境と自立の中で育つのだと思います。

■ 平等主義の誤解 ― 「機会」と「結果」は違います

日本の教育には二つの平等がしばしば混同されています。
  • 機会の平等(Equal Opportunity)
  • 結果の平等(Equal Outcome)
「みんな一緒」が美徳に見えるのは幼い時期だけです。小学校高学年から中学生になると、能力差がはっきり現れます。この段階で「全員同じペース」を求める教育は、優秀な子どもほど知的好奇心を満たされず、やる気を失わせてしまいます。

■ 「選別はかわいそう」が議論を止めています

日本では能力別クラス編成という言葉すらタブーです。「選ばれなかった子が可哀想」という感情論が支配するからです。しかし、才能は一つの軸だけではありません。
  • 絵が上手い
  • 歌がうまい
  • 走るのが速い
  • 人をまとめる
  • 算数が得意
  • 機械が好き
  • 本を読むのが好き
子どもは多様なスペクトラムを持っています。算数の上級クラスに入れなくても、活躍の場はいくらでもあります。

必要なのは、子どもの特性をよく観察し、対話し、強みを伸ばす大人の姿勢だと思います。

■ 日本の教育は、gifted を摘み取っていないでしょうか?

日本の学校では、突出した才能がしばしば抑えられます。
  • 皆と同じスピードで学ばされる
  • 先に進もうとすると止められる
  • 教室の秩序を乱すと言われる
  • 特別扱いすると不公平だと批判される
この文化が、gifted の芽を早々に摘み取っているように見えます。教育の目的が「平均を揃えること」になってしまえば、社会全体の創造性は確実に痩せ細ります。

■ 大谷翔平は本来「平均に埋もれる側」の子ではなかったか

もし大谷選手が日本的な「みんな一緒」の教育の中だけで育っていたら、二刀流の挑戦は間違いなく止められたでしょう。

それでも彼は救われました。野球という広い世界の中で自分の居場所を見つけ、大リーグという、より高度な gifted & talented の仲間たちと出会い、その環境で才能を最大化できたからです。

大谷翔平は、“平均”ではなく“世界”を選んだ才能だと言えます。

■ MVP受賞が投げかける、日本の教育への問い
  • 日本の教育は、才能を伸ばしていますか?
  • それとも、才能を摘み取っていませんか?
大谷翔平選手のMVPは、単なるスポーツニュースではありません。才能が才能として生きられる社会とは何か。平等主義の誤解に覆われた日本の教育は何を見失っているのか。その問いを、私たちに突きつけているのだと思います。

才能とは本来、「本質を愛し、本質に偏愛できる力」です。

その偏愛が許され、育まれ、伸ばされる環境を、日本もそろそろ取り戻すべきではないでしょうか。
  
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