2025年11月8日土曜日

微分と積分と因数分解

 

数学が教えてくれた人生の見方

私は小学校6年生のころ、なぜか「因数分解」に夢中になりました。中学3年で習う内容を、なぜか先取りして、問題集を買っては一心に解いていたのです。理由は今でもよく分かりません。ただ、あのころの私は、数式を解くというより、複雑なものが一瞬で整う瞬間の美しさに惹かれていたのだと思います。

そして今振り返ってみると、あの「因数分解」の快感こそ、人生のある種の縮図だったのかもしれません。

因数分解とは「抽象化」のレッスン

私にとって、因数分解とは単に「バラバラの項を掛け算の形に直す」ことではありません。むしろ、共通項を見つけてカッコの外に出すという、その発想の転換に深く惹かれました。それは、目の前の問題を一段、二段と上の視点から眺め、より抽象的な構造を見抜くということでもあります。

今の日本の教育は、残念ながらこの「抽象度を上げる」訓練とは逆方向に進んでいるように思います。重箱の隅をつつき、細部の正誤を追うことに終始する。まるで枝葉を一枚ずつ検査して、森全体を見失っているようです。因数分解的に言えば、「共通因数」を見つけるのではなく、項をどんどんバラして、やがて元の式が何を意味していたのか誰も分からなくなってしまう、そんな教育です。

人生も同じです。人間関係や仕事、社会の問題は一見バラバラに見えても、そこに「共通項(common factor)」がある。それを見つけて「くくる」ことができる人ほど、物事を本質的に理解し、寛容で、創造的に行動できる。逆に、共通項を見出せない人は、レベルセッティングを無視して、いつまでも細部にとらわれ、他人と衝突し、同じところをぐるぐる回り続けるのです。

微分 ― 変化を感じ取る感性

高校に上がると、私は勉強や学校そのものに興味を失っていきました。授業をサボって大阪ミナミを彷徨っていた時期、唯一、心を惹かれたのが「微分」と「積分」でした。おそらく、あのころから私は「変化」や「時間」というものを意識し始めていたのだと思います。

微分は「変化の速さ」を測る数学的手法です。それを人生に置き換えるなら、「今この瞬間、自分はどんな方向に動いているのか」「変化の兆しを感じ取れているか」という問いになるでしょう。

日々の生活の中で、自分の感情や行動の“変化率”(デルタ)を意識する。昨日よりも今日、少しでも前に進めているかどうか。停滞を見逃さず、環境の変化に敏感であること。そうした「微分的感性」は、現代のような不確実な時代においてこそ必要です。

そして政治家にも、本来はこの「微分の感覚」が求められるはずです。国民生活の中で起きている小さな変化、時代の気配、社会の不安の“微分値”を察知する力。ところが今の日本の政治家を見ていると、その感度がまるでありません。変化の兆しを感じ取れず、反応も鈍く、まるで関数が定数になってしまったかのようです。

積分 ― 積み重ねがつくる「全体」

微分が「瞬間の変化」を扱うのに対して、積分は「微小な変化の積み重ね」を全体としてとらえます。それはまさに、人生そのものです。どんな成功も、日々の小さな努力の積み重ね(積分)なしには成り立ちません。

社会人として働き始めてから、私も何度も壁にぶつかりました。けれども、後から振り返ると、あの挫折も迷走も、すべては「積分の一部」だったと感じます。人生の曲線の一部を切り取って見れば下降しているように見えても、長い積分区間で見れば、それはむしろ上昇のための“準備期間”だったとも言えるのです。

政治においても同じです。

短期的な支持率や世論調査ばかりを気にして、長期の積分結果を見ない政治家が多すぎます。政策というのは、微小な変化を積み重ねてようやく結果が出るものです。それを理解できないから、何でも「補助金」や「場当たり的対策」でごまかす。つまり、微分も積分も分かっていない政治なのです。

数学のセンスが欠落した政治

今の政治家の多くは、因果の構造を想像する力が圧倒的に欠けているように思います。アクションを起こせば、必ずリアクションがある。原因と結果の間には、複雑に絡み合ったファクター(因数)がある。それを分解し、関係性を抽象化してとらえる力があれば、もう少しまともな政策が打てるはずです。

しかし、彼らにはその「構造を見る目」がない。現象の一部を見て「問題だ」と騒ぎ、他方の因子を見落とす。まるで、一次関数しか理解していない政治家が、非線形な社会現象を扱っているようなものです。

今や、多くの政治家は私よりも年下です。若いからこそ期待したいところですが、彼らの多くは「経験を積分していない」。弁護士や医者から転身した人も、もとの現場経験が浅く、修羅場をくぐっていません。だからこそ、議論の場で目が泳ぐ。大阪の某氏などはその典型でしょう。「知っている」ではなく「考えたことがあるか」が問われる時代に、考えの微分も積分もできない政治家が増えているのです。

微分・積分・因数分解 ― それは「生き方の構造」

人生には、三つの数学的思考が必要だと思います。

  • 因数分解的思考:複雑な現実の中から共通項を見つけ、全体を整理する力。

  • 微分的感性:変化を察知し、瞬間における方向性を読み取る力。

  • 積分的視野:小さな経験を積み重ね、長期的な全体像を描く力。

これらは、数字の世界を超えて、人生の哲学そのものです。本当の教育とは、この三つをバランスよく育てることだと思います。ところが現実の日本の教育は、細部を詰めることばかりに熱中し、抽象化を恐れ、全体像を描く訓練を与えていません。そして、その教育の延長線上に、いまの政治家たちがいるのです。

年を重ねるのも悪くない

数学の美しさとは、複雑さの中に秩序を見いだす知恵にあります。因数分解は「抽象化」、微分は「洞察」、積分は「蓄積」。これらを身につけた人は、人生を恐れず、現象の裏側にある構造を見抜く力を持ちます。政治も教育も、本来はそうした“構造的知性”を育む場であるべきです。それが失われたとき、国はただの数式のかけらのようにバラバラになります。

小学生のころ、因数分解の「共通項を見つけて外に出す」あの瞬間に感じた美しさが、いまになってようやく腑に落ちます。若いころには気づかなかったことが、年を重ねるうちに少しずつつながってくる。遠回りや失敗も、あとから振り返れば、積分の面積の一部になっているのだと思います。年を取るのは面倒なことばかりですが、こうして蓄積が形になって見えてくるのは悪くありません。人生とは、結局のところ、ゆっくりとした積分なのかもしれません。

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