想像力と判断力の時代へ
~AIと人間の「思考力」をめぐる攻防
ご承知のように、ChatGPTを代表とする生成AIは日々進化しています。しかし、その進化が進めば進むほど、悪用しようとする者と、それを阻止しようとする者のつばぜり合いは激化していくでしょう。いたちごっこは永遠に続くのです。では我々ユーザーはどうすべきなのか。結論は非常にシンプルです。想像力と判断力を鍛えるしかない。弁護士である息子の洞察
弁護士である息子は次のように警告しています。人間には「言葉の流暢さ(fluency)」だけで内容を信じてしまう傾向がある。これは特に法曹界で顕著だ。弁護士は言語の精度や構造から論理性を読み取る訓練を受けているため、「よく書かれた文章=正しい」と誤認しやすい。
しかし、AIは思考していない。特に専門領域では、形だけ整った文章に高度な分析性があるかのように錯覚してしまう。弁護士は引用文献の真偽には注意を払うが、もっと危険なのは**科学や統計を分析しているかのような「言語上の錯視」**だ。AIがしているのは推論ではなく、「推論風の言語生成」にすぎない。
それでもAIは脅威ではない。むしろ適切に使えば大きな力になる。ただし条件が一つある。AIは文章を作るが思考はしないという事実を理解することだ。
デジタルが進むほど必要になる曖昧さや創造力
こうした状況を見ると、今後のデジタル社会で必要となるのは、合理性だけではなく、むしろ人間の想像力や判断力、そして主体性であることがわかります。だとすれば、中学・高校時代に枠にはめられる受験勉強だけでは不十分になるのは明らかです。歴史や文学の意味は、むしろこれから高まるのだと思います。興味深いことに、デジタル社会は本来の人間的な曖昧さや創造性を求め始めているのでしょう。
ラリー・エリソンの先見性に学ぶ
1990年代前半、私がボストンでオラクル創業者ラリー・エリソンのプレゼンを聞いたとき、オラクルは今よりずっと小さな会社でした。彼をホラ吹きセールスマンと揶揄する声もありました。しかし、彼の頭の中にはすでにインターネット中心の未来が描けていた。スマホすら存在しない時代に、「電話はスーパーセットになる」と語っていたのです(ラリーの言うスーパーセットとは今のスマホです)。
先を思い描く想像力。それこそが技術や社会を動かす本質だったのです。
日本社会の問題の根っこ:怨望という病
一方で、今日の日本の政治家を見ると、嫉妬ともコンプレックスとも言える感情が透けて見えます。序列社会の中で大学入試が最大の挫折と成功体験であった者が、権力や金を握ってしまったかのようです。彼らは自らの内面にある「ENVY」に支配されている。福沢諭吉は『学問のすゝめ』で、この感情を「怨望」と訳し、最も有害なものだと断言しました。怨望とは、他者と自分を比較し、自ら努力して幸福になろうとするのではなく、他人を引きずり下ろすことで平均化しようとする態度です。まさに今の社会を覆う病理ではないでしょうか。
AI時代ほど人間が問われる
AIの進歩は、人間の思考を代替するのではなく、逆に我々が本来持つべき想像力と判断力を問う時代を開いていきます。AIは言語を生成できる。しかし考えるのは人間です。歴史や文学や教養とは、過去の遺物ではなく、デジタル社会の未来を考えるためのツールだということを忘れてはいけません。AIの時代とは、むしろ人間性を取り戻す戦いの時代なのだと思います。
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